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2巻
2-2
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結衣が神官に礼を言うと、痺れを切らしたソラに呼ばれた。
『ユイ、早く行こう』
「あ、うん! ごめんなさい、神官さん達。ソラが呼んでるので行きますね。この荷物、預かってもらってもいいですか?」
「ええ、もちろんです!」
「あとで神官さん達にもお土産を渡しますね!」
快く引き受けてくれた神官達に笑いかけ、結衣は身を翻す。そして下駄をカラコロと鳴らしながら、ソラに駆け寄った。
ソラは地面に身を伏せ、尻尾側から背中に上るよう結衣に言う。振袖姿の結衣は動きにくかったけれど、どうにかよじ上った。
『よし、準備できたな? 行くぞ!』
「うん!」
ソラは勢いよく羽ばたき、空へと舞い上がった。
第一竜舎の前に到着すると、飼育員達が雪かきしていた。
結衣は彼らに挨拶しながら、一人の飼育員が開けてくれた鉄扉から竜舎の中へ入る。ソラは体が大きすぎて入れないので、外で待っているという。
竜舎に入った途端、藁と獣のにおいがむわっと立ち込めた。
第一竜舎に住む中型ドラゴン達は薄闇を好むので、出入り口付近の壁に設置された明かりと、天井にある明かりとりの窓から入り込む光だけが頼りだ。
そんな薄暗い竜舎だが、結衣が探していた人物はすぐに見つかった。
一人の青年が一番奥にある檻の前で、中型ドラゴン達のリーダーである、ニールムというドラゴンに話しかけている。
「アレクさん、お久しぶりです!」
結衣が明るく挨拶すると、青年――アレクシス・ウィル・リヴィドール三世が振り向く。竜舎の薄闇の中でも、その輝くような美貌は健在だった。
(久しぶりに見ると強烈だわ。本当に綺麗……)
短い金髪は柔らかそうで、肌は透き通るように白い。さっきまで飛行訓練をしていたのか、深緑色の防寒着を身に着けている。彼がこちらへ歩きながらゴーグルを外すと、傍に控えていた飼育員が素早く受け取った。アレクはこの国の王なのだ。
結衣の前まで来たアレクは、緑の目で結衣を見つめた。とても優しそうな雰囲気があり、美貌とも相まって天使のようだ。結衣は思わず拝みたくなる自分に、心の中でツッコミを入れた。
(一応、彼氏なんだから拝んじゃ駄目よ。……というか、あれって夢じゃないのよね?)
こうして再会してみると、結衣がアレクと付き合うことになったのは、夢だったのではないかと思えてきた。
「お帰りなさい、ユイ殿。……いえ、ユイ。あなたが来ると分かっていたら、のんきに訓練などしていないで迎えにいきましたのに」
残念そうに肩を落とすアレク。
そういえば別れ際に、互いを呼び捨てにしようと約束していたのだった。それを思い出しながら、結衣は慌てて両手を振る。
「そんな大袈裟な」
「恋人との久しぶりの再会なんです。大袈裟だなんてことはありませんよ」
「は、はい……」
にっこりと微笑むアレクに、結衣はぎくしゃくと頷く。少し離れている間に、アレクの美貌への耐性が弱まってしまったらしい。会えて嬉しい反面、どうにも緊張してしまう。だが、アレク自身の口から『恋人』という言葉が出てきたので、心の中ではガッツポーズをしていた。
(良かった! 夢じゃなかった!)
こんな優しいイケメンが結衣の彼氏だなんて、やっぱり信じきれないが、これは現実なのだ。
結衣が胸を撫で下ろしていると、アレクがこちらをまじまじと眺めているのに気付いた。
「え、何ですか?」
まさか、まだ化粧や髪に乱れがあったのかと、結衣は意味もなく指先で髪を引っ張ってみる。そわそわして落ち着かない結衣に、アレクはやんわりと微笑んだ。
「その衣装、とても美しいですね。ユイによくお似合いです」
「……あ、ありがとうございますっ。これ、私の国の伝統的な衣装なんです。新年のお祝いのために着たんですが、異文化交流のつもりでそのまま着て来ちゃいました」
本当はアレクに見せたかっただけなのだが、そう口にするのはなんだか恥ずかしくて、結衣は適当なことを言って誤魔化した。
「刺繍や髪の飾りなど、どれをとっても繊細で見事です。異世界の姫だと言われても納得です」
「いえいえ! 私は庶民ですよ。……というかこれ、そんなにすごいですか?」
結衣は袖を持ち上げて、花の刺繍を眺める。確かにこの着物は高価だが、一般庶民でも買える程度の品だ。もし姫が着るとしたら、もっと豪華な着物だろう。
「ええ、刺繍だけを見ても王族が持つような品だと思います」
「そうですかねえ……」
いまいちピンと来ない結衣は、首を傾げるばかりだ。結衣にとっては「似合っている」という一言だけで充分嬉しい。ついにやけそうになるので、さっきから表情を取り繕うのが大変だ。
「あんまり綺麗なので、天使かと思いました」
「そ、それは言いすぎですーっ」
