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1974

29 You`re my best friend

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 初めての定期テストの成績は散々でした。バレーと夜遊びにばかりうつつを抜かしていたからであることは言うまでもありません。それに財布の中身も心細くなり、毎月の仕送りだけではやっていけなくなっていました。

 そのころは一万円札と五千円札の肖像は聖徳太子でした。が、遊びを覚えて自堕落になったわたしにはどちらの太子さまも微笑んではくれず、一人また一人とわたしのサイフから去ってゆきました。夏休みを控えてバレー部の合宿もあることから、いよいよバイト先を探そうかと思案していました。

「ねえ、マスターのところで雇ってくれない?」

 前から一番ラクに稼げそうだと思っていたのです。見た目、ラクそうだったからです。しかし、暗に予想した通りの返事が返ってきました。

「やだね。何が悲しくてお前なんかやとわにゃならん。タダ酒飲めるだけでもありがたく思え。おまけにタダ飯まで食いやがって。タダで働くってなら大歓迎だけどな」

「それじゃ意味ないじゃん。わたしはお金が欲しいの!」

「まあ、飲み屋もムリだな。そんなデカい女相手に酒飲みたくねえもんな。そうだ! ドカタのバイトなら稼げるかもしれないぞ。お前、デカいし力ありそうだし・・・」

「やだよ、そんなの。もういい! 頼まない。・・・ねえ、今夜、行ってもいい?」

「来るのか・・・」

「行くよ、もちろん」

 夏休みとはいえ部活もあるし合宿も控えていましたから、毎日ずっと長く働くのはムリでした。夏休みに入っても月水金の体育館使用スケジュールは変わりませんでした。小さな体育館を二つに仕切り、バレーとバスケット。卓球とバドミントンをペアにして使うので毎日は無理なのです。

 学生課に行ってスポット的に、しかも比較的自由に働けるところを探していると、それがあったのです。練習のない火曜日と木曜日。それにスポット的に練習のない土日を労働に充てることにして問い合わせたところ、それでもいいと言われました。

 撮影スタジオ付きのアシスタントというのがそれでした。さすが東京だと思いました。


 

 そのスタジオはあの表参道大学のすぐ近く、ハイソな青山にありました。

 地図で見てみると寮から直線距離で三キロほどですが、北海道の田舎を自転車で行くのとはやはりまるきり違います。地図を頼りに一時間ぐらいかかりました。

 その辺りはなぜか撮影スタジオが集中していました。ハイソなところで撮った写真だからハイソになるのだろうぐらいに思っていました。

「仕事はお客さんの荷物を運んだり照明用のカポックとかを用意したりスクリーンを巻いたり、要はスタジオの管理と雑用、かな。撮影準備から終了撤収まで。それから備品のメンテナンス。場合によっては徹夜になることもあるけど、できるかな」

 マネージャーらしき、髪の毛を後ろで縛ったエガワさんという賢そうな女性から言われました。三十代の後半ぐらいだったでしょうか。

「寮住まいなので十時には帰らなくてはいけないんです」

 もちろん、建前を言いました。

「どこだっけ、あ、市ヶ谷か。そうか・・・。何で通う?」

「基本、自転車で。雨なら電車にします」

「うんうん。で、火曜と木曜ね。土日は応相談と・・・」

「ダメですかね」

「うーん。忙しい時は忙しいんだけど、ヒマなときはヒマなんだよね。こっちとしては本当は忙しい時だけ手伝ってもらいたかったんだ。ま、どこでもそうだけどね。時給は五百円だけど、どう?」

 当時、牛丼屋さんの時給が300~400円。ハンバーガーショップのそれが250円プラス能力給の時代でした。それからすればいい方でした。ちなみにこの年の大卒初任給が七万八千円ほど。翌年はすぐに一万円ほど上がりました。平成から令和のここ二十年ほどは横ばいが続いていますが、それからすれば今よりも若い人が希望の持てる時代だったと言えるのではないでしょうか。

 その面接で採用となりました。

「今日から働ける? 」

「はい」

「今日は7時まででいいや。休憩はその時の状況によるけど、いい?」

「はい。よろしくお願いします」

「じゃ、この奥のCスタの隣がバイト君たちの休憩所と詰め所になってるからそこに行って指示を受けてくれる? ハイこれ、制服ね。Mでいいよね。よろしくね」

 黒のポロシャツを渡され、その詰め所に行きました。

「あのう、今日からお世話になる、ハヤカワといいます。よろしくお願いします」

 白い発泡スチロールのカポックや黒い巻紙や照明を和らげるパラフィン紙やらが積み重なった部屋の奥で机に向かっている黒いポロシャツの男の人が先輩なのだと思い、声を掛けました。

