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35 Take It Easy
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その日の最初の授業にはまだ時間があったので実験室に行きました。
実験室には誰もいませんでした。
しかし、どこからかぐおーっ、という大きないびきが聞こえていて、わたしはニヤリとほくそえみました。
大の大人が二人がかりでやっと抱えられるほどの大きくて古ぼったいサイクロトロンの陰に、いびきの主がいました。丸椅子を四つほど並べた上に仰向けになったその主は、しわくちゃの白衣をだらんと床に垂れ下げ、年中素足の汚い足の裏が見えていて、顔の上にかけられたスポーツ新聞が規則正しく上下していびきに震えていました。
わたしは忍び足で近寄り、机の上のティッシュペーパーを取って紙縒りを作り、そーっと新聞紙を上げていびきの主の鼻の穴にそれを突っ込み、逃げました。
「ぅえあーっくしょいあうっ!・・・」
彼のこの、独特のくしゃみで、いつも五分間ぐらいは笑えるのです。
彼はむっくりと起き上がり、鼻を啜りました。そして腹を抱えて笑っているわたしを認めるや、
「なんだ、まだ、おめが・・・」
ギリシャ文字の二十四番目のことでも時計のブランドのことでもありません。彼は生粋の東北人でした。
「また徹夜?」
彼は答える代わりにぶるっと一つ、身震いしました。
「そんなとこで寝てると風邪ひくよ、ヤンベセンセ」
去年専攻課程のガイダンスの後に各研究室を見学させてもらっていた時のことです。
物理学科の研究室を一つずつ訪問して回っていると、実験室に人がいたのでついでだと思い見学させてもらおうと思ったのです。
もじゃもじゃ頭の汚らしい白衣の男の人が一人、分厚い英文の科学雑誌を読んでいました。
「あの、見学させてください」
男の人はギロっとわたしを睨むと、すぐにまた雑誌に目を落としました。
高校時代ですでに変人教師には免疫があったので、めげずに実験室の中を見て回りました。
「すごい機械ですね。これ、なんですか?」
「・・・さいくろとろん」
彼は雑誌から目も上げずに呟きました。
「さいくろとろん? ってなんですか」
彼は面倒くさそうに機械の上に置いてある数枚の古びた紙を黒ひもで綴じたのを投げてよこしました。さすが大学です。変人度合いも高校教師とは段違いだなと思いました。
「えーと、サイクロトロン。
イオンを加速するための円形加速器の一種。
荷電粒子が磁場の中を運動するとき軌道が曲げられる。質量m、電荷eの荷電粒子が、速度vで磁束密度Bの一様な磁場の中を、磁場に直角に運動する時、粒子に働くローレンツ力Fは、evBとなる。・・・サイクロトロン周波数は、 f =eB/2 πm となる。粒子の質量mはその速度vが光の速度より十分低い時には一定であるので、サイクロトロン周波数は一定であり、rとv は比例する。この性質を利用しているのが、サイクロトロンである・・・」
なんのことやら、書いてある数式も含めて、全く、サッパリ、わかりませんでした。
「そういうこんだ。わがったが? 」
「・・・で、サイクロトロンというのは、何をするための機械なんですか?」
ヤンベさんはじーっとわたしを見つめた後、ぐあーっと叫びながらもじゃもじゃ頭を掻きむしり、フケを辺りにまき散らしました。
結果を先に言えば、わたしはその研究室のゼミに入ることになり、それから一週間もしないうちにその汚らしいヤンベさんと、寝ました。
その研究室は西の旧帝国大学の大学院から来た教授が主催していたので、その教授の名前を取ってユカワ研究室と言いました。ちなみにあのノーベル賞の湯川秀樹とは縁も所縁もありませんと彼女は宴会の席で言いました。笑うところだったのかもしれませんが、誰も笑いませんでした。
