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32 Laughter In The Rain & In my life
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最後はドタバタになりましたが、おおむね有意義な合宿が終わり、東京に帰りました。
真っ先にマスターの店に行きました。寮には合宿がもう一日長引いたと伝え、もし実家から電話があったらそのように伝えて欲しいと根回ししておきました。在不在の札の心配なしに外泊できる絶好のチャンスでしたから大いに利用させてもらうにしくはありませんでした。
「おう! しばらくだな。ちったーバレー上手くなったか。・・・ん? ハラ減ってるのか? ランチの残りがあるから恵んでやるぞ。・・・おいどうした、そんな目で睨んで・・・。ハラでもコワしたのか・・・」
彼のたたずまいは変わらず、おかしなマリオのままでした。その変わらない風情に、何故かしら目頭が熱くなり、うるっと来てしまいそうでした。他のお客さんの手前、必死にガマンしましたけれど。
その晩、思いきり抱いてもらいました。
部屋に入るなりバッグを投げ出し、貪るように彼を求めました。
「なんだおい。めちゃハゲしいな。どうしたんだ」
「いいから黙って。何も言わないで。わたしを滅茶苦茶にして。たくさん、オカして」
マスターに抱きつき、タバコのヤニくさい唇を奪い、手や脚を絡みつけるようにして抱きつきました。我慢していた涙が溢れ、次々としずくが流れ落ちました。彼の、ファイブアフターシャドーが現れかけた頬に摺り寄せ、髪をくしゃくしゃにしてあげました。マスターはもう、何も言いませんでした。
「わたしって、エロいの?」
彼は何も言わず、熱くて濃厚なキスをくれました。
それからたっぷりと愛してもらいました。
呆れるほどに念入りに身体中を愛撫され、とくにあそこを執拗に舐められながら乳首をコリコリされて何度もイカせられ、いいかげん催促してやっと彼のオブジェを挿入れてもらえた時は心から満たされた思いでした。二週間以上もしていなかったせいか、彼は最初から元気でした。ヤマダさんが「彼は絶対にウワキしない」と言っていたのは本当だったのだな、と実感できました。
「やっぱ、コレがいちばん!」
「・・・ということは、合宿でいっぱいオイタしてきたのね」
「あ、味見程度だよ!」
「じゃあなんであんな死にそうな顔してたんだよ」
「・・・練習がキツかったからでしょ」
「フフ、どうだか・・・」
「ね、もう一回して」
「・・・さあ、どうするかなあ・・・」
「そういうイジワル言うんだ・・・」
「・・・ったく、しょーがねーヤツだなあ、お前は・・・」
それからベッドに移り、もう一度してもらいました。何度もイカされて、やっと満足して彼の太鼓腹の上でまったりしながら彼のを擦っていました。
「マスターはどう? エロいと思う?」
「なにが・・・」
「わたし。・・・エロい?」
「さあな・・・」
「・・・ヤマダさんより、エロい?」
「・・・そういう無粋なことは訊くもんじゃねえよ」
彼の両の掌がわたしのお尻を抱え、撫でました。
「だって・・・」
「今のお前の、それが素なんだろ? だったら、それでいいじゃねえか。他と比べるなんて、ナンセンスだよ」
その年のお盆は実家には帰りませんでした。部活も休みでしたから帰る気になれば帰れました。その気がなかったのです。
「マスターはさ、実家帰らないの?」
「そんなもんはねえよ」
店の常連さんは大体が若い勤め人か学生でしたから、お盆を迎えると閑散とする東京と同じで店もヒマになりました。それでもマスターが律儀に店を開けるので、遅れている勉強を取り戻すために通いました。なんといってもクーラーが利いていて飲み物とお昼がタダとなれば利用するにしくはありませんでした。
