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1巻
1-3
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突き上げられながら一回。
彼の膝の上に乗せられて一回。
体力と精神の限界で崩れ落ち、覚えているのはそこまで。
おそらくその後も、彼は何度も私を蹂躙した。
結果、私はベッドの上の住人となった。
疲労困憊と筋肉痛と高熱で、合計四日。
――ただ、馬鹿みたいに魔力放出を繰り返した副産物か。次に目覚めた時には首に嵌められていた首輪が粉々に壊れてしまっていた。
もちろん、爆発などただの一度も起こらなかった。
◆◇◆
崩れ落ちた女性を、腕の中に抱き込んだ。
(――軽い)
王族でありながら、十分な食事を与えられなかったのだろう。力を入れたら壊れてしまいそうなほど細い身体を抱き締め、アーシュアルトは胸の奥で疼く感情にぐずぐずに揺さぶられていた。
とうとう手に入れた。自分の運命を変えてくれた彼女を。
この日をどれほど夢見たことか。
アーシュアルトは、ノルヴェン王族の異端児だ。魔力を持たず、青の色彩をどこにも宿していない自分が、たぐいまれな祝福をその身に宿す彼女を正規の方法で娶ることなど不可能だった。
それでも諦めきれず、国境となるこの辺境領でイッジレリア国を見張り続け、とうとう――この手に幸運が舞い込んだ。
(ああ、ライラ! ライラリーネ・イオネル)
その名を心の中で呼ぶだけで、胸が熱くなる。
あまりにも、素晴らしい時間だった。
湧き出る愛情の赴くまま、アーシュアルトは彼女の髪を梳かす。
少し毛先の傷んだ細い髪。ふわふわとクセがある髪をくるくると指に巻きつける。そうして束を掬い上げ、薄い唇でキスを落とした。
本当に、どんな色彩でもライラは美しい。
(――まさか魔力放出が、こんな効果までもたらすとは)
ライラリーネ・イオネルといえばイッジレリアの至宝。
髪と瞳の両方に真紅の祝福を宿す、赤の女神の愛し子だ。
しかし自爆の首輪によって強制的に魔力を引き出されたせいか、はたまたアーシュアルトの特異体質のせいか――
身体を繋げている最中、彼女がみるみるうちに赤い色彩を失っていったのを、アーシュアルトはこの目で見ていたのだ。
ライラ本人は気づいただろうか。イッジレリアの至宝を象徴する鮮やかな赤は、もうどこにもない。浅い灰色の髪が、わずかに赤みがかかる程度。瞳も、すでに赤ではなかったはずだ。
長い長い夜を越えて、彼女は女神の祝福を失った。
――正しくは、アーシュアルトの手によって奪われたのだろう。
アーシュアルトは、特異体質である。
祝福、と呼びたくはないが、アーシュアルトにもこの世界で唯一無二の大神の祝福がある。
王と兄弟たちしか知らない極秘情報だ。アーシュアルトが持つ黒の色彩は大神に授けられたもの。光と闇の大神の、闇の側面を授けられたのだった。
結果。どんな魔力も通じない、『全ての魔法を吸収する』特別な性質がアーシュアルトにはあった。
といっても吸収するだけで、自分自身が魔力を使えるようになるわけではないのだが。
(かつてはこんな自分を恨みもしたが……)
今は違う。この力のおかげで彼女の命を救い、手に入れられるのだから。
(色彩まで失わせてしまったのは想定外だが、逆に都合がいい、か)
アーシュアルトはわずかに口の端を上げてから、そっと彼女の頬に手を触れた。
長年――そう、ずっとだ。彼女が人質としてノルヴェン王国にいた時から、ずっと彼女のことを目で追っていた。
貴族にとって、処女は絶対だ。彼女の初めては確かにアーシュアルトが頂いたのだから、これで誰にも奪われまい。同族に掻っ攫われないよう、迅速に彼女を抱いた甲斐があった。ああ、ライラは素晴らしかった!
(感じるたびに俺の身体にしがみついてきて、そのたびに彼女の中はきゅうきゅう締まる。穿つたびに全身が喜びに震え、俺も負けじと焦らすように擦ると――ああ! 彼女が潤んだ目で見上げてきて、俺の胸に頬ずりをするんだ。以前よりもずっと大人になった彼女は、女性らしい色気が滲んでいた。俺はまるで吸い寄せられるように夢中になって――)
はあ、と甘い息を吐く。
(ライラリーネ・イオネル。絶対に手が届かないと思っていた彼女が俺のところに落ちてきてくれるなんて。大神は俺の味方をしたのだな。あれほど可憐であれほど力を持った神子姫を刈り取ろうなど、イッジレリアの連中を全員斬り殺してやりたいくらいだがまあいい。彼女を俺対策として戦場に出してくれたおかげで、彼女も助けられ、俺も彼女を手に入れられた。万事が、俺のために動いているように感じる。ああ、ライラ! 俺の天使!!)
