セピア色の恋 ~封印されていた秘め事~

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07 Within You Without You

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 ワシオ君に肩を支えられ、ハンカチを当てた顔をやや上に向けながら路面電車に乗って駅に向かいました。駅からすぐという彼の部屋に行くためです。もう少しカッコいいシチュエーションで行きたかったのに、あまりにも予想外過ぎて恥ずかしいことこの上ありませんでしたが、恋の恥はかき捨て。むしろケガの功名だなどと訳の分からない自分勝手な理屈を心の中で並べ立てて強引に彼んち訪問を強行しようとしていました。

 ここまで来たら嫌われてもいいやとさえ思いましたし、ここまで来たら、悪どくも、彼の良心を利用してやろうとさえ考えていたのでした。彼は絶対に迷惑がったりはしない。理由はありませんが確信していました。原因はともかく、思いがけなく彼と身体を密着できたことで、わたしは天にも昇る心地の中にいました。彼のお香の香りに酔いしれました。

 本当に駅からたった二ブロック離れただけのところに彼のアパートがありました。

「あれが父の弟のおじさんのマンション。初めは一緒に住めって言われたんだけどさ、悪いからアパートを借りることにしたんだ」

 彼はビルの間に建っている大きなマンションを指しました。ですが、彼の住まいもアパートというイメージから程遠い、三階建てのビルの中にあり、生まれて初めてエレベーターに乗って級友の家を訪れることに緊張してしまいました。お父さんのことを「父さん」とか「オヤジ」とかじゃなく、「父」と呼ぶ同級生は、初めてでした。

「ちょっと待っててくれるかな」

 鉄のドアを開けるや、ワシオ君は玄関の中でわたしを待たせ、廊下の奥の部屋に入ってゴソゴソドタバタを始めました。恐らくは散らかった部屋を片付けていたのでしょう。そのことで天才のワシオ君により親近感がわき、わたしの中の彼への好感度がさらに上がりました。

「いいよ。どうぞ」

 二三分でしたでしょうか。わたしは片手で編み上げブーツのひもを解き、廊下の奥のリビングに招き入れられて、生まれて初めて男の子の部屋に足を踏み入れました。

 廊下の横にトイレとお風呂場が並んでいます。その奥が六畳ほどのリビングになっていて手前がキッチンになっている、小さな部屋でした。

「狭いだろ」

 彼は恐縮してそう言いました。襖の端からシーツが見えていました。おそらくはわたしを待たせている間に万年床を押し入れに押し込んだのでしょう。心の中でクスっと笑いました。

「でも、一人れ住んでいるんらよね。うらやまひい」

「よかったら、ここに寝転んで。枕を首に後ろに入れておけばいい。オレのだけど臭いのはガマンしてくれよな」

 そう言って彼はガスストーブを点け、キッチンに行って薬缶に火を点けました。

 わたしは遠慮なく腰を下ろし、彼の枕を使わせてもらいました。異性の部屋で服こそ着ていますが床に寝転んで天井を見上げているのです。その異常な情況にドキドキが止まりませんでした。それに、「臭い」だなんて。

 むしろ、あからさまにならないように気を付けながらも、その枕に沁み込んだ彼の体臭を胸いっぱいに吸い込みました。

 彼に憧れを抱いている女の子は少なくなかったはずですが、わたしはその時、彼に一番近い距離にいるのを実感することが出来、密かな優越感に浸りました。もうほとんど鼻血を吹き出す恐れは無くなっていたにもかかわらず、わたしはそのチャンスを最大限に利用しようとしていました。

 ふと壁にかかったタペストリーのようなものに目が留まりました。たくさん本の詰まった本棚と本棚の間の壁いっぱいに張りつめられたそれは、宗教の匂いがしました。

「面白いだろ。曼荼羅っていうんだ」

「マンララ?」

 中央にお釈迦様みたいな像があり、その周りを同じような仏様が取り囲んでいる、そういう図柄です。精緻で綺麗なものでした。気が付くと起き上がってその図柄に深く見入っていました。

「マンダラ。仏教の世界を現した図、かな。オレもまだ勉強中で、よくわかってないんだけどね。インドやチベットとか、その地方によっていろんな種類がある。これはポスターだけど、掛け軸にしたり、織物にしたり、地面に書いたりする。日本では密教って言われてる教義の中で使われてるけどね」

 台所でケトルが鳴き、わたしはあらためて絨毯の上に座り、マンダラを見上げました。見上げているうちに不思議な気分になってきて、コーヒーのカップを二つ捧げたワシオ君がいつのまにか背後にいるのも気が付かないくらいでした。

「インスタントだけど、ハイ。熱いよ」

「・・・ありがとう」

 こんなふうに後ろから抱かれるようにして飲み物を受け取るなんて初めてでした。とても素敵な感じがしてコーヒーの香りにボーっとしてしまいました。青いネコのシルエットが描かれたかわいらしいカップでした。ワシオ君の趣味なのかどうか。些細なことが少し気になりました。

「ギターが聴きたかったんだっけね」

 彼はカップをこたつ台の上に置くと壁際に置いたギターケースを開け、胡坐をかくと調弦を始めました。そして、生徒会室で聴かせてくれたあの曲を奏で始めました。

 わたしはカップを両手で抱えその調べに聞き惚れました。

「これはジョンの曲。英語じゃない部分はサンスクリット語なんだ。『我らが導師。神に勝利あれ』そういう意味らしいんだけどね」

「あの・・・、わたしも弾いてみたい。ギター教えて」

「・・・いいよ。左手見てて。これがC。F。Dメジャー。そして、C・・・。やってごらん」

 ワシオ君からギターを受け取り構えてみました。彼が触っていたネックにほのかな温もりがありました。

「これが、C・・・」

 彼の指がわたしの指に触れます。その愛らしい冷たさに胸が苦しくなってきます。

「Fは人差し指をいっぱいにして全部。そう。上手いじゃないか」

 ワシオ君がわたしの後ろに回り、彼の右手がわたしの抑えたスチール弦を爪弾きます。Fのアルペジオがそのワシオ君の部屋に響きました。

「オレとハヤカワの合奏だ」

 思わず振り返った彼の笑顔がすぐそこにありました。

 わたしはワシオ君に唇を奪われました。

 いいえ。

 わたしはずっとそれを待っていました。去年初めてユニフォーム姿の彼を見た時から、ときに夢に見、ときに宥めながら妄想した、それがいま、現実にわたしの唇を塞いでいました。そのあまりな甘さとずっと心の中にあった願いが叶えられた感激に、気を失ってしまいそうでした。

「ごめん・・・。でも、オレ、ハヤカワが好きだ」

「わたしも・・・。わたしもワシオ君が好き」

 そのあまりに甘いキスがもう一度訪れた時、わたしは自分から唇を寄せていました。
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