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「あ、あの、店って、俺、近くで美容師をしてるんですけど、えっと、今日も休憩中に頼まれて買いに来て……」と焦った様子で言葉を紡ぐ星川に、伊織もすこし冷静になる。
「そうだったんですね、ありがとうございます」
美形はあわあわしていても美形だ。新たな星川の一面を知り、自然と笑みが溢れる。
星川もその笑顔に安心したように、笑みを見せた。
「すみません、申し遅れました。俺、星川といいます」
落ち着きを取り戻したらしい星川は改めて名乗った。
ええ、ええ、存じております。
星川アンリ。アンリはどういう字を書くのだろう。カタカナ表記が本名なのだろうか。高い鼻梁も、色素の薄い瞳も、整い過ぎた容貌も、その体躯も。どこか日本人離れしているから、ハーフなのかもしれない。
微笑を保ちつつ、次の言葉を待ちながらあれやこれや考えていると「実は、今日は遠田さんにお願いがあって……」と星川が切り出した。
「カットモデルをお願いできないかな、って。あの、もちろん、決まったお店とか美容師さんとかいるんだったら断ってもらってもいいんですけど――……」
「いいですよ?」
即答した伊織に、星川は「本当ですか⁉」とパッと顔を輝かせた。
「ありがとうございます」
花が綻ぶような笑みに、伊織はどきりとした。
「実は、ずっと遠田さんの髪、綺麗だなって思って気になってたんです。引き受けていただけてよかった」
それからいくつか言葉を交わしたあと、連絡先の交換をして、「あっ、やべ、俺、店に戻ります!」という星川と別れた。
「では、また」
「あ、はい、また……」
早足で元来た道を戻っていく星川の背中を、呆然と見送った。
彼の姿が見えなくなっても、伊織はその場に立ち尽くしたままだった。
果たして今の出来事は現実だろうか。推しが――……そう、〝推し〟だ。星川の存在を位置付けるべきか考えたとき、そう表現するのが一番しっくりくる。
――つまり、俺は推しと連絡先を交換してしまったのか……?
しかも、カットモデルだなんて。星川に髪を、切ってもらう? そんなの、想像しただけで落ち着かない。
「あ、やばい……俺も行かなきゃ……」と、誰にともなく呟き、ふたたび駅へと歩を進めた頃には、冷たい秋風に晒され、伊織の指先はすっかり冷え切っていた。
ところが伊織の期待と不安とは裏腹に、一週間経ってもカットモデルの話は進まなかった。それもそのはず。星川はほとんど毎週休日出勤しているのだ。多忙に決まっている。
白金店のスタッフも「今度の休みに予約したかったけど、その日はもう埋まっていた」というようなことを話していた。そもそも、これほど人気のスタイリストが、わざわざカットモデルを探す必要があるのだろうか。
カットモデルの話は進まないが、星川とはここ最近毎日のようにメッセージのやり取りをしている。一日にひとこと、ふたこと程度だが、この些細なやり取りが伊織の密かな楽しみになっていた。
ようやく約束が実現したのは、そのさらに翌週。十一月に入ってからだった。
「遠田さん、もしや緊張してます?」
案内されるまま、ぎくしゃくとシャンプー台に向かう伊織に星川は柔らかに微笑み掛けた。
「ええ、若干……定休日なのに、俺のためだけに店開けてるんだと思うと恐縮で」
今日は火曜日で、店は休みだ。
ほとんど毎週のように定休日も仕事をしているらしい星川は、休日に店にいることを何とも思っていないようだったが、伊織としては居た堪れない。
「何でですか? 俺がお願いしたことなのに」と星川は笑った。
笑うときは眉が下がることに、シャンプー台から星川の顔を見上げながら、伊織は気付いた。
「俺が休みの日も仕事してるのは、自主的にですから。遠田さんが気を遣うことはないです」
はじめて訪れた星川の勤めるサロンは、カフェとは目と鼻の先だった。
漆喰塗りの白い壁と、無垢材の木目の映えるシンプルな内装。ハンキンググリーンが多いのは、普段はオーナーの相棒の看板犬が常駐しているかららしい。さほど広いとは言えない店内だが、席はたったの三つしかなく、贅沢に空間を使っている。スタッフも少数精鋭でアシスタントは雇っておらず、シャンプーもブローも、最初から最後まで担当のスタイリストがついてくれるらしい。
「じゃあ、まずシャンプーからしていきますから、タオル被せますね」
目元にタオルを被せられると、星川の表情が見えなくなる。
それを少し残念に思いながら「はぁーい、お願いしまーす」と緊張を少しでも誤魔化そうと、ゆるく返事をする。
緊張しているのは、休日にわざわざ店を開けさせたせいだけではない。