「お前こそ。最初の年なんだから帰って顔見せて親孝行でもして来にゃあ・・・」
マスターはカウンターの中に脚立を持ち込んで、棚のグラスやボトルを下ろし、中の拭き掃除を始めました。
「バチ当たるって言うんでしょ・・・。古いなあ・・・」
自分で淹れたミルクティーを飲みながら、テキストに肘をついてマスターの掃除を眺めていました。
「お前、ヒマなら少しは手伝えよ」
「時給いくら?」
「払うわけねえだろ」
「じゃ、やだ」
「・・・ったく、こんのクッソ娘がまったく・・・」
ああ 雨の笑い声が聞こえるよ。手に手を取って歩くんだ 愛する人と
ああ 雨の日って好きなのさ。幸せな気持ちがじんわりと広がるよ
FMラジオからニール・セダカの新曲が流れてきました。外は雨どころか真夏のカンカン照りが続いていましたが、冷房の効いた、お客が誰もいない喫茶店の午後のダルな雰囲気によく似合う曲でした。
ふと思いついて、電話してみる気になりました。
「あの、ハヤカワといいますが、ヤマギシさんいらっしゃいますか」
お盆だから実家に帰っているかもしれませんが、もし東京にいるならヒマだろうと思ったのです。顔を突き合わせればいがみ合う天敵同士ではありましたが、しばらく会っていなかったので、それはそれでつまりませんでした。
だいぶ歳の行ったようなおばあさんが電話に出て彼に繋いでくれました。
「・・・んあい」
どうやら彼は寝起きのようでした。
「わたし、ハヤカワ。寝てたの?」
「徹夜明けだったんだ。・・・何?」
「ああ、そうだったんだ。じゃあ、悪いからまたにするヨ」
「・・・なんか、用だったのか」
電話しながらボリボリ背中や腹を掻いているのが想像できそうな喋り方でした。
「・・・別に用ってほどの、じゃないけどさ、ほら、お盆だからさ・・・。わたし、田舎帰らなかったから・・・」
そこまで説明させるのかよ、気づけよ、空気をよ。だんだんイライラしてきました。
「・・・ああ。そうか・・・」
「じゃ、切るね。眠いとこ、ごめんね。お盆明けの火曜日にまたね」
「・・・ちょ、ちょっと待てよ。・・・今どこ?」
池袋から西武線に乗り換えて江古田駅で降り、教えてもらった通りに歩いたつもりなのですが、どこをどう間違ったのか、道がわからなくなりました。しかたなく目についたタバコ屋の赤電話からもう一度電話しました。
「ごめん、わからなくなっちゃった・・・」
「どの辺にいる? 近くに目印とかないか?」
「駅前通りのケロヨンのいる薬屋さんの隣のタバコ屋。向かいにペコちゃんがいるケーキ屋さんがある」
「あ、わかったぞ。そこにいて」
「うん・・・」
商店街のアーケードにはFM放送が、マスターの店で聞いた曲が流れていました。夏の盛り。お盆で閑散とした通りはムシムシと蒸し暑く、曲の通り一雨来そうな気配がありました。
洋楽であるにもかかわらず、どこかオリエンタルな雰囲気の、あまりにもあっけらかんとした手放しの陽気な曲が初めての街に親しみを感じさせました。これなら、たとえ夕立に見舞われても楽しく過ごせそうな気がしました。
軽やかな桐の下駄の音をさせてヤマギシ君がやってきました。
「おう」
「ごめんね、わざわざ・・・」
「オレの下宿、ちょっと解り辛いとこにあるんだよな・・・」
「いいとこだね。下町っぽくて好きだな」
「だろ? オレも気に入ってるんだ・・・」
彼と並んで商店街を歩いていて気づきましたが、高校時代から今まで、「ヘビとマングース」じゃなくて、彼とこんな普通な会話をしたのは初めてでした。
しばらくして 木の下に雨宿り。彼女の方を見たら キスしてきたのさ
ドキドキする鼓動 木の葉に注ぐ雨音。彼女はやさしく息をして僕は目を閉じる
空は荒れ模様だけど僕らは愛を分かち合う・・・
ヤマギシ君の下宿は商店街から少し奥に入った普通の民家でした。二階家で、大学が近いせいか三部屋ある二階の部屋の住人はみんな彼と同じ大学の学生だということです。
