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おけいこは続く

77 逢わずにはいられない

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 翌、2日。

 スミレは日本に向かう旅客機の窓から再び大海原を見下ろしていた。

 タチバナは自社で定期便を運航している。

 スミレの乗ったHSー7はHVー1より4倍ほど大きな中型旅客機だ。滑走して離陸するので離陸重量も数倍はある。研究所と工場や本社を行き来する社員や役員も使う。70人乗りで、現在までに300機ほど売れている。今航空部門の一番の稼ぎ頭になっている機体だ。

「管理職や研究者は常に現場に行きなさい」

 スミレが社長になったときに立てたこの方針が末端まで行きわたっている。ネットや映像だけではわからない、直接見て、触れて、感じて、動かす感覚を大切にしなさいというわけだ。

「カイチョー、イイデスカ?」

 乗り合わせた若い研究者がツーショットしたいと携帯端末を持ってきた。

「もちろん、いいわよ!」

 スミレは親指を立てて気さくに応じ、そのインド人社員の願いをかなえてやる。

 ただし、日本語で話しかけられた時に限る。スミレは日本人なのだから、業務ではない要望をする場合はそれが礼儀というものだ。

 彼と寄り添い、携帯端末に向かってピースサインを出してあげた。

 そこからは英語に切り替えた。

(キミはどこに行くの?)

(ホッカイドーに。新しいタイヤに使うゴムのテストに行きます)

(ああ。オーエスゴムかあ。大昔にCMに出たことがあるわ)

(知ってますよ。ほら)

 彼の携帯端末を見せてもらった。例のスミレの水着写真が待ち受けになっていた)

(カイチョーはお若いし、お美しいです)

(アハハ。ありがと。でも、わたしにゴマ擦ってもお給料は上がらないわよ。頑張ってね)

 彼が自席に戻ると再び眼下に目を落とした。

 


 

 これはエゴだろうか。

 正々堂々とレナにも伝えることも考えた。あなたのところには連絡が来ていないか、と。

 だが、出来ない。

 サキにも言うべきだ。実はお父さんから知らせがあった。一緒に会いに行こう、と。

 しかし、それも出来ない。

 彼はかつてスミレを「お尋ね者」と言ったが、言うまでもなく彼自身が最重要の「お尋ね者」なのだ。出会ってから8年の月日だけを見ても、自分の手を直接汚しはしないにしても、人殺しにさえ関わっている。しかも、日本を危うくするミッションを数多く手がけてきた。その度に雇い主の命令とはいえ無実の人間を罪に陥れる工作をし、この国に不利益を与え続けてきた。

 彼を追求しているのは彼のカネを目当ての者たちだけではないはずだ。この国の当局は未だに彼を追っているはず。それは間違いない。スミレだって関係が無いとは言えない。

 だから彼は自分を「殺す」必要があった。自分を殺し、スミレやレナから離れた。類が及ばないようにするためなのは考えるまでもない。それが彼の優しさだったと思う。

 その上で、地下に潜ったのだ。「サキ」ではない、他の誰かに成りすまして。

 彼はこの数十年間を世界のどこかで、それまでとは全くの別人として生きてきたのだろうことは容易に想像できる。

 その彼が今、会いに来るという。しかも、相当な危険を冒して。

 こうして日本に向かっている今も、まだ、スミレにも100パーセント信じきることが出来ないでいた。


 

 だから、今後のことを決断した。

 なぜ彼があんな形で知らせてきたかを考えたから。

 スミレもタチバナに影響が及ばないよう会長職を退く。当然だ。そうして初めて、彼に会うことができる。少なくとも道義的にはそうすべきだ。

 タチバナに君臨してきた父の娘としての義務はもう充分果たした。父の意思を形にし、時世を見て今後の道も指し示し、そのための段取りもした。そして後継者になる優秀な人材も集め、充分に経営トップを任せられるほどに育てあげてきた。

 もう、スミレには他に為すべきことはないのだ。

 一方、もう結婚して優しい旦那と子供たち孫たちに囲まれ、いくつかの事業も運営して幸せに暮らしているレナ。

 そして、これからタチバナの後継者にもなり、存分に活躍するのを期待されているサキ。これから青春真っ只中に突入し、素晴らしい学園生活を過ごし、将来の夢を育もうとしているカオル。

 彼女たちの現実の幸せの前に、アンダーグラウンドの世界で生きている彼が現れたら、どうなるか。

 なぜミタライさんがあれほどまでにスミレとの接触を避け続けたのかを考えれば答えは明らかだ。

 弁護士として、もっと割のいい楽な仕事はたくさんあるのに、スミレも何度も手を差し伸べたのに、それらをすべて拒否してなぜ割りの悪い面倒な、誰もが嫌がる国選弁護人ばかり引き受け続けたのか。

 彼は注目され、追及されることを恐れたのだと思う。それでレナやスミレに追及の手が伸び、過去が露見し、類が及ぶことを恐れたのだと思う。

 だとするなら、安易にレナやサキに彼のことを伝えるのは危険だ。

 彼はスミレならわかってくれると考えたのだ。


 

 これは断じてエゴではない!

 そう結論するのに一晩かかった。そう結論したから今、スミレは日本に向かっている。

 会うために必要なことはした。では、会ってその後、スミレはどうなるのか、どうしたいのか。

 それは考えていない。

 とにかく、会う。ビジネスパースンとしてではなく、サキの母親としてでもない。一人の女として。彼の一のスレイヴとして。それがスミレの本音だ。長い間封印していたスミレの女がそう命じているのだ。

 彼の本当の目的はわからない。でも、ただの一人の女として、今までのキャリアやそのほかの全てを投げうってでも会わずにはいられない。だから、会う。会って、自分の奥深いところにしまい込んできた女の本能に任せる。

 

 下は日本晴れの清々しい日を迎えていることだろう。遠くに真っ白な雪を被った富士がくっきりと見えてきた。

 スミレは、17歳の女子高生に戻ったような、高揚した気分の中にいた。


 


 

 HS—7は、タチバナ・ホールディングス日本支社、東アジア本社でもある建物に隣接する自動車産業を運営する子会社の滑走路に着陸した。

 ここでもパスポートコントロールはない。飛行機も船も域内を自由に行き来できる。たったそれだけで以前の数倍も利益が増えた。産業界が等しく待ち望んだ未来がついに現実のものになったのだ。

 落ち着いた色のハーフコートに身を包んだ長身のサキが、滑走路の脇に立っているのが見えた。


 
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