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私にとって外の世界は、常に“聴くもの”でしかなかった。
街の中程にある甘味処のお饅頭が美味しいだとか、品揃えの豊富な小間物屋で新しい形の簪を売り始めただとか、都の外れにある老舗の宿屋が代替わりしただとか、若者の間で頻繁に移ろう流行り廃りだとか――。
私が尋ねれば皆、外の世界の面白い話を――そこに住まう生きとし生ける者たちの話を――たくさん語り聴かせてくれる。世話役の真汐も、炊事係の香耶や碧衣も、今でも時折顔を見せに来てくれる元乳母の須磨も。日々の生活に溶け込んだ瑣末なことから、四季折々に催される祭のことや、真偽の定かでない眉唾の噂話まで、何でも。
築地塀のすぐ外側に広がる世界は、けれど私にとって、とても遠い世界でしかなかった。草紙に綴られた御伽噺のような。架空の世界、架空の人々。真汐も香耶も碧衣も須磨も、常日頃接している彼女たちの存在でさえ、塀を超えた瞬間に忽ち現実味を失くしてしまう。それが顔も名前も知らない人々であれば、尚の事。
故に、時々忘れてしまいそうになる。宮の外と中、果たしてそのどちらが、精巧に造られた“箱庭”であるのかということを。
もしかしたら私は――。擦れ違う人々の、ひとつひとつ表情の違う顔を興味深く眺めながら思う。もしかしたら私は、納得したかったのかもしれない、と。
宮の外には確かに世界が存在し、そこには生気に溢れた人々が何気ない日常を営んでいるのだということを。彼らは箱庭の中に飾られた人形などではなく、だから私が救うのは、確かな世界とそこに間違いなく生きている数多の人々なのだということを。
自身の目でそれを確かめ、そして納得したかったのかもしれない。
「ねえ、静琉。あそこで売られているものは何かしら」
道端に軒を連ねた屋台のひとつに、見たことのない形に焼き上げられた食べ物が、煌々と油の光を反射させながら並んでいた。こんがりときつね色をした焼目、程よく散らされた胡麻や青海苔や粗目。
今日は街で思い切り食べたいからと、真汐に頼んで朝餉は少なめにしてもらっていたせいか、漂ってくる香ばしい匂いに、どうしても食欲が刺激されてしまう。
隣を歩いていた静琉は、屋台の方を一瞥すると、特に感情を見せるでもなく、静かに「ああ」と短く呟いた。そんな彼の、端正な――眉目秀麗と言うべきだろうか――横顔を見上げながら、私は小さく苦笑をこぼす。
私は知らないことを、静琉は知っている。そして、静琉の知っていることはきっと、真汐も香耶も、或いはこの通りを行き交う全ての人々も知っているのだろう――。
そう思えば思うほど、きゅっと胸を締め付けるような、乾いた淋しさに襲われる。私だけが置き去りにされているような。私だけが除け者にされているような。彼にそんなつもりがないことも、誰が悪いわけではないということも、分かってはいるのだけれど。それでも、まるで雨漏れでもしているみたいに、心がしとしとと濡れてゆく。
「“煎餅”という、小麦粉や米粉を練って作った焼き菓子だ」
淡々と紡がれる説明を聞きながら、そういえばいつだったか碧衣が、街の外れにある小さな菓子屋で売られているお煎餅が美味しいと、楽しそうに語っていたことを思い出す。
あの時は、そのお菓子がどんなものなのか、ちっとも分からなかったのだけれど。彼女の語った“お煎餅”というものがどんなものなのかを、遂にこの目で知ることが出来て、心から嬉しい、と思う。時を経て今漸く分かりあえたような、はたまた、ちょっとした秘密を交わせたような。
けれど同時に、それを知らないのはやはり私だけなのだと突きつけられたような気がして、胃の奥底から苦いものまで込み上げてくる。
あんなふうに道端の屋台で何気なく売られているということは、外の世界で“お煎餅”は、誰もが知る、とても馴染みの深い焼き菓子のひとつなのだろう。
