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1巻
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……ちょっと飲みすぎたかもしれない。
お手洗いから出たところで、よろりと壁に寄りかかる。あれから江美さんと仕事の愚痴を言い合ったり、周りの営業マンや総務のオジサンたちにお酌したりしていたら、すっかり酔っぱらってしまった。
まぁいいか、別にこの後用事があるわけでなし。アパートに帰って寝るだけだ。
そう思っていたのに、隣のお手洗いからひょこっと高柳さんが現れた。
「ひょえっ!?」
驚きのあまり変な声が出る。まさかここで彼と会うなんて!
高柳さんは壁に寄りかかる私に気づき「あれ?」と首を傾げた。
「本多さん、大丈夫ですか。もしかして飲みすぎてしまいましたか?」
私のような平凡女にも優しい高柳さん。ほんとに菩薩のような人だ……。あれだけモテるのだから、少しくらい横柄になってもおかしくないのに、いつも控えめで紳士で、良心の塊みたいな性格をしている。
思わずぽやーっと見蕩れてしまってから、ハッとした。
これはチャンスじゃないだろうか。今、彼のそばにはあの鉄壁部隊が一人もいない。それどころか、まるで神様が奇跡をくれたように、私たちは二人きりだった。
今だ、今しかない。今渡すべきだ!
私はポケットから二つ折りのメモ用紙を取り出す。ぐっと握りしめ、彼の胸に押しつけた。
「えっ?」
「これ、あの、読んでください!」
渾身の勇気を振り絞って声を出す。やっと仕事以外で彼に声をかけることができた。嬉しいけれど、きっと私の顔は真っ赤になっているだろう。
いつも笑顔の高柳さんが、少し戸惑った顔をしている。そんな彼をジッと見つめてから、私は足早に宴会会場へと戻った。
ドキドキと胸が高鳴っている。あまりの緊張に、体中から汗が出てきそう。
高柳さんはメモを読んでくれるかな。少なくとも、そのまま捨てることはないと信じたい。彼は優しい人だから。
ちゃんとお洒落してよかった。ヘアアイロンで髪の毛を巻いてよかった。平凡一直線な私だけど、少しでも好印象を持ってくれたら嬉しい。
自分の席に戻ると、江美さんが焼酎の水割りを飲んでいた。
「手紙、渡せましたよ」
興奮気味に小声で報告したら、江美さんは驚いた顔をした。でも、すぐに笑顔に変わり、「やったね!」と背中を叩いてくれる。
嬉しいけどちょっと痛い。人のことは言えないが、江美さんも相当酔っぱらっていた……
宴もたけなわ。壮行会の主役である営業マンが挨拶をして、皆で拍手する。彼は長年勤めた本社を離れ、支店で役職につくのだ。酔っぱらった上役が「全員で万歳三唱!」とか言い出して、私たち事務員はドン引きしつつ半笑いで万歳する。上役たちはついに社歌まで歌い出して、恥ずかしくなった部下たちが彼らを追い立てるように解散の流れとなった。
二次会に行く人、そのまま帰る人。皆がそれぞれの行動を取り始める中、私は一人こそこそとバーに向かう。こういう時、目立たないのは便利だ。私は誰の目にも留まることなく横道へ入り込んだ。
ぼんやりした照明が灯るバーの入り口。その前で彼を待つ。
……来るかな、来ないかな。高柳さんは男女関係なく人気がある人だから、間違いなく二次会に誘われているだろう。たくさんの会社仲間と、たった一人の私。優先順位で言うなら間違いなく前者が上だ。つまり私のお誘いに乗ってくれる確率は、限りなく低いということ。
でも、後悔はしていない。やっとアプローチすることができた。自分でチャンスを作ることができた。今までは取り巻きたちに阻まれて、声をかけることすらできなかったけど、ようやく私は彼女らを出し抜いたのだ。
うん、それだけでも大きな成果だろう。私は恋をして、できる限りのことをやった。
……十分、二十分。
腕時計を時々見て、刻々と過ぎる時間にため息をつく。細い路地から見上げると、建物の隙間に夜空があった。星が見えないのは、ここが繁華街だからだろう。
……三十分。
まぁそうだろうなと思ってはいたけれど、やっぱり高柳さんは来ない。きっと彼は二次会を優先したのだ。取り巻きの皆様も当然ついていっているはず。
よし、飲もう。せっかく後ろにバーがあるんだし、今日は一人でヤケ酒してぐーすか寝よう。明日は休みなんだから、何も遠慮することはない。
そうと決まればいざお酒と、バーのドアレバーを掴んだ時――
「お待たせして、すみません」
後ろから、耳に心地よい低音が聞こえた。
「えぇっ!?」
ぐるっと振り返ると、目の前に立っていたのは、あの高柳幸人さん。
私は目を大きく見開き、口をぱくぱくさせる。
だって、ほんとに高柳さんが来た。私のお誘いに乗ってくれるなんて信じられない。もしや影武者だろうか。御曹司に影武者っているのかな。
口をあんぐり開ける私の前で、高柳さんは不思議そうに首を傾げている。そんな仕草一つ取ってもやたら絵になるのは、彼の姿があまりに素敵だからだろう。
「どうかしましたか? 本多さん」
「あっ、えっ……あのっ! に、二次会は!?」
思わずどうでもいいことを尋ねていた。呼び出したのはこちらなのに、頭の中がかつてないほど混乱している。高柳さんは「あぁ」と言って、困ったような笑みを浮かべた。
「お断りしたんですが、なかなか許してもらえませんでした。だからここへ来るのに時間がかかってしまって。本当にすみません」
二度も謝られたので、私は慌てて手を振った。御曹司に謝らせるなんてとんでもない。
「だ、大丈夫です。こちらこそお誘いしてごめんなさい。でも来てくれて嬉しいです」
「そう言ってもらえると、僕も本多さんのお誘いに乗ってよかったと思います。では、入りましょうか」
「はいっ!」
私が元気よく返事をすると、高柳さんはにっこり笑ってバーのドアを開けてくれた。このさりげないエスコートぶりが紳士たる所以だ。
半ば夢心地でバーの店内に入ると、金曜の夜だというのに客は少ない。私たちは空いていたテーブル席に向かい合わせで座った。
「何を頼もうかな。せっかくのバーだから、カクテルを飲んでみたいですね」
「……あの、こういう普通のバーみたいなところで、大丈夫でしたか? 高柳さんは、銀座の高級バーとかのほうが行き慣れているんじゃ……」
「そんなことありません。僕は滅多に銀座には行きませんよ? このお店は落ち着いた雰囲気で居心地がいいです。逆に意外でしたね、本多さんはこういうところがお好みなんですか?」
優しく微笑み、会話を楽しむように話しかけてくる高柳さん。こんなにもフレンドリーに接してもらえるのは初めてだから、つい舞い上がってしまう。
「わ、私もここは二回目なんです。たまたま見つけて……いいなって思っただけで。実はカクテルもお酒も、全然詳しくないんです」
緊張のあまり、言葉がカクカクしている。きっと顔も真っ赤になっているだろう。宴会での酔いが戻ってきたかのように体中が熱くて、頭の中がぐらぐらした。
「じゃあ、僕が頼みましょうか。本多さんには甘くて飲みやすいカクテルがいいでしょうから」
「はい、よろしくお願いします」
高柳さんが勧めてくれるなら、そのへんの水道水でもおいしく飲めると思う。
店員さんにカクテルを二つ頼んだ高柳さんは、少しリラックスしたようにテーブルの上でゆっくりと手を組んだ。私は緊張して下を向きながら、チラチラと彼の顔を盗み見る。
何か、何か話題を振らないと。これは神様がくれた我が人生最大のチャンスなのだから、大いに有効活用せねばならない。
彼女はいるのでしょうか? ああいや、いきなりその質問は不躾だよね。
ここはやっぱり、無難に好きな食べ物とか、ご趣味とか?
