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第五章 はじめての【夢】
第五章 はじめての【夢】 ③
しおりを挟む「さ、今日はもう早く寝なさい。お風呂の準備はもう済んでる。あと、冷凍庫に保冷材も入っているから、それ使いなさい」
「保冷剤?」
「そんなに泣いたら、明日、目が腫れるだろう?」
お父さんがそう言って笑うので、私も釣られて笑みを作る。階下からは、ピアノの音が聞こえてきた。
「……これ、もしかしてお母さんの演奏?」
「ああ、昔っから嫌な事があるとああやってピアノに逃げるんだよな」
「そうなの?」
「そう。……お母さんの演奏なんて、久しぶりに聞いた気がするよ」
「私も、そうかもしれない」
防音を施しているはずのレッスン室から聞こえてくる旋律は、私の耳にもなじみのある曲だった。
「『悲愴』とか、当てつけにもほどがあるよ」
「ベートヴェン、お父さん好きだけどな。じゃあ、今夜はゆっくり休みなさい」
***
お父さんの忠告通り保冷剤を使って目のあたりを冷やしたのに、次の日の私の瞼はまだ腫れぼったいままだった。
「樹里ちゃん、どうしたの? 虫刺され?」
朝一番で真奈美ちゃんに心配されるくらい。私は静かに首を横に振る。
「ううん、親と喧嘩したの」
「うわ、壮絶そう」
「大変だった。お母さんなんて部屋から出てこなかったし」
朝目覚めた私を待ち受けていたのは、衝撃の光景だった。あの無関心そうなお父さんがお母さんのエプロンを付けて、ベーコンエッグを焼いているのだ。
「どうだ、初めて作ったわりには上出来だろう?」
そういってお父さんが差し出したお皿には、カリカリに焼けたベーコンととろりと半熟状態な目玉焼きが載っている。
「上手だね」
「今はインターネットを見たら、作り方くらい載ってるからな」
トースターではパンが焼かれていて、私は指先に鋭い熱を感じながら食パンをお皿に乗せた。そのまま、ベーコンも目玉焼きもすべてパンの上において、小さく「いただきます」と言った。
「……お母さんは?」
一口食べるが、まだパンしかかじることができなかった。恐る恐る私がそう聞くと、お父さんは忘れていたかのように「ああ!」と声をあげた。
「まだ寝てる。昨日、寝付くのが遅かったみたいで……聞こえなかったか?」
「……ピアノの音? ちょっとだけ」
お母さんは結局、夜中の間ずっとピアノを弾いていたみたいだ。時々漏れ聞こえてくるきたその旋律は恨みがましくて、私はぎゅっと耳を塞いで眠りについた。
「そう。防音してるのにこんなに漏れるなんて、ご近所には迷惑だったかもな」
私は二口目を口に入れる、ベーコンのカリカリとしたしょっぱさと卵の白身のたんぱくな味が口の中で混ざり合う。
「今日は学校、遅くなるか?」
「わかんない。でも、次は学校祭があるんだって」
「楽しいか? 学校」
「えっ? ……私、お父さんにそんなこと聞かれるの、初めて」
「そうだったか?」
「うん。でも、まあ、楽しいよ。友達もできたし」
「そうか。それじゃ、お父さんは仕事に行くから」
「うん、あとは私でやっておく。行ってらっしゃい」
お父さんとこんなに話をしたのなんて、初めてな気がした。家を出る時間になってもお母さんは姿を見せず、お父さんが作った朝ご飯にラップをかけて、私は学校に向かう。目に風が触れるたびに、どこか涼しく感じられた。
「そうだ、樹里ちゃん。良い話を聞いたの」
「良い話?」
「うん、学校祭にね、ステージ発表があるんだって。知ってた?」
「ステージ発表?」
私は聞いたことがなくて、首を横に振る。
「体育館のステージで、有志の人たちが好きな物の発表会をするの。コーラス部は合唱とか、演劇部が演劇とか……。それに申し込んでみない?」
「……え?」
「だから、樹里ちゃん。ステージに立とうよ」
「え、えぇええ! 無理だよ、そんなの! 大体、何をやれっていうのさ!」
「だから、曲作ってステージで発表すればいいんだって」
「で、でも……まだ完成してないし」
そう、曲作りは遅々として進んでいない。良い感じのメロディは浮かんでくるのに、それをつなげることができずにいた。
「締め切り日があれば、それに向かってやる気でない?」
「私、夏休みの宿題は最終日でも終わらなかった派なんだけど……」
「頑張ればできるって! 私も協力するしさ、申込用紙も貰ってきちゃった。これ樹里ちゃんにあげるよ」
「う、うん……」
そう言って、真奈美ちゃんは私に申込用紙を押し付けた。そして、「締め切りは来週だって」と付け足す。
「考えておくけど……」
一人で人前に立つなんて、教室で開催した発表会ぐらいでしかしたことがない。小さいときは直前まで逃げ回って、いざ舞台の上に立たされたら足がぶるぶると震えて、満足にペダルを踏むこともできなかった。そんな私が学校祭の舞台に立てるなんて思えなくて、私はその申込用紙を丁寧に畳みながら心の中で真奈美ちゃんに謝った。ここまでしてもらっているのに、ごめんね。
授業が終わった後、私は急ぎ足で【子ども図書館】に向かった。春恵さんへの挨拶もそこそこに、私は一言ノートを開く。
「あ、さっそく?」
「うん。昨日、ひと悶着あったから」
「やっぱり、そうだと思った」
「え?」
ペンを取り出し固まっていると、春恵さんは頬に手を添えて首を傾げる。
「朝ね、先生から電話があったの。しばらくレッスンはお休みしたいって」
「……お母さんから?」
「あ~こりゃ大変な事あったなって。後で何があったか教えて」
春恵さんはいたずらめいたウィンクを見せる。どんなに重たい相談事でも、春恵さんは羽のように軽くしてしまう。私はあの悩み事の次のページを開いて、ペンを走らせた。
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