そして、当時は准教授ではなく助教授といいましたが、その助教授も赤門出の才媛で、助手もこの大学の院生出身。講師の身分のヤンベさんだけがこの研究室でたった一人の男性で、高エネルギー研究所とかいうところから出向で来ているということでした。
当時は何かというと飲み会がありました。その新しいゼミ生のための歓迎会で、院の先輩の一人がわたしを含めた三年生にこそっと耳打ちしてくれました。ユカワ教授と助教授のミナミ先生はあとは皆さんで楽しんでね、と相前後して先に帰って行った後のことでした。
「ウチの研究室で勉強するなら必ず知っとかなきゃいけないのはね、ユカワ教授とミナミセンセ、仲悪いってこと。二人の間に入ると、一億度のプラズマ状態になって、確実に死ねるよ。それからね、あの手酌で寂しく飲んでるヤンベさんはミナミセンセが引っ張って来た人だからね。あの人に関わりすぎるとユカワ教授に睨まれるよ。卒論までお世話になるんだから、その辺は考えて行動した方がいいよね」
「引っ張って来た?」
何故か藪にらみでお銚子を傾けているヤンベさんと目が合ってしまい、慌てて顔を伏せました。
「学閥ってやつなんじゃないのォ。ウチの研究室は元々実験主体で新設されたんだけど、ユカワ教授はどっちかっていうと理論派なの。それで大学が実験を強化するためにミナミさんを引っ張って来たんだけど、それがユカワ教授には面白くないのよ。で、核物理やるのにサイクロトロンもないのはおかしいってミナミセンセが騒ぎだしてね、そこまで言うならあなたが何とかしなさいとかユカワ教授もキレちゃってね、で、おととしあのどっかの研究所のお下がりと一緒にヤンベさんが来たの。彼はあの装置のエキスパートらしいよ。あんなだけどアメリカの大学に留学してたんだって。ちなみにのんべだからね。のんべのヤンベ。暴れたりはしないけど、毎年新しいゼミ生にカラんでくるから気をつけなね。それにお風呂入らない人みたいで、クサいしさ・・・」
教えてくれた当の院生の先輩を含め、「ちょっとずれてくれる?」とみんなに言われ続け、わたしの席はいつの間にかヤンベさんのすぐ隣になっていました。
「ハヤカワと言います。よろしくお願いします。えへへ・・・」
「・・・」
たしかに彼はちょっと匂いました。汗臭い、噂の通りしばらくお風呂に入っていないのではないか、という匂いでした。それでも間が持たないので彼にお酌したりしていると、くいくい飲んでくれるので面白く、どんどん飲ませてしまいました。居酒屋のBGMはずっと流行りのフォークソングを流していましたが、それが途切れてイーグルスの Take It Easy がかかりました。そのノリのよさに載せて、さらに飲ませ続けました。なにしろ、注いだら注いだだけ飲んでくれるので、わたしも止めようがなかったのです。
Take it easy, take it easy・・・
「えっ? おま、線形代数もわがんねだか。基礎の基礎。微積分とこれは必須だすぺおん。今までどご勉強すてただ? おま、うらぐづが?」
「うらぐづ?」
あまりにも酷い訛りに唖然としました。
「裏さ手っこ回すて、不正ぬにゅうがぐしたんだすぺおん」
裏口入学だなんて・・・。必死に勉強して合格したのに。
「そんな・・・ひどいです」
「へば、そったらこんでは、うだがわれでもすがたねすぺおん!」
高校の時、あれだけ苦手だったフランス語でしたが、それがなぜか懐かしく思い出されるほどに、ヤンベさんの訛りは強烈でした。しかし、裏口入学と言われて少しハラも立ちました。
「・・・じゃあ、教えてくださいよ」
いささかお酒も回って来ていて、わたしもいつもより大胆になっていました。
「なんで」
「この実験と数学の単位とれないとリーグ戦出られないし、留年なんです。それはヤなの」
「ほんならごど、おれさ関係ねえべ」
「必須のものだけでいいですから。お願いします」
「やんだ」
「イヤってことですか」
「オラ、やんだ」