 その若い男の人がくるっと振り向き、ビックリしました。

「ハヤカワ・・・」

「ヤマギシ・・・」

 高三の一年間はあまり会わなかったので、ほぼ一年半ぶりぐらいでした。

 ヤマギシ君は変わらず、あの弁当箱を取ってくれたヤマギシ君でした。

「お前・・・。呼び捨てかよ」

「あんただって前から呼び捨てじゃん。どうしてここにいるの」

「どうしてって、ここでバイトしてるからだ。・・・もしかして今日面接受けたのって、お前か」

「・・・そうみたい」

「お前、市ヶ谷行ったんだってな」

「うん。あんたは?」

「江古田芸大の写真学科」

「へえ。やっぱカメラマンになるんだ」

「そうだ」

「どうせまあた、エロいやつばっか撮ってるんじゃないのォ・・・」

「うるさいよ!」

 彼は壁のドアを指さして言いました。

「そこ、更衣室兼ロッカーだから。男女兼用だから着替える時は中からカギ閉めろ。言っておくけどな・・・」

 彼は立って腕組みしながら胸を張りました。

「ここではオレが先輩だからな。四月からいるんだから。呼び捨てとタメ口は厳禁。わかったな?」

「4、5、6・・・、たった三か月だけじゃん。なにえばってんのよ!」

「先輩は先輩だ」

「・・・なんか、ムカツク。ねえ、ロッカーどれ使えばいいの? 教えて、せ・ん・ぱ・い」

 スタジオに常時いる社員はエガワさんを入れて三人。バイトがもう一人いて三人。計六名のスタッフが通常の人数でした。オーナーさんは元カメラマンだったひとらしく、もともとこの辺りに住んでて土地もあったので自分でスタジオを建てて撮影していたら使わせろという人が増えて増設に増設を重ねて今のような形になったということでした。

 黒いポロシャツはサイズが小さくておへそが見えてしまいそうでした。

「13時からDスタ予約入ってるからそれまでの間いろいろ教えてやる。ありがたく思えよ」

 いちいち恩着せがましいクソ生意気なヤマギシ君にムカつきましたが、グッとこらえて仕事の基本を教わりました。東京に出てきて三か月。やっと会えた同級生でしたが、どうもわたしと彼は蛇とマングースのように永遠に反目し合う運命のようでした。

「メシ、どうする」

「近くにパン屋かなにかない?」

「ちょっと歩くが350円でカレーが食える店がある。案内してやってもいいぞ」

「イチイチそのタイドがムカつくのよね」

「イヤならその限りではないが」

「イヤとは言ってないでしょ。わたしチャリだから後ろに乗せてやってもいいよ」

 青山通りから西麻布に向かって走り、上を高速道路が走る六本木通りの坂を自転車を押しながら都心に向かって少し上った右側にその安い定食屋がありました。

 そのボリュームに感動しました。寮の食事では必ず三杯はお替わりするわたしでしたが、その三杯よりも多いごはんに皿からこぼれそうなほど大量のルーがかかって350円なのです。ちょっと辛めなのが気に入りました。サラリーマンで込み合った店の片隅で、わたしたちは無言で脇目もふらず、カレーを胃に収めました。

「ワシオとはまだ付き合ってるのか」

 ヤマギシ君とは三年生ではクラスが別になりました。東京に出てきてそれまでの生活がガラリと変わり、自転車の後ろに乗ったヤマギシ君から言われるまで、その名前を他人の口から聞いたことはありませんでした。何故だか、不思議な気分になりました。彼と付き合っていたことは誰にも話しませんでしたが、といって否定する気も起りませんでした。わたしの中ではワシオ君はもう完全に過去の人になっていました。