格子戸の玄関を開けて三和土の奥に居間があり、頭にお団子をのっけた品の好さそうなおばあさんが真夏なのにこたつに入っていました。
「あ、これ高校の同級生で市ヶ谷女子大行ってるヤツです」
「こんにちは」
「あらそお。優秀なのねえ・・・」
「いえ、そんなことは・・・お邪魔します」
「どうぞ。ごゆっくり」
「階段急だから気を付けろ」
彼が注意してくれたように、気を抜くと後ろに倒れそうな階段を登ってゆくと窓を開け放した、よく磨き込まれた明るい廊下が伸びていてドアが三つ並んでいました。その一番手前が彼の部屋でした。ドアに「三」と筆で書いてあるのが風格を感じさせました。
部屋は四畳半で綺麗に片付いているので狭さは感じませんでした。木の建具のガラス窓の向こうは隣家の物干し台で、遠くに都心の街並みが望めました。
「へ~え、いいとこだね。家賃いくら?」
わたしはハンカチでパタパタ顔を仰ぎながら、窓からの眺望を眺めました。
「月三千円」
彼はうるさい扇風機のスイッチを入れ、小さな冷蔵庫から麦茶のサーバーを取ってグラスに注ぎました。
「安ーい・・・」
「こんなもんじゃねえの。オレ、私立だからさ。授業料国公立の倍だろ。贅沢は言えねえさ」
「充分だよーお。門限無いのが最高だね」
「夜は玄関の隣の勝手口からカギで入るのさ。トイレ共同、風呂は銭湯。寝るだけだからこんなもんで十分なのさ」
黒いカーテンで仕切られた一画に興味が湧きました。
「ここはなに?」
「開けてみろよ」
そこは小さな流しでしたが、目の上に張り渡した針金にフィルムが何本か掛けられ、何かの薬品の容器が置かれ、現像された写真が何枚もぶら下がっていました。
「オレの現像室。学校のも使えるけどね、オレだけのが欲しかったんだ」
流しからは現像に使う酢酸の酸っぱい匂いが漂っていました。
「ヤマギシ・・・。本格的なんだね。スゴイよ」
「はは・・・。あ、そうだ」
彼は押し入れを開けました。上の段にはおそらくはさっきまで延べられていたであろう布団が押し込められていて、それが崩れてこないように手で支えながら、下の段の段ボール箱の中をゴソゴソやっていました。
「あった」
彼は一冊のサービス版の写真のフォルダーを取り出してきました。
「お前に渡そうと思ってたんだけど、なんだかんだ、渡しそびれててさ」
それはあの高校二年の冬。サオトメと一緒に撮ったプレーの写真でした。もちろん当時すでにカラー写真はあったのですが、そのフォルダーのはどれもモノクロームで、カラー写真よりも綺麗で、写真の全てにその当時の熱のようなものが滲み出てくるような、今でいえばスマートフォンの動画のように今にも動き出してしまいそうな、そんな写真でした。
「・・・懐かしいね」
「後ろのほうにバレー部から頼まれて撮ったヤツの焼き増しもある。お前らがインハイ行きそこなった時の記念写真な。あはは。これでやっと肩の荷が降りたよ」
短い髪。広い額の下の小さいけれど切れ長の目が優しく光っていました。初めてまともにヤマギシ君の顔を見たような気がしました。
「わざわざ実家から持ってきてくれてたんだ」
「お前がどこに行ったかもわからなかったんだけどな。なんか、持ってた方がいいような気がしたんだ」
「・・・ありがとう。・・・なんか、うれしいな」
その時、あ、わたしコイツとキスしてもいいな、と思ったのです。雰囲気的に、そんな感じだったのです。でも、やはりヤマギシ君は、信頼と実績のチェリー君だったようです。彼は沈黙に耐えられなかったのか、ラジカセのスイッチを入れました。
ああ 雨の笑い声が聞こえるよ。手に手を取って歩くんだ 愛する人と
ああ 雨の日って好きなのさ。幸せな気持ちがじんわりと広がるよ
「夕ご飯まだでしょ。どっかで一緒に食べようよ」
「ごめん。オレ、バイト行かなきゃ」
「お盆なのに?」
