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大学生のおけいこ

39 さよなら

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 サキさんはシーツごとスミレを抱き上げると、事務所を出て乱暴に赤い馬の助手席に放り込んだ。入れ替わりに「大工さん」が二人、ヤンに案内されてやってきた。もちろん、街の大工さんではなくサキさんと同じエージェントの人たちだろう。ドアや壊された部屋の調度を治すために、だ。全てがあらかじめプログラムされていたかのように整然と進行していて、そのあまりにも鮮やかな手際に、恐怖がいや増した。

 サキさんのスイートまでスミレは抱き上げられたまま運ばれた。

 ベッドに下ろされ、それから朝まで抱きしめられた。

 あまりに突然な過酷な体験が、彼の熱い抱擁を必要としていた。素直に彼の胸に身をゆだねた。するとフッと意識が途切れ、そのまま深い眠りに落ちた。

 

 眠りに落ちた時のままキングサイズのベッドの上で目覚めた。

 シーツにくるまれ。サキさんの腕の中で。

 その間に全てが終わっていた。

 イワイを事務所から連れ去っていった者たちの手際は見事というしかなく、その夜のうちに完璧に全てを片付けていた。その経緯は、夜が明けると同時に逐一、次々とサキさんのスマートフォンに報告されてきた。

 まず、動画が送られてきた。明け方のまだ薄暗い港の岸壁に据えられたクレーンが、海中に没した一台の車を釣り上げていた。大勢の警官たちが見守る中、ダイバーたちに取り囲まれながら水上に現れたその車は、昨日までスミレが乗っていた白い軽自動車だった。

 周囲をブルーシートの壁に取り巻かれた岸壁に、海水を滴らせながら車は下ろされた。報道のカメラではない。ブルーシートの中の映像は警察の手によるもの以外、ありえない。

 次に、ライトに照らされた水中の映像が送られてきた。

 車の中に男女の遺体が浮いて揺れていた。二人の手が見慣れた手枷で繋がれている様子がはっきりと撮影されている。

 イワイとレイコさんだ。間違いない。

 スミレは思わず目を覆った。

 サキさんは食い入るようにその動画に見入った。

「既婚の装飾業者と独身の風俗用品販売店経営の女性の、不倫の末、痴情のもつれの心中。警察はそう片付けることになっている」

 彼は低く淡々と呟いた。

 見るに忍びなかった。それでも自分が関わったことの顛末は知っておかなければ。そう思ったから再び目を開いて画面を見た。

 鑑識係のフラッシュが焚かれる中、カメラは担架に載せられたびしょびしょのレイコさんのブラウスの上に光るあのペンダントを映していた。ペンダントの穴は塞がっていた。それはイワイの指にあった指輪だった。指輪とペンダントがペアになった、特注の品だったわけだ。時に女よりも男の方がロマンチストだという人がいる。イワイはその姿や顔に似合わないほど、繊細な心を持ち、深い愛情をレイコさんに注いでいたのだろう。そう思わせる映像だった

「アイツも女だったってことだ。・・・せめてもの、慈悲だ」

 サキさんはスマートフォンを放り投げた。

 そのいい様に、スミレの中の何かが爆じけた。一度爆じけると、もう止まらなかった。

「弟みたいなもの。レイコさんはサキさんをそう言ってた」

 スミレはサキさんを睨んだ。端正な顔は無表情に天井を見上げている。

「姉のくせにその弟を裏切った。それ相応の罰を受ける。それが筋だ」

「長い間、一緒だったんでしょ。仕事だって、レイコさんから教わったんでしょ。それをこんなにカンタンに・・・殺しちゃうなんて・・・」

 サキさんはガバッと身を起し、スミレの鼻先に鼻を突けるようにして迫った。

「裏切れば、必ずこうなる。それが僕でも、お前でも、彼は容赦しない。ただそれだけのことだ」

 冷たい空気が流れる。今まで二年間。この端正な顔はしばしば、というより頻繁に、残酷な、冷酷な、あまりにも厳しく、あまりにもせつない言葉を吐いてきた。スミレは時にその言葉に涙し、あまりの惨めさに悶え、感じたこともあった。