そんなことを悶々と考えるうち、コトッとテーブルにカクテルが置かれた。私の目の前にあるのは、紅茶色をしたロングカクテルだ。
「これは、何というカクテルなんですか?」
「ロングアイランドアイスティーです。さっぱりした甘さがあるので、きっと飲みやすいと思いますよ。僕はミモザを頼みました」
高柳さんのも私と同じ、ロングタイプのカクテル。明るいオレンジ色で、フルーティな香りがふわりとした。
乾杯、と二人でグラスを合わせる。……夢みたい。夢じゃないよね?
高柳さんがグラスを傾けたので、私も慌てて一口飲む。
「わっ、おいしい……です」
びっくりするほど、そのカクテルはおいしかった。すっと喉に入り込むような甘さがあり、飲み口が優しくて、アルコールを飲んでいる感じがしない。お花みたいな上品な香りがロマンティックな気持ちにさせる、素敵な飲み物だ。
カクテルなんて全然知らないけど、こんなにおいしいものなんだなぁと感動しつつ、コクコクと飲み下す。宴会ではビールばかり飲んでいたので、余計においしく感じられた。
「びっくりしましたよ。本多さんがお誘いしてくれるなんて思いもしませんでしたから。意外と積極的なんですね」
「わ、私もびっくりしました。まさか本当に……高柳さんが来てくれるなんて、思わなかったので……」
カクテルをもう一口飲んで、ジッと彼を見つめる。まだ現実味がない。夢の中にいるみたいにふわふわしていて、これは私の壮大なる妄想なのかと疑ってしまう。
だけど目の前の高柳さんは、間違いなく本物だった。彼はくすくすと笑って優しく目を細める。
「他の女性からのお誘いならお断りしたかもしれませんが、本多さんは別ですよ」
「そっ、そうなんですか?」
思わず目を丸くする。私は別……つまり特別ということ?
「だって同じ課で働く仲間じゃないですか。それに、本多さんはいつも真面目で仕事も丁寧なので、素敵な方だなと思っていました」
褒めすぎだ。褒めすぎだよ高柳さん。私を舞い上がらせてどうするつもりなんですか。もしかして王子様ともなると、誰に対してもこれくらいのセリフは朝飯前でいらっしゃるのでしょうか。
どうしよう。いや、悩んでいる場合ではない。とにかく言うこと言って、聞くこと聞いてしまわなければ。このチャンスをモノにして、絶対に口説き落としてしまわなければ!
酔ってぐらぐらする頭に活を入れ、ドンッとテーブルに拳を打ちつける。
「たかやーぎさん!」
「大丈夫ですか? ろれつが回っていませんけど」
「大丈夫です! あの、高柳さんは、か、彼女とかいるんですか!」
ようやく聞けた。でも口にしてしまってから、「やはり好きな食べ物を先に聞くべきだったか」と少し後悔する。彼は私の不躾な質問にも気を悪くした様子は見せず、ジェントリな笑みを浮かべたままこくりとミモザを飲んだ。
「特定の恋人のことですか? それならいませんね」
「では、生まれた時から決められていた、フィアンセがいるとか……」
「あははっ、そんな方がいたらドラマみたいですね。でも、残念ながらいませんよ」
ニコニコしながら素直に答えてくれる。やっぱり高柳さんはいい人だ。
とにかく今は、彼女も婚約者もいないらしい。それなら、私が告白しても構わないってことだよね。言うだけならタダだもん。どれだけ平凡でも身のほど知らずでも、気持ちを伝えることは罪じゃない。高柳さんの取り巻きは絶対に許さないだろうけど、彼女らに遠慮する必要など一つもない!