「今夜、予約入ってるんだ。物撮りのお客さんなんだけどさ、その人、助手いなくてさ。オレのこと指名で入れてくれるんだよ」
物撮りとは、商品撮影のことで、洋品店やスーパーや家電を扱う商店などが新聞折込のチラシやカタログなどに載せる商品だけの写真を撮影することをいいます。商品をセットし、照明をセットし、パチッとやってまた次の商品をセットし・・・、という非常にジミな仕事です。だいたいは一番小さなスタジオで夕方から翌朝までの一番安い時間帯で。商品にもよりますが、一回の撮影で数十カットから多い時には数百カット。実に根気のいる作業でした。
「スゴイじゃん。今ので尊敬した」
「だろ? だったら少しは敬意を払えよな・・・」
彼と一緒に下宿を出て新宿まで電車でいろいろな話をしました。わたしはそこで乗り換え、彼はスタジオに向かいました。
その日はマスターの店に行く気が起こらず、真っすぐに寮に帰って夕食を食べお風呂に入りました。心配した夕立は部屋に戻って写真に見入っていると降ってきました。
別れ際、ヤマギシ君はフォルダーとは別に一枚の写真をくれたのです。
「先に謝っとくな。オレ、実はこれ、撮っちゃっててさ。これでまた写真撮らしてもらおうとしててさ。強請(ゆすり)って言われてもしかたないけどさ・・・。でも、ワシオが急にいなくなって、お前も落ち込んでて、とてもそんなこと言えなくてさ・・・。
結局さ、今の今まで持ってたんだ・・・」
電車を降りる間際に渡された一枚のモノクロームの写真。
それは、ワシオ君との最初のデートの時のものでした。
ちょうど二人で真冬の図書館から出て来たところを写したもので、まだ初心だったわたしがハニカミながら俯いていて、ワシオ君がわたしの首に巻いたマフラーを直している・・・。そんな一瞬を捉えたものでした。この時だけは二人の心に何の不純物もなかったと思えるような、そんな、切ない気持ちになる一枚でした。
初めて好きな人と一緒に過ごせて幸せいっぱいの女の子。
その優しい笑顔に女の子への思いが溢れている男の子。
ヤマギシ君の撮った写真は何枚もみましたが、間違いなくその一枚が、彼の最高傑作だったでしょう。
ロッカーの中の段ボールをひっかきまわして、一本のカセットテープを見つけました。ワシオ君がダビングしてくれたテープは貰えずじまいでしたが、せっかく買ったレコードだから、いつか聴ける日か来るかと思いダビングして持ってきていたのを思い出したのです。ラジカセにセットしてボタンを押すと、「In my life」のジョンの甘い歌声が流れてきました。
いくつかは変わってしまったが、生涯思い出すであろう場所がある
永遠に変わらないものもあれば そうではないものも
無くなってしまった場所や変わらずに残っている場所
そういった場所にはすべて恋人達や友人達とのひと時があって
僕は今でもそれらをはっきりと思い出せる・・・
今に至るまで数多くのアーティストにカヴァーされているこのビートルズの「In my life」ですが、全ての人の全ての心の中の思いを優しく包み込んでくれるような素晴らしいリリックにその理由があるのではないかとわたしは思います。
激しい夕立の立てる雨音とジョンの歌声を聴きながら、わたしはこの一枚の写真を二年間近くも持ち続けたヤマギシ君の心の内を思わずにはいられませんでした。もどかし気な言葉の中に、彼の思いが見え隠れしていたのに気付きました。それを問い詰められたくなくて、わざと別れ際のギリギリで写真をくれた彼のせつないほどに不器用な心の内を。
独り、写真を飽くほどに見つめながら、わたしはその晩何度もテープを巻き戻して「In my life」を聴き続けました。
ワシオ君と別れてから初めて、わたしは落ち着いた気持ちでビートルズを聞くことが出来ました。
真っ先にマスターの店に行きました。寮には合宿がもう一日長引いたと伝え、もし実家から電話があったらそのように伝えて欲しいと根回ししておきました。在不在の札の心配なしに外泊できる絶好のチャンスでしたから大いに利用させてもらうにしくはありませんでした。
