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大学生のおけいこ

41 未熟な自分が出来ること。そして、泥だらけのおけいこ。

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 彼の話は非常に興味深いものだった。

「蕎麦屋での話はもう一つありました。スミレさん。あなたのことです」

 え?

 肉厚のトンカツをモグモグしながら、スミレは意外な展開に意表を突かれ、ドキドキが隠せなかった。

「わたしの?」

「そうです」

 彼は付け合わせのホウレンソウのおひたしを摘まみ、みそ汁を啜ってコトリと椀を置いた。

「率直に申しますね。スミレさん。

 あなたのことは本社だけでなく、子会社でも相当に知れ渡ってます。タチバナ会長の不良の末娘。放蕩三昧の末に都落ち。高校を三回も退学になった問題児・・・。まあ、そういうことです」

 マキノはまっすぐスミレを見つめてハッキリとそれを口にした。父の会社の社員からこういう言葉を聞いたのは初めてだった。誰もが口をつぐみ、追従の、偽りの笑みを浮かべた。こんなに直截にスミレの過去に言及した人は今まで誰一人、いなかった。

「でも、見方を変えればどうでしょうか。

 あなたは、他の4人のご兄弟ご姉妹の中で最も有名なのです。もっとも認知度が高いのです。

 さらに、会長のお考えや生き方を最も色濃く継承されておられるのもあなたではないかと思っております。先日、ソノダさんの事務所で初めてお会いした時、私はそれを確信しました」

「それは・・・。買い被りです」

「いいえ、スミレさん。お言葉ですが、それは違います。

 会長が何故私のような男を本社に呼び戻してくださったかを考えれば、自明だと思います」

「それは、マキノさんが実績を積まれたからでしょう」

「会長は、ときにご自分の意に反することでも物怖じせずに直言できる人材をそばに置きたいとハッキリおっしゃいました。もう世襲の時代じゃない、とも。そんなことをしていれば、いずれ世界から後れを取り、会社は傾いてしまう。いつかはトップに立ってやる。これからはそう言う気構えを持った社員を重用して行きたいのだと。そう、仰られました」

「それなら私に拘るのは矛盾じゃありませんか? もう世襲の時代じゃないのでしょう」

「ご係累であろうがなかろうが、最も相応しい人物が会社の将来を担う。それであれば、何ら矛盾ではありませんよ。・・・冷めちゃうと美味しくありません。召し上がってください」

 スミレは再び丼を取り、箸をすすめた。意外なことを言うものだと、ドキドキしながら。あまりにも唐突な話で、料理を味わうどころではなくなった。

「繰り返しますが、この話はけっして誇張じゃありません。今はまだ少ないですが、同じ思いを持っている者は本社にも少なからずいるのです。失礼ながらあなたのお兄上やお姉上方と比べると、どうしてもそう思わざるを得ない、と。

 あなたがあの家に生まれたのは運命です。あなたが会長と同じ種類の、言わばオーラのようなものを持っていらっしゃるのも、運命です。

 御先代のことはよくわかりません。でも会長は何か人を惹きつけるものを持っておいでなのです。時として経営者にはそういうものが必要なのです。経営者に限りません。政治家やプロ野球の監督、軍隊の司令官・・・。人の上に立って人に号令する。号令された人々がなんの疑問も持たずその命令に従う。そういう組織は強い。加えて会長は敢えて自分の意に反する意見を持つ者を傍に置く。そういう指導者は強い。会長の持つオーラとはそういう類のものです。

 今はまだ、あなたもお若い。未熟です。でも、そんなことはいくらでも、どうにでもなります。私が定年になるまでに間に合えば、私は全力であなたを支えたい。ソノダさんの事務所であなたにお会いした時からそう考えるようになりました。それだけは、覚えておいていただきたいのです。

 繰り返しますが、会長と同じオーラをお持ちなのは、ご兄弟の内でスミレさん、あなただけです。

 なによりも、会長ご自身がそう仰っておられるのです。子どもたちの中で後を託せるとしたらはスミレだけだと。今はまだ若すぎるが10年もすれば、と。そしてそれには、あなたご自身がお目覚めになるのが条件だと」

 と、マキノは言った。

「いろいろ会長から伺いました。いろいろ思われておられることもありましょうね。

 でも、会長がそのようにお考えでいらっしゃることはお心に留められたほうがよろしいかと。いいえ。留められるべきです! 

