スミレのおけいこ 外伝『レナのレッスン』 奔放でわがままな娘が一人の男によって美しいレディーに変えられてゆくまで

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大学生のおけいこ

40 マークとマキノ

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 結局、赤い馬を駆ってハイウェイを東に向かっていた。この2年のあいだに、この馬はスミレの血肉になっていた。この馬を手放さなかったことで、スミレの勇ましい言葉の価値は半減した。それでも手放すことはできなかった。これを手放して、素手で、素裸で、あの実家に戻る勇気がなかった。

 空はどんよりと曇り、窓から入ってくる少し湿り気を帯びている風が彼女の髪を弄る。時折、少し手が震える。一瞬だけステアリングから手を放し、こぶしを握り締めてパンッと手を叩き、頬を叩いて気合を入れた。


 

 昼前に首都に入った。

 実家に乗り付けるのは気が引け、懐かしいマークのLINEのトークを開いた。二年前の「なーんちゃって、てへぺろ」以来、何もトークしてない。マークからもなかった。

(来ちゃった。今、近くにいます。会えますか?)

 そう送った。

 それから、シートを倒して目を閉じた。

 あの、この世の終わりのようなささくれ荘に来た時も、地獄だと思った。しかし、あの「家政婦地獄」に比べればましだと思い、ここまで来た。気がついたら、いつの間にか自分が地獄の番人の鬼になっていた。少なくとも、鬼の情婦に。

 その「鬼の情婦」が、今さらかつての家に戻ってどうするんだろう。

 ここまでくる間、赤い馬を御しながら何度もぐるぐる頭の中を渦巻いた疑問。鬼の情婦でもない、実家とも縁のない、そんな人生を切り開くことが出来るだろうか。できるなら、それがベストチョイスだ。

 では、何をしようか。自分に何ができるだろうか。このままだと大学も中退しなくてはならなくなるかもしれない。父に頼ればまた「家政婦地獄」。それは無理。大学も出てない、高校すら中退してしまった。そんな女がまともな職に就けるだろうか。それどころか、今日のねぐらさえ確としていない。

 スミレは未だかつて経験したことのない、「どうやって食ってゆくのか」という問題に、真正面に向かい合わねばならなくなっていた。普通に生きている普通の人々が誰しも直面し克服している問題が、スミレにとってはとてつもない大きな壁として立ちはだかっているのを感じていた。

 そんなことを考えているとLINEの着信があった。

(今、どこにいるんだ)


 

 下町の、鄙びた蕎麦屋の前の道路。

 マークは店の前に横付けした黒塗りの車の中にいた。その前に赤い馬をつけた。歩道に降り立ったスミレを見て驚いているのが遠目にもよくわかった。

 助手席に乗り込もうとしたら拒否された。

「会長のお許しもないのにそんなことはできない」

 彼の四角四面、融通の無さにもさらに磨きがかかったようだ。

 この、純潔の日本人以上に日本人的な男が、マークというアフリカ系と日本人のミックスなのだ。

 彼はスミレの父の運転手兼秘書見習いとしてこの春から働き始めたのだという。四年生だがもう就職が決まっているから就活がない。卒業可能な単位はあとひと月で全て取れるのだと聞いた。

「会長はあの蕎麦屋の蕎麦がお好きなんだ。週に一度は来る。十割で付けツユがなくて、水だけで食べる蕎麦なんだって。一日限定百食で予約もできない。あの会長が普通の人に交じって開店前に並ぶんだぜ」

 歩道のガードに並んで尻を乗せ、マークは記憶の中とまったく変わらない口調でスミレに対してくれた。

「マークは変わらないね」

 率直な感想を言ってみた。

「・・・スミレは、見違えたよ。あんな車に乗って来たし。どこのオネーチャンかと思った」

「どんな風に変わった?」

 朴念仁。そんなマークだから期待はあまり大きくはない。だけどほんの少しの期待を込めた。思えばこの男には小さなころからずっと期待をしてきた。それらはことごとく裏切られては来たのだったが。