「おう! しばらくだな。ちったーバレー上手くなったか。・・・ん? ハラ減ってるのか? ランチの残りがあるから恵んでやるぞ。・・・おいどうした、そんな目で睨んで・・・。ハラでもコワしたのか・・・」
彼のたたずまいは変わらず、おかしなマリオのままでした。その変わらない風情に、何故かしら目頭が熱くなり、うるっと来てしまいそうでした。他のお客さんの手前、必死にガマンしましたけれど。
その晩、思いきり抱いてもらいました。
部屋に入るなりバッグを投げ出し、貪るように彼を求めました。
「なんだおい。めちゃハゲしいな。どうしたんだ」
「いいから黙って。何も言わないで。わたしを滅茶苦茶にして。たくさん、オカして」
マスターに抱きつき、タバコのヤニくさい唇を奪い、手や脚を絡みつけるようにして抱きつきました。我慢していた涙が溢れ、次々としずくが流れ落ちました。彼の、ファイブアフターシャドーが現れかけた頬に摺り寄せ、髪をくしゃくしゃにしてあげました。マスターはもう、何も言いませんでした。
「わたしって、エロいの?」
彼は何も言わず、熱くて濃厚なキスをくれました。
それからたっぷりと愛してもらいました。
呆れるほどに念入りに身体中を愛撫され、とくにあそこを執拗に舐められながら乳首をコリコリされて何度もイカせられ、いいかげん催促してやっと彼のオブジェを挿入れてもらえた時は心から満たされた思いでした。二週間以上もしていなかったせいか、彼は最初から元気でした。ヤマダさんが「彼は絶対にウワキしない」と言っていたのは本当だったのだな、と実感できました。
「やっぱ、コレがいちばん!」
「・・・ということは、合宿でいっぱいオイタしてきたのね」
「あ、味見程度だよ!」
「じゃあなんであんな死にそうな顔してたんだよ」
「・・・練習がキツかったからでしょ」
「フフ、どうだか・・・」
「ね、もう一回して」
「・・・さあ、どうするかなあ・・・」
「そういうイジワル言うんだ・・・」
「・・・ったく、しょーがねーヤツだなあ、お前は・・・」
それからベッドに移り、もう一度してもらいました。何度もイカされて、やっと満足して彼の太鼓腹の上でまったりしながら彼のを擦っていました。
「マスターはどう? エロいと思う?」
「なにが・・・」
「わたし。・・・エロい?」
「さあな・・・」
「・・・ヤマダさんより、エロい?」
「・・・そういう無粋なことは訊くもんじゃねえよ」
彼の両の掌がわたしのお尻を抱え、撫でました。
「だって・・・」
「今のお前の、それが素なんだろ? だったら、それでいいじゃねえか。他と比べるなんて、ナンセンスだよ」
その年のお盆は実家には帰りませんでした。部活も休みでしたから帰る気になれば帰れました。その気がなかったのです。
「マスターはさ、実家帰らないの?」
「そんなもんはねえよ」
店の常連さんは大体が若い勤め人か学生でしたから、お盆を迎えると閑散とする東京と同じで店もヒマになりました。それでもマスターが律儀に店を開けるので、遅れている勉強を取り戻すために通いました。なんといってもクーラーが利いていて飲み物とお昼がタダとなれば利用するにしくはありませんでした。
「お前こそ。最初の年なんだから帰って顔見せて親孝行でもして来にゃあ・・・」
マスターはカウンターの中に脚立を持ち込んで、棚のグラスやボトルを下ろし、中の拭き掃除を始めました。
「バチ当たるって言うんでしょ・・・。古いなあ・・・」
自分で淹れたミルクティーを飲みながら、テキストに肘をついてマスターの掃除を眺めていました。
「お前、ヒマなら少しは手伝えよ」
「時給いくら?」
「払うわけねえだろ」
「じゃ、やだ」
「・・・ったく、こんのクッソ娘がまったく・・・」
ああ 雨の笑い声が聞こえるよ。手に手を取って歩くんだ 愛する人と