「たかやぎさん!」
「はい。いよいよろれつが回ってませんね」
ドッドッと心臓が脈打っている。手にじっとりと汗をかきつつ、ありったけの思いを込めて高柳さんを見つめた。
これが夢じゃないなら、神様がくれた奇跡なら、私は彼に伝えたい。大衆の中の一人に過ぎないちっぽけな私の、大切な思いを。
「私は、あなたのことが好きです」
言えた……。やっと言えた。この一言が言いたくて、私は渡すこともできないお弁当を作り続け、女性社員の群れにまみれて四苦八苦していたのだ。
後悔なんて一つもしていない。胸の中がすっきりして、告白できてよかったと心から思う。
高柳さんは面白そうに目を丸くして、私をまじまじと見つめた。
何を考えているんだろう。嬉しいと思っているのかな、それとも断る言葉を探しているのかな。高柳さんは思いやりのある人だから、きっと私の心が傷つかないように、優しい言葉を選んでくれることだろう。
「……うーん……」
顎に指を添えて伏し目がちになる高柳さん。そんなアンニュイな表情も非常に絵になる。
「すみません。とりあえず、お酒のおかわりを頼んでもいいですか?」
「あ、はい。私もおかわりを……。お、お任せしてもいいですか?」
カクテルを急いで飲み切ってから聞いてみると、高柳さんは笑顔で「もちろんですよ」と言ってくれた。
しばらくして、私の前には深い琥珀色のカクテルが置かれた。これは何という名前のカクテルなんだろう。きれいな色をしている。試しに一口飲んでみると、とろけるように甘くてほんのりオレンジの風味がした。
高柳さんはワイン色のカクテルを手に持ち、言葉を吟味するようにゆっくりと口を開く。
「先ほどメモをいただいた時にも思ったのですが、本多さんはずいぶんストレートな方なんですね」
「迷惑……でしたか?」
おずおずと聞いてみる。すると高柳さんは穏やかな表情で「いいえ」と首を横に振った。
「とてもまっすぐな方なんだな、と好感を持ちました」
「こ、好感……とは?」
「ありていに言いますと、僕もあなたに興味があります」
彼はにっこりと微笑む。その笑顔は会社で見るどの表情よりも素敵でドキドキした。軽くカクテルを口にし、流し目を送ってくる様は色気があって、私はうろたえてしまう。
どうしよう。ひょっとして、このままうまくいっちゃうの?
まさか……でも、そんな目で見つめられると期待してしまう。
「僕のことが好きだと仰る本多さん。あなたは、僕とお付き合いがしたいのでしょうか?」
バーに入っても、どこか夢心地だった。告白を口にしても、まだ現実味がなかった。彼とお付き合いできるだなんて、まったく予想していなかったからかもしれない。
きっと私は、心のどこかで諦めていたのだ。彼は高嶺の花だと。手の届かない王子様なのだと。それでも自分という存在が彼を好きなのだと知ってほしかった。私はおそらく、そこで願望を終わらせていたんだ。
……告白した後のことなんて、まったく考えていなかった。それが今の夢心地の理由なのだろう。
いつか夢はさめる。この奇跡みたいな時間は、彼のお断りの言葉によって終わりを告げるのだと思っていた。
でも、なぜか夢は続いている。高柳さんが私に興味を持ってくれている。
それなら、私は――
「お付き合いしていただけるなら、願ってもない……ことです」
ふわふわしていて、思考がうまく働かない。でも、自分の思いは口にできたと思う。
力の入らない手でカクテルグラスをテーブルに置いた。優しくて甘い、高柳さんみたいな味のお酒は、私に心地よい眠気をもたらす。このまま横になれたら幸せだけど、目の前には高柳さんがいるし、何より外だし、どうにかして帰らなきゃ。
「本多さんは本当に可愛いことを仰いますね。そんな風に求められると、僕もついその気になってしまいますよ」
「その気に……? 好きになってくれる、ということですか?」
「そうですね。僕はあなたを、もっと知りたい」
私の手の上に、彼の手がそっと置かれる。優しい目の奥に、赤い炎のような熱を見た。聖人君子然とした高柳さんにもそういう欲があるのだと……何となく意外に思ってしまう。
だけど私を見つめる高柳さんは、仕事場では見たことがない艶めかしさがあって、心をとろとろに溶かされる。彼の言うことを何でも聞いてしまいそうになる。
高柳さんって、実は魔性の男なのかな。
「僕に教えてくれますか? あなたの……全てを」
「――はい」
それでもいい。どちらにしても私の答えは一つだけだ。これが夢なら、さめないで。
ゆらゆら、ゆらゆら。
心地よい振動と、子守歌みたいなエンジン音。今はタクシーの中で、私の隣には高柳さんが座っている。
彼はジッと窓の外を見ていて、私もつられて外を見た。まるで夜はこれからだというように、辺りはきらきらしたネオンで輝いている。
やがてタクシーが静かに停まったところ、それは都内の大きなホテルだった。いかにも高級そうな佇まいは、明らかに一介のビジネスホテルではない。
高柳さんは運賃の支払いを済ませると、私に微笑みかけて手を貸してくれた。酩酊の心地よさが途切れないまま、彼の手を取る。……本当にお姫様になったみたいだ。信じられない。
ゆらゆらした頭で、彼に手を引かれてホテルに入る。フロントで手続きを済ませてエレベーターに乗り、目的の部屋へと向かう。
高柳さんはあらかじめこの事態を想定していたかのように、全ての行動がスマートだ。でも、大人の男の人というのは、こんなものなのかもしれない。ふらふらしている私と違って、彼の足取りはしっかりしていた。
ずっと見ていても飽きないほど整った顔立ち。上品に横分けされた茶色がかった髪。すらりとした長身……おまけに彼は、大企業の社長令息なのだ。
そんな人と一緒にホテルに入っているなんて。しかもそれが、憧れの人だなんて。
きっと、これが幸せの絶頂というものなのだろう。恋を諦めなくてよかった。勇気を出してよかった。
部屋のドアが控えめな音を立てて開かれる。高柳さんと一緒に中へ入ると、そこは普通のホテルの部屋とは明らかに違っていた。
ワンルームではあるけれど、面積がとても広い。ベッドは二つ。そしてくつろげそうなソファが二つ、向かい合わせに配置されていた。
ぼうっと部屋の中を眺めていた私の手が唐突に引かれる。驚いたのも束の間、体をベッドに倒された。間髪を容れずに高柳さんがのしかかってきて、至近距離で見つめ合う。
どきんと心臓が跳ね上がった。
――え、もうしちゃうの? そういうものなの? まだシャワーも浴びていないのに、こういう時は問答無用で始めるものなの?