酔った眼でふと周りを見渡すと、いつの間にか人が減っていて、先生たちはみんないなくなり、ゼミ生の四年生とわたしを含めて三年生が二人ほどしか残っていませんでした。
「そろそろじゃない。どうする?」
目が合った四年生の一人に言われたのでヤンベさんを見ると、お猪口を持ったままもじゃもじゃの髪を前に垂らして、寝ていました。
店を出るとわたし一人ヤンベさんを押し付けられ、他の人たちはみんなさっさと消えてゆきました。夜の新宿で途方に暮れていると目の前にあの、ナガノさんといったようなレンタルルームの入ったビルがありました。
後になっても、どうしてあの時そうしたのか、思い出せませんでした。
そばの公衆電話の脇にぐでんぐでんのヤンベさんを下ろし、寮に電話しました。
頼むぞー。話し中じゃありませんように・・・。
運よく呼び出しコールが響き目白の近くの女子大の新入生が出てくれました。
「ああ、ハヤカワさん・・・」
「チカ? ああ、助かった。悪いけど札在室にしておいてくれる?」
サナは短大でしたから三月に卒業して寮を去ってゆきました。新年度に当たって、新入生のうちで気の合いそうな何人かを手懐け、こういう時のために使っていたのです。
「でね、もしウチから電話があったらテキトーに頼むね。もう熟睡してますとか、お風呂中ですとか。わたしも眠いんで寝ちゃったらすみませんとかさ」
「わかりました、ごゆっくり。後から戦果教えてくださいね。うふふ・・・」
思わせぶりな笑いを残して電話は切れました。
これでよし、と。
あとはこのヤンベさんを部屋に担ぎ込むだけです。彼は男のわりに華奢だったので助かりました。狭いエレベーターで受付階にあがり、どこのレンタルルームも似たり寄ったりの小さな受付でお金を払いキーを貰いました。
「ヤンベさん。ホラ、頑張って」
彼に肩を貸し、部屋に向かいました。
「んん・・・オラ、やんだ・・・」
ナガノさんと入った部屋よりは広い部屋でしたが部屋の大部分がベッドであるところは同じでした。ドサッとベッドに降ろすとしばし放心状態になりました。
そこから回復すると、さっそく咄嗟の思い付きを実行に移しました。パーカーとTシャツとブラジャーだけ脱いで彼に寄り添い、上掛けを被りました。居酒屋からずっと肩を貸していたので匂いはさほど気にならなくなりましたが、どのくらいで目を覚ますかわかりません。重要なのは彼が目を覚ました時にわたしが寝入ってしまっていてはいけないということです。完全に寝入らないように気を付けながら、添い寝を続けるのは思いのほか骨が折れました。
と。
大事なことを忘れていたのに気付き、ベッドを抜け出し、枕もとの備え付けのゴムの包装を破いてバスルームに行きました。クルクル巻いてあるゴムを伸ばし、備え付けのシャンプーをワンプッシュしました。粘性を確かめながら水道の水で薄め、口を縛ってティッシュに包みベッドに戻って枕の下に隠し、再び添い寝をしました。シャンプーの香りを嗅いだせいか、ヤンベさんの体臭も新鮮に香りました。が、そこはガマンしなければなりません。彼の熟睡度を確認して布団の中で手探りでシャツのボタンを全部外し、ジーンズのベルトを緩めジッパーを下げ、ぱんつをずらしておきました。念のため、ずらす前にぱんつの上からむすこさんを確かめましたが、それ以上は怖くて出来ませんでした。どんな臭いが着くのかわからなかったからです。
そうしておいて、その時を待ちました。
小一時間も経ったでしょうか。
「うえああっ! なんだ、こいづわっ?」
ちょっとウトウトしかけていましたが、彼が大騒ぎしてくれたおかげでちゃんと目が覚めました。
「なんだ、オメ・・・」
「あ・・・」
それらしく傷ついた風を装い、シーツを手繰り寄せて胸を隠し、服をかき寄せました。その時、ワザと枕も動かして、隠しておいたティッシュで繰るんだゴムも見えるようにするのを忘れませんでした。
「せづめいしろ、なんだこれは!」