さっき女性神官も似たようなことを言っていたが、結衣には過ぎた褒め言葉だ。恥ずかしさのあまり、全身にかゆみを覚える。
話題を変えよう。そう決意して視線を横の檻にずらした結衣は、そこに見覚えのあるドラゴンの姿を見つけた。
「あ、オニキス!」
「グルルゥ」
出入り口に一番近いその檻の中で、黒ドラゴンが身を起こした。つややかな黒い鱗と、鋭い金色の目を持っている。首の後ろや尾には棘状のコブがついていて、どことなく凶悪な外見だ。
気性の荒い黒ドラゴンは、人間に味方するドラゴンと敵対し、魔族側についている。だが、オニキスとは結衣が魔族の国に誘拐された時に親しくなり、今では種を越えた友情を育んでいた。
オニキスが近寄ってくるのを見た結衣は、飼育員に頼んで檻の鍵を開けてもらった。「気を付けて下さい!」という彼の忠告も気にせず、軽い足取りで中に入っていく。
「久しぶりー! 元気にしてた?」
「ルゥ」
オニキスは頭を低くし、こちらに顔を近付けてくる。結衣は手を伸ばして、その頬を軽く撫でた。
気持ち良さそうに目を閉じるオニキス。結衣は彼が自分を覚えていてくれたことに感動して、笑みを深める。
「鱗がつやっつやになっちゃって。ここの人達に良くしてもらってるのね」
「グルゥ」
気のせいか、声の感じも前より穏やかになっていた。
「オニキスは賢くて聞き分けの良いドラゴンですよ。この群れのリーダーであるニールムによく従っています。それに、試しに騎竜訓練をしてみたら、空を飛ぶスピードがとても速くて、皆驚いていました」
アレクが褒めると、オニキスは誇らしげに首を反らした。
結衣は声を上げて笑う。
「良い子にしてたんだね、オニキス。あんたはアスラ国では凶暴なドラゴンって言われてたけど、本当は優しいから、私はあんまり心配してなかったよ。元気に過ごせていて良かった」
「ルゥ」
見かけによらず怖がりなオニキスは、脅かしさえしなければ、優しくて良い子なのだ。飼育員達もそれを理解してくれているようで嬉しい。
結衣がオニキスを撫でていると、竜舎の奥から別のドラゴンの鳴き声がした。
「ルル~」
そちらを見た結衣は、黄土色の優美なドラゴン――ニールムが、頭でしきりに隣の檻を示しているのに気付く。アレクが思わずという風に笑った。
「ニールムが我が子を紹介したいようですね。ユイ、ニールムとカレンの子に会って頂けますか?」
「もちろんです! オニキス、またね」
「グルゥ」
結衣がオニキスに軽く手を振ると、彼は頷くような仕草をした。結衣は通路に出て檻の扉を閉め、竜舎の奥へ向かう。
ニールムの隣の檻では、赤い鱗を持つ美しいメスドラゴン――カレンがうたた寝をしていた。
「カレンは最近、ああしてよく眠るんです。子どもが卵から孵ったことで、緊張から解放されたのでしょう。カレンの子もよく眠るのですよ。ほら、カレンの翼の下です」
アレクが小声で説明し、カレンが翼で守るようにしているものを示す。結衣がそちらを見ると、大型犬くらいの大きさの赤ちゃんドラゴンが、丸くなって眠っていた。
二人の話し声に気付いたのか、カレンが目蓋を上げ、金色の目を覗かせる。結衣が右手を軽く上げると、カレンは眠たそうだった目をパチリと開けて、頭を持ち上げた。
「ルル」
カレンは嬉しそうに鳴くと、おもむろに赤子の後ろ首をくわえて、結衣とアレクの前に置いた。
赤い鱗はカレンと同じで、つぶらな丸い目は金色をしているのが分かった。赤子は眠いのか、しきりに目を瞬かせて、くあっと欠伸をする。
「わあ、可愛い! カレンそっくりの美人さんになりそうだね!」
結衣が手放しで褒めると、カレンは目を細めて笑ったように見えた。すると、隣の檻にいるニールムが「ルゥ!」と鳴く。
「ニールムの方は、自分似だと言いたいみたいですね」
アレクは口元を手で覆い、笑いをこらえながら言った。
「凛々しい目元はお父さん似だと思うよ、ニールム。アレク、この子の性別は?」
「オスです。名前はリウムに決まりました」
「リウムかあ。良い名前だね」
結衣は檻の前でしゃがみ込み、リウムに声をかけた。
リウムはきょとんとしてから、「ルル!」と鳴く。なんとなく喜んでいるように結衣には思えた。
まだ眠たいらしく、リウムはうつらうつらと船をこぎ始める。
――その時、竜舎内にパッと光が差し込んだかと思うと、轟音が響いた。
リウムは仰天し、カレンの足元に逃げ込む。
「落雷ですね。この時期、リヴィドールは天候が荒れやすいのです」
アレクは天井にある明かりとりの窓を見上げながら言った。いつの間にか黒雲が低く垂れ込め、稲光が走っている。
入り口の方から、飼育員達がバタバタと走り回る音が聞こえてくる。「火を消せ!」とか「水を持ってこい!」とか言っているので、先ほどの雷は近くに落ちたようだ。
結衣は驚きすぎて、声も出せずに固まっていた。心臓は早鐘を打っている。
(こ……怖かったー!)