全てが初めてで、何が何やらさっぱりわからない。ただ間近で見る高柳さんに、ひどく緊張していた。今まで仕事上の付き合いしかしてこなかった彼が、こんなにも近いところにいるなんて。高嶺の花のはずなのに、その花は目と鼻の先にある。
嘘かまことか確かめるように、私はそっと高柳さんの頬に触れた。すると、彼は優しく目を細める。
「――君は、本当にうかつな子だな」
え、と声が出た気がした。うかつ……うかつって、どういうことだろう?
「忠告しておこう。男と二人きりで飲む時、勧められた酒を飲んではいけない。こんな風に捕らわれた時、逃げ出すことができなくなるからな」
……目の前の男は、ニヤリと笑った。
まるで冷や水を浴びせられたみたいに、酩酊していた頭が少しずつ冷静になっていく。でも色々と思考が追いつかなくて、私はただ目を丸くしていた。
「油断大敵だぞ。でも、君みたいな子は嫌いじゃない。愚かで可愛いと思うよ。こういう時、無駄に身持ちが堅いとかえって興ざめだからな。……ところで、いつまでそんな間抜け面をしている」
彼は呆れたように顔をしかめ、未だぽかんとしている私のおでこをピンッと指ではじく。
――それで、私の意識ははっきりした。
「まぁいいか、では、さっそく――」
「ちょちょっ、ちょっ、ちょっと待てー!」
私の服を脱がしにかかった彼の手首を、慌てて掴む。止められたことに苛立ちを覚えたのか、彼は「何だ?」と機嫌の悪そうな声を出した。
いやいや待ってよ。これは何? 何が起こっているの?
こんなの高柳さんじゃない。私が好きになった、優しくて王子様で誰に対しても丁寧でジェントリの塊みたいに爽やかな笑顔が似合う、あの高柳さんじゃない!
「あなたは誰!?」
私の渾身の問いかけに、彼は目を丸くし、そしてぷっと噴き出した。
「君の目は節穴か? 自分で誘ったくせに」
「だっ、だって、おかしいでしょ! 高柳さんはこんな感じじゃなくて、もっと優しくて、紳士で……!」
「ああ、すまないね。君には遠慮する必要がないと思ったもので。――それとも、こっちのほうがよかった?」
私にのしかかったまま、ニッコリとあの優しい笑顔を見せてくれる。しかし次の瞬間、獲物を前に舌なめずりする狼のような、凶悪極まりない笑みに変わった。
「――だっ、騙してたのね!?」
「騙したつもりはない。人の上っ面しか見ていなかった君が悪い」
「そんなことない! だって会社の人、皆騙されてるもん!」
「世の中には物事の表層しか見ることのできない、憐れな人間がたくさんいるんだな」
何だこの男、どんだけ上から目線なんだ。
私が非難の言葉を必死に考えている間に、高柳さんの顔をしたひどい男が、てきぱきと服を脱がしにかかる。私は身をよじってうつ伏せになり、必死に逃れようとした。
「やっ、やだ、こんなはずでは!」
「どんなはずだったんだ。優しく紳士的に、薄っぺらい愛の言葉でもかけてもらいたかったのか? おい、逃げるな」
「逃げるわ! ――私、失礼させていただきます。今日のことはなかったことにして、全て白紙に……ひゃあぁ」
ふぅっと耳に息を吹きかけられた。へなへなと脱力した私はベッドの真ん中に戻されて、くるりと仰向けにさせられる。
なぜか抵抗がしづらい。頭ははっきりしてるのに、体がひどく重くて大地が揺れて……
「体を動かすのが億劫だろう? 当たり前だ。あれだけキツいカクテルを二杯も飲んだんだから、よほど酒に強くなければ普通そうなる」
「キツい……カクテル?」
あの、甘くておいしくて、コクコク飲めるようなカクテルが、そんなにキツいの? ビールよりも全然アルコールが弱そうだったのに。
「あからさまなキラーカクテルを勧めたというのに、君は無警戒でかぱかぱ飲んでいたな。あの時点で、君は愚かだと思った」
「愚かって、ひどい」
「二杯目も有名なキラーカクテルを頼んでみたが、君はまったく気にすることなく飲んでいた。……まったく。バーに男を誘うなら、カクテルの知識くらいつけておけ。バカだな」
バカって言った! 愚かの次はバカって言った!
実はめちゃくちゃ口が悪くてひどい性格をしていた高柳幸人は、するすると私の服を脱がしていく。抵抗しようとしたら、私の両手首は彼の大きな手によって簡単に拘束された。そのまま頭上に持ち上げられ、カーディガンを使ってギュッと縛りつけられる。
「そんなもので縛らないでよ! 服がのびるーっ!」
「この期に及んで服の心配をするとは、ずいぶんと余裕だな」
フンと鼻で笑うと、彼は乱雑な仕草でスーツの上着を脱ぎ捨てた。そしてネクタイをしゅるりと取り、ワイシャツの袖口のボタンを外す。
そして軽く腕まくりをし、上半身がブラのみになった私の腰に両手を添えてきた。
「ひぇっ」
「色気のない声だな」
悪態をつきながら、するすると上に向かって撫でられる。ぞわぞわした感覚が体中を走って、私ははぁと息を吐いた。
「腰に力が入らないだろう? アルコールで潰したのだから当然の話だ」
「げ、外道!」
「カクテルの種類もろくに知らないくせに、背伸びしてバーを選んだ君が悪い。勉強になってよかったな?」
ああ言えばこう言う。この男には、どんな悪口も効かない気がする。
そんな会話をしているうちにブラのホックがぷつんと外され、軽く上にずらされた。
「……なるほど」
彼は何やら納得したように呟き、ニヤリと厭な笑みを浮かべる。何だ、思ったよりも小さいとでも思っているのか。
寄せて上げるブラで必死に周りの肉をかき集めているので、元々の胸はさほど大きくない。この貧相な体を見てヤル気をなくしてくれればいいのに。
「あっ!」
思考もそこそこに上ずった声が出てしまった。彼がふわりと胸を掴んできたのだ。
柔らかさを確かめるように手のひらで揉み、ゆっくりと捏ね始める。
びくびくと体が震えた。抵抗したいけど、両手は縛られているので動かせない。
上にのしかかっていた彼はスッと体を屈め、私の首筋に舌を這わせた。
お手洗いから出たところで、よろりと壁に寄りかかる。あれから江美さんと仕事の愚痴を言い合ったり、周りの営業マンや総務のオジサンたちにお酌したりしていたら、すっかり酔っぱらってしまった。
まぁいいか、別にこの後用事があるわけでなし。アパートに帰って寝るだけだ。
そう思っていたのに、隣のお手洗いからひょこっと高柳さんが現れた。
「ひょえっ!?」
驚きのあまり変な声が出る。まさかここで彼と会うなんて!