 私はそう思っています」


 

 本社ビルの前の車寄せに赤い馬をつけた。

「スミレさん、ありがとうございました」

「マキノさん。ごちそうさまでした。お会いできて、嬉しかったです」

 マキノはまたガハハと笑い、こう言った。

「こちらこそ。レース、がんばってくださいね。陰ながら応援しています。もうレースの世界に携われなくなってしまったのが少し残念ですが」

 彼は車を降り、バックミラーの中で見えなくなるまでスミレを見送ってくれた。

 マキノの話は意外なことだらけだった。

 にわかには信じがたかった。父がそんな風に自分を見ていたとは・・・。

 自分にできることがあるとすれば、車の運転が人より少しだけ上手いぐらいだと思っていた。マキノはあのように言うが、彼が言った「オーラ」のようなものが自分にあるとは到底思えない。

 ありがたい話ではあるのだが、まだ二十歳にもなっていないスミレにはあまり心に響く言葉ではなかった。響くためには厳しくも、優しくも、接点というものが必要だろう。父とスミレはそれまであまりにも没交渉であり過ぎた。ほとんど言葉らしきものを交わさないまま19年も経ってしまっているのに、今さらそんなことを言われても・・・。

 だが、マキノの話の中の、

「人のしがらみを気にしなくて良く、思う存分、したいことが出来て、暴れ回れるところ」

 この言葉のほうがスミレの中の何かを呼び起こした。現実の、目先の危機にかかわることだったからだ。

 信号待ちでステアリングを撫でながら、それはごく自然に思い出された。

 レース。

 そうだ。それがあるじゃないか。

 ソノダのところならしがらみは一切ない。紹介してくれたイワイはもう、この世にいない。鬼もいないし家政婦もいない。風通しもいい。思う存分、暴れまわることができそうだ。結果を残せば媒体に露出する。目立つ。見返してやれる。

 そうだ! その道がある。

 何故、それに気づかなかったのか。あまりにも過酷な経験をしたせいで頭が疲れすぎてそれを忘れていた。

 あのサキさんと関係するマンションは引き払う。どこか別の、もう少し安い住処を探そう。ソノダに保証人になってもらえばいいし、彼の拙いセックスを我慢できるなら彼の女になってもいい。お金がなければレースの傍らアルバイトだってできる。飲み屋のホステスぐらいなら務まるかもしれない・・・。

 スミレの生来のポジティブシンキングが復活した。長いドライブで、リフレッシュできたせいだ。やっぱりこの赤い馬は自分と相性がいい。

「お前はあの車から離れられないだろう。だから、お前にやる」

 サキさんの言葉を思い出し、あの男の掌の上で踊っているような気がしてきて少しナーバスになる。しかし、それだって結果さえ残せば消える。

 よし! やってやる。

 何か大切なことを確認し忘れたような気もするが、どうしても思い出せない。だが、スミレはまた来た道を引き返した。サキさんの元にではない。スミレ自身の別の道を切り拓くために。


 

 日帰りで往復800キロをメンチカツとトンカツを食べに行っただけのような気もする。しかし、スミレの中では大きな800キロだった。

 雨が降ってきた。その足でソノダの事務所に行った。もう夜も遅く、メカニックたちはおらず、事務所にはソノダ一人だった。

「どうしたんだ・・・」

 彼は突然訪れたスミレを、彼は深刻な顔で迎えた。

「お願いしたいことがあります」

「まあいいから。とにかく、座れ」

 勧められたパイプ椅子に掛け、勧められた缶コーヒーのプルリングを引いた。

「ニュースで見た。イワイさん・・・。ビックリしたな。葬式の日取りとか、聞いてるか?」

 人が死ねば葬式をする。その当たり前の常識に言われてから気づいた。この人は普通の人だ。この人には、話せない。

 スミレは無言で首を振った。

「わたしも詳しいことは・・・。何から話せばいいんでしょうかね」


 

