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第二章 過去との対峙編
55.似ていない姉弟2
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孫林。皓然の姉であり、レディバグの序列第三位。華位道国の出身ではあるが、皓然と同じように、彼女が陰陽術を使うことはほとんど無い。
皓然の場合、使おうと思えば陰陽術を行使することも出来るのだが、純粋な力勝負の方が得意な為、使う機会が少ないのだ。
だが林の場合は使わないのではなく、そもそも陰陽術を習得したことが無い。彼女はただの人間でありながら、皓然以上の馬鹿力の持ち主であり、その類稀なる身体能力だけで、強者揃いのレディバグの序列三位まで上り詰めた、当に規格外の女性なのである。
そんな彼女を一言で表すのであれば、暴れ馬という言葉が適切であろう。それもただの暴れ馬ではなく……。
――強者との死闘を求めてやまない、戦闘狂の暴れ馬である。
「――へぇ?……勇者ってことは、それなりに強いんだよな?アタシと一回殺り合わねぇか?」
「は?」
「まぁアデル程やべぇ気配は感じねぇが、アタシがこれまで出会った人間の中じゃあ、確実に五本の指に入る。アタシはな、てめぇみたいなつえー奴とは必ずタイマン張るって決めてんだよ。
アタシは血が沸騰するみてぇな殺し合いがしてぇ。……だけどこの世界にいるのは、アタシより弱い奴らがほとんどで萎えるんだよ。だから運良く、アタシと同等以上の力を持つ奴が現れたら、アタシは絶対にソイツを逃がさねぇ。勿体ないからな」
「……で?」
「あ゛?」
ユウタロウから想定外の返答をされた林は思わず、ドスの利いた声で尋ね返してしまう。ユウタロウを睨み据える相好は当に鬼のようだが、それに怯む様なユウタロウではなく、彼はケロッとした様子で続けた。
「悪いが、俺はこれでもそれなりに忙しい。お前が強いのは分かるが、呑気にタイマン張ってる余裕ねぇんだよ。他当たってくれ」
「萎えること言ってんじゃねぇよ……勇者ならもっとガツンと来いよガツンと」
「おいアデル。何でコイツ呼んだんだよ。クソ面倒なんだが」
「あ゛!?てめぇ今何つった!?……殺すぞっ」
ユウタロウに指されたことが癪に障ったのか、真面に取り合って貰えず腹が立ったのか。恐らくその両方だろう。林は烈火の如く憤慨し、その声を荒げた。
身震いする程の気迫を前に、思わずチサトはユウタロウの腕にぎゅっとしがみついてしまう。チサトは微かに震えていたが、林を見つめる瞳はキリっと鋭く、ユウタロウを守ろうとする意志が犇々と感じられる。
そんな彼女に助け舟を出すように、アデルは林に苦言を呈する。
「林。ユウタロウ殿を困らせるでない。戦いたいのであれば、今度我が相手をしてやるのだ」
「今度っていつだよ。てめぇこの前も同じこと言って逃げたじゃねぇかよ。言っとくけどな、その今度がアタシにとっちゃ今なんだよ!」
「っ!そうであったか……それはすまないことをしたのだ。申し訳ない、林」
アデルは本気でその会話を覚えていなかったのか、申し訳なさそうに眉尻を下げた。アデルに子犬の様な眼差しを向けられてしまった林は一瞬たじろぐが、そっぽを向いてそれを隠す。
「ふんっ……そもそもてめぇが学園なんかに潜入したせいで、会う機会が減っちまったんだろうが。……どうせ今回呼びつけたのも、アタシにやって欲しいことがあるからなんだろ?人使いが荒いったらありゃしねぇぜ」
「本当にすまぬ、林……。林は頼りになる故、つい甘えてしまい……」