――アーシュアルト・サヴィラ・ノルヴェン。
常に寡黙で怒りを秘めたように強面の彼は、内心では驚くほど雄弁だった。
(俺のライラを――こんなに麗しく健気な女性を冤罪で処刑しようなど。おのれイッジレリア王家。許してなるものか)
イッジレリアで大きな政変があった。内情はわからないが、先の国主〈火宿り〉が倒れ、イオネル家の長子カッシム・イオネルが新たな〈火宿り〉となった。
本来であれば〈火宿り〉に選ばれるべきはライラ――だが、二百年もの間イオネル家が支配するイッジレリアにおいて、宗教国家としての法など、とっくに形骸化している。
どれだけ女神の祝福に恵まれていようとイオネル家の血族以外の人間が〈火宿り〉になることはあってはならない、という反対意見によって、彼女の即位は難しいとされていた。となると血筋、実力、人気ともバランスのとれた第五王子セイランが最有力候補かと思われていたが、今回の政変――
(第五王子の不在時を狙ったのだろうな)
カッシムにとって、本来の〈火宿り〉の条件を満たすライラと、最有力候補であるセイランは目の上のたんこぶだったのだろう。そこでセイランが他国へ外交に出ている間にライラを捕らえ、先代〈火宿り〉を弑逆。その罪をライラに着せ、自らが国主となった――といったところか。
もともとイッジレリアはきな臭いところがあった。政変などいつ起こってもおかしくなかったが、よりによってライラを巻き込んだ。アーシュアルトはそれが許せなかった。
彼女が自爆の首輪をつけられ、戦場に放り出されたのはある意味、僥倖だったが。
それ以外の手段で処刑されていたら、助けることは叶わなかった。
想像するだけで腹の底からどす黒い感情が湧き出しそうになり、心の奥にぐっと押し込める。
彼女は助かったのだ。この腕の中にいる。ライラがライラのまま、アーシュアルトのもとに堕ちてきてくれた。今は、その喜びを噛み締めたい。
先ほどもそうだ。魔力が溢れそうになった時、彼女は自らの命よりアーシュアルトの身を心配してくれた。
自分を攫った敵国の王子を相手に、なんといじらしいことか。
(昔から変わっていないな)
彼女は彼女の価値観で生きている。
身分や能力など関係ない――そう主張し、凜と立つ彼女に憧れた。
――八年前。イッジレリア国との国境で睨み合いが始まる前のことだ。
かの国とノルヴェン王国の間では、それぞれ赤の女神の祝福を賜った赤の神子と、青の女神の祝福を賜った青の神子を派遣し合う――言い方を変えれば、人質を交換し合う慣習があった。
しかし、それは必要なことだった。
この世界は火・水・風・土、四つの属性を司る女神によって支えられている。
女神の祝福は〈火脈〉〈水脈〉〈地脈〉〈風脈〉と呼ばれる四つの〈命脈〉によって、広大な大地の隅々まで巡るものだ。
だが、その力は均等に行きわたるわけではない。赤の女神に愛されたイッジレリアなら〈火脈〉、青の女神に愛されたノルヴェンならば〈水脈〉といったように、それぞれの女神から祝福を受けた属性が強く作用する。
放っておけばイッジレリアは砂漠化が進み、ノルヴェンは凍土が広がってしまう。
それを防ぐためには相反する属性を活性化させ、〈命脈〉のバランスを整えなければならない。
〈命脈〉に干渉できるのは、強い祝福を持つ者のみ。その者は神子と呼ばれ、それぞれの土地の〈命脈〉を整える宿命を持つ。
しかし、神子自身も土地の影響を受けて生まれてくる。赤の神子が生まれるのはイッジレリア、青の神子はノルヴェンに生まれることがほとんどだ。
自国の人間だけでは、国は続かない。どれほど敵対していても、この世界の人々はなんらかの形で援助し合わなければ生きていくことができないのだ。
だから古来より、国の垣根を越えて神子を交換し合う慣習があった。
そうした理由でイッジレリアからやってきた赤の神子。それがライラリーネ・イオネルだった。
彼女の名前はよく知っていた。
イッジレリア国の中でも飛び抜けて優秀な、異端の神子姫。
当時わずか十三歳。神子が成人する前に他国へ派遣されることも異例中の異例だ。
抜擢されたと言えば聞こえはいいが、要は国の継承争いから体よく追い出されたのだろう。
そうまでして自国に残したくない娘。彼女の出自は広く知られており、平民出身だと揶揄する者も少なくはなかった。
当時のアーシュアルトは、彼女を疎ましく思っていた。
同じ王族という立場でありながら、彼女とアーシュアルトはまったく違う。
王家の血が流れていても魔力を持たない役立たずだった自分と、優秀すぎて王家に求められた平民の彼女。
もちろん、その溢れんばかりの才能のせいで危うい立場に立たされていることもわかっていたが、アーシュアルトにとってライラはあまりに眩しく、近寄りがたい人物だった。
彼女がノルヴェンに来て一年くらいは、遠巻きに様子を見ているのみだった。
当時のアーシュアルトはまだ辺境領を任されてもおらず、王都で燻っていた。それなりに武術の才能はあったから軍人見習いとして当たり障りなく暮らしていたが、それだけだ。最低限の役割を果たす以上のことはせず、目立たないように生きていた。
そんな中、どうしても目に入る鮮やかな赤。出くわすたびに、つい目で追ってしまったのは事実だ。それでも、その頃のアーシュアルトにとってそれ以上の存在ではなかった。
彼女と話す気になったのは、本当にたまたまだ。
ある日、城内を散策していた彼女とばったり出くわした。
