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第5章 フローズン・ファンタズム

76 二つ目の仕事

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 ────────────



 アリスの剣がレオを貫き、勝負が決した頃。
 氷室は手の震えを強く握ることで押し込めていた。

「…………」

 思わず安堵の息がこぼれた。
 力をまた少し使いこなしたアリスは、確実にレオを圧倒していた。しかし、最後の瞬間まで気を抜くことはできなかった。
 だが彼に決定的な一撃を入れた今、氷室の緊張の糸はほぐれていた。

 アリスを迎えに来て、魔法の戦いの渦中に巻き込んだ、親友を名乗るレオとの戦いは終わった。
 氷室もまた彼らとは因縁があったが、それはアリスと比べれば些事だ。
 彼らとの出来事は今のアリスにとって始まりの出来事だから。彼女が納得できる結末が、一番良い。

「まぁまぁ、多少予想外のこともありましたが、これで概ねこちらは完了ですねぇ」

 アリスの勝利を噛み締めホッと息をついていた時、闇の中からねっとりとした声が飛んできた。
 不意をついた言葉に氷室が慌てて顔を向けると、公園の木陰の闇からクロアがぬるりと現れた。
 闇に生える白い顔は、口角を釣り上げ怪しい笑みを浮かべている。

「あなたは……!」
「始祖様の顕現には驚かされましたが、これで姫様もまた一歩、歩みを進められたことでしょう。喜ばしいことです」

 レオとの戦闘に至るこの状況を差し向けたクロアの再登場に、氷室は咄嗟に身構えた。
 彼女が何を企み、何をしようとしているのかは全く見えてこない。
 レオを差し向けすぐに消えたクロアが再び姿を現わした意味に頭を巡らせながら、氷室はすぐにでも仕掛けられるように神経を研ぎ澄ませた。

「あらあら、そう警戒なさらないでください。わたくしはあなたに敵意などございませんよ。ただ、少しばかり用がございまして」
「…………?」

 ねっとりとにっこりと笑み浮かべて、ゆったりと氷室に近づくクロア。
 黒いドレスのスカートを優雅に揺らし、カールした墨のように黒い髪は歩調に合わせて跳ねている。
 その姿だけを見れば穏やかな貴婦人のようだが、まとった雰囲気はとても黒々しく、絡みつくような気味の悪さがあった。

あなたに危害を加えるつもりはございませんので、ご安心ください」

 包み込むような笑顔でそう言いながら、クロアは氷室の傍までやってきた。
 氷室は警戒を続けながらも、相手の出方を窺ってそれを良しとする。
 そんな氷室の様子を伺い見たクロアは、少し嬉しそうに目尻を下げてから、アリスたちの方へと目を向けた。

「姫様は素敵なお方です。かつての友人とはいえ、敵に対してもお優しい。その優しさが仇とならなければ良いのですが、此度に関しては必要なものでした」
「あなたの目的は、一体……」
「わたくしが致しましたのは、覚醒への橋渡しでございます。封印の解放をスムーズに行うための下準備、と言ったところでしょうか。彼らとの衝突は姫様の、自身への自覚へと繋がることでしょうから」

 まるで娘の成長を見守る母親のような慈愛に満ちた視線をアリスへ向けながら、クロアは穏やかな口調で言った。
 その強引な手法に氷室は引っ掛かりを覚えるも、納得する部分もあった。
 確かにアリスにとってあの二人は重要な人物だ。彼らと深く衝突することは、かつての記憶と気持ちに近づくきっかけになる。

「それが、今回のわたくしの一つ目の仕事。もう一つ、やらねばならぬ仕事がございます」
「…………?」
「こうするしかなかった、と言うと言い訳じみて聞こえてしまいますかねぇ。まぁなんと言いますか、わたくしの都合に合わせると、こうするのが一番だと言いますか……」

 頰に手を添え軽やかに微笑みながら、クロアは闇のように深く黒い瞳を氷室に向けた。
 瞬間氷室は直感的によくないものを感じ、身体を強張らせた。

「もう一つの仕事。彼との約束を果たさなければ」

 クロアがそう言った瞬間、彼女の足元から闇のもやがもくもくと広がり、あっという間に氷室を囲んだ。
 氷室がもがく暇も、魔法で抵抗する暇もなく、闇のもやはどんどんとその身を包んでいく。

「っ────────!」

 上げた声はもう外へ届かない。
 伸ばした手すらも闇に包み込まれ、やはり届かない。
 闇に飲み込まれそうになる中、ゆったりと微笑むクロアが見えた。

「アリスちゃん────!」

 叫ぶ声はもう自分にしか聞こえない。
 闇に沈みゆく直前、咄嗟に向けた視線の先には、レオとアリアに向かい合うアリスの姿が。
 戦いを終えても、まだ全てが解決したわけではない。
 まだ彼女の側を離れるわけにはいかないと、氷室は足掻く。
 しかし実体のない闇のもやは、まるで水をかくように流動し、絡みまとわりつく。

 抵抗は虚しく、氷室は闇に完全に呑まれてしまった。
 宙に放られたような浮遊感に襲われ、光の届かない暗闇も合わさって方向感覚が失われる。
 黒に満ちた完全なる無の中で、自分の存在すら定かではなくなる。