実は、結衣は雷が大嫌いなのである。小さい頃、目の前の木に雷が落ちたのを見て、トラウマになってしまった。
だが、それを態度に出したり、人に言ったりしたことはない。小学生の時に、誰にも言わないと決めたのだ。
あの頃、クラスの可愛い女子が雷を怖がって男子にちやほやされ、他の女子から冷ややかな目で見られていた。また、男っぽいタイプの結衣が雷を怖がるわけがないと思われていたものだから、そのイメージを崩せなかったのである。
そんなわけで、雷嫌いは心の奥底に封印して、平静を装ってきた。けれど、こういった不意打ちには弱い。
「――ユイ?」
「だ、大丈夫です!」
黙り込んでいる結衣を不審に思ったのか、心配そうに声をかけてきたアレクに、結衣は不必要に大声を出してしまった。
びっくりしたような顔をするアレク。我に返った結衣は、焦って両手を振る。
「あ、いえ、何でもないです。ごめんなさい!」
その時、ニールムとカレンが激しく鳴き声を交わし始めた。
「えっ、何? いきなり」
二頭は、まるで口喧嘩をしているみたいだ。
アレクが呆れ顔で言う。
「最近、よく喧嘩しているんですよ。ソラに通訳してもらったら、リウムが雷を怖がってすぐカレンの足元に隠れてしまうので、ニールムが『もっと強くなれ』と叱っているんだとか。カレンはそんなニールムに、『赤子に厳しすぎる』と反発しているそうです」
「ドラゴンも夫婦喧嘩するんですね」
その点に関しては、人間もドラゴンも似たようなものらしい。
結衣は雷を怖がる犬のしつけ方法を、頭の中から引っ張り出す。ドラゴンに通用するかどうかは分からないが、気休めにはなるだろうと思い、ニールムにアドバイスした。
「雷嫌いの子には、雷が怖くないってことを教えるしかないよ。怒ったら逆効果。雷が鳴っても平然としてみせたり、むしろ楽しんでみせるの。そしたらね、赤ちゃんも雷は怖いものじゃないんだって思えるようになるから」
「ルゥ、ルルッ」
ニールムが驚いた様子で鳴く。カレンは知的な眼差しをニールムに向け、穏やかに鳴いた。
「ルールル」
「ルルッ」
二頭が何を話しているのかは分からないが、どうやら夫婦喧嘩は終わったみたいだ。
「恐らく、ユイのアドバイスを聞き入れたんだと思いますよ。ニールムとカレンはとても賢いので、人間の話をよく理解しますから」
アレクがそう言うと、ニールムは肯定するように鳴いた。
「ルル!」
そんな話をしている間に、雨が降り始めたらしい。明かりとりの窓に激しく打ち付ける雨音が竜舎内に響いた。
急に寒くなった気がして、結衣は身震いする。するとアレクが心配そうに言った。
「気温が下がってきましたね。風邪を引く前に城へ行きましょう。ソラに頼めば、雨よけの魔法をかけてくれますから」
「はい」
結衣は頷くと、カレンとニールムを順に見上げた。
「カレン、ニールム、赤ちゃんを紹介してくれてありがとう。この子はきっと二頭に似て、立派に育つよ」
二頭は声を揃えて「ルル!」と鳴き、親しげに視線を交わし合う。先ほどまでの険悪な空気はどこへ行ったのだろうと、結衣は思った。
カレンはリウムを自分の翼で包み込み、頭を下げる。これからもう一眠りするようだ。
微笑ましい母子の姿に、結衣は目元を緩ませる。
「では行きましょう、アレク。久しぶりに皆と会えるのが楽しみです。アメリアさんやディランさん、元気かな」
「すぐに会えますよ。ちょうどいいので、オスカーも呼んでお茶にしましょうか」
「はい」
アレクの「ちょうどいい」という台詞に疑問を覚えたものの、結衣はひとまず頷いた。
結衣が王城に入ると、玄関ホールで二人の人物が待っていた。侍女のアメリア・クロスと、近衛騎士のディラン・クロスだ。
双子なので茶色い髪と青い目は同じだが、性別が違うせいか顔はあまり似ていない。とはいえ、伯爵家の生まれだからか二人とも品が良く、雰囲気はよく似ていた。
結衣は下駄を鳴らして彼らに駆け寄る。
「アメリアさん、ディランさん、久しぶり!」
「ユイ様、ご無沙汰しております。お変わりなくて何よりですわ」
アメリアはアレクと結衣に向けてお辞儀したあと、そう挨拶した。
ディランは左胸に右手を当てて礼をとる。
「ご帰還をお待ちしておりました。ユイ様がいつ戻られてもいいように、専属護衛として毎日聖竜神殿に控えていたのですが、神官達に邪険にされて、そろそろ心が折れるかと……」
ディランはそう言って苦笑した。
聖竜教会は、この世界の人々の間で広く信仰されている宗教だ。双子の女神である太陽神シャリアと月神セレナリア、そして月神の御使いである聖竜を崇めている。
女神を祀っている関係上、神官は女性ばかりであるため、神殿の重要な場所は女性しか入れないようになっていた。女性神官達は男性に触れると俗世の穢れがうつると信じているので、男性への当たりがきつい。
