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51 はあ? スズキさんが、弁護士?

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 事務所の窓からユーヤが歩き回っているだろう、夏の陽を照り返す、深く黒い山を見上げた。

 

 全てが元通りに、ある部分ではそれまで以上に復活、再興した。

 生涯の伴侶を得、唯一の肉親である弟は高校生活を全うし、娘が生まれ、さらに次の子も懐妊し、収入も地位も、性のパートナーも二人とも復活し、人生の師が二人になり、レナの前途を危うくするものは、誰もいなくなった。

 全てが順風を受け、順調に運んでゆく。

 気掛かりは、ただ一点のみだった。


 

 電話が鳴った。

「毎度ありがとうございます。サイトー木工でございます」

「ミタライ弁護士事務所のミタライと申します。サイトーレナさんは、おられますでしょうか」

「サイトーレナは、わたしですが」

 レナは、電話や営業用には「わたし」を使った。

「小職の依頼人から、貴方に対し、いくつかの要件を伝達するよう指示がありました」

「そういうことでしたら、メールかFAXで・・・」

「小職の依頼人から、わたくしから直接伝達するよう指示を受けておりまして・・・」

 電話の相手の「わたくし」という言葉のイントネーションにどこか聞き覚えがあった。どこで聞いたのだろう。しかし、ミタライなどという、しかも弁護士なんて、知らないし・・・。新手の勧誘か、詐欺だと断定し、

「申し訳ありませんが、そういったお話は十分間に合ってお・・・」

「わたくしの依頼人は二年前まであなたと行動を共にしていた、あなたのよくご存じの人物なのですが・・・」


 

「あのね。あんたのお父さんは二人いるの。

 一人は、でっかいお父さん。強いよ」

「とーと、ちよい?」

「そう。ニコって笑っただけで、悪い人逃げちゃう。それにとっても優しい。

 でもね、お母さんには、弱いんだよ。お父さん、お母さんのこと、大好きなの。お母さんも大好き」

「だいちゅき?」

「そう。だからもっと、自信持ってもいいのにね。ちんちんだって大きいんだからさ」

「ちんちん」

「それは、覚えなくていい。十六年早い」

「ややい」

「でね、これから、もう一人のクマさんのお父さんのこと、聞きに行くの。お母さん、ドキドキ」

「ちんちん。どきどき」

「それ、もう終わり。ナイショの、しー、だよ?」

 この街の夏は、地獄だ。

 レナの住む田舎も暑い。つい先日、日本最高記録を更新したばかりだ。

 だがそれは気温観測用の百葉箱の中の話だ。アスファルトでかためられ、高いビルに囲まれた市街に澱む熱気は全く別だ。臨月を控えている身で、しかも子供連れには、この暑さはなんとも遣る瀬無い。

 近くの駐車場に車を停め、ベビーカーのサンシェードを深くおろし、待ち合わせのコーヒーショップに急いだ。ちょっと歩いただけで、もう汗だくになっていた。

「もうすぐだからね。もう少し、ガマンしてね」

 娘は麦茶のマグを無言でちゅうちゅう吸いながらレナを睨んでいた。

 待ち合わせの時刻よりも五分ほど遅刻した。子供がいると、なかなか思い通りに事が運ばない。

 教えられた住所をナビで辿り、その店の前について、驚いた。

 若干の模様替えはしてあるが、そこは初めてサキさんと会った、あのコーヒーショップだった。間違いない。

 入口はカウベルの鳴るドアに換わって、自動ドアになっていた。ボックス席を隔てる壁もなくなって、華奢なテーブルと高いチェアのおしゃれなカフェになっていた。たった二年前の年月がことさら遠く感じた。