高柳さんは壁に寄りかかる私に気づき「あれ?」と首を傾げた。
「本多さん、大丈夫ですか。もしかして飲みすぎてしまいましたか?」
私のような平凡女にも優しい高柳さん。ほんとに菩薩のような人だ……。あれだけモテるのだから、少しくらい横柄になってもおかしくないのに、いつも控えめで紳士で、良心の塊みたいな性格をしている。
思わずぽやーっと見蕩れてしまってから、ハッとした。
これはチャンスじゃないだろうか。今、彼のそばにはあの鉄壁部隊が一人もいない。それどころか、まるで神様が奇跡をくれたように、私たちは二人きりだった。
今だ、今しかない。今渡すべきだ!
私はポケットから二つ折りのメモ用紙を取り出す。ぐっと握りしめ、彼の胸に押しつけた。
「えっ?」
「これ、あの、読んでください!」
渾身の勇気を振り絞って声を出す。やっと仕事以外で彼に声をかけることができた。嬉しいけれど、きっと私の顔は真っ赤になっているだろう。
いつも笑顔の高柳さんが、少し戸惑った顔をしている。そんな彼をジッと見つめてから、私は足早に宴会会場へと戻った。
ドキドキと胸が高鳴っている。あまりの緊張に、体中から汗が出てきそう。
高柳さんはメモを読んでくれるかな。少なくとも、そのまま捨てることはないと信じたい。彼は優しい人だから。
ちゃんとお洒落してよかった。ヘアアイロンで髪の毛を巻いてよかった。平凡一直線な私だけど、少しでも好印象を持ってくれたら嬉しい。
自分の席に戻ると、江美さんが焼酎の水割りを飲んでいた。
「手紙、渡せましたよ」
興奮気味に小声で報告したら、江美さんは驚いた顔をした。でも、すぐに笑顔に変わり、「やったね!」と背中を叩いてくれる。
嬉しいけどちょっと痛い。人のことは言えないが、江美さんも相当酔っぱらっていた……
宴もたけなわ。壮行会の主役である営業マンが挨拶をして、皆で拍手する。彼は長年勤めた本社を離れ、支店で役職につくのだ。酔っぱらった上役が「全員で万歳三唱!」とか言い出して、私たち事務員はドン引きしつつ半笑いで万歳する。上役たちはついに社歌まで歌い出して、恥ずかしくなった部下たちが彼らを追い立てるように解散の流れとなった。
二次会に行く人、そのまま帰る人。皆がそれぞれの行動を取り始める中、私は一人こそこそとバーに向かう。こういう時、目立たないのは便利だ。私は誰の目にも留まることなく横道へ入り込んだ。
ぼんやりした照明が灯るバーの入り口。その前で彼を待つ。
……来るかな、来ないかな。高柳さんは男女関係なく人気がある人だから、間違いなく二次会に誘われているだろう。たくさんの会社仲間と、たった一人の私。優先順位で言うなら間違いなく前者が上だ。つまり私のお誘いに乗ってくれる確率は、限りなく低いということ。
でも、後悔はしていない。やっとアプローチすることができた。自分でチャンスを作ることができた。今までは取り巻きたちに阻まれて、声をかけることすらできなかったけど、ようやく私は彼女らを出し抜いたのだ。
うん、それだけでも大きな成果だろう。私は恋をして、できる限りのことをやった。
……十分、二十分。
腕時計を時々見て、刻々と過ぎる時間にため息をつく。細い路地から見上げると、建物の隙間に夜空があった。星が見えないのは、ここが繁華街だからだろう。
……三十分。
まぁそうだろうなと思ってはいたけれど、やっぱり高柳さんは来ない。きっと彼は二次会を優先したのだ。取り巻きの皆様も当然ついていっているはず。
よし、飲もう。せっかく後ろにバーがあるんだし、今日は一人でヤケ酒してぐーすか寝よう。明日は休みなんだから、何も遠慮することはない。
そうと決まればいざお酒と、バーのドアレバーを掴んだ時――
「お待たせして、すみません」
後ろから、耳に心地よい低音が聞こえた。
「えぇっ!?」
ぐるっと振り返ると、目の前に立っていたのは、あの高柳幸人さん。
私は目を大きく見開き、口をぱくぱくさせる。
だって、ほんとに高柳さんが来た。私のお誘いに乗ってくれるなんて信じられない。もしや影武者だろうか。御曹司に影武者っているのかな。
口をあんぐり開ける私の前で、高柳さんは不思議そうに首を傾げている。そんな仕草一つ取ってもやたら絵になるのは、彼の姿があまりに素敵だからだろう。
「どうかしましたか? 本多さん」
「あっ、えっ……あのっ! に、二次会は!?」
思わずどうでもいいことを尋ねていた。呼び出したのはこちらなのに、頭の中がかつてないほど混乱している。高柳さんは「あぁ」と言って、困ったような笑みを浮かべた。
「お断りしたんですが、なかなか許してもらえませんでした。だからここへ来るのに時間がかかってしまって。本当にすみません」
二度も謝られたので、私は慌てて手を振った。御曹司に謝らせるなんてとんでもない。
「だ、大丈夫です。こちらこそお誘いしてごめんなさい。でも来てくれて嬉しいです」
「そう言ってもらえると、僕も本多さんのお誘いに乗ってよかったと思います。では、入りましょうか」
「はいっ!」
私が元気よく返事をすると、高柳さんはにっこり笑ってバーのドアを開けてくれた。このさりげないエスコートぶりが紳士たる所以だ。