以前、ディランが女性神官達からきつい対応をされているのを見たことがある結衣は、困り顔を作った。
「神官さん達、相変わらず男嫌いだね。来るのが遅くなってごめん、ディランさん。次に来る時は手土産を持ってこようって決めてたんだけど、それを買うお金がなかったの。ただでさえお給料が少ない上に、転職先を探しているところだから懐に余裕がなくてさ」
結衣は情けなく思いながらも、正直に話した。
すると、アメリアが目をまんまるに見開き、とんでもないとばかりに叫ぶ。
「まああ! そんなご苦労をされてまで、手土産を用意して下さったのですか!? 私どもにお気を遣わないで下さいませ!」
「私があげたかったの。お世話になった人にはお礼をするのが、私の故郷のマナーなんだよ。神官さん達に預かってもらってるから、あとで渡すね」
「そうなのですか……なんという律義なお国柄でしょう。さすがはユイ様の故国ですね! では、アメリアも楽しみにさせて頂きます!」
「あ、ありがとう」
キラキラと目を輝かせて迫ってくるアメリア。その勢いに押され、結衣は一歩後ろに下がる。するとディランが、アメリアに苦言を呈した。
「おい、アメリア。ユイ様が困っていらっしゃるぞ」
「も、申し訳ありませんでした」
慌てて身を引くアメリアの隣で、ディランは不思議そうに首を傾げる。
「ですがユイ様、何故また転職活動を? 陛下とご婚約されたというのに」
「そうですわ! 私、お二人がご結婚なさるのを心待ちにしておりますのよ」
「えっ、いや、まだ交際の段階で……」
何もアレクの前でそんな話題を出さなくてもと、結衣が気まずい思いをしていると、そのアレクがそっと話を遮った。
「二人とも、ユイが困っているからそれくらいにね。ユイ、あなたが段階を踏みたいと言うなら、ちゃんとそうします。今はまだ交際中ということで」
優しく微笑んでくれるアレクが、結衣には本物の天使に見えた。
「そうです。そうそう」
結衣が便乗して何度も頷くと、アメリアは残念そうにした。だが、ディランは「そうですか」と言って、そっけない。『どうせ近いうちに結婚するんでしょう』とでも言いたげだ。
もちろん、結衣はアレクのことが好きだし、素敵な人だとも思う。けれど、結婚となると別問題なのだ。違う世界の住人同士ということも気にかかっている。
「ですが、ユイ」
アレクは付け足して言う。
「私が差し上げたあの飾り紐は、是非髪に付けて下さいね。今はせっかく綺麗にまとまっていますから、遠慮しておきますが」
素晴らしい笑顔で、また褒めてくれるアレク。結衣は顔が熱くなるのを感じた。
「あ、ありがとうございます」
顔を隠すため、ぺこっと頭を下げてみたものの、内心の動揺が収まらない。
(褒めてもらえたらいいなとは思ってたけど、実際にこうして褒められると心臓に悪いわ。それに何? この罪悪感)
ここではドラゴンの導き手と呼ばれ重んじられているが、向こうの世界ではどこにでもいるごく普通の女子だ。アレクに憧れているたくさんの女性達に対して、申し訳ない気持ちになってくる。
(でも、やっぱり好きだなあ)
久しぶりにアレクの優しさを感じて、心が温かくなった。
そこで、ふとクロス兄妹の生温かい視線に気付いた結衣は、いたたまれなくなる。この空気をどうしようかと考え込んでいると、廊下の向こうから黒衣の男がやって来た。
「陛下、ユイ様。お出迎えが遅れまして申し訳ありません」
挨拶しながら足早に歩いてくるのは、三十二歳という若さでリヴィドール国の宰相を務めるオスカー・レドモンドだ。長い黒髪に、紫色の飾り紐を付けている。切れ長の目は琥珀色で、無愛想なせいか冷たそうに見えた。
「オスカー、ちょうど良かった」
アレクはオスカーを振り返り、にっこりと微笑んだ。
「このあと、君をお茶に誘おうと思っていたんだ。ほら、例の件で」
「ああ、あの件ですか。確かにユイ様がいらっしゃる今は、タイミングがよろしいですね」
何やら結衣には分からないことを話し合うアレクとオスカー。質問しようと口を開いた結衣を、オスカーが右手を軽く上げて遮る。
「後ほど詳しくお話しいたします。このような冷える場所で長話するのもなんですから。ところでそちらのお召し物、よくお似合いですね」
オスカーは思い出したように結衣の服装を褒めた。
「ユイの故郷の伝統的な衣装だそうだよ」
「そうなのですか。異界の国の伝統服……。ドラゴンの導き手についての新資料として、非常に興味深い」
口元にうっすらと笑みを浮かべるオスカー。
(オスカーさん、私のことを研究対象として見てたのか……)
結衣は顔を引きつらせたが、オスカーはそれに気付いた様子もなく踵を返す。
「さあ、こちらへどうぞ。それにしてもユイ様、本当に良い時期にいらっしゃいましたよ。何せ百年に一度のことですからね!」
見た目は冷静ながら、オスカーは声を弾ませた。
(え、いったい何事なの!?)