 でも、これなら、お腹の大きいレナでも楽に座れる。

 相手はまだ来ていないようだった。

 それは、二年前と同じだった。でも、今は横に娘がいる。そして、お腹にももう一人の子供がいる。レナは一人ではなかった。

 残念ながら、トオルは休めなかった。義兄に代り、外交を担当するようにミチコさんから指示が出たのだ。彼女にしても、丸一日娘を見てもらうのは無理だ。

 仕方なく連れてきたが、今は、一緒にいてくれるのが心強く感じる。娘の額にガーゼをあてて汗を吸い、ハンカチでぱたぱた自分と娘の顔を扇いでいると、目の前に、スーツ姿の男性がぬっと現れた。

「サイトーレナさんでしょうか」

 自分の目を疑った。

 目の前に立つ初老の紳士は、まぎれもなく、一緒にあの超高級車で銀行やプレイルームを駆け回った運転手のスズキさんだった。

「スズキさん・・・、どうして」

 白髪交じりの短い髪に丁寧に櫛を入れたその紳士は、よろしいですかと声を掛けて席に着いた。

「お電話いたしました、ミタライ法律事務所のミタライでございます。サイトーレナさんで、よろしかったですね」

 紳士はそう言って名刺を差し出した。

 御手洗 一。名刺にはローマ字まであった。hajimeと読むことが出来た。

 しかし、ありえない。

「え? スズキさんでしょ」

「名刺にあります通り、ミタライと申します」

「え、でも・・・、あれ?」

 どこからどう見ても、あの質問されたこと以外一切喋らない謹厳実直な運転手のスズキさんに間違いなかった。

「なんで・・・。やだ・・・スズキさん?」

「・・・ミタライです」

「だって、あれ? スズキさんが、サービスエリアで、お手洗いで・・・」

「お手洗いではなく、御手洗、ミタライと読みます」

 スズキさんは指でテーブルの上の名刺を注した。

 どうしても、スズキさんはスズキさんであることを認めたがらなかった。

「じゃあ、あれでしょ。弟さんか、お兄さんか、いらっしゃいますよね。あの、高級外車の運転手してる・・・」

「ご質問の趣旨がよくわかりかねますが、わたくしはこの道四十年、士業一筋の、ただの弁護士です。わたくしは天涯孤独でございます。妻も子もおりませんし、この歳ですので親はとうに鬼籍に入っております。兄弟も、ございません。小職が依頼人より委嘱された仕事は、あなたに依頼人の希望する要件をお伝えすることです。それ以外にございません」

 やっぱり・・・。スズキさんに間違いない。

 言い方とイントネーションまでそっくり。弁護士と運転手という単語を変えただけではないか。他人の空似などではない。弁護士が運転手をしていたのか、あるいはその逆か、あのスズキさんと同一人物であることは間違いない。

「この地区の弁護士会にも所属しておりますので、ネットなどで確認いただけます」

「おおう。たーたん。おおう」

 娘までが加勢してくれていたが、だんだん、疲れてきた。

 あの、高級外車でレナを運び、二人で夜通し走り回った記憶は今も鮮明に残る。

 それなのに、徹底的に「初めて会った、赤の他人」としてレナを遇する目の前の人物。

 要するに、レナがスズキさんだと思っていたこの人物はミタライさんという弁護士で、何故か高級外車の運転手をしていて、今、恐らくはサキさんから託された何かのメッセージをレナに伝えたいのだ。

 そういうことなのだ。

「ご納得、頂けましたでしょうか」

「おおう」

 レナの代りに娘が答えてくれた。

「よろしければ小職の事務所までおいでいただけませんでしょうか。お渡ししたいものがございまして・・・」

 そうとなれば、詐欺とかキャッチとかそういうスティングじみたことではないだろう。

 レナは席を立ち、カートのハンドルを握った。


 

 さらに驚いたことには、彼のその事務所は、待ち合わせのコーヒーショップのすぐ裏。あの新幹線口の前の、あの弁護士事務所のビルにあった。つまり、同じブロックの南と北の関係だったのだ。この奇妙な偶然にはレナも気が付かなかった。