「ふ、ふんっ……しょ、しょうがねぇなぁ……あ、アタシはどう振舞っても頼りになっちまうみたいだし?これでもアタシは寛大だからな!……ふん、許してやってもいいぜ」
(うわチョロ)
刹那の間に態度を一変させた林を前に、ユウタロウは思わずそんな心の声を零した。
レディバグの長であるアデルは、本来林にとって敬うべき存在であるが、そんなアデルが下手に出てくれるのが心地いいのかもしれない。ユウタロウはそんな推測を立てるが、後にそれが全くの的外れであることを思い知らされる。
「ありがとうなのだ、林。やはり林は優しいのだ…………っ!そうである。この場がお開きとなれば、その時は我が林の相手をしようではないか」
「っ!……本当だろうな?」
林は疑わしそうな表情で尋ねたが、その声音からは隠しきれない期待と喜びが溢れ出ている。
約束を交わす為、アデルは小指を立てた状態で右手を差し出すと、コテンと首を傾けて見せる。
「うむ。約束なのだ。……我の相手をしてくれるか?」
「っっっ……お、おうよ!この孫林様が直々にてめぇの相手をしてやるんだっ。感謝するだなっ」
否が応でも熱くなってしまう頬を誤魔化すように、林は大声を上げ、差し出された小指を右手で掴んだ。本来、小指と小指を絡ませることで約束の証とする行為なのだが、林はそんな細かいことに気を配れる性格をしていなかった。
「っ……」
林に小指を掴まれた刹那、アデルは僅かに顔を顰めた。そのままアデルは右手を隠すように左手で覆ってしまい、林たちはキョトンと首を傾げてしまう。
「あ?どうした?」
「…………。何でも無いのだ」
「てめぇ嘘つくの下手なんだから無理すんなや。何だよ?」
隠した右手を恐る恐る覗き込んだ後、アデルは引く程の冷や汗を顔中に浮かべ、信じられない程目を泳がせた。アデルが嘘をついているのは誰の目にも明らかで、林は呆れ混じりに問い詰めた。
自身の力量では、これ以上隠し通すことは不可能だと悟ったのか、アデルは隠していた右手をそーっと、気まずそうに皆の眼下に晒す。次の瞬間、彼らは理解しがたい光景を前に、目を点にすることとなった。
「……今ので、小指の骨が折れた」
「「ぶっ……」」
衝撃のあまり全員が吹き出し、林だけが茫然自失と佇んだ。紅茶を口に含んでいたコノハは、気管に液体が入ってしまったのか、ゴホゴホと激しく咳き込んでおり、近くにいたメイリーンが必死に背中を摩ってやっていた。
アデルの小指の関節はあり得ない方向に曲がっていて、痛々しく腫れあがり、青紫に変色していた。当に、骨折としか言いようが無い状態である。
そのあまりにもな痛々しさを前に、ティンベルは顔を真っ青にし、慌てふためきながらアデルを見上げた。
「折れたって……だ、大丈夫なのですかっ?アデル兄様っ」
「あはっ、あははははははははははははっ!リンリン馬鹿力すぎぃ~……超受けるんだけどっ」
「な、な、な、な……」
全員が吹き出した際、ほとんどは衝撃で吹き出していたのだが、リオだけは可笑しさのあまり能天気に爆笑していたようだ。もちろんそれは、アデルの回復能力を知っているからこその反応ではあるのだが、それにしたって不謹慎にも程がある。
リオが腹を抱えて哄笑する中、困惑が抜けきらない林は口を半開きにしながら、言葉にならない声を漏らしていた。
そんな地獄絵図の中、ユウタロウの疑問の声が地味に鳴る。
「ってか、さっきのあれ何だよ」
この世界に指切りという文化は無い。にも拘らずアデルが指切りをしようとしたのは、異世界の記憶を持つリオから教わっていたからだ。
だがレディバグ以外の面々はそもそも、リオが前世、異世界で生きていた記憶を所持していることを知らない。
その為ユウタロウは、先の行為が一体何だったのか尋ねたのだが、この喧騒の中で答えられる者はいなかった。