「・・・明るくなった。髪を切ったせいかな」

「・・・」

 やっぱり朴念仁だ。過去最大級に落ち込んで、深い不安の中にいるというのに・・・。ここは素直になって彼の胸に飛び込んでみるかな。

「実はちょっと、ヤなことがあってさ。・・・結構落ち込んでるんだ。・・・この後、時間、ないかな」

「・・・そうは見えないけどな。でも、ぼくでよければ相談に乗るよ」

 なんだか急に彼が遠くなったような気がした。あんなに自分に気持ちをぶつけてきていたのに・・・。

「マーク。・・・もしかして、彼女でもできた?」

 口ごもった彼が言葉を発しようとしたとき、蕎麦屋の戸がガラッと開いた。マークはすぐに反応した。2年ぶりに父を見た。あのローブデコルテの夜以来だ。

 電話では年相応に老けたかと思われたが、部下の社員といる父は以前の傲岸不遜そのままだった。

 父に相伴していた人物に驚いた。ソノダさんの事務所であった、マキノというタイヤ会社の専務だ。

 父はしばらくぶりに会った娘の顔をしばらくじっと見ていたが、やがて口を開いた。

「このような往来で立ち話などするものではない。久しぶりに帰って来たんだ。まず自分の家に帰り、きちんと挨拶をするのが大人の嗜みというものだ」

 以前と変わらない高圧的な物言いにカチンときて、つい、思ってもいなかった言葉が出てしまった。

「所要があってこちらに来ただけです。すぐに帰ります」

「・・・勝手にしろ」

 父はそう言ってマークの開いた車のドアの中に入った。

「会長」

 マキノという男が進み出た。

「私はお嬢さんの車で社に送っていただこうと思います。よろしいでしょうか」

「かまわんよ」

 と父は言った。

「マキノ君。これからしっかり頼むぞ。マーク、やってくれ」

 早くも黒塗りの運転席に着いたマークは、心配そうな顔をスミレに向けつつ、車を出して去っていった。

「スミレさん、よろしいですかね」

 マキノは先日と同じ、大人の落ち着いた物腰でそう言った。


 

「いやあ。まさかあそこでお会いするとは・・・。失礼ですが、スミレさん、お食事は?」

 車に乗り込むなり、彼はそう言った。そう言えば、今朝サキさんのスイートを出てから何も食べていなかった。

「朝から何も食べてません。食べるのを忘れてました」

 すると彼は大きな口を開けて高らかに笑った。

「いや、失礼しました。よかったら、私のよく知っている店に行きましょう。会長のお供ですから我慢しましたが、正直、食った気がしなかったんです。」

 スミレはこの四十台半ばのサラリーマンらしくない男に少し好感を抱いた。

 彼はスマートフォンを取り出すと会社に電話した。

「マキノです。会長のお嬢様と食事をしてから戻ります。何かあったら電話ください。・・・これでよし、と。・・・あ、そこを左にお願いします」

 低いが、よく通る。しっかりした落ち着いた声。こういう声は人を、女を安心させる。人が迷ったとき、頼りたくなる。こういう人が人の上に立って号令すると下の人たちは落ち着いて自分の仕事に集中することが出来る。

「やあ、この年になって初めて右の助手席に乗りました。スゴイ車ですね。ガソリンも喰うでしょう。どのくらいですか?」

「リッター、4、5キロ、高速だと6か7ぐらいにはなります」

「やっぱりねえ・・・。

 そうだ。ご報告しなけりゃ。私は、肩書が変わりました。この度、ホールディングスの経営企画室長を拝命しました。待遇は部長ですがね。前は役員でしたから、降格ですな、こりゃ・・・」

 それはウソだ。

 孫会社の役員と親の親の会社の部長ではその格は天地の差がある。それに気難しい父が昼食を相伴させるなど滅多にないことだ。父が電話で言っていた通り、彼は抜擢されたのだ。あんな父だが人を見る目は確かだ。スミレは確信した。

「その交差点を右に入ると細い道です。しばらく行くと左に小汚い定食屋があります。学生のころから通ってまして。性格の悪いオヤジの店ですが、味だけは絶対保証できます」

 彼の言葉に少し和んだ。

 言われた通り両側に二階建ての古びた店屋や店舗が続く狭い路地を入った。赤い馬の爆音が反響して轟に聞こえてしまう。

「あのドギツイ赤い看板の店の前で止めてください」

 確かに。辺りを憚らない、とても目立つ看板がある。それはいいが、どこに車を駐めるのか。店の前に着き、マキノが車を降りて店に入ってゆく。一方通行の道だ。後ろから車が来たら通れない。ドギマギする間に彼が若い男と店を出てきた。

「ユータ。お前、たまには店の手伝いでもしろよ。オヤジももうトシだろうが」

「うっせーよ! さっさと食って帰れ!」

 若い男はスミレの赤い馬を見て一瞬ぎょっとした。マキノがガハハと笑い、若い男はプンプン怒りながら店の横のシャッターを開け、中にいた軽トラックに乗り込むや、何処かに行ってしまった。

「スミレさん、駐車場が出来ましたよ」

 涼しげに彼は言った。


 

 汚い暖簾をくぐって店に入った。

 店内はカウンターやテーブルに半ばほど客がいた。サラリーマンや学生風や作業着を着た全員が男ばかり。こんな店に入ったのは、初めてだ。

「ここのメンチは一度食べたら他の店のが食えなくなります。あと、サバの味噌煮もお勧めです。最近ニョーボがダイエットってやかましいんで、私はそれにします」

 油染みたメニューは色褪せた写真付きだった。お勧めだというメンチカツは確かにジューシーで美味しそうに見えたが、トンカツも肉厚で捨てがたかった。それでメンチカツ定食と単品でトンカツを頼んだ。それほど空腹を覚えていた。朝、あんな遺体の映像を見たばかりだというのに、自分の図太さにいまさらながら驚く。

