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――外の世界を観ておいで、透花。お前が命と引換えに護る世界を。そこに生きる数多の人々を。
この世に満ちる熱気と光に魂を攫われたかのように、開かれた棟門の前で身じろぎもせず佇む私を、先に通りへと踏み出した静琉がゆっくりと振り返る。
濃く長い睫毛の下で、真っ直ぐにこちらを見据える、玲瓏とした薄花色の瞳。まるで宝玉のように美しいと常々思っているその瞳を見つめていると、熱に浮かされた心が、少しずつ、穏やかに凪いでゆくような気がした。
彼の瞳はいつもそうだ、と、見つめ返す視線が自ずと綻んでゆくのを感じながら思う。静琉の薄花色は、いつどんな時も、真綿に包まれたようなやさしい落ち着きを私に与えてくれる。
「――怖いか」
心の機微を感じさせぬ静かな声で問われ、だから私は、今出来うる限りの微笑みを顔いっぱいに湛えて、そっと首を左右に振った。
怖いとは、思わない。怖いはずがない。静琉が傍にいてくれるのだから。
彼が一緒なら、どんな時でも、どんなことでも。――たとえそれが、己の命が終わる、その瞬間のことだったとしても。
私はきっと、少しも恐ろしいとは思わないだろう。
「いいえ、なにも怖くないわ」
そう答えると、静琉はふいに、僅かばかり視線を落とした。吹き抜ける風が、彼の白く艷やかな髪の毛を、両耳につけられた菫色の耳飾りを、やさしく揺らめかす。
端正なかんばせからも、微かに細められた双眸からも、静琉が何を考え、何を思っているのかを窺い知ることは、出来ない。ただ、薄花色の瞳の奥に、諦めにも似た一筋の翳りが沈んでいるように見えた。
静琉も、帝も――。通りを駆けてゆく荷馬車の、石粒を踏むごつごつとした音を聞きながら、風で乱れた横髪を、そっと片耳にかける。
静琉も帝も、どうしてそんなに暗く浮かない影ばかり湛えるのだろう。私は彼らに、そんな顔をしてほしいわけではないのに。
「静琉」
名を呼ぶと、静琉は弾かれたように、僅かばかり伏せていた目を上げる。そんな彼の背後を、賑やかな笑い声を上げながら、幾人かの子どもたちが走り過ぎてゆく。
なんて楽しそうなのだろう。彼らの無邪気な声は、まるで楽器のようだ、と思った。その溌剌とした響きに、自然と胸が弾む。
私もあんな風に、残されたひと月を、心ゆくまで楽しみたい。ひとときでも長く――静琉の隣で。
「私は平気。少しも怖くなどないわ。本当よ。寧ろ、街を観て廻るのが、楽しみで楽しみで仕方がないの。……だから貴方にも、どうか楽しんでほしいのだけれど」
決然とした眼差しで彼を見据えながら、私はそっと静かに笑みを深める。
そんな私を見下ろしたまま、静琉は暫くの間、一言も口にしなかった。唇を微かに震わせることも、それどころか、柳眉を動かすことも、瞳を逸らすこともせず。きつく口を閉ざしたまま、ただじっと私を見つめていた。
けれどやがて、彼は詰めていた空気を綻ばせ、引き結んでいた唇をほんの少しだけ和らげた。それは喜んでいるというより、呆れているふうに見えたけれど。呆れ、或いは諦念――。
それでも、言葉の代わりに差し出された左手には、なんとなく、彼の決意が込められているような気がした。だから私は、陽光に照らされいつにも増して色の白く見えるその大きな手に、迷うことなく掌を重ねる。花守を地に還す宿命を負いながら、同時に、幾度となく私を助け、励まし続けてくれた、あたたかな手。
この手に、果たして何人の花守たちが救われた、そして――。
「……行こう」
ひんやりと冷えていたはずの手が、じんわりと、心地の良い熱を帯びてゆく。皮膚を伝って沁み込んでくるぬくもりのせいか、それとも、とくりと高鳴った胸のせいか。
「ええ」
私はひとつ頷いて、静琉の手に誘われながら、棟門の向こう側に広がるまだ観ぬ世界へと、一歩、足を踏み出す。
そのひと踏みが、これまで連綿と繋がれてきた掟を、歴史を破るものだということは、重々承知している。この瞬間の為に、帝がどれほど心を砕いてくださったのかも。
けれどそれは、思っていたよりもずっと軽やかで、まるで弾むような一歩だった。
棟門を潜り出た瞬間、それまで静まっていたはずの歓喜が、忽ち胸の中にとめどなく溢れ出す。言いたいことはたくさんあった。傍にいる静琉に告げたい言葉が、次から次へと頭の中に浮かんでひしめき合っている。
生まれて初めて羽ばたく鳥は、もしかしたらこんな気持なのかもしれない――。そう思いながら私の唇からこぼれたのは、しかし喜びを表す言葉でも、好奇心を表す言葉でもなく、ゆっくりと静かに吐き出された感嘆の息だった。