半ば夢心地でバーの店内に入ると、金曜の夜だというのに客は少ない。私たちは空いていたテーブル席に向かい合わせで座った。
「何を頼もうかな。せっかくのバーだから、カクテルを飲んでみたいですね」
「……あの、こういう普通のバーみたいなところで、大丈夫でしたか? 高柳さんは、銀座の高級バーとかのほうが行き慣れているんじゃ……」
「そんなことありません。僕は滅多に銀座には行きませんよ? このお店は落ち着いた雰囲気で居心地がいいです。逆に意外でしたね、本多さんはこういうところがお好みなんですか?」
優しく微笑み、会話を楽しむように話しかけてくる高柳さん。こんなにもフレンドリーに接してもらえるのは初めてだから、つい舞い上がってしまう。
「わ、私もここは二回目なんです。たまたま見つけて……いいなって思っただけで。実はカクテルもお酒も、全然詳しくないんです」
緊張のあまり、言葉がカクカクしている。きっと顔も真っ赤になっているだろう。宴会での酔いが戻ってきたかのように体中が熱くて、頭の中がぐらぐらした。
「じゃあ、僕が頼みましょうか。本多さんには甘くて飲みやすいカクテルがいいでしょうから」
「はい、よろしくお願いします」
高柳さんが勧めてくれるなら、そのへんの水道水でもおいしく飲めると思う。
店員さんにカクテルを二つ頼んだ高柳さんは、少しリラックスしたようにテーブルの上でゆっくりと手を組んだ。私は緊張して下を向きながら、チラチラと彼の顔を盗み見る。
何か、何か話題を振らないと。これは神様がくれた我が人生最大のチャンスなのだから、大いに有効活用せねばならない。
彼女はいるのでしょうか? ああいや、いきなりその質問は不躾だよね。
ここはやっぱり、無難に好きな食べ物とか、ご趣味とか?
そんなことを悶々と考えるうち、コトッとテーブルにカクテルが置かれた。私の目の前にあるのは、紅茶色をしたロングカクテルだ。
「これは、何というカクテルなんですか?」
「ロングアイランドアイスティーです。さっぱりした甘さがあるので、きっと飲みやすいと思いますよ。僕はミモザを頼みました」
高柳さんのも私と同じ、ロングタイプのカクテル。明るいオレンジ色で、フルーティな香りがふわりとした。
乾杯、と二人でグラスを合わせる。……夢みたい。夢じゃないよね?
高柳さんがグラスを傾けたので、私も慌てて一口飲む。
「わっ、おいしい……です」
びっくりするほど、そのカクテルはおいしかった。すっと喉に入り込むような甘さがあり、飲み口が優しくて、アルコールを飲んでいる感じがしない。お花みたいな上品な香りがロマンティックな気持ちにさせる、素敵な飲み物だ。
カクテルなんて全然知らないけど、こんなにおいしいものなんだなぁと感動しつつ、コクコクと飲み下す。宴会ではビールばかり飲んでいたので、余計においしく感じられた。
「びっくりしましたよ。本多さんがお誘いしてくれるなんて思いもしませんでしたから。意外と積極的なんですね」
「わ、私もびっくりしました。まさか本当に……高柳さんが来てくれるなんて、思わなかったので……」
カクテルをもう一口飲んで、ジッと彼を見つめる。まだ現実味がない。夢の中にいるみたいにふわふわしていて、これは私の壮大なる妄想なのかと疑ってしまう。
だけど目の前の高柳さんは、間違いなく本物だった。彼はくすくすと笑って優しく目を細める。
「他の女性からのお誘いならお断りしたかもしれませんが、本多さんは別ですよ」
「そっ、そうなんですか?」
思わず目を丸くする。私は別……つまり特別ということ?
「だって同じ課で働く仲間じゃないですか。それに、本多さんはいつも真面目で仕事も丁寧なので、素敵な方だなと思っていました」
褒めすぎだ。褒めすぎだよ高柳さん。私を舞い上がらせてどうするつもりなんですか。もしかして王子様ともなると、誰に対してもこれくらいのセリフは朝飯前でいらっしゃるのでしょうか。
どうしよう。いや、悩んでいる場合ではない。とにかく言うこと言って、聞くこと聞いてしまわなければ。このチャンスをモノにして、絶対に口説き落としてしまわなければ!
酔ってぐらぐらする頭に活を入れ、ドンッとテーブルに拳を打ちつける。
「たかやーぎさん!」
「大丈夫ですか? ろれつが回っていませんけど」
「大丈夫です! あの、高柳さんは、か、彼女とかいるんですか!」
ようやく聞けた。でも口にしてしまってから、「やはり好きな食べ物を先に聞くべきだったか」と少し後悔する。彼は私の不躾な質問にも気を悪くした様子は見せず、ジェントリな笑みを浮かべたままこくりとミモザを飲んだ。
「特定の恋人のことですか? それならいませんね」
「では、生まれた時から決められていた、フィアンセがいるとか……」
「あははっ、そんな方がいたらドラマみたいですね。でも、残念ながらいませんよ」
ニコニコしながら素直に答えてくれる。やっぱり高柳さんはいい人だ。
とにかく今は、彼女も婚約者もいないらしい。それなら、私が告白しても構わないってことだよね。言うだけならタダだもん。どれだけ平凡でも身のほど知らずでも、気持ちを伝えることは罪じゃない。高柳さんの取り巻きは絶対に許さないだろうけど、彼女らに遠慮する必要など一つもない!