ああ 雨の日って好きなのさ。幸せな気持ちがじんわりと広がるよ
FMラジオからニール・セダカの新曲が流れてきました。外は雨どころか真夏のカンカン照りが続いていましたが、冷房の効いた、お客が誰もいない喫茶店の午後のダルな雰囲気によく似合う曲でした。
ふと思いついて、電話してみる気になりました。
「あの、ハヤカワといいますが、ヤマギシさんいらっしゃいますか」
お盆だから実家に帰っているかもしれませんが、もし東京にいるならヒマだろうと思ったのです。顔を突き合わせればいがみ合う天敵同士ではありましたが、しばらく会っていなかったので、それはそれでつまりませんでした。
だいぶ歳の行ったようなおばあさんが電話に出て彼に繋いでくれました。
「・・・んあい」
どうやら彼は寝起きのようでした。
「わたし、ハヤカワ。寝てたの?」
「徹夜明けだったんだ。・・・何?」
「ああ、そうだったんだ。じゃあ、悪いからまたにするヨ」
「・・・なんか、用だったのか」
電話しながらボリボリ背中や腹を掻いているのが想像できそうな喋り方でした。
「・・・別に用ってほどの、じゃないけどさ、ほら、お盆だからさ・・・。わたし、田舎帰らなかったから・・・」
そこまで説明させるのかよ、気づけよ、空気をよ。だんだんイライラしてきました。
「・・・ああ。そうか・・・」
「じゃ、切るね。眠いとこ、ごめんね。お盆明けの火曜日にまたね」
「・・・ちょ、ちょっと待てよ。・・・今どこ?」
池袋から西武線に乗り換えて江古田駅で降り、教えてもらった通りに歩いたつもりなのですが、どこをどう間違ったのか、道がわからなくなりました。しかたなく目についたタバコ屋の赤電話からもう一度電話しました。
「ごめん、わからなくなっちゃった・・・」
「どの辺にいる? 近くに目印とかないか?」
「駅前通りのケロヨンのいる薬屋さんの隣のタバコ屋。向かいにペコちゃんがいるケーキ屋さんがある」
「あ、わかったぞ。そこにいて」
「うん・・・」
商店街のアーケードにはFM放送が、マスターの店で聞いた曲が流れていました。夏の盛り。お盆で閑散とした通りはムシムシと蒸し暑く、曲の通り一雨来そうな気配がありました。
洋楽であるにもかかわらず、どこかオリエンタルな雰囲気の、あまりにもあっけらかんとした手放しの陽気な曲が初めての街に親しみを感じさせました。これなら、たとえ夕立に見舞われても楽しく過ごせそうな気がしました。
軽やかな桐の下駄の音をさせてヤマギシ君がやってきました。
「おう」
「ごめんね、わざわざ・・・」
「オレの下宿、ちょっと解り辛いとこにあるんだよな・・・」
「いいとこだね。下町っぽくて好きだな」
「だろ? オレも気に入ってるんだ・・・」
彼と並んで商店街を歩いていて気づきましたが、高校時代から今まで、「ヘビとマングース」じゃなくて、彼とこんな普通な会話をしたのは初めてでした。
しばらくして 木の下に雨宿り。彼女の方を見たら キスしてきたのさ
ドキドキする鼓動 木の葉に注ぐ雨音。彼女はやさしく息をして僕は目を閉じる
空は荒れ模様だけど僕らは愛を分かち合う・・・
ヤマギシ君の下宿は商店街から少し奥に入った普通の民家でした。二階家で、大学が近いせいか三部屋ある二階の部屋の住人はみんな彼と同じ大学の学生だということです。
格子戸の玄関を開けて三和土の奥に居間があり、頭にお団子をのっけた品の好さそうなおばあさんが真夏なのにこたつに入っていました。
「あ、これ高校の同級生で市ヶ谷女子大行ってるヤツです」
「こんにちは」
「あらそお。優秀なのねえ・・・」
「いえ、そんなことは・・・お邪魔します」
「どうぞ。ごゆっくり」
「階段急だから気を付けろ」
彼が注意してくれたように、気を抜くと後ろに倒れそうな階段を登ってゆくと窓を開け放した、よく磨き込まれた明るい廊下が伸びていてドアが三つ並んでいました。その一番手前が彼の部屋でした。ドアに「三」と筆で書いてあるのが風格を感じさせました。