結衣はいつになく上機嫌なオスカーを、ちょっとばかり不気味に思った。アレクは忍び笑いをしつつ、結衣を促す。
「驚いたでしょう? オスカーがこのような感じになるほどの良いことですよ。楽しみにしていて下さい」
「はあ……」
結衣は全く想像がつかず、気の抜けた返事をした。
『ユイ、早く行こう』
「あ、うん! ごめんなさい、神官さん達。ソラが呼んでるので行きますね。この荷物、預かってもらってもいいですか?」
「ええ、もちろんです!」
「あとで神官さん達にもお土産を渡しますね!」
快く引き受けてくれた神官達に笑いかけ、結衣は身を翻す。そして下駄をカラコロと鳴らしながら、ソラに駆け寄った。
ソラは地面に身を伏せ、尻尾側から背中に上るよう結衣に言う。振袖姿の結衣は動きにくかったけれど、どうにかよじ上った。
『よし、準備できたな? 行くぞ!』
「うん!」
ソラは勢いよく羽ばたき、空へと舞い上がった。
第一竜舎の前に到着すると、飼育員達が雪かきしていた。
結衣は彼らに挨拶しながら、一人の飼育員が開けてくれた鉄扉から竜舎の中へ入る。ソラは体が大きすぎて入れないので、外で待っているという。
竜舎に入った途端、藁と獣のにおいがむわっと立ち込めた。
第一竜舎に住む中型ドラゴン達は薄闇を好むので、出入り口付近の壁に設置された明かりと、天井にある明かりとりの窓から入り込む光だけが頼りだ。
そんな薄暗い竜舎だが、結衣が探していた人物はすぐに見つかった。
一人の青年が一番奥にある檻の前で、中型ドラゴン達のリーダーである、ニールムというドラゴンに話しかけている。
「アレクさん、お久しぶりです!」
結衣が明るく挨拶すると、青年――アレクシス・ウィル・リヴィドール三世が振り向く。竜舎の薄闇の中でも、その輝くような美貌は健在だった。
(久しぶりに見ると強烈だわ。本当に綺麗……)
短い金髪は柔らかそうで、肌は透き通るように白い。さっきまで飛行訓練をしていたのか、深緑色の防寒着を身に着けている。彼がこちらへ歩きながらゴーグルを外すと、傍に控えていた飼育員が素早く受け取った。アレクはこの国の王なのだ。
結衣の前まで来たアレクは、緑の目で結衣を見つめた。とても優しそうな雰囲気があり、美貌とも相まって天使のようだ。結衣は思わず拝みたくなる自分に、心の中でツッコミを入れた。
(一応、彼氏なんだから拝んじゃ駄目よ。……というか、あれって夢じゃないのよね?)
こうして再会してみると、結衣がアレクと付き合うことになったのは、夢だったのではないかと思えてきた。
「お帰りなさい、ユイ殿。……いえ、ユイ。あなたが来ると分かっていたら、のんきに訓練などしていないで迎えにいきましたのに」
残念そうに肩を落とすアレク。
そういえば別れ際に、互いを呼び捨てにしようと約束していたのだった。それを思い出しながら、結衣は慌てて両手を振る。
「そんな大袈裟な」
「恋人との久しぶりの再会なんです。大袈裟だなんてことはありませんよ」
「は、はい……」
にっこりと微笑むアレクに、結衣はぎくしゃくと頷く。少し離れている間に、アレクの美貌への耐性が弱まってしまったらしい。会えて嬉しい反面、どうにも緊張してしまう。だが、アレク自身の口から『恋人』という言葉が出てきたので、心の中ではガッツポーズをしていた。
(良かった! 夢じゃなかった!)
こんな優しいイケメンが結衣の彼氏だなんて、やっぱり信じきれないが、これは現実なのだ。
結衣が胸を撫で下ろしていると、アレクがこちらをまじまじと眺めているのに気付いた。
「え、何ですか?」
まさか、まだ化粧や髪に乱れがあったのかと、結衣は意味もなく指先で髪を引っ張ってみる。そわそわして落ち着かない結衣に、アレクはやんわりと微笑んだ。
「その衣装、とても美しいですね。ユイによくお似合いです」
「……あ、ありがとうございますっ。これ、私の国の伝統的な衣装なんです。新年のお祝いのために着たんですが、異文化交流のつもりでそのまま着て来ちゃいました」
本当はアレクに見せたかっただけなのだが、そう口にするのはなんだか恥ずかしくて、結衣は適当なことを言って誤魔化した。
「刺繍や髪の飾りなど、どれをとっても繊細で見事です。異世界の姫だと言われても納得です」
「いえいえ! 私は庶民ですよ。……というかこれ、そんなにすごいですか?」
結衣は袖を持ち上げて、花の刺繍を眺める。確かにこの着物は高価だが、一般庶民でも買える程度の品だ。もし姫が着るとしたら、もっと豪華な着物だろう。
「ええ、刺繍だけを見ても王族が持つような品だと思います」
「そうですかねえ……」
いまいちピンと来ない結衣は、首を傾げるばかりだ。結衣にとっては「似合っている」という一言だけで充分嬉しい。ついにやけそうになるので、さっきから表情を取り繕うのが大変だ。
「あんまり綺麗なので、天使かと思いました」
「そ、それは言いすぎですーっ」