 しかし今、彼の口から発せられた言葉は、そうしたプレイを思わせる快感と全く相容れない。エロさとは正反対の、無機質の冷たさが露になっていた。

「サキさんと一緒にいれば、わたしも、いつか、こうなっちゃうかもしれないんだね」

 その一言が、彼を遠ざけた。

「否定はしない。だがな、」

 と彼は言った。

「消えたチームは僕の雇い主の大切な資産だった。顔も名前も知らなくても、僕にとっても言わば同じ苦しみや危険を共有する同僚だった。無言の連帯感のようなものは、あったんだ。レイコはそれを売った。いや、最初から、欺いていた。相手方に潜り込んだ工作員のことを「アセット」と言ったりするけれど、アイツはあっち側のアセットであることを見事に隠しきっていたわけだ。彼女なりの信念があったんだろう。だが、当然の報いだ」

 サキさんはスミレに向き直った。それまでの彼にはない、真摯な態度で。わかってほしいという気持ちが滲み出てくるような。

「消えたチームは三人。彼らは公安に捕らえられた。この国の法律では死刑にはならない。だが、公安に尋問されて彼らから秘密が漏れるのは絶対に防がねばならない。移送中に雇い主の「掃除屋」に始末されたそうだ。一切マスコミには出てない。この国の公安もだんだん骨のあるところを見せるようになった。それでなくともこの国は各国のスパイ天国だから・・・。いろいろ引き締めてかからんとな。それに、もっと公安に食い込まないと。警察の内部と同様に、公安の中にも分子を作らねばならない・・・」

 スミレはベッドから出て服を着た。

「わたし、もう、あなたとは一緒にいられない!

  サキさん・・・。わたしはあなたとは違う。あなたが、怖いです」

「お前はドレスの方が似合う。そのクローゼットの、どれでも好きなの着ればいい」

 彼の言葉には応えず、バッグからクレジットカードと秘書用のスマートフォン、そして赤い馬のキーを出した。ベッドの上に横臥する彼に、差し出した。

「これ、返します。お世話になりました」

 サキさんはスマートフォンは納めたが、カードもキーも受け取らなかった。

「実家に帰るのか」

 と彼は言った。

「なら、車は餞別代わりにお前にやる。カードもとっておけ。あの車は燃費が悪い。まだ学生の、無職のお前じゃガソリン代も払えないだろう」

 冷酷な瞳を向けて、彼は笑った。

「何度も言ったろう。僕は来る者は拒まないし、去る者も追わない。ただお前はあの車から離れられないだろう。それにお前が乗らないならあの車は処分する。捨てるよりはマシだからやるんだ。お前が再び親父のスネを齧ることができるようになったら、カードは処分してくれればいい。元気でな」

 たった、それだけ? この二年の間の、濃い時間を。たったそれだけで終わりにできるの?  自分から言い出しておきながら、彼のあまりの酷薄な態度に心が萎えた。

 スミレはしばらく下唇を噛み、怒りで震えながら彼を睨みつけていたが、やがて、

「ありがとうございました。餞別、いただいていきます」

 と一礼して部屋を去ろうとした。

「一度自分の部屋に帰るだろう? ポストを見てみろ。別れ際、レイコがお前に手紙を書いていた。掃除屋に託したなら、もう届いているはずだ。彼らは、ああ見えて律儀だからな」

 マンションに帰ると手紙は届いていた。

 葉書の半分ほどのカードに震える筆跡で短い文章が綴られていた。

『あなたが無事だったのを知り、安堵しました。巻き込んでごめんなさい。でも私に悔いはありません。この国を愛する者は他にも大勢います。もしあなたがこれからも彼を支えるつもりなら、それを覚悟して支えることです。

 でも、それでもあなたが彼を支えようと望むなら、私は安心して行くことができる。

 矛盾してるけど、偽りのない気持ちです。短い間だったけど、あなたに会えてよかった。元気でね。ありがとう』



 あまりの非情さに、体が震えた。

  スミレは泣いた。激情を抑えきれなかった。赤い馬を正しく御するには、激情は邪魔だ。もう来ることはないだろうそのマンションの部屋で、スミレは思うさま感情を放った。
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