 時系列で話した。

 まず、付き合っている男と別れたと言った。サキさんの名前と詳しい経緯は伏せて。男に賃貸料を出してもらっていた住処も失った。大学の授業料も半年分は納付してあるが、後期分はまだ。生活費も、これからは自分で稼がねばならない。親とは縁を切るつもりで家を飛び出してきたから、今さら頼れない。何か自分に出来ることはないだろうか。飲み屋でもなんでも働くつもりなのだが・・・。

 そんなことを多少省いて、多少話を盛って、話した。

「もしかして、イワイさんのことが関係してるのか」

「それは、ないです」

 真実を話すわけにはいかない。ここはウソを吐かざるを得ない。

「むしろ、わたしもびっくりしてるぐらいなの」

 そこでソノダは一冊の自動車専門誌を引っ張り出してきた。

「そんな、キャバ嬢なんて。そこまでしなくてもいいと思うぞ。ホレ、見てみろ」

 ソノダが示したページの写真には、カラーリングされた車の横にレーシングスーツを着てヘルメットを抱えたスミレが立っていた。少し車に寄りかかり、肘をトップにかけてカメラに向かって微笑んではいる。その笑顔にはどことなくぎこちなさを感じる。

 ソノダは「それが、初々しそうでいいらしい」と言った。

 今月の「カワイイ子みーつけた」みたいなコーナーで、いつもはキャンギャルやレースクィーンばかりを取り上げているらしい。ちゃんとキャプションもついている。

「現在国内F3参戦中のソノダレーシング期待の新人、橘すみれチャン(19)。大学一年生。愛車はフェラーリF430。趣味は愛車を駆ってドライブすること。「助手席に乗ってくれるカレシ募集中です!」とのこと。「来月ローカルのダートトライアルでデビューします。応援よろしくお願いします!」 ファンレターのあて先はソノダレーシング、またはオーエスゴム広報部まで。橘すみれチャンのHPのURLはこちら・・・」


 

 スミレはソノダのマンションのベッドの上でまだその雑誌に見入っていた。

 彼の稚拙な愛撫を脇腹の辺りに受けつつ、それでも雑誌を離さず、その自分の姿を飽くことなく見つめていた。

「まだ見てんのかよ」

「いいじゃない」

「モリサキもいい仕事したな。ハッパかけられたんだろうな。入稿の締め切り過ぎてんのに強引にねじ込んだらしい。昨日発売になったばっかで、もう五百通ぐらいお前宛のメール来てるらしいぞ」

 おそらく、その指示をしたのはマキノではないかと想像する。しかし、こうなってくるとおいそれと水商売も出来なくなるな、とも思う。それに、まだ国内B級のライセンスも持たないのに契約の話もし辛い。結局、当面はサキさんのカードに頼らねばならないのか・・・。

「カレシなんて募集してないのに・・・」

「そういうのはな、男に夢を持たせるためのもんなんだよ。それでファンがつく。お前の活躍を取り上げる雑誌が売れる。媒体効果が上がる。タイヤが売れる。スポンサーフィーが増える・・・。正直に書いてどおすんだ」

 相変わらずソノダのセックスは全く萌えなかった。頑張ってはくれたので可愛そうになり少しは演技をしてやった。そのくせスミレの身体に執着があるらしく、後戯に忙しい。ヤンの様に回数でカバーしてくれるならまだしもなのだが。これを毎晩されると、さすがにスミレも参ってしまうだろう。おもちゃの方がまだましだった。

「なんなら、しばらくオレのとこにいてもいいんだぞ」

「でも、それじゃ悪いし。出来れば一人で住みたい」

 ソノダの女をやるのは、やはり無理だな。

「明日、手配してやるよ」

 彼はいくぶん寂しそうに、そう言った。

「ありがと」

「これ、別れた男のだろう。まだ着けてるのか」

 ソノダの舌が、スミレの乳首のピアスを弄んでいた。ちょっとだけ、あの悪魔のようなサキさんの肉棒と責めが恋しくなった。

 キスだけは拒んだ。ソノダに抱かれるのはここの宿泊費のつもりだった。それ以上の感情はまったくない。ヤンとも連絡していない。彼からはLINEが来たが、無視している。とにかく、サキさんと繋がる可能性のあるものとは一切接触したくなかったのだ。