部屋は四畳半で綺麗に片付いているので狭さは感じませんでした。木の建具のガラス窓の向こうは隣家の物干し台で、遠くに都心の街並みが望めました。
「へ~え、いいとこだね。家賃いくら?」
わたしはハンカチでパタパタ顔を仰ぎながら、窓からの眺望を眺めました。
「月三千円」
彼はうるさい扇風機のスイッチを入れ、小さな冷蔵庫から麦茶のサーバーを取ってグラスに注ぎました。
「安ーい・・・」
「こんなもんじゃねえの。オレ、私立だからさ。授業料国公立の倍だろ。贅沢は言えねえさ」
「充分だよーお。門限無いのが最高だね」
「夜は玄関の隣の勝手口からカギで入るのさ。トイレ共同、風呂は銭湯。寝るだけだからこんなもんで十分なのさ」
黒いカーテンで仕切られた一画に興味が湧きました。
「ここはなに?」
「開けてみろよ」
そこは小さな流しでしたが、目の上に張り渡した針金にフィルムが何本か掛けられ、何かの薬品の容器が置かれ、現像された写真が何枚もぶら下がっていました。
「オレの現像室。学校のも使えるけどね、オレだけのが欲しかったんだ」
流しからは現像に使う酢酸の酸っぱい匂いが漂っていました。
「ヤマギシ・・・。本格的なんだね。スゴイよ」
「はは・・・。あ、そうだ」
彼は押し入れを開けました。上の段にはおそらくはさっきまで延べられていたであろう布団が押し込められていて、それが崩れてこないように手で支えながら、下の段の段ボール箱の中をゴソゴソやっていました。
「あった」
彼は一冊のサービス版の写真のフォルダーを取り出してきました。
「お前に渡そうと思ってたんだけど、なんだかんだ、渡しそびれててさ」
それはあの高校二年の冬。サオトメと一緒に撮ったプレーの写真でした。もちろん当時すでにカラー写真はあったのですが、そのフォルダーのはどれもモノクロームで、カラー写真よりも綺麗で、写真の全てにその当時の熱のようなものが滲み出てくるような、今でいえばスマートフォンの動画のように今にも動き出してしまいそうな、そんな写真でした。
「・・・懐かしいね」
「後ろのほうにバレー部から頼まれて撮ったヤツの焼き増しもある。お前らがインハイ行きそこなった時の記念写真な。あはは。これでやっと肩の荷が降りたよ」
短い髪。広い額の下の小さいけれど切れ長の目が優しく光っていました。初めてまともにヤマギシ君の顔を見たような気がしました。
「わざわざ実家から持ってきてくれてたんだ」
「お前がどこに行ったかもわからなかったんだけどな。なんか、持ってた方がいいような気がしたんだ」
「・・・ありがとう。・・・なんか、うれしいな」
その時、あ、わたしコイツとキスしてもいいな、と思ったのです。雰囲気的に、そんな感じだったのです。でも、やはりヤマギシ君は、信頼と実績のチェリー君だったようです。彼は沈黙に耐えられなかったのか、ラジカセのスイッチを入れました。
ああ 雨の笑い声が聞こえるよ。手に手を取って歩くんだ 愛する人と
ああ 雨の日って好きなのさ。幸せな気持ちがじんわりと広がるよ
「夕ご飯まだでしょ。どっかで一緒に食べようよ」
「ごめん。オレ、バイト行かなきゃ」
「お盆なのに?」
「今夜、予約入ってるんだ。物撮りのお客さんなんだけどさ、その人、助手いなくてさ。オレのこと指名で入れてくれるんだよ」
物撮りとは、商品撮影のことで、洋品店やスーパーや家電を扱う商店などが新聞折込のチラシやカタログなどに載せる商品だけの写真を撮影することをいいます。商品をセットし、照明をセットし、パチッとやってまた次の商品をセットし・・・、という非常にジミな仕事です。だいたいは一番小さなスタジオで夕方から翌朝までの一番安い時間帯で。商品にもよりますが、一回の撮影で数十カットから多い時には数百カット。実に根気のいる作業でした。
「スゴイじゃん。今ので尊敬した」