言いながら慌ててジーンズのジッパーをあげ、シャツのボタンを嵌めるヤンベさんをちょっとだけ、睨みました。でも、もちろん、答えません。ずっと下を向いて鼻を啜り、
「・・・ひどい・・・」
と呟きました。
それだけです。あとは余計な言葉を言わなくてもヤンベさんが勝手に解釈するはずでした。泣きまねはナガノさんとのことをきっかけに覚えました。有効な武器でしたが、涙が出ないので困りました。今後は目薬も常時携帯しておこうと思いました。
「・・・そが、悪りがった。ごめんな・・・」
「・・・ううっ、はあうううっ・・・」
シーツに顔を埋めてはいましたが、笑いを堪えているのが嗚咽に似ていてくれるように、神様に祈っていました。
「あのよ、これ、研究室のみんなさ、言わねえでけろな。・・・マズい。これ、めっちゃくちゃ、マズいど・・・」
「・・・うわーんん、酷い、酷いよーんあああああんんん!」
「おい、頼むがら、泣がねでけろ、・・・まあいったな。どうせばいいだが・・・」
「うわーん、うわーん!」
それからさらに小一時間ほど経ちました。
いろいろと諦めた風の彼は、ベッドの端にんぼんやり座っていました。ガックリと肩を落とした彼の背中に鼻を啜るフリをしながら抱きつきました。
「・・・でも、スゴかった。ヤンベセンセ、野獣なんだもん・・・。こんなの、はじめて・・・」
「・・・アハ、そが・・・。んだば、もう、帰っか・・・」
「・・・帰っちゃうの?」
「スっかだねべ。なぬすろっつーだ」
「せっかくだから、お風呂入ってから帰れば? わたし、洗ってあげる」
「はあ?」
どうしてそこまでの事をしようと思ったのかも今となっては定かではないのですが、そんな風にして、ヤンベさんはわたしの毒牙にかかりました。
実験室には誰もいませんでした。
しかし、どこからかぐおーっ、という大きないびきが聞こえていて、わたしはニヤリとほくそえみました。
大の大人が二人がかりでやっと抱えられるほどの大きくて古ぼったいサイクロトロンの陰に、いびきの主がいました。丸椅子を四つほど並べた上に仰向けになったその主は、しわくちゃの白衣をだらんと床に垂れ下げ、年中素足の汚い足の裏が見えていて、顔の上にかけられたスポーツ新聞が規則正しく上下していびきに震えていました。
わたしは忍び足で近寄り、机の上のティッシュペーパーを取って紙縒りを作り、そーっと新聞紙を上げていびきの主の鼻の穴にそれを突っ込み、逃げました。
「ぅえあーっくしょいあうっ!・・・」
彼のこの、独特のくしゃみで、いつも五分間ぐらいは笑えるのです。
彼はむっくりと起き上がり、鼻を啜りました。そして腹を抱えて笑っているわたしを認めるや、
「なんだ、まだ、おめが・・・」
ギリシャ文字の二十四番目のことでも時計のブランドのことでもありません。彼は生粋の東北人でした。
「また徹夜?」
彼は答える代わりにぶるっと一つ、身震いしました。
「そんなとこで寝てると風邪ひくよ、ヤンベセンセ」
去年専攻課程のガイダンスの後に各研究室を見学させてもらっていた時のことです。
物理学科の研究室を一つずつ訪問して回っていると、実験室に人がいたのでついでだと思い見学させてもらおうと思ったのです。
もじゃもじゃ頭の汚らしい白衣の男の人が一人、分厚い英文の科学雑誌を読んでいました。
「あの、見学させてください」
男の人はギロっとわたしを睨むと、すぐにまた雑誌に目を落としました。
高校時代ですでに変人教師には免疫があったので、めげずに実験室の中を見て回りました。
「すごい機械ですね。これ、なんですか?」
「・・・さいくろとろん」
彼は雑誌から目も上げずに呟きました。
「さいくろとろん? ってなんですか」
彼は面倒くさそうに機械の上に置いてある数枚の古びた紙を黒ひもで綴じたのを投げてよこしました。さすが大学です。変人度合いも高校教師とは段違いだなと思いました。
「えーと、サイクロトロン。
イオンを加速するための円形加速器の一種。