外の世界では当たり前のものを、でも私は、今この時まで少しも知らなかった。
「食べたいのか?」
振り向きざまに問われ、私は人々の行き交う大路の先へ視線を戻しながら、微かな笑みとともに首を左右に振る。
碧衣が“美味しい”と言っていたものを――店が違うにせよ――食べてみたくないわけでは、決してない。好奇心が擽られないわけでも、心惹かれないわけでも、もちろんない。
ただ――。すぐに進行方向へと顔を戻した静琉の、思わず見惚れてしまうほどに整いすぎた横顔をちらと盗み見ながら、胸の裡でそっと溜息をつく。
ただ、彼や碧衣たちが当たり前のように口にする“共通の言葉”を、或いは“共通の認識”を、私だけが持っていないという事実に、どうしようもなく心が波立ってしまう。私の知らぬところで、静琉が他の誰かと、この世界に生きる数多の人々と、その言葉――或いは認識――を通じて繋がり合っている、と、そう感じてしまうせいで。
馬鹿なことだと分かっている。そんなふうに感じてしまうのは。馬鹿で、浅ましくて、みっともないことだ、と。そもそも彼は、自身の役目を全うする為に私の傍にいてくれているだけなのだ、とも。
それでも、彼らが目に見えぬ何かで繋がり合っているような感覚は、私をひどく孤独にさせる。形のない澱となって、静かに、けれど確かに、冷たい熱を帯びて渦巻きながら。それはどろりとした、あまりにも醜い独占欲。
そんな私の密かな心情を、静琉が知ったらどう思うだろう。幻滅するだろうか。腹を立てるだろうか。それとも嘲笑するだろうか。
多忙な彼が、今こうして私を連れ出し、願いを叶えようとしてくれている。私の我儘の通り、傍にいてくれている。ただそれだけで、十分すぎるほど幸福なはずなのに。私は、どの時代の花守よりも、一番恵まれているはずなのに――。
どうしてこんなに望んでしまうのだろう。もっと、もっと、と。みっともなく欲張ってしまうのだろう。
街の中程にある甘味処のお饅頭が美味しいだとか、品揃えの豊富な小間物屋で新しい形の簪を売り始めただとか、都の外れにある老舗の宿屋が代替わりしただとか、若者の間で頻繁に移ろう流行り廃りだとか――。
私が尋ねれば皆、外の世界の面白い話を――そこに住まう生きとし生ける者たちの話を――たくさん語り聴かせてくれる。世話役の真汐も、炊事係の香耶や碧衣も、今でも時折顔を見せに来てくれる元乳母の須磨も。日々の生活に溶け込んだ瑣末なことから、四季折々に催される祭のことや、真偽の定かでない眉唾の噂話まで、何でも。
築地塀のすぐ外側に広がる世界は、けれど私にとって、とても遠い世界でしかなかった。草紙に綴られた御伽噺のような。架空の世界、架空の人々。真汐も香耶も碧衣も須磨も、常日頃接している彼女たちの存在でさえ、塀を超えた瞬間に忽ち現実味を失くしてしまう。それが顔も名前も知らない人々であれば、尚の事。
故に、時々忘れてしまいそうになる。宮の外と中、果たしてそのどちらが、精巧に造られた“箱庭”であるのかということを。
もしかしたら私は――。擦れ違う人々の、ひとつひとつ表情の違う顔を興味深く眺めながら思う。もしかしたら私は、納得したかったのかもしれない、と。
宮の外には確かに世界が存在し、そこには生気に溢れた人々が何気ない日常を営んでいるのだということを。彼らは箱庭の中に飾られた人形などではなく、だから私が救うのは、確かな世界とそこに間違いなく生きている数多の人々なのだということを。
自身の目でそれを確かめ、そして納得したかったのかもしれない。
「ねえ、静琉。あそこで売られているものは何かしら」
道端に軒を連ねた屋台のひとつに、見たことのない形に焼き上げられた食べ物が、煌々と油の光を反射させながら並んでいた。こんがりときつね色をした焼目、程よく散らされた胡麻や青海苔や粗目。