「ううん。彼が今どこにいるのかも、知らないもん・・・」

 ワシオ君と付き合っていたことを他人に認めたのは、たぶんそれが最初だったと思います。

「・・・そうか」

 それきりヤマギシ君はスタジオに帰るまで何も言いませんでした。

 スタジオに戻ると駐車場にグリーンの箱バンが駐まっていました。

「・・・あ、お客さん、もう来てるね」

「午後のDスタのだろうな。・・・大物だぞ」

「誰?」

「クノウトンメイ」

「誰それ。中国人?」

「おま・・・、クノウトンメイ知らないのか。・・・モグリだな」

「知らないよそんなの・・・」

 一番大きく天井も高いDスタにはジーンズにTシャツを着た二人の若い男の人が持ち込んだ機材の箱を開けて三脚やストロボライトや何台ものカメラの準備をしていました。

 すでにエガワさんが入っていました。

「あとヤマギシ君頼むわね。ハヤカワさんは今日は彼についててくれればいいから」

 そう言って事務所に戻っていきました。

「(どっちがクノウさんなの?)」

 入り口の脇に立って隣のヤマギシ君に囁きました。

「(どっちも助手だよ。親分は準備が終わった後にくるんだ)」

 なるほど、そういうものかと感心していると、

「そろそろ親分が来る。駐車場で待機して、来たらここまで案内してくれ」

「え、でもわたしわかんないよ」

「大丈夫、すぐわかるよ。ハデだから」

「え、ちょ・・・」

「スタジオさん。カポック五六枚用意してもらっていいですか」

 助手さんの一人が言いました。

「ハイ! 今持ってきます。・・・ホラ、早く行けよ!」

 ヤマギシ君にスタジオを追い出され、半信半疑で駐車場に行きしばらく突っ立っていると、ピカピカ真っ白のメルセデスベンツのオープンカーが滑り込んできました。

 髪の毛はこってりの油で固め、真っ黒に日焼けしてサングラスをかけ、派手なアロハシャツの胸元には金キラのチェーンがかかっていました。ドアが開いて白い麻のスラックスに素足に白いスニーカーの脚が降り立ちました。あ、この人だな。一目でわかりました。

「・・・こんにちは」一応挨拶しました。

「早よっ! おっ!、初めて見る顔だね。新人?」

「今日からです。よろしくお願いします」

「キミ、スタイルいいねえ。お尻なんかグッときちゃうね。ねえ、こんどイッパツやらせてよ! わははは・・・」

 イキナリナンパかよ・・・。

 これがギョーカイというやつで、これでほんのあいさつ程度のものですが、田舎から上京したての小娘には十分に刺激が強すぎました。わたしは初っ端からその洗礼を受けたわけです。

 それでも取り乱したりはしなかったのは、やはりマスターの影響が大きかったのだと思います。

 そんなクノウさんでしたが、スタジオに入るや顔つきが変わりました。

「オイ! 今日のコ、何時に入る?」

「二時の予定です」

「わかった」

 そう言って休憩用のテーブルの傍に置かれたディレクターズチェアに脚を組み、女の人の写真の貼ってある資料に目を通し始めました。

 助手さんの一人がラジカセを出してスイッチを入れました。先日のディスコでかかっていたようなダンスミュージックが流れてきました。

「あ、ちょっとそこのキミさ、ここ入ってくれる?」

 助手さんの一人から言われました。

 花びらのように何枚ものカポックに囲まれた真ん中に入りました。スタンドインというやつで、実際のモデルさんの代わりに立って画角や露光などを確認するためです。

「今日のモデルさん、もっと背が低いんだ。キミ、少し中腰になってくれるかな」

「・・・あ、ハイ」

 不思議なものでそうして何度もフラッシュを浴びているうちにポーっとしてきて困りました。モデルさんというのはそういうポーっとしたなかでもちゃんと表情を作ったりポーズを決めたりできるんだな、スゴイなと思いました。

 それからどんどん人が増えてきました。ジーンズの人スーツの人。どの人がどんな役目をしているのかさっぱりわかりませんでしたが、来る人みんながクノウさんを「先生!」と呼んでいました。よほどエライ人なんだなと思いました。