「指切りげんまんで骨折る人初めて見たんだけどっ……あははははははははっ!」
「リオ様笑い過ぎです」
骨が折れたアデル。そんなアデルを心配する者たち。咳き込むコノハ。笑いが止まらないリオ。状況を理解しきれていないユウタロウたち。自身の仕出かしてしまったことに対する動揺で、顔面蒼白の林。
……当に地獄絵図、阿鼻叫喚である。
「アデルてめぇっ……こっ、この程度で骨折してんじゃねぇよっ!もっと日頃から骨鍛えとけっ!!」
「林、落ち着くのだ。指はもう治ったのだ。安心して良い」
「うっ……」
加害者にあるまじき暴言を吐いた林であったが、それは彼女の動揺の表れであり、本心では誰よりも彼の身を案じていた。林が厄介な性格をしていることはアデルも理解しているので、彼は林を気遣い、彼女を落ち着かせようと優しく声をかけた。
「もうリンリンったらパニクリ過ぎよ。骨鍛えるってどーゆー意味よ?訳分からな過ぎて……ぶっ、くくくっ……ごめんツボった……あハハッ!」
「ですからリオ様、拳骨の数が増えてしまわれますからその辺に……」
「う、うぅぅ……」
リオに笑われすぎたせいで、若干涙目になっている林の瞳に、先の威厳や気迫はどこにも無かった。竦み上がってしまう程の、獣のようだった眼差しがへにょりと力なく項垂れる姿は、こちらが罪悪感を抱いてしまう程。
そんな彼女を励ます為アデルは、子供をあやす親のような優しい笑みを浮かべる。
「林。我はすぐに傷が治る故、我に対しては力を加減する必要は無いと言ったのは、我自身である。故に、林が気にする必要など無い。……それに、模擬戦をする際は互いに傷つけあっているではないか」
「そ、んなの分かってんだよ」
「そうであろうな。林は我の何倍も利発である。ならば分かるであろう?我は大丈夫である。何の問題も無い。……突然のことで驚かせてしまったな。すまない」
「っ……」
脳が溶けてしまいそうな程優しい声で囁かれ、その大きな手で頭を撫でられた林は、一瞬にして顔を真っ赤に染め上げた。普段の林であれば、照れ隠しでパンチの一つや二つかますのだが、今はそんな気力すら無いのか、アデルの身体に新たな負傷が加わることは無かった。
もう二度と自らの不手際でアデルを傷つけまいと、林は恥ずかしさで暴れたい思いをグッと堪えていた。両拳を力強く握り締め、グッと唇を噛みしめながら、プルプルと震える林だったが、あっさりと我慢の限界が来てしまう。
「って、いつまで頭撫でてやがるっ」
シャっと、まるで猫のようにアデルの右手を引っ掻いた林。
アデルの手の甲には引っ掻き傷が出来ているが、それも刹那の内に治癒された。「すまぬすまぬ」と陳謝しながら、アデルは破顔一笑し、そんな彼の屈託のない笑みを一身に受ける林は、悔し気に頬を染めている。
『なぁ』
『ん?』
微笑ましい二人の様子をジト目で眺めていたユウタロウは、一瞥もくれることなくリオに声をかけた。ユウタロウが何故か小声だった為、リオも倣うように小声で尋ね返す。
『アイツ、アデルのこと好きだろ』
『うん。アデルん以外はみんな知ってるわよ。本人は隠し通せてると思ってるみたいだけど』
『レディバグにとっては周知の事実です。林様にお会いしたことの無い構成員の間にも、噂が広まっているぐらいですから』
リオの答えにつけ足すようにして、ナギカは補足情報を伝えた。彼らが小声で会話しているのは、林が知れば羞恥で悶えるであろうこの真実を、彼女らに聞かれないようにする為の処置である。
『アデルのあれは天然なんだよな?』
『狙ってないから怖いのよ、アデルんは。天然程恐ろしいものってないわよね。まぁ俺、養殖より断然天然派だけど』
『何言ってんだコイツ』