 しかしそれはほんの一瞬のことで、すぐに闇は晴れ、微かな光が目に届いた。
 夜の暗い空に覆われ、闇が晴れても薄暗い。
 ほんの僅かな街灯の明かりはとても心許なかった。

 そこは公園ではなくなっていた。
 闇に呑まれ気が付いた時には、既にそこは違う場所になっていた。
 当然アリスたちの姿はなく、そして先程まで傍にいたクロアの姿もまたない。
 氷室は突然、一人でどこかに放られていた。

「ここは…………」

 訝しげに辺りを見回してみると、そこは知った場所だった。
 先程の公園とそう離れている場所ではない。
 夜子が住まう廃ビルからそう遠くはない所にある空き地だった。
 以前はビルでも立っていたのか広い土地だが、今は取り壊されて何もないただの更地。

 街外れということもあり、面した道の街灯は少なく、ただひらけているだけの空き地はとても薄暗かった。
 周囲に建物も少なく、人気などなく閑散としている。

「……戻らないと」

 何故ここに飛ばされたのか、理由はわからない。
 けれど見知らぬ場所へ連れてこられたわけでもなく、距離は然程離れていない。
 早く戻らなくてはアリスが心配だと、急ぎ足を向けた時だった。

「────ヘイル。どこへ行く気だい?」

 心までも凍りつかせるような冷たい声が氷室を引き止めた。
 言葉だけでなく、吸い込む空気もまた一瞬で冷たくなったように思えた。
 この空き地の空間の温度が、一瞬で零下まで下がったようだった。

 背後に感じる重厚かつ冷徹な気配に、氷室は押し潰されそうになった。
 心臓は飛び跳ね、全身の至る所から冷たい汗が吹き出し、そしてそれが凍てついてしまいそうだ。
 しかし、背を向けたままでは、目を背けたままではいられなかった。
 恐る恐る、ゆっくりと、氷室は背後へと目を向ける。

「ロード・スクルド……!」
「……そうか。今のお前は私をそう呼ぶか」

 白いローブを軽やかにはためかせ、爽やかな黒髪と共に碧い瞳を煌めかせた、ロード・スクルドがそこにはいた。
 出で立ちは爽やかで煌びやか。端正な顔立ちも含めて、佇まいはさながらお伽話の王子様のよう。
 しかしその碧い瞳から放たられる視線は、向けるものを凍て付かせんばかりに冷ややかだった。
 紡ぐ言葉も、重く冷徹で刺々しい。

 氷室の顔を見たスクルドはその冷静な顔つきを少し歪めつつ、淡々と言葉を述べた。
 焦りと困惑を浮かべる氷室に対し、スクルドは平然とした顔を向けながら、しかしどこか憂いを感じさせた。

「昨日は色々と邪魔が入ったが、今日はそれもない。あの魔女は約束通り、一人のお前をここへと連れた。姫君さえお前のそばにいなければ、何も憂うことはない」
「…………!」

 クロアが言っていたもう一つの仕事、というのが自分とスクルドを単身で引き合わせることだったのかと、氷室はそこで気が付いた。
 まさかワルプルギスの魔女と魔女狩りの君主ロードが手を組んでいるなんて、彼女は予想もしなかった。

「さぁヘイル、ここまでだ。もうここで終わらせよう。私の手でお前の息の根を止めることが、せめてもの情けだと思うんだ」

 淡々と述べて、スクルドは静かに腕を上げた。
 すらっと細やかな指先が伸び、その手を氷室へと向ける。
 氷室は恐怖で身がすくみそうになるのを、唇を噛むことで必死に堪えた。

 スクルドに対する恐怖と嫌悪感が、身体に、心に、脳裏に焼き付いている。
 相対するだけで、その顔を見るだけで、その声を聞くだけで、自分の全てが拒絶を示す。
 向かい合ってはいけないと。ここにいてはいけないと。

 けれど、だからといって簡単に逃げられる相手ではないことを氷室は知っている。
 確実に自分を殺しにきている以上、逃走は更に困難だろうと。
 ならば、生き残るためにすることは一つしかない。
 生き残って、もう一度アリスに会うためには、戦って抗うしかない。

「私は、死なない……!」

 強く拳を握り、強い意志を込めてスクルドを睨む氷室。
 もう覚悟は決めた。スクルドに立ち向かうことよりも、アリスの側にいられなくなる方が、彼女にとっては何倍も恐怖だった。
 もう一度アリスに会いたい。そしてその手に触れて抱きしめ合いたい。
 そして何より、ずっとずっと共にありたいから。

「あの時のようにはいかない。今の私はもう、一人ではないから……!」

 覚悟と決意に満ちた瞳で、氷室は強く言い放った。
 大人しく弱々しい普段の彼女の姿はそこにはない。
 恐怖に縮み上がり、なすすべなく逃げ惑う少女の面影はない。

 支える者の存在に、想い合う友の存在に強さを見出した氷室の姿を見て、スクルドは忌々しげに顔をしかめた。
 しかしそれも一瞬のこと。スクルドはすぐに、淡々と冷徹に、自身の責任を全うすべく目の前の少女を討つことに意識を集中させた。
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