 マキノがまとめて注文してくれた。

 改めて店の中を見回す。店の外と同様、小汚い壁にメニューをかいた短冊があり、ビールのジョッキを持ったビキニの女性のポスターがあり、カレンダーがあり、カウンターの中から立ち上る魚を焼く食欲をそそる香ばしい煙があり、赤いビニールの椅子の鉄製の脚がコンクリートの床を引きずる音があり、その全てが油染みていた。今まで過ごして来たスミレの上流階級の世界にはない風景がそこにあった。

 マキノは頭を巡らして見回すスミレを面白そうに眺めていた。

「こういうお店は初めてですか」

「・・・ハイ」

「そうでしょうねえ」

 マキノはビール会社のマークの入ったグラスの水を一口飲んだ。

 コト。グラスをテーブルに置くと、ソノダの事務所で初めて会った時に感じた誠実な瞳をまっすぐにスミレに向けて来た。

「スミレさん。いささか私事になるのですが、聞いていただけますか?」

「・・・はい」

「私は数年前にあのタイヤの会社に左遷されたんですよ」

 と彼は言った。

「よせばいいんですが、性分なんでしょうねえ・・・。

 酒の席だったかなあ、あるとき上司に『世襲なんて時代遅れだ』みたいなことを言っちゃったんです。自分の会社の経営者が代々世襲でトップを務めているのを知っているのに、です。その上司が、そのまた上司に注進したんでしょう。こんな部下を持っていると自分の首が危うくなると思ったんでしょうねえ・・・。

 ミスではなく、本心を口にしてそうなるなら仕方ないと思いました。不思議に辞めてやるとは思いませんでした。孫会社で頑張って、見返してやるってね。逆に奮起したんです。

 営業部を任されて、うれしかったです。

 本社と違って風通しもいい。あまり人のしがらみも気にしなくていい。それこそ、水を得た魚みたいに暴れまわりました。それでまあ、ある程度の実績を作って役員に推されました。そこを、当時社長でいらした会長はちゃんと見ていて下さったんですねえ・・・」

 店主らしい、半分白髪の六十ほどの男が料理を運んできてくれた。

「メンチカツは、お前か?」

 店主はマキノに言った。

「それはこちら」

 マキノは皿を受け取ってスミレの前においてくれた。

「さ。冷めないうちに食べてみてください。どうぞ」

 スミレは割り箸を割ってサクサクする衣を分けた。中からジューシーな肉汁が流れ出る。思わず唾液が溢れる。一口食べた。外の衣はカリカリ、サクサクなのに旨味たっぷりの肉汁が口の中に広がって、これが得も言われぬ美味!

「美味しい!」

「でしょう?」

 マキノの顔がほころんだ。

「で、トンカツは? お前か」

 次の皿を運んできた店主がそう言った。

「それも、こちら」

「なんだお前。平日昼間だってのに、仕事サボって若い女とフリンか」

「この、くそオヤジ! 失礼なこと言ってんじゃねえよ! こちら、オレの会社の会長のお嬢さんだぞ。頭が高いわ! 」

 店主の後ろ姿に罵声を浴びせると、マキノは恐縮して頭をかいた。

「申し訳ありません、スミレさん。あの通り、性格はメチャ悪いけど、味はメチャいいでしょう?」

 思わず吹き出しそうになるのを懸命に堪え、水を含んで落ち着いてもどうしても笑いがこみあげて来る。おかげで今朝からの陰鬱な気持ちが何処かへすっ飛んで消えてしまっていた。

 やっと落ち着くとさっそくその肉厚なトンカツもトライした。メンチ同様カリカリサクサクの衣。その中のロース肉が信じられないほどに柔らかい。噛むほどに、肉汁が口の中に広がりあふれる。

「マキノさん。こんなの、初めて食べました。惚れちゃいそうですよ!」

「でしょ? ・・・おい、オヤジ。旨いってよ」

 彼はそう、カウンターの中の店主に言った。店主はウンウンと頷くとまた調理に戻った。スミレがトンカツに勢いよく舌鼓を打つのを面白そうに眺めながら、マキノはつづけた。

「今日のご相伴で、会長は冷遇だったとそのことを詫びてくださったんです。タイヤ会社への左遷が、です。

 でも、私はお礼を申し上げたんですよ。

 あのまま本社の上司の言いなりになっていたら、私も今頃コメツキバッタの仲間入りをしていたでしょう。今ではわたしを左遷した当時の上司にも感謝してるんです。これ、嫌味じゃなく、本心ですよ」

「ええ。わかります」

 マキノは嬉しそうにサバに箸をつけた。

「じゃあ、どうして私がこんな話をしたのかも、わかりますね」

「・・・いいえ」
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