『リオ様の仰ることの半分は理解不能ですので、無視されて構いません』
アデルの人タラシっぷりは今に始まったことでは無く、それに惚れ込んでしまった被害者は多い。そして、平然と解説しているリオもナギカも、その被害者の一人である。
ユウタロウたちがそんな会話をしているとは露程も知らない林は、何とか落ち着きを取り戻すと、ギルドニスの寝込んでいるソファに目をつけた。
「――あ゛?この変態またぶっ倒れたのかよ」
そう言うと、林は何の躊躇いも無しにギルドニスを挟んで、そのソファにズカっと腰掛けた。「ぐっ……」というギルドニスの呻き声が漏れるが、林は素知らぬ顔である。
その状態で林が足を組むと、ミニスカートの隙間から短めのレギンスがチラッと窺えられた。
足を組み、腕を組み、アデルたちをギロッと鋭い眼光で捉えるその姿は、当に仁王のようである。
「――それで?何の用でこの序列三位――孫林様を呼び出したんだ?」
「林が以前、華位道国の皇帝に話をつけてくれたことがあったであろう?」
「おう」
「その経験を見込んで、一つ頼みがあるのだ」
「?」
「通り魔事件を引き起こした組織の構成員の中に、華位道国の出身と思われる男がいたのだ。其奴は変装をしていた上、フェイクという偽名を名乗っていてな。林には、其奴の素性を探って欲しいのだ。奴は呪術という特殊な陰陽術の使いてだった故、探しやすいと思うのだ」
フェイク――黄虎紅は、あの仮面の組織の中で唯一、その出生地を断定できている人物であり、そこから組織についての糸口を見つけようとしたアデルの考えは堅実的である。
華位道国の人間で孫林の名前を知らぬ者などいなく、彼女は最強最悪の戦士として印象付けられているので、彼女に尋ねられて法螺を吹くような勇者もいないのだ。
「呪術か……分かった。皇帝なら何か知ってんだろ。直接聞きに行ってくる」
「行動力えげつないな」
情報収集の為にまさか皇帝との面会を決断するとは思わず、ユウタロウは面食らった様子で林に視線を注ぐのだった。
皓然の場合、使おうと思えば陰陽術を行使することも出来るのだが、純粋な力勝負の方が得意な為、使う機会が少ないのだ。
だが林の場合は使わないのではなく、そもそも陰陽術を習得したことが無い。彼女はただの人間でありながら、皓然以上の馬鹿力の持ち主であり、その類稀なる身体能力だけで、強者揃いのレディバグの序列三位まで上り詰めた、当に規格外の女性なのである。
そんな彼女を一言で表すのであれば、暴れ馬という言葉が適切であろう。それもただの暴れ馬ではなく……。
――強者との死闘を求めてやまない、戦闘狂の暴れ馬である。
「――へぇ?……勇者ってことは、それなりに強いんだよな?アタシと一回殺り合わねぇか?」
「は?」
「まぁアデル程やべぇ気配は感じねぇが、アタシがこれまで出会った人間の中じゃあ、確実に五本の指に入る。アタシはな、てめぇみたいなつえー奴とは必ずタイマン張るって決めてんだよ。
アタシは血が沸騰するみてぇな殺し合いがしてぇ。……だけどこの世界にいるのは、アタシより弱い奴らがほとんどで萎えるんだよ。だから運良く、アタシと同等以上の力を持つ奴が現れたら、アタシは絶対にソイツを逃がさねぇ。勿体ないからな」
「……で?」
「あ゛?」
ユウタロウから想定外の返答をされた林は思わず、ドスの利いた声で尋ね返してしまう。ユウタロウを睨み据える相好は当に鬼のようだが、それに怯む様なユウタロウではなく、彼はケロッとした様子で続けた。
「悪いが、俺はこれでもそれなりに忙しい。お前が強いのは分かるが、呑気にタイマン張ってる余裕ねぇんだよ。他当たってくれ」
「萎えること言ってんじゃねぇよ……勇者ならもっとガツンと来いよガツンと」