荷電粒子が磁場の中を運動するとき軌道が曲げられる。質量m、電荷eの荷電粒子が、速度vで磁束密度Bの一様な磁場の中を、磁場に直角に運動する時、粒子に働くローレンツ力Fは、evBとなる。・・・サイクロトロン周波数は、 f =eB/2 πm となる。粒子の質量mはその速度vが光の速度より十分低い時には一定であるので、サイクロトロン周波数は一定であり、rとv は比例する。この性質を利用しているのが、サイクロトロンである・・・」
なんのことやら、書いてある数式も含めて、全く、サッパリ、わかりませんでした。
「そういうこんだ。わがったが? 」
「・・・で、サイクロトロンというのは、何をするための機械なんですか?」
ヤンベさんはじーっとわたしを見つめた後、ぐあーっと叫びながらもじゃもじゃ頭を掻きむしり、フケを辺りにまき散らしました。
結果を先に言えば、わたしはその研究室のゼミに入ることになり、それから一週間もしないうちにその汚らしいヤンベさんと、寝ました。
その研究室は西の旧帝国大学の大学院から来た教授が主催していたので、その教授の名前を取ってユカワ研究室と言いました。ちなみにあのノーベル賞の湯川秀樹とは縁も所縁もありませんと彼女は宴会の席で言いました。笑うところだったのかもしれませんが、誰も笑いませんでした。
そして、当時は准教授ではなく助教授といいましたが、その助教授も赤門出の才媛で、助手もこの大学の院生出身。講師の身分のヤンベさんだけがこの研究室でたった一人の男性で、高エネルギー研究所とかいうところから出向で来ているということでした。
当時は何かというと飲み会がありました。その新しいゼミ生のための歓迎会で、院の先輩の一人がわたしを含めた三年生にこそっと耳打ちしてくれました。ユカワ教授と助教授のミナミ先生はあとは皆さんで楽しんでね、と相前後して先に帰って行った後のことでした。
「ウチの研究室で勉強するなら必ず知っとかなきゃいけないのはね、ユカワ教授とミナミセンセ、仲悪いってこと。二人の間に入ると、一億度のプラズマ状態になって、確実に死ねるよ。それからね、あの手酌で寂しく飲んでるヤンベさんはミナミセンセが引っ張って来た人だからね。あの人に関わりすぎるとユカワ教授に睨まれるよ。卒論までお世話になるんだから、その辺は考えて行動した方がいいよね」
「引っ張って来た?」
何故か藪にらみでお銚子を傾けているヤンベさんと目が合ってしまい、慌てて顔を伏せました。
「学閥ってやつなんじゃないのォ。ウチの研究室は元々実験主体で新設されたんだけど、ユカワ教授はどっちかっていうと理論派なの。それで大学が実験を強化するためにミナミさんを引っ張って来たんだけど、それがユカワ教授には面白くないのよ。で、核物理やるのにサイクロトロンもないのはおかしいってミナミセンセが騒ぎだしてね、そこまで言うならあなたが何とかしなさいとかユカワ教授もキレちゃってね、で、おととしあのどっかの研究所のお下がりと一緒にヤンベさんが来たの。彼はあの装置のエキスパートらしいよ。あんなだけどアメリカの大学に留学してたんだって。ちなみにのんべだからね。のんべのヤンベ。暴れたりはしないけど、毎年新しいゼミ生にカラんでくるから気をつけなね。それにお風呂入らない人みたいで、クサいしさ・・・」
教えてくれた当の院生の先輩を含め、「ちょっとずれてくれる?」とみんなに言われ続け、わたしの席はいつの間にかヤンベさんのすぐ隣になっていました。
「ハヤカワと言います。よろしくお願いします。えへへ・・・」
「・・・」
たしかに彼はちょっと匂いました。汗臭い、噂の通りしばらくお風呂に入っていないのではないか、という匂いでした。それでも間が持たないので彼にお酌したりしていると、くいくい飲んでくれるので面白く、どんどん飲ませてしまいました。居酒屋のBGMはずっと流行りのフォークソングを流していましたが、それが途切れてイーグルスの Take It Easy がかかりました。そのノリのよさに載せて、さらに飲ませ続けました。なにしろ、注いだら注いだだけ飲んでくれるので、わたしも止めようがなかったのです。
