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おけいこは続く

カオル

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 わたしは、15で産んだ自分の娘に「薫(カオル)」と名付けた。

 しかし、これも当たり前だけれど、まだ子供だったわたしには、子供一人を育て上げるという厳しさがわかっていなかった。

 若くして不用意に母親になった女の多くがそうであるように、わたしもまた産んだ後のこどもの養育についてまったく何も考えていなかった。考えることが、できなかった。

 わたしもいろいろ混乱していた。

 どう考えてもまだハイスクールに入ったばかりのわたしがカオルを育てるのはムリだった。

 まだティーンエイジャーの真っ只中で、自分の体が日一日と変わって行くのが不安で、でもお腹の中の新しい命に愛おしさも感じつつその日を迎え、二人の母たちもいない外国で出産を、カオルをこの世に産み、そのあまりに愛らしい食べてしまいたいほど可愛い娘に温かい気持ちになる一方で、これからどうしたらいいのだろう、と、形のない漠然とした不安に襲われ始め、それに押しつぶされそうになっていた。


 

「でね、この子育ててくれない?」

 全てを投げうって駆けつけてくれたスミレに、あろうことか、そんな無責任な言葉を吐いていた。その時のわたしは、そう言う以外に言葉を知らなかった。

 サッと顔色を変えたスミレは手を挙げた。殴られる!  思わず目を瞑った。

 それほどまでに怒ったスミレを、初めて見た。

 スミレが振り上げた手はマークおじさんの浅黒いがっしりした手に掴まれていた。

「子供が子供を産んじゃったんだ。ここは怒るよりも考えるべきところだと思うよ、スミレ。それがぼくら大人の務めだ」


 

 大人の男の落ち着いた態度。

 それは、それまでのわたしが感じたことのない安らぎを与えてくれた。でも同時に、心が落ち着くに連れて、少しずつ、わたしは自分がしでかしたことの重大さを思い知り始めてもいた。

 あんなに怒った母を見るのは初めてだった。カオルを育ててきた今なら、あの時の母の怒りの理由がわかる。


 

「ちょっとサキと二人だけにしてくれないか」

 マークおじさんはわたしを庭のブランコに誘った。

 まだドキドキが止まらずにいた。

 淡い街灯に照らされた、閑静な住宅街を走るドライブウェイ。それを望む広い芝生の片隅にポツンとあるペアブランコの周りには、昼間彼の子供たちが遊んだ一輪車や大きなボールやらが転がっていた。

 マークおじさんはわたしをブランコに座らせると隣に座った。気持ちいい夜風がわたしの緊張をほぐした。

「ねえ、サキ。

 なぜお母さんがあんなに怒ったのか、わかるかい?」

 彼は夜空を見上げた。トーキョーとは違い、街中から少し離れただけで、驚くほど星が瞬いているのが見える。

「スミレはね、5人兄弟の末っ子だった。でも、上のお兄さんやお姉さんたちとは歳が離れすぎててね、まるで一人っ子みたいにして育ったんだ。お父さんもお母さんもいつも忙しくってね。朝も晩も一人っきり。家政婦はいたけれど、とてもご両親の代わりなんかできやしないよな。