「だろ? だったら少しは敬意を払えよな・・・」
彼と一緒に下宿を出て新宿まで電車でいろいろな話をしました。わたしはそこで乗り換え、彼はスタジオに向かいました。
その日はマスターの店に行く気が起こらず、真っすぐに寮に帰って夕食を食べお風呂に入りました。心配した夕立は部屋に戻って写真に見入っていると降ってきました。
別れ際、ヤマギシ君はフォルダーとは別に一枚の写真をくれたのです。
「先に謝っとくな。オレ、実はこれ、撮っちゃっててさ。これでまた写真撮らしてもらおうとしててさ。強請(ゆすり)って言われてもしかたないけどさ・・・。でも、ワシオが急にいなくなって、お前も落ち込んでて、とてもそんなこと言えなくてさ・・・。
結局さ、今の今まで持ってたんだ・・・」
電車を降りる間際に渡された一枚のモノクロームの写真。
それは、ワシオ君との最初のデートの時のものでした。
ちょうど二人で真冬の図書館から出て来たところを写したもので、まだ初心だったわたしがハニカミながら俯いていて、ワシオ君がわたしの首に巻いたマフラーを直している・・・。そんな一瞬を捉えたものでした。この時だけは二人の心に何の不純物もなかったと思えるような、そんな、切ない気持ちになる一枚でした。
初めて好きな人と一緒に過ごせて幸せいっぱいの女の子。
その優しい笑顔に女の子への思いが溢れている男の子。
ヤマギシ君の撮った写真は何枚もみましたが、間違いなくその一枚が、彼の最高傑作だったでしょう。
ロッカーの中の段ボールをひっかきまわして、一本のカセットテープを見つけました。ワシオ君がダビングしてくれたテープは貰えずじまいでしたが、せっかく買ったレコードだから、いつか聴ける日か来るかと思いダビングして持ってきていたのを思い出したのです。ラジカセにセットしてボタンを押すと、「In my life」のジョンの甘い歌声が流れてきました。
いくつかは変わってしまったが、生涯思い出すであろう場所がある
永遠に変わらないものもあれば そうではないものも
無くなってしまった場所や変わらずに残っている場所
そういった場所にはすべて恋人達や友人達とのひと時があって
僕は今でもそれらをはっきりと思い出せる・・・
今に至るまで数多くのアーティストにカヴァーされているこのビートルズの「In my life」ですが、全ての人の全ての心の中の思いを優しく包み込んでくれるような素晴らしいリリックにその理由があるのではないかとわたしは思います。
激しい夕立の立てる雨音とジョンの歌声を聴きながら、わたしはこの一枚の写真を二年間近くも持ち続けたヤマギシ君の心の内を思わずにはいられませんでした。もどかし気な言葉の中に、彼の思いが見え隠れしていたのに気付きました。それを問い詰められたくなくて、わざと別れ際のギリギリで写真をくれた彼のせつないほどに不器用な心の内を。
独り、写真を飽くほどに見つめながら、わたしはその晩何度もテープを巻き戻して「In my life」を聴き続けました。
ワシオ君と別れてから初めて、わたしは落ち着いた気持ちでビートルズを聞くことが出来ました。
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私一人処刑すれば済む話なのに。
それでも仕方がないわね。私は心がない悪女、今までの行いの結果よね。
目の前には私の夫、この国の国王陛下が座っている。
私はただ、
貴方を愛して、貴方を護りたかっただけだったの。
貴方のこの国を、貴方の地位を、貴方の政務を…、
ただ護りたかっただけ…。
だから私は泣かない。悪女らしく最後は笑ってこの世を去るわ。
❈ 作者独自の世界観です。
❈ ゆるい設定です。
❈ 処刑エンドなのでバットエンドです。
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