 さらに、とどめがその事務所だった。

 なんと、あの金塊や書類を運び込んだ、レナが電話番をした、あの部屋だったのだ。ただし、中の調度、レイアウトは全く変わっていた。

 彼の、ミタライさんの「士業一筋四十年」を裏付けるように、壁際の本棚にはキングサイズのファイルがビッシリ並び、六法全書などの法律書と、年月を感じさせる黄ばんだ様々な紙類の束がぎっしり詰まっており、小さな冷蔵庫の上にはコーヒーメーカーや粉ミルクの瓶があり、カップがあり、コーヒーのシミがあり・・・。窓枠の上にはうっすらと埃さえあり、「長年使われてきた事務所」の風格を醸し出していた。

 そして、あの巨大な古い、黒い金庫があった。

 ただし、金庫としてではなく、書類の物置として存在しているかのようで、扉は半ば開き、やはり黄ばみかけた書類の束が山となって詰まっていた。

 レナはところどころ破れてスポンジが飛び出している、カーキ色のカンヴァス地の粗末なソファーを勧められた。

 カートから娘を下ろし、隣に座らせている間に、ミタライさんはエアコンを動かし、冷蔵庫から麦茶のサーバーを取り出した。

「おーう。たーたん。んん。こで」

 娘とミタライさんは、しばし、お互いを見つめ合った。

「どうぞ」

 冷たい麦茶のグラスを勧められ、娘にも、含ませた。

 それを見届けると、ミタライさんは手にしたファイルを開いた。

「小職が依頼人から委嘱された要件とは三点ございます。順にご説明いたします」

「その前に」

 レナはグラスを置いてあらためてミタライさんに質した。

「何でしょう」

「あの、彼は、・・・サキさんは、今、どこにいるんですか」

 ミタライさんはじっとレナの瞳を見つめていたが、

「小職が依頼人より委嘱された要件の中に、そのご質問にお答えする権限は含まれておりません」

「わかりません。もっとわかりやすく話して下さい。

 彼は、死んだんですか。それとも、どこかで生きているんですか!」

「おおう。たーたん。おう! んん。ちんちん・・・」

「今申し上げた通りです。そのご質問には、お答えできかねます」

 と彼は繰り返した。

「しかしながら、今からご説明する要件をお聞きになれば、その中に、あなたのご所望の情報が含まれているか否かの見当をつけていただくことが出来るかもしれません」

「・・・わかりました」

「ちんちん」

 レナは娘の唇に人差し指で封をし、シーっ、と言った。


 

 ミタライさんは、一つ咳ばらいをし、続けた。

「では、一点目です。この新聞記事をご覧ください」

 一枚のA4用紙に、新聞の切り抜き記事が印刷されていた。

「これは、二年前の十月十八日。あなたがよくご存じの温泉街のある、地元紙の新聞記事です。あなたが自殺未遂を起こし、地元の駐在所に、それから警察署に連行された日から八日後、遺体の発見から五日経っています」

 記事は、ダム湖で発見された身元不明遺体が中東のある国の外交官であったことが判明したという情報を伝えるものだった。故人の顔写真がついている。しかし、それはサキさんとは全くの別人の顔だった。

「この、イスハーク・サキ・サルマン・アルトゥントップという氏名とその大使館の一等書記官という肩書、そして顔写真は当時警察署で行われた記者会見時に配られたプレスシートにあった情報だったのです。そこに集まっていた新聞社やTV局が全て入手できた情報でした。本来なら、外国の外交官が変死体で発見されたという大きなネタは、どのマスコミもこぞって記事にしたはずのビッグニュースです。

 しかし、この通り、記事にしたのはこの地元紙だけで、しかもこれは第一版です。第二版以降この記事は何故か差し替えられ、輪転機が印刷したのは、最初の二千部だけでした」

「おう・・・」

 と、娘が代わりに答えてくれた。
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