Take it easy, take it easy・・・
「えっ? おま、線形代数もわがんねだか。基礎の基礎。微積分とこれは必須だすぺおん。今までどご勉強すてただ? おま、うらぐづが?」
「うらぐづ?」
あまりにも酷い訛りに唖然としました。
「裏さ手っこ回すて、不正ぬにゅうがぐしたんだすぺおん」
裏口入学だなんて・・・。必死に勉強して合格したのに。
「そんな・・・ひどいです」
「へば、そったらこんでは、うだがわれでもすがたねすぺおん!」
高校の時、あれだけ苦手だったフランス語でしたが、それがなぜか懐かしく思い出されるほどに、ヤンベさんの訛りは強烈でした。しかし、裏口入学と言われて少しハラも立ちました。
「・・・じゃあ、教えてくださいよ」
いささかお酒も回って来ていて、わたしもいつもより大胆になっていました。
「なんで」
「この実験と数学の単位とれないとリーグ戦出られないし、留年なんです。それはヤなの」
「ほんならごど、おれさ関係ねえべ」
「必須のものだけでいいですから。お願いします」
「やんだ」
「イヤってことですか」
「オラ、やんだ」
酔った眼でふと周りを見渡すと、いつの間にか人が減っていて、先生たちはみんないなくなり、ゼミ生の四年生とわたしを含めて三年生が二人ほどしか残っていませんでした。
「そろそろじゃない。どうする?」
目が合った四年生の一人に言われたのでヤンベさんを見ると、お猪口を持ったままもじゃもじゃの髪を前に垂らして、寝ていました。
店を出るとわたし一人ヤンベさんを押し付けられ、他の人たちはみんなさっさと消えてゆきました。夜の新宿で途方に暮れていると目の前にあの、ナガノさんといったようなレンタルルームの入ったビルがありました。
後になっても、どうしてあの時そうしたのか、思い出せませんでした。
そばの公衆電話の脇にぐでんぐでんのヤンベさんを下ろし、寮に電話しました。
頼むぞー。話し中じゃありませんように・・・。
運よく呼び出しコールが響き目白の近くの女子大の新入生が出てくれました。
「ああ、ハヤカワさん・・・」
「チカ? ああ、助かった。悪いけど札在室にしておいてくれる?」
サナは短大でしたから三月に卒業して寮を去ってゆきました。新年度に当たって、新入生のうちで気の合いそうな何人かを手懐け、こういう時のために使っていたのです。
「でね、もしウチから電話があったらテキトーに頼むね。もう熟睡してますとか、お風呂中ですとか。わたしも眠いんで寝ちゃったらすみませんとかさ」
「わかりました、ごゆっくり。後から戦果教えてくださいね。うふふ・・・」
思わせぶりな笑いを残して電話は切れました。
これでよし、と。
あとはこのヤンベさんを部屋に担ぎ込むだけです。彼は男のわりに華奢だったので助かりました。狭いエレベーターで受付階にあがり、どこのレンタルルームも似たり寄ったりの小さな受付でお金を払いキーを貰いました。
「ヤンベさん。ホラ、頑張って」
彼に肩を貸し、部屋に向かいました。
「んん・・・オラ、やんだ・・・」
ナガノさんと入った部屋よりは広い部屋でしたが部屋の大部分がベッドであるところは同じでした。ドサッとベッドに降ろすとしばし放心状態になりました。
そこから回復すると、さっそく咄嗟の思い付きを実行に移しました。パーカーとTシャツとブラジャーだけ脱いで彼に寄り添い、上掛けを被りました。居酒屋からずっと肩を貸していたので匂いはさほど気にならなくなりましたが、どのくらいで目を覚ますかわかりません。重要なのは彼が目を覚ました時にわたしが寝入ってしまっていてはいけないということです。完全に寝入らないように気を付けながら、添い寝を続けるのは思いのほか骨が折れました。