「先生! 今日はよろしくお願いします。ことしのウチの新人でイチオシの子なんです。このグラビアで大々的に売り出そうと思ってますんで・・・」

「ハイハイ、わかってますよ。及ばずながら微力を・・・」

「またあ。ご謙遜が過ぎますよ、センセ・・・」

「ところで、まだなの? そのコ」

「もう間もなくかと。渋滞に引っかかってるんでしょうかね。ちょっと電話してきます。えと、電話、どこかな」

「先生。準備出来ました。よろしいですか」

「おっ!」

 クノウさんが三脚に据えられたカメラのファインダーを覗きました。

「おお。いいじゃないの。マドカちゃんだっけ。そのコ来ないなら、このコで行くか。どう? スタイルいいしケツもめっちゃエロいよ」

「あははは。センセ、ご冗談を・・・。もう間もなく着くかと思いますので・・・。これ今日の衣装の水着です。チェックお願いします」

 キミ、もういいよ。ありがと。

 助手さんから言われ、わたしはやっとポーから解放されました。しばらくの間、顔の火照りが消えませんでした。

「お待たせしましたー。はよざいますー」

 その赤白のボーダーのタンクトップにショートパンツのモデルさんがマネージャーらしき男の人の後ろからスタジオに入ってくると、その場がパッと明るくなりました。ちっちゃくて可愛くて、おまけに胸がボインボインのナイスバディーの子でした。芸能人という人種が持つオーラというやつを、わたしは初めて浴びました。

「おはようございますゥ。よろしくおねがしますゥ」

「おい! 曲変えろ。もっとアップテンポで明るいのないのか。お前何年オレの下にいるんだよ。もっと感性を磨けよ、感性をよ!」

 クノウさんが助手さんを怒鳴りました。そうすると撮影現場にピシッと張りつめた空気が流れました。


 

 今、僕を生かしてくれるのは君なんだ

 たとえ、この身に何が起ころうと

 君だけを、僕は君しか見えない

 僕がここにあるのは、君がいてくれたから

 ああ、君さえいれば・・・


 

「おお、クイーンか。いいねえ」

 ふと横のヤマギシ君を見ると手帳に何かをメモってました。

「なに書いてるの?」

「クノウさんがどういう曲が好みなのか、忘れないようにだよ」

 いつもおちゃらけていたヤマギシ君も、カメラのこととなると人が変わったようになりました。そんな細かいことまで覚えようとする。そういうプロ根性みたいなものを醸し出す彼を前にも見たことがあったなあと思い出しました。

 衣装の黒いビキニに着替えたモデルさんがさっきわたしが入っていた立ち位置に入りました。

「おおいいねえ、マドカちゃん、思いっきりセクシーだよー。こっち目線くれる? そう、ちょっと顎あげてみようか。この拳を見下すようなカンジ、そう、おおいいねえ・・・」

 シャッターをバチバチ切りながら、クノウさんはひっきりなしに喋ります。

「そこのボーヤ、ちょっとここ立ってくれるか。彼女の目線作ってくれ」

「ハイッ!」

 ヤマギシ君がクノウさんの横に立ちました。

「マドカちゃん、彼どお? タイプじゃない? 」

「フフッ、ええーっ?」

「きっと彼、まだチェリー君だよ。彼を誘惑する感じで。ちょっとベロ出して舌なめずり・・・そう、いいじゃない! それだよ。ああ、たまんないな。オレまでヤリたくなっちまったじゃないか。どうしてくれるんだよ、マドカ! ・・・おい、次!」

 フィルムがなくなったカメラを助手さんに渡し、装填済みのを持ち替えてまたバチバチ始めました。

「グッときちゃうね。その顔のまま後ろ向いて。アキちゃん、マドカのブラの紐解いてくれる? ・・・ありがと。ひもはそのままダランと・・・そんな感じ。マドカ! マドカこっち。ムネ抑えて顔だけ振り向いて。ああんって、声出してみて」

「・・・ああん・・・」

「もっと、もっと気持ちくれよ。頼むよォ、オレのチンコ勃たしてくれよおおん! あ、それいいっ! もらった。すっげースケベなのもらっちまったぞ、マドカ。お前、めっちゃ、エッロいなあ・・・」


 

 撮影は一時間くらいで終わりました。モデルさんは早々に次の仕事に向かいました。

「だいたい、こんなもんじゃないすかね。じゃ明日、オレの事務所で・・・」

 スーツの人たちにそう言うとクノウさんも先に帰って行きました。

 助手さんたちの撤収を手伝い、車まで運び、スタジオの後片付けと掃除をして今日の仕事は終わりです。まだ四時でしたが、その後の予定はありませんでした。お昼休みを除いた五時間分の日当を貰いました。二千五百円。わたしの最初のアルバイトのお給料でした。