 サキ。キミもそうだったんだってな。スミレから聞いたよ。

 かつての自分と重ねてね。自分と同じような目にだけは合わせたくない。そう思っているのに、なかなか出来ないんだ、って。とっても申し訳なさそうに、話していた」

 父の顔も知らずに育ったわたしには、どっしりとした岩のようなおじさんがまるで父のそばにいるように感じられた。

「サキ。キミには二人のお母さんがいる。

 一人は、キミの命をくれたお母さん。

 もう一人は、キミを育ててくれたお母さん。

 二人とも一人の男性を愛していた。二人とも、彼のことを『サキさん』と呼んでいた。キミの名前とおんなじだ。

 片一方がキミを産んだ。だけど、キミを産んだお母さん以上にキミを望んでいたのが、スミレなんだ。

 だから無理を言って何度も頭を下げてキミを引き取り、自分の娘として育ててきた。キミが今ここにいるのも、できるだけいい教育を受けさせたいとの親心なんだ。

 キミの素晴らしいお父さんが忘れられないから。お父さんに恥ずかしくないような人間になってほしくて。キミは二人のお母さんと、お父さんの愛の結晶なんだよ。

 スミレは今、とても難しい大事な時を迎えている。一日も早く社長になって、キミのおじいさんの代わりに会社を切り盛りして行かなきゃならない。全世界の何万人もいるタチバナの社員たちを率いて、会社を支えもりたてて行かなきゃならない。

 それでも、キミの一大事だからと、忙しい中わざわざ来てくれたんだよ。

 そのキミが、ボクや周りの人の諫めも聞かず、自分勝手に産んだ子を、面倒だから育ててと言われたお母さんの心の内を考えたことがあるかい。何も感じないかい? 」

 わたしは深い悔恨に襲われ、泣いてしまった。

 マークおじさんは、温かくて大きながっしりした手でわたしの手を取り、しっかりと握り、もう片方の大きな手でわたしの肩を抱きしめた。

「サキ。

 確かに、キミは望まない妊娠をしちゃったかもしれない。誰が父親かもわからない、そんな状況だったかもしれない。

 でも、だんだんお腹の中の新しい命が愛おしくなっちゃったんだよな? だから産むと決めたんだろう? カオルを抱いて、とても優しい気持ちにもなった。そんな可愛いカオルをこのままお母さんに任せちゃって、キミは平気なのかな? そうじゃないだろ?

 ボクとワイフはね、そんなキミを可愛いと思った。キミの気持ちに応えたいと思ったんだ。だからこうしてキミを応援してる。

 同じなんだよ、サキ。

 スミレやレナがキミを思う気持ち。キミがカオルを思う気持ち。それと同じなんだ。

 キミの不安はよくわかる。でもね、何も特別なことは要らないんだ。

 キミは素晴らしい経験をした。苦しんで、痛みに耐えて、新しい命をこの世に生み出した。自分の子を抱きしめてやりたい。キスしてやりたい。自分の腕の中で眠らせててやりたい。それはとても素晴らしい、でも自然な気持ちだ。その気持ちさえあれば、いいんだよ。

 そういう気持ちさえあれば、十分なんだ」

 マークおじさんの優しい、黒い瞳は街灯と星の灯りを反射してキラキラと輝いていた。




 これも今にして思うのだけれど、マークおじさんは、たぶん、本気で母を、スミレのことを愛していた。

 でも、日本の女より日本的な、夫につくすタイプのWASPの女性を妻にするような、日本の男よりつましく奥ゆかしい男であるマークおじさんは、きっと母とは合わなかったろう。

    今、世界的な巨大企業タチバナに君臨するわたしの母、スミレをスミレ足らしめているのは、間違いなくわたしに命をくれた父、わたしがその名前をいただいた「サキ」という男性なのだろうから。



 ままならないもの。

 人はそれを「運命」と呼ぶ。

 本当に、マークおじさんと奥さんにはとてつもなく、世話になった。どれだけ感謝してもしきれない。
 



 次の日。

 わたしは、愛しい娘カオルを抱いて、母スミレと共に、日本に向かうタチバナのプライベートジェットに乗っていた。


 


 


 


 


 

 あれから、15年も経つんだな・・・。


 

 朝降った淡雪が消えた街路。

 初詣の帰りだろう、母親に手をひかれた振り袖姿の可愛い女の子を見ていたら、埒もない回想をしてしまっていた。

 逃げ回っていても仕方ない。今、強烈な日差しが降り注ぐ南の島で年越しをしているであろうスミレ。彼女にはちゃんと向き合って思いを伝えなければ。

 エンジンをかけ、わたしはカオルがレナの作ったお雑煮を食べているであろう実家に戻った。
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