「気持ちいいか・・・」

「そういうのいいから。サッサと済ませて」

「なんだよ、それ。・・・やる気なくした」

「もういいの? じゃ、寝るね」

「ハイハイ・・・。なんだか、倦怠期の夫婦みてェだな」

「恋人ですらないけどね。おやすみ」

「・・・別れても、好きな人、ってやつか?」

 その言葉は無視した。それは苦痛でしかない。ソノダの手が、スミレの尻に伸びる。そこを撫でまわす。

「なにそれ。やる気ないなら、おとなしく寝て」

「そうだな。明日、早いからな。4時起きだからな」

「わかってる」

 明日はダートトライアルのレース本番だ。昼頃まで雨が降り続いたからコースコンディションが気になる。本来ならそのことで頭がいっぱいにならねばならないのに。ソノダの言う通り、やはりサキさんを忘れることはできないのだろうか。

「眠れないのか」

 背中でソノダが呟いた。

 スミレはゆっくりと寝がえり、上掛けの下の彼のペニスを握った。それはもう元気がなかった。最後までイカなかったというのに。

「ねえ」

「ん?」

「ソノダさんて、結婚してた?」

「うん。・・・昔な。子供も一人いた」

「レースにばかり夢中になって、逃げられちゃったんでしょ」

「・・・まあ、そんなとこだ」

「今、どこで何してるの、奥さん」

「・・・さあな」

「気にならないの?」

「・・・時々息子の写真送ってくる。旧姓のままだから、再婚はしてないみたいだな。デキる女だったから、食うには困らないんだろう」

 暗闇の中でベッドの脇のデジタル時計が23時を示して光っている。そのおかげで規則正しく彼のまつげが瞬いているのだけは見える。

「ねえ、キスして」

「なんで。イヤじゃないのか」

「したくなったの。キス。明日の、おまじない」

「なんだよ。急にかわいいこと言いやがって」

 ソノダはゆっくりと身体を起しスミレに覆いかぶさった。


 


 

 明くる朝、日の出前に起きた。

 メカニックと外注の塗装業者の手でチューンナップされ美しくカラーリングされた車とサポートサービス用の箱バンとでコースに向かううちに朝日が昇った。

 空は気持ちのいいほどに晴れ上がった。

 しかし、コースは予想通りに、夜明けまで降り続いた雨のためにぐちゃぐちゃにぬかるんでいた。それでもオフィシャルたちがコースに赤いコーンを立てている。競技は予定通り、開催される。車両検査は難なくクリアした。

「こりゃあ、午後の方がよかったなあ。申し込み順に出走だから今さら変更出来ねえしなあ・・・」

 出走前の慣熟歩行でソノダはぼやいた。

 スミレの出走は三番目。午後の方が水が引いてコンディションはいい。

「言った通り、あの大木のコーナーと直線の後のヘアピンがネックだぞ。ブレーキングミスするな。遅くてもいいから確実にクリアすることを心掛けろ。あくまでも完走が目標だからな」

 パドック代わりの水溜まりだらけの空き地には次々と検査をクリアした車が並ぶ。出場は三十台ほど。そのほとんどがプライベートのアマチュアでプロのチームは三台しかない、スミレも一応これに入る。

 先日のコース下見と違うのがコースコンディション意外にもう一つある。ギャラリーがそちらこちらに天幕を張り、椅子やテーブルやパラソルを出して辺鄙な山奥のコースに彩を添え始めた。