「おいアデル。何でコイツ呼んだんだよ。クソ面倒なんだが」
「あ゛!?てめぇ今何つった!?……殺すぞっ」
ユウタロウに指されたことが癪に障ったのか、真面に取り合って貰えず腹が立ったのか。恐らくその両方だろう。林は烈火の如く憤慨し、その声を荒げた。
身震いする程の気迫を前に、思わずチサトはユウタロウの腕にぎゅっとしがみついてしまう。チサトは微かに震えていたが、林を見つめる瞳はキリっと鋭く、ユウタロウを守ろうとする意志が犇々と感じられる。
そんな彼女に助け舟を出すように、アデルは林に苦言を呈する。
「林。ユウタロウ殿を困らせるでない。戦いたいのであれば、今度我が相手をしてやるのだ」
「今度っていつだよ。てめぇこの前も同じこと言って逃げたじゃねぇかよ。言っとくけどな、その今度がアタシにとっちゃ今なんだよ!」
「っ!そうであったか……それはすまないことをしたのだ。申し訳ない、林」
アデルは本気でその会話を覚えていなかったのか、申し訳なさそうに眉尻を下げた。アデルに子犬の様な眼差しを向けられてしまった林は一瞬たじろぐが、そっぽを向いてそれを隠す。
「ふんっ……そもそもてめぇが学園なんかに潜入したせいで、会う機会が減っちまったんだろうが。……どうせ今回呼びつけたのも、アタシにやって欲しいことがあるからなんだろ?人使いが荒いったらありゃしねぇぜ」
「本当にすまぬ、林……。林は頼りになる故、つい甘えてしまい……」
「ふ、ふんっ……しょ、しょうがねぇなぁ……あ、アタシはどう振舞っても頼りになっちまうみたいだし?これでもアタシは寛大だからな!……ふん、許してやってもいいぜ」
(うわチョロ)
刹那の間に態度を一変させた林を前に、ユウタロウは思わずそんな心の声を零した。
レディバグの長であるアデルは、本来林にとって敬うべき存在であるが、そんなアデルが下手に出てくれるのが心地いいのかもしれない。ユウタロウはそんな推測を立てるが、後にそれが全くの的外れであることを思い知らされる。
「ありがとうなのだ、林。やはり林は優しいのだ…………っ!そうである。この場がお開きとなれば、その時は我が林の相手をしようではないか」
「っ!……本当だろうな?」
林は疑わしそうな表情で尋ねたが、その声音からは隠しきれない期待と喜びが溢れ出ている。
約束を交わす為、アデルは小指を立てた状態で右手を差し出すと、コテンと首を傾けて見せる。
「うむ。約束なのだ。……我の相手をしてくれるか?」
「っっっ……お、おうよ!この孫林様が直々にてめぇの相手をしてやるんだっ。感謝するだなっ」
否が応でも熱くなってしまう頬を誤魔化すように、林は大声を上げ、差し出された小指を右手で掴んだ。本来、小指と小指を絡ませることで約束の証とする行為なのだが、林はそんな細かいことに気を配れる性格をしていなかった。
「っ……」
林に小指を掴まれた刹那、アデルは僅かに顔を顰めた。そのままアデルは右手を隠すように左手で覆ってしまい、林たちはキョトンと首を傾げてしまう。
「あ?どうした?」
「…………。何でも無いのだ」
「てめぇ嘘つくの下手なんだから無理すんなや。何だよ?」
隠した右手を恐る恐る覗き込んだ後、アデルは引く程の冷や汗を顔中に浮かべ、信じられない程目を泳がせた。アデルが嘘をついているのは誰の目にも明らかで、林は呆れ混じりに問い詰めた。
自身の力量では、これ以上隠し通すことは不可能だと悟ったのか、アデルは隠していた右手をそーっと、気まずそうに皆の眼下に晒す。次の瞬間、彼らは理解しがたい光景を前に、目を点にすることとなった。
「……今ので、小指の骨が折れた」
「「ぶっ……」」