さっき女性神官も似たようなことを言っていたが、結衣には過ぎた褒め言葉だ。恥ずかしさのあまり、全身にかゆみを覚える。
話題を変えよう。そう決意して視線を横の檻にずらした結衣は、そこに見覚えのあるドラゴンの姿を見つけた。
「あ、オニキス!」
「グルルゥ」
出入り口に一番近いその檻の中で、黒ドラゴンが身を起こした。つややかな黒い鱗と、鋭い金色の目を持っている。首の後ろや尾には棘状のコブがついていて、どことなく凶悪な外見だ。
気性の荒い黒ドラゴンは、人間に味方するドラゴンと敵対し、魔族側についている。だが、オニキスとは結衣が魔族の国に誘拐された時に親しくなり、今では種を越えた友情を育んでいた。
オニキスが近寄ってくるのを見た結衣は、飼育員に頼んで檻の鍵を開けてもらった。「気を付けて下さい!」という彼の忠告も気にせず、軽い足取りで中に入っていく。
「久しぶりー! 元気にしてた?」
「ルゥ」
オニキスは頭を低くし、こちらに顔を近付けてくる。結衣は手を伸ばして、その頬を軽く撫でた。
気持ち良さそうに目を閉じるオニキス。結衣は彼が自分を覚えていてくれたことに感動して、笑みを深める。
「鱗がつやっつやになっちゃって。ここの人達に良くしてもらってるのね」
「グルゥ」
気のせいか、声の感じも前より穏やかになっていた。
「オニキスは賢くて聞き分けの良いドラゴンですよ。この群れのリーダーであるニールムによく従っています。それに、試しに騎竜訓練をしてみたら、空を飛ぶスピードがとても速くて、皆驚いていました」
アレクが褒めると、オニキスは誇らしげに首を反らした。
結衣は声を上げて笑う。
「良い子にしてたんだね、オニキス。あんたはアスラ国では凶暴なドラゴンって言われてたけど、本当は優しいから、私はあんまり心配してなかったよ。元気に過ごせていて良かった」
「ルゥ」
見かけによらず怖がりなオニキスは、脅かしさえしなければ、優しくて良い子なのだ。飼育員達もそれを理解してくれているようで嬉しい。
結衣がオニキスを撫でていると、竜舎の奥から別のドラゴンの鳴き声がした。
「ルル~」
そちらを見た結衣は、黄土色の優美なドラゴン――ニールムが、頭でしきりに隣の檻を示しているのに気付く。アレクが思わずという風に笑った。
「ニールムが我が子を紹介したいようですね。ユイ、ニールムとカレンの子に会って頂けますか?」
「もちろんです! オニキス、またね」
「グルゥ」
結衣がオニキスに軽く手を振ると、彼は頷くような仕草をした。結衣は通路に出て檻の扉を閉め、竜舎の奥へ向かう。
ニールムの隣の檻では、赤い鱗を持つ美しいメスドラゴン――カレンがうたた寝をしていた。
「カレンは最近、ああしてよく眠るんです。子どもが卵から孵ったことで、緊張から解放されたのでしょう。カレンの子もよく眠るのですよ。ほら、カレンの翼の下です」
アレクが小声で説明し、カレンが翼で守るようにしているものを示す。結衣がそちらを見ると、大型犬くらいの大きさの赤ちゃんドラゴンが、丸くなって眠っていた。
二人の話し声に気付いたのか、カレンが目蓋を上げ、金色の目を覗かせる。結衣が右手を軽く上げると、カレンは眠たそうだった目をパチリと開けて、頭を持ち上げた。
「ルル」
カレンは嬉しそうに鳴くと、おもむろに赤子の後ろ首をくわえて、結衣とアレクの前に置いた。
赤い鱗はカレンと同じで、つぶらな丸い目は金色をしているのが分かった。赤子は眠いのか、しきりに目を瞬かせて、くあっと欠伸をする。
「わあ、可愛い! カレンそっくりの美人さんになりそうだね!」
結衣が手放しで褒めると、カレンは目を細めて笑ったように見えた。すると、隣の檻にいるニールムが「ルゥ!」と鳴く。
「ニールムの方は、自分似だと言いたいみたいですね」
アレクは口元を手で覆い、笑いをこらえながら言った。
「凛々しい目元はお父さん似だと思うよ、ニールム。アレク、この子の性別は?」
「オスです。名前はリウムに決まりました」
「リウムかあ。良い名前だね」
結衣は檻の前でしゃがみ込み、リウムに声をかけた。
リウムはきょとんとしてから、「ルル!」と鳴く。なんとなく喜んでいるように結衣には思えた。
まだ眠たいらしく、リウムはうつらうつらと船をこぎ始める。
――その時、竜舎内にパッと光が差し込んだかと思うと、轟音が響いた。
リウムは仰天し、カレンの足元に逃げ込む。
「落雷ですね。この時期、リヴィドールは天候が荒れやすいのです」
アレクは天井にある明かりとりの窓を見上げながら言った。いつの間にか黒雲が低く垂れ込め、稲光が走っている。
入り口の方から、飼育員達がバタバタと走り回る音が聞こえてくる。「火を消せ!」とか「水を持ってこい!」とか言っているので、先ほどの雷は近くに落ちたようだ。
結衣は驚きすぎて、声も出せずに固まっていた。心臓は早鐘を打っている。
(こ……怖かったー!)