――その日、アーシュアルトはごく簡素な装束しか身につけておらず、一般の兵卒と間違えられてもおかしくないような姿だった。
普通の貴族の娘なら見なかったことにしてそそくさと立ち去るか、当たり障りのない挨拶を交わす程度だ。
しかし彼女はアーシュアルトを見て、にっこりと微笑んだ。
アーシュアルトは戸惑った。子供という生き物は――特にそれが姫君ならなおさら――アーシュアルトの顔を見ただけで緊張して震えるか、あるいはどの女神からも祝福を授からなかった忌まわしい存在だと眉をひそめるかのいずれかだ。
けれどもライラはそんなそぶりを見せず、のほほんとした表情をしていたのだ。
その時の会話は一言一句覚えている。
彼女は今まで会ったどの神子とも違って、気高くも、儚くも、神々しくもなかった。
イッジレリアの神子といえばジャラジャラと金で飾り立てたけばけばしい衣装を好む印象があったが、彼女は違った。
品がいい、とも少し違う。必要最低限の装飾を施した、地味で質素な赤い神子服がよく似合っていた。
(平民出身の神子姫か……確かにこれは、戸惑う貴族も多いだろう)
神子らしさと貴族らしさと平民らしさ、それが絶妙なバランスで積み上げられた奇妙な子供。王族でありながら王族になりきれなかったアーシュアルトとも違う、不思議な存在。
ゆえに聞いたのだ。
「どうして君は、その立場に甘んじている?」
今まで近寄らないようにしていたはずのアーシュアルトが、突然話しかけてきて驚いたのだろう。彼女はゆっくりと瞬きし、小首を傾げる。どうにも緊張感の足りない様子に、アーシュアルトはより苛立ちを覚えた。
「〈火宿り〉になろうと思えばなれる。その才を持ちながら、どうして自国で上を目指さないのか、と聞いている」
「ああ」
すると、聞かれ慣れているのか、彼女はさして興味なさそうに答えた。
「イッジレリアにいるより、こうして外に派遣してもらうほうがいいと思ってるんですよね。だってノルヴェンにいたほうが断然、困っている方の役に立てるでしょう? 赤の祝福を持つ人ならイッジレリアにはいっぱいいますし、いくら強い力があっても私でなきゃいけない理由はないですから」
驚くアーシュアルトを尻目に、彼女はさらに続けた。
「適材適所、って言うんですか? ――爪弾き者にも、それはそれでふさわしい場所があると思うんですよ」
達観した彼女の目は、遠くを見つめたまま。
その目が、とても美しく見えた。
「だから私は、ノルヴェンに派遣してもらってよかったと思ってます。……ほら、こちらだと民と直接お話しできる機会も多いでしょう? 肩の力を抜けるっていうか、貴族社会にこもっているよりもずっと向いてるって思うんです。これはイッジレリアの誰よりも、私に向いたお仕事なのでは? って」
ふふふ、と微笑む彼女は、子供と大人、両方の顔を持っていた。
真っ赤な神子服で美しいカーテシーをしてみせてから、凛と立つ。その姿は平民の身で神子になった自分を卑下するようにも、その上で誇らしく前を向いているようにも見えた。
アーシュアルトは打ちのめされた。
三歳も年下の娘に、たしなめられたような気がした。
自分にはなんの才もないと、ふてくされてばかりの人生だった。立ち向かうことを諦めた者にふさわしい、くだらない一生をただただ消耗して生きるのだと。
軍人になったのも、自身を鍛えているのも、国を守るためというのは建前だ。アーシュアルトはその道しか選べなかったからにすぎない。
それをこの娘は、自分の立場を受け入れた上で誇らしく生きていこうとしている。
自分よりも何歩も先――ずっとずっと進んだ場所に、彼女は立っていた。
抱いたのは、憧れに近い感情だったと思う。
それから、アーシュアルトは彼女の動向を気にするようになった。
大人びているとはいえ彼女はまだ子供で、しかもイッジレリアの連中にいいように使われ続けている。そんな立場を理解した上で、自分らしく生きようとする――その手助けができればと思ったのだ。
その後、危うい立場だった彼女の護衛に志願した。
王族自ら護衛をするとは、と意見する声もあったが、アーシュアルトは王族でも魔力を持たない半端者。王位継承権を持たぬ身であるため、反対意見は次第に消えていった。
そうして彼女の影となり、三年――
――命を狙われた彼女の身代わりになり、アーシュアルトは右目を失った。
長い回想を打ち切り、アーシュアルトは失われた己の右目にそっと触れた。
この眼が最後に捉えたのが彼女の姿だったのは僥倖だ。この目を失うだけで、自分の生き甲斐を護ることができたのだ。むしろ誇っていい。
その天使が今、アーシュアルトの寝所で眠っている。
奇跡だ。魔力を――青の色彩を一切持たずに生まれたアーシュアルトにとって、ただ一つ、望みのままに手に入れられた宝物。
(これからは、とびっきり幸せにしてやろう)
毎日この子の部屋に花を飾ろう。
外に出るのも好きなはずだ。だから、たくさん二人で出かけよう。
彼女が美味しいと言うものをいくらでも取り寄せよう。
この娘はいろんなものを失いすぎた。これからはたくさん与えられるべきなのだ。それを、アーシュアルト自身が与えてやりたい。彼女の笑顔が見たい。
最初は、憧れだった。
しかし彼女の辛い境遇と、それを笑い飛ばしてみせる強い心。そして会えなかった数年間が、アーシュアルトの中に眠っていた気持ちを育んだ。
その想いは、彼女を見守るうちにゆっくりと形を変えていた。
――そう!