衝撃のあまり全員が吹き出し、林だけが茫然自失と佇んだ。紅茶を口に含んでいたコノハは、気管に液体が入ってしまったのか、ゴホゴホと激しく咳き込んでおり、近くにいたメイリーンが必死に背中を摩ってやっていた。
アデルの小指の関節はあり得ない方向に曲がっていて、痛々しく腫れあがり、青紫に変色していた。当に、骨折としか言いようが無い状態である。
そのあまりにもな痛々しさを前に、ティンベルは顔を真っ青にし、慌てふためきながらアデルを見上げた。
「折れたって……だ、大丈夫なのですかっ?アデル兄様っ」
「あはっ、あははははははははははははっ!リンリン馬鹿力すぎぃ~……超受けるんだけどっ」
「な、な、な、な……」
全員が吹き出した際、ほとんどは衝撃で吹き出していたのだが、リオだけは可笑しさのあまり能天気に爆笑していたようだ。もちろんそれは、アデルの回復能力を知っているからこその反応ではあるのだが、それにしたって不謹慎にも程がある。
リオが腹を抱えて哄笑する中、困惑が抜けきらない林は口を半開きにしながら、言葉にならない声を漏らしていた。
そんな地獄絵図の中、ユウタロウの疑問の声が地味に鳴る。
「ってか、さっきのあれ何だよ」
この世界に指切りという文化は無い。にも拘らずアデルが指切りをしようとしたのは、異世界の記憶を持つリオから教わっていたからだ。
だがレディバグ以外の面々はそもそも、リオが前世、異世界で生きていた記憶を所持していることを知らない。
その為ユウタロウは、先の行為が一体何だったのか尋ねたのだが、この喧騒の中で答えられる者はいなかった。
「指切りげんまんで骨折る人初めて見たんだけどっ……あははははははははっ!」
「リオ様笑い過ぎです」
骨が折れたアデル。そんなアデルを心配する者たち。咳き込むコノハ。笑いが止まらないリオ。状況を理解しきれていないユウタロウたち。自身の仕出かしてしまったことに対する動揺で、顔面蒼白の林。
……当に地獄絵図、阿鼻叫喚である。
「アデルてめぇっ……こっ、この程度で骨折してんじゃねぇよっ!もっと日頃から骨鍛えとけっ!!」
「林、落ち着くのだ。指はもう治ったのだ。安心して良い」
「うっ……」
加害者にあるまじき暴言を吐いた林であったが、それは彼女の動揺の表れであり、本心では誰よりも彼の身を案じていた。林が厄介な性格をしていることはアデルも理解しているので、彼は林を気遣い、彼女を落ち着かせようと優しく声をかけた。
「もうリンリンったらパニクリ過ぎよ。骨鍛えるってどーゆー意味よ?訳分からな過ぎて……ぶっ、くくくっ……ごめんツボった……あハハッ!」
「ですからリオ様、拳骨の数が増えてしまわれますからその辺に……」
「う、うぅぅ……」
リオに笑われすぎたせいで、若干涙目になっている林の瞳に、先の威厳や気迫はどこにも無かった。竦み上がってしまう程の、獣のようだった眼差しがへにょりと力なく項垂れる姿は、こちらが罪悪感を抱いてしまう程。
そんな彼女を励ます為アデルは、子供をあやす親のような優しい笑みを浮かべる。
「林。我はすぐに傷が治る故、我に対しては力を加減する必要は無いと言ったのは、我自身である。故に、林が気にする必要など無い。……それに、模擬戦をする際は互いに傷つけあっているではないか」
「そ、んなの分かってんだよ」
「そうであろうな。林は我の何倍も利発である。ならば分かるであろう?我は大丈夫である。何の問題も無い。……突然のことで驚かせてしまったな。すまない」
「っ……」
脳が溶けてしまいそうな程優しい声で囁かれ、その大きな手で頭を撫でられた林は、一瞬にして顔を真っ赤に染め上げた。普段の林であれば、照れ隠しでパンチの一つや二つかますのだが、今はそんな気力すら無いのか、アデルの身体に新たな負傷が加わることは無かった。