実は、結衣は雷が大嫌いなのである。小さい頃、目の前の木に雷が落ちたのを見て、トラウマになってしまった。
だが、それを態度に出したり、人に言ったりしたことはない。小学生の時に、誰にも言わないと決めたのだ。
あの頃、クラスの可愛い女子が雷を怖がって男子にちやほやされ、他の女子から冷ややかな目で見られていた。また、男っぽいタイプの結衣が雷を怖がるわけがないと思われていたものだから、そのイメージを崩せなかったのである。
そんなわけで、雷嫌いは心の奥底に封印して、平静を装ってきた。けれど、こういった不意打ちには弱い。
「――ユイ?」
「だ、大丈夫です!」
黙り込んでいる結衣を不審に思ったのか、心配そうに声をかけてきたアレクに、結衣は不必要に大声を出してしまった。
びっくりしたような顔をするアレク。我に返った結衣は、焦って両手を振る。
「あ、いえ、何でもないです。ごめんなさい!」
その時、ニールムとカレンが激しく鳴き声を交わし始めた。
「えっ、何? いきなり」
二頭は、まるで口喧嘩をしているみたいだ。
アレクが呆れ顔で言う。
「最近、よく喧嘩しているんですよ。ソラに通訳してもらったら、リウムが雷を怖がってすぐカレンの足元に隠れてしまうので、ニールムが『もっと強くなれ』と叱っているんだとか。カレンはそんなニールムに、『赤子に厳しすぎる』と反発しているそうです」
「ドラゴンも夫婦喧嘩するんですね」
その点に関しては、人間もドラゴンも似たようなものらしい。
結衣は雷を怖がる犬のしつけ方法を、頭の中から引っ張り出す。ドラゴンに通用するかどうかは分からないが、気休めにはなるだろうと思い、ニールムにアドバイスした。
「雷嫌いの子には、雷が怖くないってことを教えるしかないよ。怒ったら逆効果。雷が鳴っても平然としてみせたり、むしろ楽しんでみせるの。そしたらね、赤ちゃんも雷は怖いものじゃないんだって思えるようになるから」
「ルゥ、ルルッ」
ニールムが驚いた様子で鳴く。カレンは知的な眼差しをニールムに向け、穏やかに鳴いた。
「ルールル」
「ルルッ」
二頭が何を話しているのかは分からないが、どうやら夫婦喧嘩は終わったみたいだ。
「恐らく、ユイのアドバイスを聞き入れたんだと思いますよ。ニールムとカレンはとても賢いので、人間の話をよく理解しますから」
アレクがそう言うと、ニールムは肯定するように鳴いた。
「ルル!」
そんな話をしている間に、雨が降り始めたらしい。明かりとりの窓に激しく打ち付ける雨音が竜舎内に響いた。
急に寒くなった気がして、結衣は身震いする。するとアレクが心配そうに言った。
「気温が下がってきましたね。風邪を引く前に城へ行きましょう。ソラに頼めば、雨よけの魔法をかけてくれますから」
「はい」
結衣は頷くと、カレンとニールムを順に見上げた。
「カレン、ニールム、赤ちゃんを紹介してくれてありがとう。この子はきっと二頭に似て、立派に育つよ」
二頭は声を揃えて「ルル!」と鳴き、親しげに視線を交わし合う。先ほどまでの険悪な空気はどこへ行ったのだろうと、結衣は思った。
カレンはリウムを自分の翼で包み込み、頭を下げる。これからもう一眠りするようだ。
微笑ましい母子の姿に、結衣は目元を緩ませる。
「では行きましょう、アレク。久しぶりに皆と会えるのが楽しみです。アメリアさんやディランさん、元気かな」
「すぐに会えますよ。ちょうどいいので、オスカーも呼んでお茶にしましょうか」
「はい」
アレクの「ちょうどいい」という台詞に疑問を覚えたものの、結衣はひとまず頷いた。
結衣が王城に入ると、玄関ホールで二人の人物が待っていた。侍女のアメリア・クロスと、近衛騎士のディラン・クロスだ。
双子なので茶色い髪と青い目は同じだが、性別が違うせいか顔はあまり似ていない。とはいえ、伯爵家の生まれだからか二人とも品が良く、雰囲気はよく似ていた。
結衣は下駄を鳴らして彼らに駆け寄る。
「アメリアさん、ディランさん、久しぶり!」
「ユイ様、ご無沙汰しております。お変わりなくて何よりですわ」
アメリアはアレクと結衣に向けてお辞儀したあと、そう挨拶した。
ディランは左胸に右手を当てて礼をとる。
「ご帰還をお待ちしておりました。ユイ様がいつ戻られてもいいように、専属護衛として毎日聖竜神殿に控えていたのですが、神官達に邪険にされて、そろそろ心が折れるかと……」
ディランはそう言って苦笑した。
聖竜教会は、この世界の人々の間で広く信仰されている宗教だ。双子の女神である太陽神シャリアと月神セレナリア、そして月神の御使いである聖竜を崇めている。
女神を祀っている関係上、神官は女性ばかりであるため、神殿の重要な場所は女性しか入れないようになっていた。女性神官達は男性に触れると俗世の穢れがうつると信じているので、男性への当たりがきつい。
以前、ディランが女性神官達からきつい対応をされているのを見たことがある結衣は、困り顔を作った。