「たかやぎさん!」
「はい。いよいよろれつが回ってませんね」
ドッドッと心臓が脈打っている。手にじっとりと汗をかきつつ、ありったけの思いを込めて高柳さんを見つめた。
これが夢じゃないなら、神様がくれた奇跡なら、私は彼に伝えたい。大衆の中の一人に過ぎないちっぽけな私の、大切な思いを。
「私は、あなたのことが好きです」
言えた……。やっと言えた。この一言が言いたくて、私は渡すこともできないお弁当を作り続け、女性社員の群れにまみれて四苦八苦していたのだ。
後悔なんて一つもしていない。胸の中がすっきりして、告白できてよかったと心から思う。
高柳さんは面白そうに目を丸くして、私をまじまじと見つめた。
何を考えているんだろう。嬉しいと思っているのかな、それとも断る言葉を探しているのかな。高柳さんは思いやりのある人だから、きっと私の心が傷つかないように、優しい言葉を選んでくれることだろう。
「……うーん……」
顎に指を添えて伏し目がちになる高柳さん。そんなアンニュイな表情も非常に絵になる。
「すみません。とりあえず、お酒のおかわりを頼んでもいいですか?」
「あ、はい。私もおかわりを……。お、お任せしてもいいですか?」
カクテルを急いで飲み切ってから聞いてみると、高柳さんは笑顔で「もちろんですよ」と言ってくれた。
しばらくして、私の前には深い琥珀色のカクテルが置かれた。これは何という名前のカクテルなんだろう。きれいな色をしている。試しに一口飲んでみると、とろけるように甘くてほんのりオレンジの風味がした。
高柳さんはワイン色のカクテルを手に持ち、言葉を吟味するようにゆっくりと口を開く。
「先ほどメモをいただいた時にも思ったのですが、本多さんはずいぶんストレートな方なんですね」
「迷惑……でしたか?」
おずおずと聞いてみる。すると高柳さんは穏やかな表情で「いいえ」と首を横に振った。
「とてもまっすぐな方なんだな、と好感を持ちました」
「こ、好感……とは?」
「ありていに言いますと、僕もあなたに興味があります」
彼はにっこりと微笑む。その笑顔は会社で見るどの表情よりも素敵でドキドキした。軽くカクテルを口にし、流し目を送ってくる様は色気があって、私はうろたえてしまう。
どうしよう。ひょっとして、このままうまくいっちゃうの?
まさか……でも、そんな目で見つめられると期待してしまう。
「僕のことが好きだと仰る本多さん。あなたは、僕とお付き合いがしたいのでしょうか?」
バーに入っても、どこか夢心地だった。告白を口にしても、まだ現実味がなかった。彼とお付き合いできるだなんて、まったく予想していなかったからかもしれない。
きっと私は、心のどこかで諦めていたのだ。彼は高嶺の花だと。手の届かない王子様なのだと。それでも自分という存在が彼を好きなのだと知ってほしかった。私はおそらく、そこで願望を終わらせていたんだ。
……告白した後のことなんて、まったく考えていなかった。それが今の夢心地の理由なのだろう。
いつか夢はさめる。この奇跡みたいな時間は、彼のお断りの言葉によって終わりを告げるのだと思っていた。
でも、なぜか夢は続いている。高柳さんが私に興味を持ってくれている。
それなら、私は――
「お付き合いしていただけるなら、願ってもない……ことです」
ふわふわしていて、思考がうまく働かない。でも、自分の思いは口にできたと思う。
力の入らない手でカクテルグラスをテーブルに置いた。優しくて甘い、高柳さんみたいな味のお酒は、私に心地よい眠気をもたらす。このまま横になれたら幸せだけど、目の前には高柳さんがいるし、何より外だし、どうにかして帰らなきゃ。
「本多さんは本当に可愛いことを仰いますね。そんな風に求められると、僕もついその気になってしまいますよ」
「その気に……? 好きになってくれる、ということですか?」
「そうですね。僕はあなたを、もっと知りたい」
私の手の上に、彼の手がそっと置かれる。優しい目の奥に、赤い炎のような熱を見た。聖人君子然とした高柳さんにもそういう欲があるのだと……何となく意外に思ってしまう。
だけど私を見つめる高柳さんは、仕事場では見たことがない艶めかしさがあって、心をとろとろに溶かされる。彼の言うことを何でも聞いてしまいそうになる。
高柳さんって、実は魔性の男なのかな。
「僕に教えてくれますか? あなたの……全てを」
「――はい」
それでもいい。どちらにしても私の答えは一つだけだ。これが夢なら、さめないで。
ゆらゆら、ゆらゆら。
心地よい振動と、子守歌みたいなエンジン音。今はタクシーの中で、私の隣には高柳さんが座っている。
彼はジッと窓の外を見ていて、私もつられて外を見た。まるで夜はこれからだというように、辺りはきらきらしたネオンで輝いている。
やがてタクシーが静かに停まったところ、それは都内の大きなホテルだった。いかにも高級そうな佇まいは、明らかに一介のビジネスホテルではない。
高柳さんは運賃の支払いを済ませると、私に微笑みかけて手を貸してくれた。酩酊の心地よさが途切れないまま、彼の手を取る。……本当にお姫様になったみたいだ。信じられない。
ゆらゆらした頭で、彼に手を引かれてホテルに入る。フロントで手続きを済ませてエレベーターに乗り、目的の部屋へと向かう。
高柳さんはあらかじめこの事態を想定していたかのように、全ての行動がスマートだ。でも、大人の男の人というのは、こんなものなのかもしれない。ふらふらしている私と違って、彼の足取りはしっかりしていた。
ずっと見ていても飽きないほど整った顔立ち。上品に横分けされた茶色がかった髪。すらりとした長身……おまけに彼は、大企業の社長令息なのだ。
そんな人と一緒にホテルに入っているなんて。しかもそれが、憧れの人だなんて。
きっと、これが幸せの絶頂というものなのだろう。恋を諦めなくてよかった。勇気を出してよかった。
部屋のドアが控えめな音を立てて開かれる。高柳さんと一緒に中へ入ると、そこは普通のホテルの部屋とは明らかに違っていた。
ワンルームではあるけれど、面積がとても広い。ベッドは二つ。そしてくつろげそうなソファが二つ、向かい合わせに配置されていた。
ぼうっと部屋の中を眺めていた私の手が唐突に引かれる。驚いたのも束の間、体をベッドに倒された。間髪を容れずに高柳さんがのしかかってきて、至近距離で見つめ合う。
どきんと心臓が跳ね上がった。
――え、もうしちゃうの? そういうものなの? まだシャワーも浴びていないのに、こういう時は問答無用で始めるものなの?