もう二度と自らの不手際でアデルを傷つけまいと、林は恥ずかしさで暴れたい思いをグッと堪えていた。両拳を力強く握り締め、グッと唇を噛みしめながら、プルプルと震える林だったが、あっさりと我慢の限界が来てしまう。
「って、いつまで頭撫でてやがるっ」
シャっと、まるで猫のようにアデルの右手を引っ掻いた林。
アデルの手の甲には引っ掻き傷が出来ているが、それも刹那の内に治癒された。「すまぬすまぬ」と陳謝しながら、アデルは破顔一笑し、そんな彼の屈託のない笑みを一身に受ける林は、悔し気に頬を染めている。
『なぁ』
『ん?』
微笑ましい二人の様子をジト目で眺めていたユウタロウは、一瞥もくれることなくリオに声をかけた。ユウタロウが何故か小声だった為、リオも倣うように小声で尋ね返す。
『アイツ、アデルのこと好きだろ』
『うん。アデルん以外はみんな知ってるわよ。本人は隠し通せてると思ってるみたいだけど』
『レディバグにとっては周知の事実です。林様にお会いしたことの無い構成員の間にも、噂が広まっているぐらいですから』
リオの答えにつけ足すようにして、ナギカは補足情報を伝えた。彼らが小声で会話しているのは、林が知れば羞恥で悶えるであろうこの真実を、彼女らに聞かれないようにする為の処置である。
『アデルのあれは天然なんだよな?』
『狙ってないから怖いのよ、アデルんは。天然程恐ろしいものってないわよね。まぁ俺、養殖より断然天然派だけど』
『何言ってんだコイツ』
『リオ様の仰ることの半分は理解不能ですので、無視されて構いません』
アデルの人タラシっぷりは今に始まったことでは無く、それに惚れ込んでしまった被害者は多い。そして、平然と解説しているリオもナギカも、その被害者の一人である。
ユウタロウたちがそんな会話をしているとは露程も知らない林は、何とか落ち着きを取り戻すと、ギルドニスの寝込んでいるソファに目をつけた。
「――あ゛?この変態またぶっ倒れたのかよ」
そう言うと、林は何の躊躇いも無しにギルドニスを挟んで、そのソファにズカっと腰掛けた。「ぐっ……」というギルドニスの呻き声が漏れるが、林は素知らぬ顔である。
その状態で林が足を組むと、ミニスカートの隙間から短めのレギンスがチラッと窺えられた。
足を組み、腕を組み、アデルたちをギロッと鋭い眼光で捉えるその姿は、当に仁王のようである。
「――それで?何の用でこの序列三位――孫林様を呼び出したんだ?」
「林が以前、華位道国の皇帝に話をつけてくれたことがあったであろう?」
「おう」
「その経験を見込んで、一つ頼みがあるのだ」
「?」
「通り魔事件を引き起こした組織の構成員の中に、華位道国の出身と思われる男がいたのだ。其奴は変装をしていた上、フェイクという偽名を名乗っていてな。林には、其奴の素性を探って欲しいのだ。奴は呪術という特殊な陰陽術の使いてだった故、探しやすいと思うのだ」
フェイク――黄虎紅は、あの仮面の組織の中で唯一、その出生地を断定できている人物であり、そこから組織についての糸口を見つけようとしたアデルの考えは堅実的である。
華位道国の人間で孫林の名前を知らぬ者などいなく、彼女は最強最悪の戦士として印象付けられているので、彼女に尋ねられて法螺を吹くような勇者もいないのだ。
「呪術か……分かった。皇帝なら何か知ってんだろ。直接聞きに行ってくる」
「行動力えげつないな」
情報収集の為にまさか皇帝との面会を決断するとは思わず、ユウタロウは面食らった様子で林に視線を注ぐのだった。
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