「神官さん達、相変わらず男嫌いだね。来るのが遅くなってごめん、ディランさん。次に来る時は手土産を持ってこようって決めてたんだけど、それを買うお金がなかったの。ただでさえお給料が少ない上に、転職先を探しているところだから懐に余裕がなくてさ」
結衣は情けなく思いながらも、正直に話した。
すると、アメリアが目をまんまるに見開き、とんでもないとばかりに叫ぶ。
「まああ! そんなご苦労をされてまで、手土産を用意して下さったのですか!? 私どもにお気を遣わないで下さいませ!」
「私があげたかったの。お世話になった人にはお礼をするのが、私の故郷のマナーなんだよ。神官さん達に預かってもらってるから、あとで渡すね」
「そうなのですか……なんという律義なお国柄でしょう。さすがはユイ様の故国ですね! では、アメリアも楽しみにさせて頂きます!」
「あ、ありがとう」
キラキラと目を輝かせて迫ってくるアメリア。その勢いに押され、結衣は一歩後ろに下がる。するとディランが、アメリアに苦言を呈した。
「おい、アメリア。ユイ様が困っていらっしゃるぞ」
「も、申し訳ありませんでした」
慌てて身を引くアメリアの隣で、ディランは不思議そうに首を傾げる。
「ですがユイ様、何故また転職活動を? 陛下とご婚約されたというのに」
「そうですわ! 私、お二人がご結婚なさるのを心待ちにしておりますのよ」
「えっ、いや、まだ交際の段階で……」
何もアレクの前でそんな話題を出さなくてもと、結衣が気まずい思いをしていると、そのアレクがそっと話を遮った。
「二人とも、ユイが困っているからそれくらいにね。ユイ、あなたが段階を踏みたいと言うなら、ちゃんとそうします。今はまだ交際中ということで」
優しく微笑んでくれるアレクが、結衣には本物の天使に見えた。
「そうです。そうそう」
結衣が便乗して何度も頷くと、アメリアは残念そうにした。だが、ディランは「そうですか」と言って、そっけない。『どうせ近いうちに結婚するんでしょう』とでも言いたげだ。
もちろん、結衣はアレクのことが好きだし、素敵な人だとも思う。けれど、結婚となると別問題なのだ。違う世界の住人同士ということも気にかかっている。
「ですが、ユイ」
アレクは付け足して言う。
「私が差し上げたあの飾り紐は、是非髪に付けて下さいね。今はせっかく綺麗にまとまっていますから、遠慮しておきますが」
素晴らしい笑顔で、また褒めてくれるアレク。結衣は顔が熱くなるのを感じた。
「あ、ありがとうございます」
顔を隠すため、ぺこっと頭を下げてみたものの、内心の動揺が収まらない。
(褒めてもらえたらいいなとは思ってたけど、実際にこうして褒められると心臓に悪いわ。それに何? この罪悪感)
ここではドラゴンの導き手と呼ばれ重んじられているが、向こうの世界ではどこにでもいるごく普通の女子だ。アレクに憧れているたくさんの女性達に対して、申し訳ない気持ちになってくる。
(でも、やっぱり好きだなあ)
久しぶりにアレクの優しさを感じて、心が温かくなった。
そこで、ふとクロス兄妹の生温かい視線に気付いた結衣は、いたたまれなくなる。この空気をどうしようかと考え込んでいると、廊下の向こうから黒衣の男がやって来た。
「陛下、ユイ様。お出迎えが遅れまして申し訳ありません」
挨拶しながら足早に歩いてくるのは、三十二歳という若さでリヴィドール国の宰相を務めるオスカー・レドモンドだ。長い黒髪に、紫色の飾り紐を付けている。切れ長の目は琥珀色で、無愛想なせいか冷たそうに見えた。
「オスカー、ちょうど良かった」
アレクはオスカーを振り返り、にっこりと微笑んだ。
「このあと、君をお茶に誘おうと思っていたんだ。ほら、例の件で」
「ああ、あの件ですか。確かにユイ様がいらっしゃる今は、タイミングがよろしいですね」
何やら結衣には分からないことを話し合うアレクとオスカー。質問しようと口を開いた結衣を、オスカーが右手を軽く上げて遮る。
「後ほど詳しくお話しいたします。このような冷える場所で長話するのもなんですから。ところでそちらのお召し物、よくお似合いですね」
オスカーは思い出したように結衣の服装を褒めた。
「ユイの故郷の伝統的な衣装だそうだよ」
「そうなのですか。異界の国の伝統服……。ドラゴンの導き手についての新資料として、非常に興味深い」
口元にうっすらと笑みを浮かべるオスカー。
(オスカーさん、私のことを研究対象として見てたのか……)
結衣は顔を引きつらせたが、オスカーはそれに気付いた様子もなく踵を返す。
「さあ、こちらへどうぞ。それにしてもユイ様、本当に良い時期にいらっしゃいましたよ。何せ百年に一度のことですからね!」
見た目は冷静ながら、オスカーは声を弾ませた。
(え、いったい何事なの!?)
結衣はいつになく上機嫌なオスカーを、ちょっとばかり不気味に思った。アレクは忍び笑いをしつつ、結衣を促す。
「驚いたでしょう? オスカーがこのような感じになるほどの良いことですよ。楽しみにしていて下さい」
「はあ……」
結衣は全く想像がつかず、気の抜けた返事をした。
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