全てが初めてで、何が何やらさっぱりわからない。ただ間近で見る高柳さんに、ひどく緊張していた。今まで仕事上の付き合いしかしてこなかった彼が、こんなにも近いところにいるなんて。高嶺の花のはずなのに、その花は目と鼻の先にある。
嘘かまことか確かめるように、私はそっと高柳さんの頬に触れた。すると、彼は優しく目を細める。
「――君は、本当にうかつな子だな」
え、と声が出た気がした。うかつ……うかつって、どういうことだろう?
「忠告しておこう。男と二人きりで飲む時、勧められた酒を飲んではいけない。こんな風に捕らわれた時、逃げ出すことができなくなるからな」
……目の前の男は、ニヤリと笑った。
まるで冷や水を浴びせられたみたいに、酩酊していた頭が少しずつ冷静になっていく。でも色々と思考が追いつかなくて、私はただ目を丸くしていた。
「油断大敵だぞ。でも、君みたいな子は嫌いじゃない。愚かで可愛いと思うよ。こういう時、無駄に身持ちが堅いとかえって興ざめだからな。……ところで、いつまでそんな間抜け面をしている」
彼は呆れたように顔をしかめ、未だぽかんとしている私のおでこをピンッと指ではじく。
――それで、私の意識ははっきりした。
「まぁいいか、では、さっそく――」
「ちょちょっ、ちょっ、ちょっと待てー!」
私の服を脱がしにかかった彼の手首を、慌てて掴む。止められたことに苛立ちを覚えたのか、彼は「何だ?」と機嫌の悪そうな声を出した。
いやいや待ってよ。これは何? 何が起こっているの?
こんなの高柳さんじゃない。私が好きになった、優しくて王子様で誰に対しても丁寧でジェントリの塊みたいに爽やかな笑顔が似合う、あの高柳さんじゃない!
「あなたは誰!?」
私の渾身の問いかけに、彼は目を丸くし、そしてぷっと噴き出した。
「君の目は節穴か? 自分で誘ったくせに」
「だっ、だって、おかしいでしょ! 高柳さんはこんな感じじゃなくて、もっと優しくて、紳士で……!」
「ああ、すまないね。君には遠慮する必要がないと思ったもので。――それとも、こっちのほうがよかった?」
私にのしかかったまま、ニッコリとあの優しい笑顔を見せてくれる。しかし次の瞬間、獲物を前に舌なめずりする狼のような、凶悪極まりない笑みに変わった。
「――だっ、騙してたのね!?」
「騙したつもりはない。人の上っ面しか見ていなかった君が悪い」
「そんなことない! だって会社の人、皆騙されてるもん!」
「世の中には物事の表層しか見ることのできない、憐れな人間がたくさんいるんだな」
何だこの男、どんだけ上から目線なんだ。
私が非難の言葉を必死に考えている間に、高柳さんの顔をしたひどい男が、てきぱきと服を脱がしにかかる。私は身をよじってうつ伏せになり、必死に逃れようとした。
「やっ、やだ、こんなはずでは!」
「どんなはずだったんだ。優しく紳士的に、薄っぺらい愛の言葉でもかけてもらいたかったのか? おい、逃げるな」
「逃げるわ! ――私、失礼させていただきます。今日のことはなかったことにして、全て白紙に……ひゃあぁ」
ふぅっと耳に息を吹きかけられた。へなへなと脱力した私はベッドの真ん中に戻されて、くるりと仰向けにさせられる。
なぜか抵抗がしづらい。頭ははっきりしてるのに、体がひどく重くて大地が揺れて……
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「キツい……カクテル?」
あの、甘くておいしくて、コクコク飲めるようなカクテルが、そんなにキツいの? ビールよりも全然アルコールが弱そうだったのに。
「あからさまなキラーカクテルを勧めたというのに、君は無警戒でかぱかぱ飲んでいたな。あの時点で、君は愚かだと思った」
「愚かって、ひどい」
「二杯目も有名なキラーカクテルを頼んでみたが、君はまったく気にすることなく飲んでいた。……まったく。バーに男を誘うなら、カクテルの知識くらいつけておけ。バカだな」
バカって言った! 愚かの次はバカって言った!
実はめちゃくちゃ口が悪くてひどい性格をしていた高柳幸人は、するすると私の服を脱がしていく。抵抗しようとしたら、私の両手首は彼の大きな手によって簡単に拘束された。そのまま頭上に持ち上げられ、カーディガンを使ってギュッと縛りつけられる。
「そんなもので縛らないでよ! 服がのびるーっ!」
「この期に及んで服の心配をするとは、ずいぶんと余裕だな」
フンと鼻で笑うと、彼は乱雑な仕草でスーツの上着を脱ぎ捨てた。そしてネクタイをしゅるりと取り、ワイシャツの袖口のボタンを外す。
そして軽く腕まくりをし、上半身がブラのみになった私の腰に両手を添えてきた。
「ひぇっ」
「色気のない声だな」
悪態をつきながら、するすると上に向かって撫でられる。ぞわぞわした感覚が体中を走って、私ははぁと息を吐いた。
「腰に力が入らないだろう? アルコールで潰したのだから当然の話だ」
「げ、外道!」
「カクテルの種類もろくに知らないくせに、背伸びしてバーを選んだ君が悪い。勉強になってよかったな?」
ああ言えばこう言う。この男には、どんな悪口も効かない気がする。
そんな会話をしているうちにブラのホックがぷつんと外され、軽く上にずらされた。
「……なるほど」
彼は何やら納得したように呟き、ニヤリと厭な笑みを浮かべる。何だ、思ったよりも小さいとでも思っているのか。
寄せて上げるブラで必死に周りの肉をかき集めているので、元々の胸はさほど大きくない。この貧相な体を見てヤル気をなくしてくれればいいのに。
「あっ!」
思考もそこそこに上ずった声が出てしまった。彼がふわりと胸を掴んできたのだ。
柔らかさを確かめるように手のひらで揉み、ゆっくりと捏ね始める。
びくびくと体が震えた。抵抗したいけど、両手は縛られているので動かせない。
上にのしかかっていた彼はスッと体を屈め、私の首筋に舌を這わせた。
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