2 / 32
第一章 春は憂鬱の香り
第一章 春は憂鬱の香り ②
しおりを挟む「良かったら、樹里ちゃんも何か残して行ってよ。記念にさ」
「記念って言っても……」
私は手近な椅子に腰を掛けて、何も書かれていないページを開く。ボールペンを手に取り、少しだけ考えてからペンを走らせた。
『学校に行っても、家に帰っても何も楽しくない。学校では全然友達ができる気がしないし……風邪なんて引くんじゃなかった。それさえなければ、今こんな思いしなくて済んだかもしれないのに。家だってそう、お母さんのピアノのレッスンがどんどんスパルタになってきてる。自分の叶えられなかった夢を人に押し付けるの、やめてほしい。私はもっと、自分が本当に好きな事をやりたいのに!!!』
三つ目のびっくりマークの点を、グリグリとペン先がつぶれてしまうくらい強く書いていく。ちょっとした愚痴のつもりなのに、そこまで気持ちがノートに流れ込んでいたことにその時になって気づいた。
「何書いたの?」
春恵さんがカウンター越しに覗き込んでくる、私は大慌てでノートを閉じた。
「み、見ちゃダメ!」
思っていたよりも大きな声が出ていたみたいで、本棚の間から子どもたちがカウンターの様子をちらちらと見る。会話はOKとなっているけれど、あまり大きな声を出すのは周りの迷惑になる。それを彼らはよく知っているから、じっと嫌なものを見るような視線を私に向けた。居たたまれなくなった私は、春恵さんに会釈をして足早に【子ども図書館】から出ていった。数十メートル走ったあたりで、私はゆっくりとスピードを緩めていく。心臓は強く肋骨を打ち、うまく呼吸ができなくて肩が大きく上下する。急に走り出したせいで胸がドキドキと痛むのと、誰が読むかもわからないノートに自分の気持ちを書き記した後悔。その二つが頭の中を駆け巡る。私は振り払うように、もう一度走りだしていた。まだ革靴を履きなれていないせいで、家に着くころには両方の踵に靴擦れができていた。
私がまた【子ども図書館】に行ったのは、それから一週間後だった。あのノートが気になって気になって、出来たらあの愚痴をマジックで上塗りしようなんて考えて……私は放課後、重たい脚を引きずりながらやってきた。もちろん、この時点でも友達はできていない。
「高校、そろそろ友達できた?」
「全く!」
いつになったらこのやり取りをやめることができるだろう、そんな事を考えながら私はちらりとあの緑色のノートに目をやる。春恵さんが仕事に戻った隙に、私はカバンの中から家から持ってきた油性マジックを取り出した。もちろん、自分が書いた部分を塗りつぶすために。
何ページもめくって、私は自分の文字を見つける。でも……あの愚痴が頭の中に滑り込んでくるよりも先に、その言葉に向けられた矢印が私の目を引いた。
「……ん?」
私の丸っこい文字とは正反対の、少し刺々しい細い文字。見ただけで子どもが書いた言葉じゃないことが分かる。私はそれを指でなぞり、自分にしか聞こえないくらい小さな声で読み上げた。
「『本当に好きな事って、例えばどういうこと?』……?」
口から飛び出し、耳に入り込んだ言葉を私は何度も頭の中で繰り返す。本当に好きな事、本当に好き……。
「私にとって本当に好きなものって、何なんだろう?」
ぽつりと飛び出した問いに答えてくれる人はどこにもいない。自分の胸に手を当てて深く考えても、その答えは見つかりそうになかった。いざそう聞かれると、私の中に答えなんてないことに気づく。私はマジックペンをカバンに仕舞い、そのままゆらっと立ち上がる。春恵さんが何か呼びかけていた気がしたけれど、それに気にも留めず私は帰路についていた。
私がクラスの隅でぼんやりと座っている間に少しだけ季節は進んで、浅黄高校に入学して初めての学校行事がやってきた。合唱コンクールだ。みんなで話し合って決まる予定なのに、クラスの中心的人物……カースト順位の高い子たちだけで盛り上がって、私だけじゃなくってそれ以外の子たちも蚊帳の外になっていた。話について行けないうちに指揮者まで決まってしまっていて、残るのはピアノの奏者だけになっていた。
「誰か、ピアノ弾いてもいいよっていう人、いる?」