(俺は、彼女を愛している!)
半端者の自分であるが、彼女を想う気持ちは本物だ。
昨夜は募りに募らせた気持ちを爆発させてしまったが、これからだ。ライラのためにしてやりたいことがたくさんある。
熱くなる胸を抑えて、今後のことを考える。
いつまでも浮かれていてはいけない。彼女の処女は頂いたが、アーシュアルトは魔力を持たない辺境の王子だ。功績だけは誰にも負けぬように挙げているが、それだけでは足りない。
ライラは自分の価値に無頓着だが、赤の女神の祝福を持った神子姫がこの国でどれほど渇望されているか。
ぼやぼやしていたら、他の王子や貴族たちに取られてもおかしくないのだ。
(――髪と瞳の色が変わったのは運がよかった)
自爆の首輪が壊れるほど根こそぎ魔力を放出させたことで、彼女の持つ色彩は大きく変化した。
赤目赤髪のままでいるより、他の男たちの目を逸らすことができる。だが、これもいつまでもつか。
(待っていてくれライラ。俺は絶対に、君を手に入れる)
そう決意し、そそくさと寝室を後にする。
向かった先、こちらの様子をハラハラと窺っていたらしい臣下のユスファと目が合った。
ユスファはクリーム色の髪に明るい若草色の瞳を持った青年だ。アーシュアルトの一つ上で、乳兄弟として共に育った。
この辺境領までついてきてアーシュアルトを支えてくれる、言わば右腕だ。
そんな信頼の厚い男に、アーシュアルトははっきり告げた。
「ユスファ」
「はい」
「俺は彼女を妃にする」
「……御意にございます」
それがどれほど難しいことか、ユスファはよく理解している。
いつもなにかと胃が痛い胃が痛いと言っている男だが、有能だ。胸の下に手を置いて軽く頭を下げ、敬意を示す礼をしてはいるが、アーシュアルトにはわかる。あれは胃を押さえているだけだ。
しかし彼の口から「御意」と告げられたのを聞き逃すことなく、アーシュアルトは大きく頷いた。
ユスファは、不可能なことには絶対に「御意」と言わない。
「どうせ俺が寝所に篭もっている間、算段は立てたのだろう?」
「あなた様の情熱を知っていますからね。覚悟はしておりましたとも」
アーシュアルトはユスファの前を横切り、南に面した小さな窓から遠くの空を眺める。
大きな川を挟んで向こう側には乾いた大地が広がっている。
ここは国境の砦。イッジレリアとノルヴェンの境目だ。
その昔は、大きな橋を介して二国にも交流があった。今は睨み合いが続き、国境の門も閉ざされている。イッジレリア軍が現れた時のみ応戦するだけの関係だ。
川のおかげもあって敵国の進軍は阻めているが、ピンと張り詰めた空気が漂っている。
あの乾いた大地の向こうに、ライラはうち捨てられていたのだ。
(お前たちがいらないのであれば、俺がもらってやる。誰よりも――どんな人間よりも、俺が大切に護ってやる)
そのためには、まずは国内だ。
ノルヴェンも大きな問題を抱えている。
この万年凍土の地には、圧倒的に赤の祝福が足りない。
赤の祝福の証である色彩を失った今、彼女が赤の神子たるライラリーネ・イオネルであることを隠すことは容易だろうが、正体が判明したら彼女を欲する者が必ず現れるだろう。
そして悔しいことに、王家に列なる者や有力貴族が彼女を欲した場合、奪い取られる可能性はゼロではない。
「都合がいいことに、ライラから赤の色彩が消えた。今のうちに、事を進める」
アーシュアルトは、行為の最中にライラが魔力を放出し、自爆の首輪を壊すと共に色彩を失った事実を説明した。
「俺が拾ったのは、わずかな力しか持たない末端の神子ライラだ。ライラリーネ・イオネルに傾倒している俺が、彼女に似たライラに惚れ込んで妃とした……と、王都にはそう伝えろ」
「殿下のライラリーネ様への傾倒っぷりは有名ですからね。案外、納得するかもしれませんが――難しいですね」
それは、そうだろう。難しくないはずがない。
どんなに力が弱くとも、赤の神子は赤の神子。いくら色彩を失ったといっても、彼女の祝福が完全に消えたわけではなさそうだ。
(赤の神子が俺の妃になることで別の面倒事が生まれかねないが、それをどうにかするのが俺の仕事だ。健康で文化的かつ彼女が萎縮しないような庶民派ののんびり生活を約束すると入念に伝えよう。そうすれば長いものには巻かれろが口癖だった彼女はきっと俺に巻かれてくれるはず)
侮るなかれ。アーシュアルトは誰よりもライラの性格、思考を熟知しているつもりだ。
(いや、しかしだな。いくらライラが庶民派であったとしても、俺自身が彼女を満足させたい)
……思考するうちに別の問題が湧いてきた。
仕方がない。彼女がイッジレリアへ戻ってから、来る日も来る日も彼女のことだけを考えて生きてきたのだ。
彼の膝の上に乗せられて一回。
体力と精神の限界で崩れ落ち、覚えているのはそこまで。
おそらくその後も、彼は何度も私を蹂躙した。
結果、私はベッドの上の住人となった。
疲労困憊と筋肉痛と高熱で、合計四日。
――ただ、馬鹿みたいに魔力放出を繰り返した副産物か。次に目覚めた時には首に嵌められていた首輪が粉々に壊れてしまっていた。
もちろん、爆発などただの一度も起こらなかった。
◆◇◆
崩れ落ちた女性を、腕の中に抱き込んだ。
(――軽い)
王族でありながら、十分な食事を与えられなかったのだろう。力を入れたら壊れてしまいそうなほど細い身体を抱き締め、アーシュアルトは胸の奥で疼く感情にぐずぐずに揺さぶられていた。
とうとう手に入れた。自分の運命を変えてくれた彼女を。
この日をどれほど夢見たことか。
アーシュアルトは、ノルヴェン王族の異端児だ。魔力を持たず、青の色彩をどこにも宿していない自分が、たぐいまれな祝福をその身に宿す彼女を正規の方法で娶ることなど不可能だった。
それでも諦めきれず、国境となるこの辺境領でイッジレリア国を見張り続け、とうとう――この手に幸運が舞い込んだ。
(ああ、ライラ! ライラリーネ・イオネル)
その名を心の中で呼ぶだけで、胸が熱くなる。
あまりにも、素晴らしい時間だった。
湧き出る愛情の赴くまま、アーシュアルトは彼女の髪を梳かす。
少し毛先の傷んだ細い髪。ふわふわとクセがある髪をくるくると指に巻きつける。そうして束を掬い上げ、薄い唇でキスを落とした。
本当に、どんな色彩でもライラは美しい。
(――まさか魔力放出が、こんな効果までもたらすとは)
ライラリーネ・イオネルといえばイッジレリアの至宝。
髪と瞳の両方に真紅の祝福を宿す、赤の女神の愛し子だ。
しかし自爆の首輪によって強制的に魔力を引き出されたせいか、はたまたアーシュアルトの特異体質のせいか――
身体を繋げている最中、彼女がみるみるうちに赤い色彩を失っていったのを、アーシュアルトはこの目で見ていたのだ。
ライラ本人は気づいただろうか。イッジレリアの至宝を象徴する鮮やかな赤は、もうどこにもない。浅い灰色の髪が、わずかに赤みがかかる程度。瞳も、すでに赤ではなかったはずだ。
長い長い夜を越えて、彼女は女神の祝福を失った。
――正しくは、アーシュアルトの手によって奪われたのだろう。
アーシュアルトは、特異体質である。
祝福、と呼びたくはないが、アーシュアルトにもこの世界で唯一無二の大神の祝福がある。
王と兄弟たちしか知らない極秘情報だ。アーシュアルトが持つ黒の色彩は大神に授けられたもの。光と闇の大神の、闇の側面を授けられたのだった。
結果。どんな魔力も通じない、『全ての魔法を吸収する』特別な性質がアーシュアルトにはあった。
といっても吸収するだけで、自分自身が魔力を使えるようになるわけではないのだが。
(かつてはこんな自分を恨みもしたが……)
今は違う。この力のおかげで彼女の命を救い、手に入れられるのだから。
(色彩まで失わせてしまったのは想定外だが、逆に都合がいい、か)
アーシュアルトはわずかに口の端を上げてから、そっと彼女の頬に手を触れた。
長年――そう、ずっとだ。彼女が人質としてノルヴェン王国にいた時から、ずっと彼女のことを目で追っていた。
貴族にとって、処女は絶対だ。彼女の初めては確かにアーシュアルトが頂いたのだから、これで誰にも奪われまい。同族に掻っ攫われないよう、迅速に彼女を抱いた甲斐があった。ああ、ライラは素晴らしかった!
(感じるたびに俺の身体にしがみついてきて、そのたびに彼女の中はきゅうきゅう締まる。穿つたびに全身が喜びに震え、俺も負けじと焦らすように擦ると――ああ! 彼女が潤んだ目で見上げてきて、俺の胸に頬ずりをするんだ。以前よりもずっと大人になった彼女は、女性らしい色気が滲んでいた。俺はまるで吸い寄せられるように夢中になって――)
はあ、と甘い息を吐く。
(ライラリーネ・イオネル。絶対に手が届かないと思っていた彼女が俺のところに落ちてきてくれるなんて。大神は俺の味方をしたのだな。あれほど可憐であれほど力を持った神子姫を刈り取ろうなど、イッジレリアの連中を全員斬り殺してやりたいくらいだがまあいい。彼女を俺対策として戦場に出してくれたおかげで、彼女も助けられ、俺も彼女を手に入れられた。万事が、俺のために動いているように感じる。ああ、ライラ! 俺の天使!!)
――アーシュアルト・サヴィラ・ノルヴェン。
常に寡黙で怒りを秘めたように強面の彼は、内心では驚くほど雄弁だった。
(俺のライラを――こんなに麗しく健気な女性を冤罪で処刑しようなど。おのれイッジレリア王家。許してなるものか)
イッジレリアで大きな政変があった。内情はわからないが、先の国主〈火宿り〉が倒れ、イオネル家の長子カッシム・イオネルが新たな〈火宿り〉となった。
本来であれば〈火宿り〉に選ばれるべきはライラ――だが、二百年もの間イオネル家が支配するイッジレリアにおいて、宗教国家としての法など、とっくに形骸化している。
どれだけ女神の祝福に恵まれていようとイオネル家の血族以外の人間が〈火宿り〉になることはあってはならない、という反対意見によって、彼女の即位は難しいとされていた。となると血筋、実力、人気ともバランスのとれた第五王子セイランが最有力候補かと思われていたが、今回の政変――
(第五王子の不在時を狙ったのだろうな)
カッシムにとって、本来の〈火宿り〉の条件を満たすライラと、最有力候補であるセイランは目の上のたんこぶだったのだろう。そこでセイランが他国へ外交に出ている間にライラを捕らえ、先代〈火宿り〉を弑逆。その罪をライラに着せ、自らが国主となった――といったところか。
もともとイッジレリアはきな臭いところがあった。政変などいつ起こってもおかしくなかったが、よりによってライラを巻き込んだ。アーシュアルトはそれが許せなかった。
彼女が自爆の首輪をつけられ、戦場に放り出されたのはある意味、僥倖だったが。
それ以外の手段で処刑されていたら、助けることは叶わなかった。
想像するだけで腹の底からどす黒い感情が湧き出しそうになり、心の奥にぐっと押し込める。
彼女は助かったのだ。この腕の中にいる。ライラがライラのまま、アーシュアルトのもとに堕ちてきてくれた。今は、その喜びを噛み締めたい。
先ほどもそうだ。魔力が溢れそうになった時、彼女は自らの命よりアーシュアルトの身を心配してくれた。
自分を攫った敵国の王子を相手に、なんといじらしいことか。
(昔から変わっていないな)
彼女は彼女の価値観で生きている。
身分や能力など関係ない――そう主張し、凜と立つ彼女に憧れた。
――八年前。イッジレリア国との国境で睨み合いが始まる前のことだ。
かの国とノルヴェン王国の間では、それぞれ赤の女神の祝福を賜った赤の神子と、青の女神の祝福を賜った青の神子を派遣し合う――言い方を変えれば、人質を交換し合う慣習があった。
しかし、それは必要なことだった。
この世界は火・水・風・土、四つの属性を司る女神によって支えられている。
女神の祝福は〈火脈〉〈水脈〉〈地脈〉〈風脈〉と呼ばれる四つの〈命脈〉によって、広大な大地の隅々まで巡るものだ。
だが、その力は均等に行きわたるわけではない。赤の女神に愛されたイッジレリアなら〈火脈〉、青の女神に愛されたノルヴェンならば〈水脈〉といったように、それぞれの女神から祝福を受けた属性が強く作用する。
放っておけばイッジレリアは砂漠化が進み、ノルヴェンは凍土が広がってしまう。
それを防ぐためには相反する属性を活性化させ、〈命脈〉のバランスを整えなければならない。
〈命脈〉に干渉できるのは、強い祝福を持つ者のみ。その者は神子と呼ばれ、それぞれの土地の〈命脈〉を整える宿命を持つ。
しかし、神子自身も土地の影響を受けて生まれてくる。赤の神子が生まれるのはイッジレリア、青の神子はノルヴェンに生まれることがほとんどだ。
自国の人間だけでは、国は続かない。どれほど敵対していても、この世界の人々はなんらかの形で援助し合わなければ生きていくことができないのだ。
だから古来より、国の垣根を越えて神子を交換し合う慣習があった。
そうした理由でイッジレリアからやってきた赤の神子。それがライラリーネ・イオネルだった。
彼女の名前はよく知っていた。
イッジレリア国の中でも飛び抜けて優秀な、異端の神子姫。
当時わずか十三歳。神子が成人する前に他国へ派遣されることも異例中の異例だ。
抜擢されたと言えば聞こえはいいが、要は国の継承争いから体よく追い出されたのだろう。
そうまでして自国に残したくない娘。彼女の出自は広く知られており、平民出身だと揶揄する者も少なくはなかった。
当時のアーシュアルトは、彼女を疎ましく思っていた。
同じ王族という立場でありながら、彼女とアーシュアルトはまったく違う。
王家の血が流れていても魔力を持たない役立たずだった自分と、優秀すぎて王家に求められた平民の彼女。
もちろん、その溢れんばかりの才能のせいで危うい立場に立たされていることもわかっていたが、アーシュアルトにとってライラはあまりに眩しく、近寄りがたい人物だった。
彼女がノルヴェンに来て一年くらいは、遠巻きに様子を見ているのみだった。
当時のアーシュアルトはまだ辺境領を任されてもおらず、王都で燻っていた。それなりに武術の才能はあったから軍人見習いとして当たり障りなく暮らしていたが、それだけだ。最低限の役割を果たす以上のことはせず、目立たないように生きていた。
そんな中、どうしても目に入る鮮やかな赤。出くわすたびに、つい目で追ってしまったのは事実だ。それでも、その頃のアーシュアルトにとってそれ以上の存在ではなかった。
彼女と話す気になったのは、本当にたまたまだ。
ある日、城内を散策していた彼女とばったり出くわした。
――その日、アーシュアルトはごく簡素な装束しか身につけておらず、一般の兵卒と間違えられてもおかしくないような姿だった。
普通の貴族の娘なら見なかったことにしてそそくさと立ち去るか、当たり障りのない挨拶を交わす程度だ。
しかし彼女はアーシュアルトを見て、にっこりと微笑んだ。
アーシュアルトは戸惑った。子供という生き物は――特にそれが姫君ならなおさら――アーシュアルトの顔を見ただけで緊張して震えるか、あるいはどの女神からも祝福を授からなかった忌まわしい存在だと眉をひそめるかのいずれかだ。
けれどもライラはそんなそぶりを見せず、のほほんとした表情をしていたのだ。
その時の会話は一言一句覚えている。
彼女は今まで会ったどの神子とも違って、気高くも、儚くも、神々しくもなかった。
イッジレリアの神子といえばジャラジャラと金で飾り立てたけばけばしい衣装を好む印象があったが、彼女は違った。
品がいい、とも少し違う。必要最低限の装飾を施した、地味で質素な赤い神子服がよく似合っていた。
(平民出身の神子姫か……確かにこれは、戸惑う貴族も多いだろう)
神子らしさと貴族らしさと平民らしさ、それが絶妙なバランスで積み上げられた奇妙な子供。王族でありながら王族になりきれなかったアーシュアルトとも違う、不思議な存在。
ゆえに聞いたのだ。
「どうして君は、その立場に甘んじている?」
今まで近寄らないようにしていたはずのアーシュアルトが、突然話しかけてきて驚いたのだろう。彼女はゆっくりと瞬きし、小首を傾げる。どうにも緊張感の足りない様子に、アーシュアルトはより苛立ちを覚えた。
「〈火宿り〉になろうと思えばなれる。その才を持ちながら、どうして自国で上を目指さないのか、と聞いている」
「ああ」
すると、聞かれ慣れているのか、彼女はさして興味なさそうに答えた。
「イッジレリアにいるより、こうして外に派遣してもらうほうがいいと思ってるんですよね。だってノルヴェンにいたほうが断然、困っている方の役に立てるでしょう? 赤の祝福を持つ人ならイッジレリアにはいっぱいいますし、いくら強い力があっても私でなきゃいけない理由はないですから」
驚くアーシュアルトを尻目に、彼女はさらに続けた。
「適材適所、って言うんですか? ――爪弾き者にも、それはそれでふさわしい場所があると思うんですよ」
達観した彼女の目は、遠くを見つめたまま。
その目が、とても美しく見えた。
「だから私は、ノルヴェンに派遣してもらってよかったと思ってます。……ほら、こちらだと民と直接お話しできる機会も多いでしょう? 肩の力を抜けるっていうか、貴族社会にこもっているよりもずっと向いてるって思うんです。これはイッジレリアの誰よりも、私に向いたお仕事なのでは? って」
ふふふ、と微笑む彼女は、子供と大人、両方の顔を持っていた。
真っ赤な神子服で美しいカーテシーをしてみせてから、凛と立つ。その姿は平民の身で神子になった自分を卑下するようにも、その上で誇らしく前を向いているようにも見えた。
アーシュアルトは打ちのめされた。
三歳も年下の娘に、たしなめられたような気がした。
自分にはなんの才もないと、ふてくされてばかりの人生だった。立ち向かうことを諦めた者にふさわしい、くだらない一生をただただ消耗して生きるのだと。
軍人になったのも、自身を鍛えているのも、国を守るためというのは建前だ。アーシュアルトはその道しか選べなかったからにすぎない。
それをこの娘は、自分の立場を受け入れた上で誇らしく生きていこうとしている。
自分よりも何歩も先――ずっとずっと進んだ場所に、彼女は立っていた。
抱いたのは、憧れに近い感情だったと思う。
それから、アーシュアルトは彼女の動向を気にするようになった。
大人びているとはいえ彼女はまだ子供で、しかもイッジレリアの連中にいいように使われ続けている。そんな立場を理解した上で、自分らしく生きようとする――その手助けができればと思ったのだ。
その後、危うい立場だった彼女の護衛に志願した。
王族自ら護衛をするとは、と意見する声もあったが、アーシュアルトは王族でも魔力を持たない半端者。王位継承権を持たぬ身であるため、反対意見は次第に消えていった。
そうして彼女の影となり、三年――
――命を狙われた彼女の身代わりになり、アーシュアルトは右目を失った。
長い回想を打ち切り、アーシュアルトは失われた己の右目にそっと触れた。
この眼が最後に捉えたのが彼女の姿だったのは僥倖だ。この目を失うだけで、自分の生き甲斐を護ることができたのだ。むしろ誇っていい。
その天使が今、アーシュアルトの寝所で眠っている。
奇跡だ。魔力を――青の色彩を一切持たずに生まれたアーシュアルトにとって、ただ一つ、望みのままに手に入れられた宝物。
(これからは、とびっきり幸せにしてやろう)
毎日この子の部屋に花を飾ろう。
外に出るのも好きなはずだ。だから、たくさん二人で出かけよう。
彼女が美味しいと言うものをいくらでも取り寄せよう。
この娘はいろんなものを失いすぎた。これからはたくさん与えられるべきなのだ。それを、アーシュアルト自身が与えてやりたい。彼女の笑顔が見たい。
最初は、憧れだった。
しかし彼女の辛い境遇と、それを笑い飛ばしてみせる強い心。そして会えなかった数年間が、アーシュアルトの中に眠っていた気持ちを育んだ。
その想いは、彼女を見守るうちにゆっくりと形を変えていた。
――そう!
(俺は、彼女を愛している!)
半端者の自分であるが、彼女を想う気持ちは本物だ。
昨夜は募りに募らせた気持ちを爆発させてしまったが、これからだ。ライラのためにしてやりたいことがたくさんある。
熱くなる胸を抑えて、今後のことを考える。
いつまでも浮かれていてはいけない。彼女の処女は頂いたが、アーシュアルトは魔力を持たない辺境の王子だ。功績だけは誰にも負けぬように挙げているが、それだけでは足りない。
ライラは自分の価値に無頓着だが、赤の女神の祝福を持った神子姫がこの国でどれほど渇望されているか。
ぼやぼやしていたら、他の王子や貴族たちに取られてもおかしくないのだ。
(――髪と瞳の色が変わったのは運がよかった)
自爆の首輪が壊れるほど根こそぎ魔力を放出させたことで、彼女の持つ色彩は大きく変化した。
赤目赤髪のままでいるより、他の男たちの目を逸らすことができる。だが、これもいつまでもつか。
(待っていてくれライラ。俺は絶対に、君を手に入れる)
そう決意し、そそくさと寝室を後にする。
向かった先、こちらの様子をハラハラと窺っていたらしい臣下のユスファと目が合った。
ユスファはクリーム色の髪に明るい若草色の瞳を持った青年だ。アーシュアルトの一つ上で、乳兄弟として共に育った。
この辺境領までついてきてアーシュアルトを支えてくれる、言わば右腕だ。
そんな信頼の厚い男に、アーシュアルトははっきり告げた。
「ユスファ」
「はい」
「俺は彼女を妃にする」
「……御意にございます」
それがどれほど難しいことか、ユスファはよく理解している。
いつもなにかと胃が痛い胃が痛いと言っている男だが、有能だ。胸の下に手を置いて軽く頭を下げ、敬意を示す礼をしてはいるが、アーシュアルトにはわかる。あれは胃を押さえているだけだ。
しかし彼の口から「御意」と告げられたのを聞き逃すことなく、アーシュアルトは大きく頷いた。
ユスファは、不可能なことには絶対に「御意」と言わない。
「どうせ俺が寝所に篭もっている間、算段は立てたのだろう?」
「あなた様の情熱を知っていますからね。覚悟はしておりましたとも」
アーシュアルトはユスファの前を横切り、南に面した小さな窓から遠くの空を眺める。
大きな川を挟んで向こう側には乾いた大地が広がっている。
ここは国境の砦。イッジレリアとノルヴェンの境目だ。
その昔は、大きな橋を介して二国にも交流があった。今は睨み合いが続き、国境の門も閉ざされている。イッジレリア軍が現れた時のみ応戦するだけの関係だ。
川のおかげもあって敵国の進軍は阻めているが、ピンと張り詰めた空気が漂っている。
あの乾いた大地の向こうに、ライラはうち捨てられていたのだ。
(お前たちがいらないのであれば、俺がもらってやる。誰よりも――どんな人間よりも、俺が大切に護ってやる)
そのためには、まずは国内だ。
ノルヴェンも大きな問題を抱えている。
この万年凍土の地には、圧倒的に赤の祝福が足りない。
赤の祝福の証である色彩を失った今、彼女が赤の神子たるライラリーネ・イオネルであることを隠すことは容易だろうが、正体が判明したら彼女を欲する者が必ず現れるだろう。
そして悔しいことに、王家に列なる者や有力貴族が彼女を欲した場合、奪い取られる可能性はゼロではない。
「都合がいいことに、ライラから赤の色彩が消えた。今のうちに、事を進める」
アーシュアルトは、行為の最中にライラが魔力を放出し、自爆の首輪を壊すと共に色彩を失った事実を説明した。
「俺が拾ったのは、わずかな力しか持たない末端の神子ライラだ。ライラリーネ・イオネルに傾倒している俺が、彼女に似たライラに惚れ込んで妃とした……と、王都にはそう伝えろ」
「殿下のライラリーネ様への傾倒っぷりは有名ですからね。案外、納得するかもしれませんが――難しいですね」
それは、そうだろう。難しくないはずがない。
どんなに力が弱くとも、赤の神子は赤の神子。いくら色彩を失ったといっても、彼女の祝福が完全に消えたわけではなさそうだ。
(赤の神子が俺の妃になることで別の面倒事が生まれかねないが、それをどうにかするのが俺の仕事だ。健康で文化的かつ彼女が萎縮しないような庶民派ののんびり生活を約束すると入念に伝えよう。そうすれば長いものには巻かれろが口癖だった彼女はきっと俺に巻かれてくれるはず)
侮るなかれ。アーシュアルトは誰よりもライラの性格、思考を熟知しているつもりだ。
(いや、しかしだな。いくらライラが庶民派であったとしても、俺自身が彼女を満足させたい)
……思考するうちに別の問題が湧いてきた。
仕方がない。彼女がイッジレリアへ戻ってから、来る日も来る日も彼女のことだけを考えて生きてきたのだ。
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