宇宙でひとつの、ラブ・ソング

indi子/金色魚々子

文字の大きさ
19 / 32
第五章 はじめての【夢】

第五章 はじめての【夢】 ③

しおりを挟む


「さ、今日はもう早く寝なさい。お風呂の準備はもう済んでる。あと、冷凍庫に保冷材も入っているから、それ使いなさい」

「保冷剤?」

「そんなに泣いたら、明日、目が腫れるだろう?」

 お父さんがそう言って笑うので、私も釣られて笑みを作る。階下からは、ピアノの音が聞こえてきた。


「……これ、もしかしてお母さんの演奏?」

「ああ、昔っから嫌な事があるとああやってピアノに逃げるんだよな」

「そうなの?」

「そう。……お母さんの演奏なんて、久しぶりに聞いた気がするよ」

「私も、そうかもしれない」


 防音を施しているはずのレッスン室から聞こえてくる旋律は、私の耳にもなじみのある曲だった。


「『悲愴』とか、当てつけにもほどがあるよ」

「ベートヴェン、お父さん好きだけどな。じゃあ、今夜はゆっくり休みなさい」


***


 お父さんの忠告通り保冷剤を使って目のあたりを冷やしたのに、次の日の私の瞼はまだ腫れぼったいままだった。


「樹里ちゃん、どうしたの? 虫刺され?」


 朝一番で真奈美ちゃんに心配されるくらい。私は静かに首を横に振る。


「ううん、親と喧嘩したの」

「うわ、壮絶そう」

「大変だった。お母さんなんて部屋から出てこなかったし」


 朝目覚めた私を待ち受けていたのは、衝撃の光景だった。あの無関心そうなお父さんがお母さんのエプロンを付けて、ベーコンエッグを焼いているのだ。


「どうだ、初めて作ったわりには上出来だろう?」


 そういってお父さんが差し出したお皿には、カリカリに焼けたベーコンととろりと半熟状態な目玉焼きが載っている。


「上手だね」

「今はインターネットを見たら、作り方くらい載ってるからな」


 トースターではパンが焼かれていて、私は指先に鋭い熱を感じながら食パンをお皿に乗せた。そのまま、ベーコンも目玉焼きもすべてパンの上において、小さく「いただきます」と言った。


「……お母さんは?」


 一口食べるが、まだパンしかかじることができなかった。恐る恐る私がそう聞くと、お父さんは忘れていたかのように「ああ!」と声をあげた。


「まだ寝てる。昨日、寝付くのが遅かったみたいで……聞こえなかったか?」

「……ピアノの音? ちょっとだけ」


 お母さんは結局、夜中の間ずっとピアノを弾いていたみたいだ。時々漏れ聞こえてくるきたその旋律は恨みがましくて、私はぎゅっと耳を塞いで眠りについた。


「そう。防音してるのにこんなに漏れるなんて、ご近所には迷惑だったかもな」


 私は二口目を口に入れる、ベーコンのカリカリとしたしょっぱさと卵の白身のたんぱくな味が口の中で混ざり合う。


「今日は学校、遅くなるか?」

「わかんない。でも、次は学校祭があるんだって」

「楽しいか? 学校」

「えっ? ……私、お父さんにそんなこと聞かれるの、初めて」

「そうだったか?」

「うん。でも、まあ、楽しいよ。友達もできたし」

「そうか。それじゃ、お父さんは仕事に行くから」

「うん、あとは私でやっておく。行ってらっしゃい」


 お父さんとこんなに話をしたのなんて、初めてな気がした。家を出る時間になってもお母さんは姿を見せず、お父さんが作った朝ご飯にラップをかけて、私は学校に向かう。目に風が触れるたびに、どこか涼しく感じられた。


「そうだ、樹里ちゃん。良い話を聞いたの」

「良い話?」

「うん、学校祭にね、ステージ発表があるんだって。知ってた?」

「ステージ発表?」

 私は聞いたことがなくて、首を横に振る。


「体育館のステージで、有志の人たちが好きな物の発表会をするの。コーラス部は合唱とか、演劇部が演劇とか……。それに申し込んでみない?」

「……え?」

「だから、樹里ちゃん。ステージに立とうよ」

「え、えぇええ! 無理だよ、そんなの! 大体、何をやれっていうのさ!」

「だから、曲作ってステージで発表すればいいんだって」

「で、でも……まだ完成してないし」


 そう、曲作りは遅々として進んでいない。良い感じのメロディは浮かんでくるのに、それをつなげることができずにいた。


「締め切り日があれば、それに向かってやる気でない?」

「私、夏休みの宿題は最終日でも終わらなかった派なんだけど……」

「頑張ればできるって! 私も協力するしさ、申込用紙も貰ってきちゃった。これ樹里ちゃんにあげるよ」

「う、うん……」


 そう言って、真奈美ちゃんは私に申込用紙を押し付けた。そして、「締め切りは来週だって」と付け足す。


「考えておくけど……」


 一人で人前に立つなんて、教室で開催した発表会ぐらいでしかしたことがない。小さいときは直前まで逃げ回って、いざ舞台の上に立たされたら足がぶるぶると震えて、満足にペダルを踏むこともできなかった。そんな私が学校祭の舞台に立てるなんて思えなくて、私はその申込用紙を丁寧に畳みながら心の中で真奈美ちゃんに謝った。ここまでしてもらっているのに、ごめんね。

 授業が終わった後、私は急ぎ足で【子ども図書館】に向かった。春恵さんへの挨拶もそこそこに、私は一言ノートを開く。


「あ、さっそく?」

「うん。昨日、ひと悶着あったから」

「やっぱり、そうだと思った」

「え?」


 ペンを取り出し固まっていると、春恵さんは頬に手を添えて首を傾げる。

「朝ね、先生から電話があったの。しばらくレッスンはお休みしたいって」

「……お母さんから?」

「あ~こりゃ大変な事あったなって。後で何があったか教えて」


 春恵さんはいたずらめいたウィンクを見せる。どんなに重たい相談事でも、春恵さんは羽のように軽くしてしまう。私はあの悩み事の次のページを開いて、ペンを走らせた。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

ループ25 ~ 何度も繰り返す25歳、その理由を知る時、主人公は…… ~

藤堂慎人
ライト文芸
主人公新藤肇は何度目かの25歳の誕生日を迎えた。毎回少しだけ違う世界で目覚めるが、今回は前の世界で意中の人だった美由紀と新婚1年目の朝に目覚めた。 戸惑う肇だったが、この世界での情報を集め、徐々に慣れていく。 お互いの両親の問題は前の世界でもあったが、今回は良い方向で解決した。 仕事も順調で、苦労は感じつつも充実した日々を送っている。 しかし、これまでの流れではその暮らしも1年で終わってしまう。今までで最も良い世界だからこそ、次の世界にループすることを恐れている。 そんな時、肇は重大な出来事に遭遇する。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

ヤクザに医官はおりません

ユーリ(佐伯瑠璃)
ライト文芸
彼は私の知らない組織の人間でした 会社の飲み会の隣の席のグループが怪しい。 シャバだの、残弾なしだの、会話が物騒すぎる。刈り上げ、角刈り、丸刈り、眉毛シャキーン。 無駄にムキムキした体に、堅い言葉遣い。 反社会組織の集まりか! ヤ◯ザに見初められたら逃げられない? 勘違いから始まる異文化交流のお話です。 ※もちろんフィクションです。 小説家になろう、カクヨムに投稿しています。

皆に優しい幸崎さんは、今日も「じゃない方」の私に優しい

99
ライト文芸
奥手で引っ込み思案な新入社員 × 教育係のエリート社員 佐倉美和(23)は、新入社員研修時に元読者モデルの同期・橘さくらと比較され、「じゃない方の佐倉」という不名誉なあだ名をつけられてしまい、以来人付き合いが消極的になってしまっている。 そんな彼女の教育係で営業部のエリート・幸崎優吾(28)は「皆に平等に優しい人格者」としてもっぱらな評判。 美和にも当然優しく接してくれているのだが、「それが逆に申し訳なくて辛い」と思ってしまう。 ある日、美和は学生時代からの友人で同期の城山雪の誘いでデパートのコスメ売り場に出かけ、美容部員の手によって別人のように変身する。 少しだけ自分に自信を持てたことで、美和と幸崎との間で、新しい関係が始まろうとしていた・・・ 素敵な表紙はミカスケ様のフリーイラストをお借りしています。 http://misoko.net/ 他サイト様でも投稿しています。

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

処理中です...