取りまとめ役が呼び掛けても、誰もうんともすんとも言わない。その空気を読むわけではないが、私も手をあげようとしなかった。なぜなら、ピアノの奏者になると毎日の放課後練習のために居残りしなければいけなくなる。そんな事をしてしまうと、一日の内にレッスンを受けられる時間が減り……お母さんが、火を噴くように怒るのだ。今までだってそう、ピアノのレッスンがある日は寄り道も友達と遊びに行くのも、すべて禁止。お母さんの怒鳴り声を聞くのも嫌になってしまった私は、いつしか従順に言う事を聞くようになってしまった。
「だれでもいいからさ、ピアノ弾ける人手あげてよ」
お母さんを必要以上怒らせたくない私は、その言葉を聞かないふりをする。……ピアノなんて、弾けないふりをする。それに、一度でもピアノが弾けるという事がばれてしまうと、三年間ずっとピアノ奏者を押し付けられそうだ。
「あっれ~、相沢さんって確かピアノ習ってなかった?」
それなのに、聞き捨てならない言葉が耳に飛び込んできた。ハッと顔をあげると、教室の後ろの方に座っていた新田さんが、いじわるそうな笑みを浮かべながら私を見る。
「そうなの、杏奈」
「そう! あたし相沢さんと中学一緒だったからよく知ってる。確かコンクールに入賞したこともあるって聞いたけど……」
「本当なの?」
クラスメイト全員のぎょろっとした目玉が、すべて私を見つめる。その視線の中には「アイツ、わざと手あげなかったんじゃないか」という蔑んだものも含まれているような気がした。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ループ25 ~ 何度も繰り返す25歳、その理由を知る時、主人公は…… ~
藤堂慎人
ライト文芸
主人公新藤肇は何度目かの25歳の誕生日を迎えた。毎回少しだけ違う世界で目覚めるが、今回は前の世界で意中の人だった美由紀と新婚1年目の朝に目覚めた。
戸惑う肇だったが、この世界での情報を集め、徐々に慣れていく。
お互いの両親の問題は前の世界でもあったが、今回は良い方向で解決した。
仕事も順調で、苦労は感じつつも充実した日々を送っている。
しかし、これまでの流れではその暮らしも1年で終わってしまう。今までで最も良い世界だからこそ、次の世界にループすることを恐れている。
そんな時、肇は重大な出来事に遭遇する。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ヤクザに医官はおりません
ユーリ(佐伯瑠璃)
ライト文芸
彼は私の知らない組織の人間でした
会社の飲み会の隣の席のグループが怪しい。
シャバだの、残弾なしだの、会話が物騒すぎる。刈り上げ、角刈り、丸刈り、眉毛シャキーン。
無駄にムキムキした体に、堅い言葉遣い。
反社会組織の集まりか!
ヤ◯ザに見初められたら逃げられない?
勘違いから始まる異文化交流のお話です。
※もちろんフィクションです。
小説家になろう、カクヨムに投稿しています。
皆に優しい幸崎さんは、今日も「じゃない方」の私に優しい
99
ライト文芸
奥手で引っ込み思案な新入社員 × 教育係のエリート社員
佐倉美和(23)は、新入社員研修時に元読者モデルの同期・橘さくらと比較され、「じゃない方の佐倉」という不名誉なあだ名をつけられてしまい、以来人付き合いが消極的になってしまっている。
そんな彼女の教育係で営業部のエリート・幸崎優吾(28)は「皆に平等に優しい人格者」としてもっぱらな評判。
美和にも当然優しく接してくれているのだが、「それが逆に申し訳なくて辛い」と思ってしまう。
ある日、美和は学生時代からの友人で同期の城山雪の誘いでデパートのコスメ売り場に出かけ、美容部員の手によって別人のように変身する。
少しだけ自分に自信を持てたことで、美和と幸崎との間で、新しい関係が始まろうとしていた・・・
素敵な表紙はミカスケ様のフリーイラストをお借りしています。
http://misoko.net/
他サイト様でも投稿しています。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる