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1972
08 恋の奴隷
しおりを挟む彼の部屋からの帰り際、ブーツを穿いたわたしは後ろから思いきり抱き締められて背中に電流が走り、腰が砕けそうになりました。
「どうしてだろう。このままハヤカワを帰したくなくなっちゃった」
別れ際にそんな切ない言葉を掛けられて、心が千々に乱れました。
「ワシオ君・・・」
最後にもう一度彼の香ばしいお香の香りのするキスを受け、彼は駅までわたしを送ってくれました。
二人で無我夢中になって唇を吸いあって終わってしまった、というのが正直なところでした。でもそれだけでもわたしには十分すぎるくらいでした。夢や妄想でこんなことやそんなことやあんなこともしていたわたしでしたが、それらは全て現実のキスひとつにさえ敵わないのです。初めて彼の体温や息遣いや唇の熱さに直接触れた。それだけでもう、満たされた思いでした。
後ろ髪をダンプカーで引かれるようにしながら、わたしは何度も後ろを振り返りながら改札を抜けたのでした。
次の月曜日の朝。
わたしは一本早い電車に乗って登校し、まだ火の入っていないストーブにお弁当をぶら下げるや体育館に走りました。
「ハヤカワ! 珍しい。赤い雪でも降るかな」
そんなサオトメのイヤミも全然気になりませんでした。
「昨日ごめんね。・・・どうだった?」
ジャージに着替えながら、わたしは彼女に尋ねました。
「まあまあって言いたいとこだけど正直言って、散々。やっぱ、あんたがいないとダメだわ。一人だと全部読まれちゃうしさ・・・」
ホラ! 一年生! モタモタしない!
「でも、ダメもとで一人一年生出してみたの、あのミサキって子。セッターで。あの子、使えるかもしれないよ。放課後セットで試してやってみて」
「うん、わかった。サオトメ・・・」
「ん?」
「ありがとう」
「はあ?」
わたしは世の中の全ての存在に感謝したい気持ちで一杯でした。あのヤマギシ君にさえ優しくなれそうでした。ワシオ君の力強い腕の感触がまだ、身体にしっかりと刻まれていたからです。
「ミオ、ミオってば!」
「え?」
「四時間目終わったよ。昼練あるんでしょ。どうしたの、ボーっとしまくりだったよ」
どうやらその日の午前中、わたしは早弁もせずにただひたすら心ここにあらずでボーっとしていたらしいのです。チエちゃんに声を掛けられるまで、まったく授業の記憶がありませんでした。とりあえず急いでジャージを掴み体育館に急ぎました。前の席のヤマギシ君が何故かわたしを睨んでくるのが少し気にかかりましたが。
北国の冬休みは長く、早めに訪れます。その週が終わるともう冬休みに入るということで、学校全体がなんだか落ち着かなげな、気忙し気な雰囲気を纏っていました。
六時間目が終わり、体育館に急ごうと身支度をしている時でした。
「ハヤカワ!」
心臓が止まるかと思いました。教室の戸口に、あの愛すべき人影が立っているではありませんか。
まるで催眠術にでもかけられたかのように、わたしはふらふらと戸口に走りました。
「今週の最終日の放課後、臨時の役員会をやるんでみんな集めておいてくれないかな。副会長と書記と会計。男子は俺が声かけるから女子頼むよ」
「・・・はい」
「じゃ、頼んだぞ」
たったそれだけだったのですが、わたしの足は床から数ミリぐらい空中に浮きました。浮いた状態というのはなかなかに歩き辛く、自分の席まで戻るのに一苦労しました。でも、わたしを睨むヤマギシ君の顔を見てやっと重力が戻ってきました。
「なに? なんか言いたいことあるの?」
「・・・いや、別に」
「めちゃくちゃ不本意だけど約束は忘れてないから。やるなら早めに言ってね。わたし忙しいの」
そう言い放ち、わたしは体育館に急ぎました。
東京の大学に進学していた下の兄が冬休みで帰って来ていました。その日から年末の三十日までいて、夜行で東京に戻り元旦に年賀状の配達のアルバイトをしてからスキー場のアルバイトに向かうのだそうです。
この次兄とは仲が良く、「バイトして貯めた金で買った」と可愛い皮革製の茶色い小さなポーチをお土産に持ってきてくれていました。
「なにこれ、可愛い! えー、ホントにいいの?」
「いいよ。なかなかアニキらしいことしてやれてねーから」
「こういうのはカノジョにあげればいいのに・・・」
「なんだ、イラネーのか、それなら・・・」