と。
大事なことを忘れていたのに気付き、ベッドを抜け出し、枕もとの備え付けのゴムの包装を破いてバスルームに行きました。クルクル巻いてあるゴムを伸ばし、備え付けのシャンプーをワンプッシュしました。粘性を確かめながら水道の水で薄め、口を縛ってティッシュに包みベッドに戻って枕の下に隠し、再び添い寝をしました。シャンプーの香りを嗅いだせいか、ヤンベさんの体臭も新鮮に香りました。が、そこはガマンしなければなりません。彼の熟睡度を確認して布団の中で手探りでシャツのボタンを全部外し、ジーンズのベルトを緩めジッパーを下げ、ぱんつをずらしておきました。念のため、ずらす前にぱんつの上からむすこさんを確かめましたが、それ以上は怖くて出来ませんでした。どんな臭いが着くのかわからなかったからです。
そうしておいて、その時を待ちました。
小一時間も経ったでしょうか。
「うえああっ! なんだ、こいづわっ?」
ちょっとウトウトしかけていましたが、彼が大騒ぎしてくれたおかげでちゃんと目が覚めました。
「なんだ、オメ・・・」
「あ・・・」
それらしく傷ついた風を装い、シーツを手繰り寄せて胸を隠し、服をかき寄せました。その時、ワザと枕も動かして、隠しておいたティッシュで繰るんだゴムも見えるようにするのを忘れませんでした。
「せづめいしろ、なんだこれは!」
言いながら慌ててジーンズのジッパーをあげ、シャツのボタンを嵌めるヤンベさんをちょっとだけ、睨みました。でも、もちろん、答えません。ずっと下を向いて鼻を啜り、
「・・・ひどい・・・」
と呟きました。
それだけです。あとは余計な言葉を言わなくてもヤンベさんが勝手に解釈するはずでした。泣きまねはナガノさんとのことをきっかけに覚えました。有効な武器でしたが、涙が出ないので困りました。今後は目薬も常時携帯しておこうと思いました。
「・・・そが、悪りがった。ごめんな・・・」
「・・・ううっ、はあうううっ・・・」
シーツに顔を埋めてはいましたが、笑いを堪えているのが嗚咽に似ていてくれるように、神様に祈っていました。
「あのよ、これ、研究室のみんなさ、言わねえでけろな。・・・マズい。これ、めっちゃくちゃ、マズいど・・・」
「・・・うわーんん、酷い、酷いよーんあああああんんん!」
「おい、頼むがら、泣がねでけろ、・・・まあいったな。どうせばいいだが・・・」
「うわーん、うわーん!」
それからさらに小一時間ほど経ちました。
いろいろと諦めた風の彼は、ベッドの端にんぼんやり座っていました。ガックリと肩を落とした彼の背中に鼻を啜るフリをしながら抱きつきました。
「・・・でも、スゴかった。ヤンベセンセ、野獣なんだもん・・・。こんなの、はじめて・・・」
「・・・アハ、そが・・・。んだば、もう、帰っか・・・」
「・・・帰っちゃうの?」
「スっかだねべ。なぬすろっつーだ」
「せっかくだから、お風呂入ってから帰れば? わたし、洗ってあげる」
「はあ?」
どうしてそこまでの事をしようと思ったのかも今となっては定かではないのですが、そんな風にして、ヤンベさんはわたしの毒牙にかかりました。
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しかし、一か月も経たないうちに、その話は先方からの一方的な申し出によって破談になってしまう。
彼女は藁にもすがる思いで、幼馴染の公爵アルバート・グレアムに相談を持ち掛けるが、新たな婚約者候補として紹介されたのは彼の弟のキースだった。
キースは長年、シャーロットに思いを寄せていたが、遠慮して距離を縮めることが出来ないでいた。
そんな弟を見かねた兄が一計を図ったのだった。
彼女はキースのことを弟のようにしか思っていなかったが、次第に彼の情熱に絆されていく・・・。
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