こうして、私たちの最初で最期の短い旅が、始まった――。
この世に満ちる熱気と光に魂を攫われたかのように、開かれた棟門の前で身じろぎもせず佇む私を、先に通りへと踏み出した静琉がゆっくりと振り返る。
濃く長い睫毛の下で、真っ直ぐにこちらを見据える、玲瓏とした薄花色の瞳。まるで宝玉のように美しいと常々思っているその瞳を見つめていると、熱に浮かされた心が、少しずつ、穏やかに凪いでゆくような気がした。
彼の瞳はいつもそうだ、と、見つめ返す視線が自ずと綻んでゆくのを感じながら思う。静琉の薄花色は、いつどんな時も、真綿に包まれたようなやさしい落ち着きを私に与えてくれる。
「――怖いか」
心の機微を感じさせぬ静かな声で問われ、だから私は、今出来うる限りの微笑みを顔いっぱいに湛えて、そっと首を左右に振った。
怖いとは、思わない。怖いはずがない。静琉が傍にいてくれるのだから。
彼が一緒なら、どんな時でも、どんなことでも。――たとえそれが、己の命が終わる、その瞬間のことだったとしても。
私はきっと、少しも恐ろしいとは思わないだろう。
「いいえ、なにも怖くないわ」
そう答えると、静琉はふいに、僅かばかり視線を落とした。吹き抜ける風が、彼の白く艷やかな髪の毛を、両耳につけられた菫色の耳飾りを、やさしく揺らめかす。
端正なかんばせからも、微かに細められた双眸からも、静琉が何を考え、何を思っているのかを窺い知ることは、出来ない。ただ、薄花色の瞳の奥に、諦めにも似た一筋の翳りが沈んでいるように見えた。
静琉も、帝も――。通りを駆けてゆく荷馬車の、石粒を踏むごつごつとした音を聞きながら、風で乱れた横髪を、そっと片耳にかける。
静琉も帝も、どうしてそんなに暗く浮かない影ばかり湛えるのだろう。私は彼らに、そんな顔をしてほしいわけではないのに。
「静琉」
名を呼ぶと、静琉は弾かれたように、僅かばかり伏せていた目を上げる。そんな彼の背後を、賑やかな笑い声を上げながら、幾人かの子どもたちが走り過ぎてゆく。
なんて楽しそうなのだろう。彼らの無邪気な声は、まるで楽器のようだ、と思った。その溌剌とした響きに、自然と胸が弾む。
私もあんな風に、残されたひと月を、心ゆくまで楽しみたい。ひとときでも長く――静琉の隣で。
「私は平気。少しも怖くなどないわ。本当よ。寧ろ、街を観て廻るのが、楽しみで楽しみで仕方がないの。……だから貴方にも、どうか楽しんでほしいのだけれど」
決然とした眼差しで彼を見据えながら、私はそっと静かに笑みを深める。
そんな私を見下ろしたまま、静琉は暫くの間、一言も口にしなかった。唇を微かに震わせることも、それどころか、柳眉を動かすことも、瞳を逸らすこともせず。きつく口を閉ざしたまま、ただじっと私を見つめていた。
けれどやがて、彼は詰めていた空気を綻ばせ、引き結んでいた唇をほんの少しだけ和らげた。それは喜んでいるというより、呆れているふうに見えたけれど。呆れ、或いは諦念――。
それでも、言葉の代わりに差し出された左手には、なんとなく、彼の決意が込められているような気がした。だから私は、陽光に照らされいつにも増して色の白く見えるその大きな手に、迷うことなく掌を重ねる。花守を地に還す宿命を負いながら、同時に、幾度となく私を助け、励まし続けてくれた、あたたかな手。
この手に、果たして何人の花守たちが救われた、そして――。
「……行こう」
ひんやりと冷えていたはずの手が、じんわりと、心地の良い熱を帯びてゆく。皮膚を伝って沁み込んでくるぬくもりのせいか、それとも、とくりと高鳴った胸のせいか。
「ええ」
私はひとつ頷いて、静琉の手に誘われながら、棟門の向こう側に広がるまだ観ぬ世界へと、一歩、足を踏み出す。
そのひと踏みが、これまで連綿と繋がれてきた掟を、歴史を破るものだということは、重々承知している。この瞬間の為に、帝がどれほど心を砕いてくださったのかも。
けれどそれは、思っていたよりもずっと軽やかで、まるで弾むような一歩だった。
棟門を潜り出た瞬間、それまで静まっていたはずの歓喜が、忽ち胸の中にとめどなく溢れ出す。言いたいことはたくさんあった。傍にいる静琉に告げたい言葉が、次から次へと頭の中に浮かんでひしめき合っている。
生まれて初めて羽ばたく鳥は、もしかしたらこんな気持なのかもしれない――。そう思いながら私の唇からこぼれたのは、しかし喜びを表す言葉でも、好奇心を表す言葉でもなく、ゆっくりと静かに吐き出された感嘆の息だった。
こうして、私たちの最初で最期の短い旅が、始まった――。
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