「ウソウソ。もう貰ったもん! ちぃ兄、ありがと。早くカノジョも作りなね」
「余計なお世話だ、バーロー!」
このころ、テレビのお笑い番組で「なんだ、バーロー」というのが流行っていて、彼はそれを真似たのだと思います。
それから母と次兄と三人でとりとめのない話をしながら夕食を食べお風呂に入り、いつもならすぐに自室に引き上げるわたしは、なんとなく居間のこたつの電話の傍でミカンを食べながら上の兄がくれた雑誌を読んでいました。
「先週アニキ帰って来たんだって?」
次兄はわたしに話しかけたのだったと思いますが、わたしが顔を上げなかったので母がそれを受けて答えていました。
「そうなの。いつも急なんだから。せっかくだからあんたに合わせてくれればいいのにねえ。お正月は帰れないんですって」
「そうなんだ・・・。ところで、お前さ、さっきから同じページばかり見てるのはどうしてだ。もしかして、誰かの電話待ってるのか?」
仲がいいだけに、次兄は時にスルドイのです。わたしがリラックスを装いながらもチラチラ電話の方を見ているのを感づかれてしまったようです。
ワシオ君との別れしな、わたしは家の電話番号をメモにして彼に渡してきたのです。
「これから、暇な夜、電話くれると嬉しいな」
「わかった。なるべくそうするよ」
日曜日の夜はさすがにありませんでしたが、今日は昼間言葉を交わしたからもしかしてと思っていたのです。彼の部屋には電話が無かったので、わたしからはかけられません。外の公衆電話から凍える指先でダイヤルをジーコロコロと回す彼の姿を思い、切なさを募らせていたのです。
「・・・べ、別に。待ってないよ」
「そうか。じゃ、オレの勘違いかな。母さん、」
「なあに」
母の返事は台所から聞こえました。今そこで洗濯物を畳んでいたかと思うともう違うところに行って何かしている。一日中せかせかと動き回っていた母でした。大正生まれの女性でした。あれが家庭を守る女というものの典型のような感じだったのでしょう。
「オレ、友達んち行って飲んでくる。もしかすると泊まるかもしれない。先に寝てて」
「ええっ、今あんたの好きなお煮しめ作ってたのに・・・」
「明日食べるよ。じゃな、ミオ。今度カレシ紹介しろよ」
瞬間的に逆上せ上りました。
なんてこと言うんだ、バカ!
そう言ってやろうと思ったときにはもう、玄関先で大声で歌を歌いながら出て行くところでした。
あ、あなたにん、会あったその日からん、恋のどれいになりましたん、と・・・。
「今夜は吹雪くっていうから、気を付けるのよ!」
母が次兄におっかぶせて叫んでいる横で、なんでバレるんだろう、と真剣に冷や汗をかいたものです。
結局その夜も電話はありませんでした。
「いい加減にしなさいよ。朝起きられないのは誰? お母さんもう起こさないからね!」
母に追い立てられるようにして自分の部屋に引き上げるともう十時を回っていました。九時を過ぎて他家へ電話すると非常識と言われていた時代です。今でもそうだと思います。ですが、孫娘は深夜の一時二時でも平気で電話してる、と彼女の母である娘から時折グチられることがあります。携帯電話の登場は、家庭というものの姿を大きく変えたように思います。
寝床に入って、寂しさを耐えました。
あのワシオ君とのキスの前と後ではわたしの心のなかのありようが大きく変わりました。昼間言葉を交わしていたにもかかわらず、身体の奥の方からもっともっと、深く深く、そうした欲求、欲望が込み上げてくるのです。それはまるで話に聞く麻薬のようでした。
わたしは、彼からのあるかないかもわからない連絡を、ただひたすら電話の前で待つ女になっていました。
次兄が歌っていたのは二三年前に流行った歌謡曲でした。最初にその曲がテレビから流れてきたときはまだ中学生でした。少し聴いて「なんてイヤらしい歌詞なんだろう」と思いました。母もその曲が流れてくるたびにガチャガチャチャンネルを変えたりテレビの電源を切ったりしていたのです。
それなのに・・・。
自分がその「恋の奴隷」になるなんて、思ってもみませんでした。
結局その晩も、ワシオ君のことを思いながら自分で宥め、昂りを押さえました。
次の次の日の二学期の終わり。ようやくわたしの切ない恋心が成就する日がやってきました。当然ですが、その日がまさかそんな展開になるとはまったく予想もしていませんでした。
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