 そしてあのスミレの尻を触って謝りに来たモリサキが雑誌のカメラマンを連れて来ていた。

「お嬢様! 写真を撮らせていただいてもよろしいでしょうか!」

 スミレは思わず彼の袖を引いた。

「お嬢様はやめてくださいってお願いしたじゃないですか。それもこんな人いっぱいのトコで。困ります!」

「あ、はい。申し訳ございません」

 プンプンしながらヘルメットを抱え、シャッターが切られ始めると無理やりスマイルを作った。あー、疲れる。

 開会式が終わると、オフィシャルのブリーフィング。そして午前の第一ヒートが始まる。

 一番手がスタート位置に着き、二番三番はパドックで待機の指示がある。車のボンネットに腰を掛け、一番手の走りを見る。ワークスのドライバーだ。泥濘のコースを無難にまとめ、攻めるべきは攻め、守るべきは守った、模範的な走行でまとめた。特にソノダの指摘した大木のコーナーと短い直線後のヘアピンは極端にスピードを落とし、手堅く処理した。彼もスミレと同じライセンス狙いの完走が目標なのかもしれない。脱輪は一個もなく、コーンは一個も倒れなかった。一個倒れるごとにプラス5秒のペナルティーになる。

「今の、見たか? あれがお前の目標だ。あのイメージでお前も行け」

 ソノダがアドバイスをくれた。

 二番手がスタート位置についた。

 スミレはヘルメットを着け、シートに着く。メカニックたちがベルトの装着をアシストしてくれる。

 プライベートのアコードで、泥を掻き上げて派手にスタートを切ったのはいいのだが、ソノダの恐れた大木のコーナーでテールを滑らせすぎて次々と派手にコーンを倒してさらにギャラリーエリアまで滑ってゆきセーフティーゾーンに後部を脱輪した。FF車のため前輪が空回りし、自力でコースに戻ることが出来なくなり、彼は失格となった。これから出るというのに悪いイメージを残してくれたもんだ。車の撤去のため、しばらく競技は中断した。その間、ひたすらにイメージトレーニングに努めた。

「スミレ、行くぞ!」開いたウィンドーの外からソノダの声が励ます。

「エントリー三番、スタート位置に着いてください」

 オフィシャルのアナウンスがあり、スミレはスタート位置に車を移動させた。左斜め前の電光掲示板のマイナス5秒が見える位置まで来ると、急にコースを取り囲むギャラリーが意識されてくる。心臓が高鳴る。

「5秒前!」

「3、2、1、スタート!」


 


 

 ソノダが注意した大木もヘアピンもクリアできた。すると、欲が出た。あと2秒上回ればエントリー1番の車より速い。感触では自分の方が速いと思った。それが慢心に繋がった。

 ヘアピンをクリアした直後のなんでもない緩いカーブで踏み込み過ぎてスピンしてしまい、コーンを十個ほどなぎ倒し、コース際の岩にテールをぶつけた。おまけにスタックしてしまった。かろうじて自力で脱出できたから失格ではない。4WDのおかげだ。

 結果は完走24台中最下位だった。

 左後部のフェンダーが破れたが自力走行は可能だった。

 帰り道は運転したくないと言ったら、ソノダに叱られた。

「この日のために、この車を仕上げるために、メカのやつらがどんだけ苦労したと思ってる。走れるんだから、最後までお前が転がせ。責任持って!」

 信号で止まると、通りを行く人々の視線が痛かった。フェンダーが壊れた、泥だらけの、カラーリングした車に注目が集まるのは当たり前だ。目立つという目標は達成できた。自分が望むのとはまったく正反対の方向で。

 事務所を出る前に、メカニックたちに頭を下げた。

「申し訳、ありませんでした・・・」

 二人のヤセとデブのメカニックの内、ソノダよりも少し若い、眼鏡のデブがスミレの肩を叩いた。

「元気出せ。ウチの初めての女性専属ドライバーの初陣じゃないか。ちょっと残念だったけど、これでライセンスはとれたんだ。スミレちゃんの主戦場はサーキットだろ? また、来週な」

 その場は我慢したが、赤い馬の手綱を取りながら何度も決壊しそうになった。何とか堪えた。

 あまりにも悔しくて、気が狂いそうだった。

 まだ何も、一つも実績がない。

 宙ぶらりんの19の春が梅雨を迎えた。夜の雨が、フロントグラスを叩いた。

 リモコンを操作し、地下の駐車場のゲートを開けた。前と同じ駐車スペースに赤い馬を駐めた。

 ほぼ一週間ぶりに自分の部屋に戻った。バッグを放り投げて、寝乱れたままのベッドに仰向けに倒れこみ、天井を見上げ、そして、号泣した。
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