今日は街で思い切り食べたいからと、真汐に頼んで朝餉は少なめにしてもらっていたせいか、漂ってくる香ばしい匂いに、どうしても食欲が刺激されてしまう。
隣を歩いていた静琉は、屋台の方を一瞥すると、特に感情を見せるでもなく、静かに「ああ」と短く呟いた。そんな彼の、端正な――眉目秀麗と言うべきだろうか――横顔を見上げながら、私は小さく苦笑をこぼす。
私は知らないことを、静琉は知っている。そして、静琉の知っていることはきっと、真汐も香耶も、或いはこの通りを行き交う全ての人々も知っているのだろう――。
そう思えば思うほど、きゅっと胸を締め付けるような、乾いた淋しさに襲われる。私だけが置き去りにされているような。私だけが除け者にされているような。彼にそんなつもりがないことも、誰が悪いわけではないということも、分かってはいるのだけれど。それでも、まるで雨漏れでもしているみたいに、心がしとしとと濡れてゆく。
「“煎餅”という、小麦粉や米粉を練って作った焼き菓子だ」
淡々と紡がれる説明を聞きながら、そういえばいつだったか碧衣が、街の外れにある小さな菓子屋で売られているお煎餅が美味しいと、楽しそうに語っていたことを思い出す。
あの時は、そのお菓子がどんなものなのか、ちっとも分からなかったのだけれど。彼女の語った“お煎餅”というものがどんなものなのかを、遂にこの目で知ることが出来て、心から嬉しい、と思う。時を経て今漸く分かりあえたような、はたまた、ちょっとした秘密を交わせたような。
けれど同時に、それを知らないのはやはり私だけなのだと突きつけられたような気がして、胃の奥底から苦いものまで込み上げてくる。
あんなふうに道端の屋台で何気なく売られているということは、外の世界で“お煎餅”は、誰もが知る、とても馴染みの深い焼き菓子のひとつなのだろう。
外の世界では当たり前のものを、でも私は、今この時まで少しも知らなかった。
「食べたいのか?」
振り向きざまに問われ、私は人々の行き交う大路の先へ視線を戻しながら、微かな笑みとともに首を左右に振る。
碧衣が“美味しい”と言っていたものを――店が違うにせよ――食べてみたくないわけでは、決してない。好奇心が擽られないわけでも、心惹かれないわけでも、もちろんない。
ただ――。すぐに進行方向へと顔を戻した静琉の、思わず見惚れてしまうほどに整いすぎた横顔をちらと盗み見ながら、胸の裡でそっと溜息をつく。
ただ、彼や碧衣たちが当たり前のように口にする“共通の言葉”を、或いは“共通の認識”を、私だけが持っていないという事実に、どうしようもなく心が波立ってしまう。私の知らぬところで、静琉が他の誰かと、この世界に生きる数多の人々と、その言葉――或いは認識――を通じて繋がり合っている、と、そう感じてしまうせいで。
馬鹿なことだと分かっている。そんなふうに感じてしまうのは。馬鹿で、浅ましくて、みっともないことだ、と。そもそも彼は、自身の役目を全うする為に私の傍にいてくれているだけなのだ、とも。
それでも、彼らが目に見えぬ何かで繋がり合っているような感覚は、私をひどく孤独にさせる。形のない澱となって、静かに、けれど確かに、冷たい熱を帯びて渦巻きながら。それはどろりとした、あまりにも醜い独占欲。
そんな私の密かな心情を、静琉が知ったらどう思うだろう。幻滅するだろうか。腹を立てるだろうか。それとも嘲笑するだろうか。
多忙な彼が、今こうして私を連れ出し、願いを叶えようとしてくれている。私の我儘の通り、傍にいてくれている。ただそれだけで、十分すぎるほど幸福なはずなのに。私は、どの時代の花守よりも、一番恵まれているはずなのに――。
どうしてこんなに望んでしまうのだろう。もっと、もっと、と。みっともなく欲張ってしまうのだろう。
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