 ヤマギシ君はやはり大学近くにアパートを借りていました。池袋から私鉄線に乗り換えるのです。信濃町まで三十分ほど歩いてそこで別れることにしました。天敵みたいなものではありましたが、やはり同郷の同級生が同じ東京にいるというのは心強いものがあったからです。

 当時は梅雨といっても今ほど雨は降りませんでした。赤坂離宮を右に緑の深い神宮外苑を左に見ながら、汗ばむほどの陽気の中を歩きました。

 ヤマギシ君は高校時代に比べやや口数が減っていました。そこがどうにもつまりませんでした。ですが、久しぶりに会った同級生です。気まずくはありませんでしたが、どうにも調子が狂うのでしびれを切らして話しかけました。

「ねえ。何か話してよ」

「・・・お前あのバイトいつまでやるんだ」

「いつまでって・・・。出来るとこまでは続けるつもりだけど。でも、毎日は無理だよ。明日は部活だし、合宿もあるしね。その合宿費用稼ぐためだもん。とりあえずはね」

「また、写真撮らせてくれよ・・・」

「またそれ? 今度はどんなネタで強請るつもりなの」

「おま、人聞きの悪いこと言うなよ。オレがいつ強請ったんだよ」

「強請ったじゃない!」

「じゃあ、頼むよ。・・・撮らせてください」

「モデル料高いよ」

「・・・いくらだよ」

「あのカレー気に入ったから、一回奢ってくれたらいいよ」

「・・・安い女」

「でも、どうしてわたしなんか撮りたいの。東京まで出て来てさ、カワイイ女の子たくさんいるじゃん」

「・・・エロイからだよ」

「あんた、エロくなくなったっていったじゃん」

「今は違う。・・・なんか、前よりずっと、エロくなった」

「飢えてるからそう感じるんじゃないのォ・・・。ヤマギシ、前から思ってたけど、前よりずっと、キモくなった」

「なんでだよ。エロいからエロいって言ってるだけだ。エロいもんは、エロイんだっ!」

 自転車を押して歩きながら力説するような話ではありませんでした。神宮の森の奥では早くもセミが鳴き始めていました。

「ヤマギシはさあ、大学卒業したらカメラマンになるんだよね」

「おう。そのためにここにいるからな」

「きっといろんなところに写真撮りに行くんだよね」

「おう。ま、そうなるわな」

「それってきっと日本だけじゃないんだよね。世界中いろんなとこ行くんだよね」

「おう。なんだ、オレが羨ましくなったのか」

「・・・やっぱ、クノウさんが言ったとおりだね」

「なにが」

「チェリーボーイって・・・」

「なあ・・・。その『チェリーボーイ』って、どういう意味なんだ?」

「・・・」

 信濃町でわたしの寮の番号と彼の下宿先の番号を交換して別れました。

「じゃあ、あさってまたスタジオでね。チェリー君」

「おい! だからそれ、どういう意味なんだよっ!」


 

 いつものように寮に帰り夕食を食べてお風呂に入りましたが、自転車だけは例の民家と民家の隙間に引き入れておきました。門限が過ぎ、準備をして、何気に食堂に行き、電話をしている子がいたので明かりをつけて雑誌を読みながら電話が空くのを待つ振りをして時間を潰し、その子が終わったのを見計らい食堂の明かりを消して下駄箱からスニーカーを取り、秘密の隙間から外に出ました。

 閉店時間に間に合いました。

「なんだ。来たのか」

「・・・来たのよ」

 自転車を押してマスターと並んで歩きました。

「アルバイト、決まったよ」

「そうか。ドカタは大変だったろう」

「撮影スタジオの助手だよ。ねえ、クノウトンメイって知ってる?」

「おお。写真家のか」

「今日のお客さんだった。水着の女の子の写真撮ってたよ」

「ははーん・・・」

「芸能人てスゴイね。いるだけでその場がパッと明るくなるんだよね」

「へえ・・・」

「撮り方もなんかエロかった。ずーっと喋ってるの。そんな顔されるとヤリたくなっちゃうじゃない、とか、オレのチンコ勃たしてくれよォ、とかさ」

「ほお・・・」

「・・・」

「話、それで終わりか」

「・・・ムカつく」

 その晩もいつものようにマスターを元気にして抱かれました。ヤマギシ君のことはマスターには言いませんでした。


 


 
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