メッセージのやり取りで、何となく気安い間柄になったような気がしているが、星川と言葉を交わすのは実質二回目だ。
「そうだったんですね、ありがとうございます」
美形はあわあわしていても美形だ。新たな星川の一面を知り、自然と笑みが溢れる。
星川もその笑顔に安心したように、笑みを見せた。
「すみません、申し遅れました。俺、星川といいます」
落ち着きを取り戻したらしい星川は改めて名乗った。
ええ、ええ、存じております。
星川アンリ。アンリはどういう字を書くのだろう。カタカナ表記が本名なのだろうか。高い鼻梁も、色素の薄い瞳も、整い過ぎた容貌も、その体躯も。どこか日本人離れしているから、ハーフなのかもしれない。
微笑を保ちつつ、次の言葉を待ちながらあれやこれや考えていると「実は、今日は遠田さんにお願いがあって……」と星川が切り出した。
「カットモデルをお願いできないかな、って。あの、もちろん、決まったお店とか美容師さんとかいるんだったら断ってもらってもいいんですけど――……」
「いいですよ?」
即答した伊織に、星川は「本当ですか⁉」とパッと顔を輝かせた。
「ありがとうございます」
花が綻ぶような笑みに、伊織はどきりとした。
「実は、ずっと遠田さんの髪、綺麗だなって思って気になってたんです。引き受けていただけてよかった」
それからいくつか言葉を交わしたあと、連絡先の交換をして、「あっ、やべ、俺、店に戻ります!」という星川と別れた。
「では、また」
「あ、はい、また……」
早足で元来た道を戻っていく星川の背中を、呆然と見送った。
彼の姿が見えなくなっても、伊織はその場に立ち尽くしたままだった。
果たして今の出来事は現実だろうか。推しが――……そう、〝推し〟だ。星川の存在を位置付けるべきか考えたとき、そう表現するのが一番しっくりくる。
――つまり、俺は推しと連絡先を交換してしまったのか……?
しかも、カットモデルだなんて。星川に髪を、切ってもらう? そんなの、想像しただけで落ち着かない。
「あ、やばい……俺も行かなきゃ……」と、誰にともなく呟き、ふたたび駅へと歩を進めた頃には、冷たい秋風に晒され、伊織の指先はすっかり冷え切っていた。
ところが伊織の期待と不安とは裏腹に、一週間経ってもカットモデルの話は進まなかった。それもそのはず。星川はほとんど毎週休日出勤しているのだ。多忙に決まっている。
白金店のスタッフも「今度の休みに予約したかったけど、その日はもう埋まっていた」というようなことを話していた。そもそも、これほど人気のスタイリストが、わざわざカットモデルを探す必要があるのだろうか。
カットモデルの話は進まないが、星川とはここ最近毎日のようにメッセージのやり取りをしている。一日にひとこと、ふたこと程度だが、この些細なやり取りが伊織の密かな楽しみになっていた。
ようやく約束が実現したのは、そのさらに翌週。十一月に入ってからだった。
「遠田さん、もしや緊張してます?」
案内されるまま、ぎくしゃくとシャンプー台に向かう伊織に星川は柔らかに微笑み掛けた。
「ええ、若干……定休日なのに、俺のためだけに店開けてるんだと思うと恐縮で」
今日は火曜日で、店は休みだ。
ほとんど毎週のように定休日も仕事をしているらしい星川は、休日に店にいることを何とも思っていないようだったが、伊織としては居た堪れない。
「何でですか? 俺がお願いしたことなのに」と星川は笑った。
笑うときは眉が下がることに、シャンプー台から星川の顔を見上げながら、伊織は気付いた。
「俺が休みの日も仕事してるのは、自主的にですから。遠田さんが気を遣うことはないです」
はじめて訪れた星川の勤めるサロンは、カフェとは目と鼻の先だった。
漆喰塗りの白い壁と、無垢材の木目の映えるシンプルな内装。ハンキンググリーンが多いのは、普段はオーナーの相棒の看板犬が常駐しているかららしい。さほど広いとは言えない店内だが、席はたったの三つしかなく、贅沢に空間を使っている。スタッフも少数精鋭でアシスタントは雇っておらず、シャンプーもブローも、最初から最後まで担当のスタイリストがついてくれるらしい。
「じゃあ、まずシャンプーからしていきますから、タオル被せますね」
目元にタオルを被せられると、星川の表情が見えなくなる。
それを少し残念に思いながら「はぁーい、お願いしまーす」と緊張を少しでも誤魔化そうと、ゆるく返事をする。
緊張しているのは、休日にわざわざ店を開けさせたせいだけではない。
メッセージのやり取りで、何となく気安い間柄になったような気がしているが、星川と言葉を交わすのは実質二回目だ。
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