『ノクトホロウの魔女に選ばれし復讐者──幻眼の乙女』

カトラス

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第八話『魔女ヴァルセリアの試練 PART2』

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 ある晩、ノクトホロウの森の地下室。湿り気を帯びた石床の上に敷かれた黒布の上に、私とニールは向かい合って座っていた。



 頭上では、燭台に灯る赤黒い火が揺れている。ぼんやりと照らされた空間の中心には、銀の皿。その上には、焼かれた肉の塊が置かれていた。炭のように黒く、脂が泡のように固まり、何の肉なのかは見た目では判断できなかった。



 「今日はその子と血肉を分かち合いなさい」



 ヴァルセリアの声が石壁に反響する。その声音には、儀式の厳粛さと、どこか愉悦が滲んでいた。



 「それが、主と使い魔の真なる共鳴……《魔力の連結リンク》を果たす儀なのだから」



 私は息を飲んだ。隣に座るニールは、ただ黙っていた。表情は、いつものように無感情で、何かを諦めた者の顔だった。



 私は皿に手を伸ばした。だが指先が肉に触れた瞬間、なぜか、全身の毛穴がざわついた。



 「……これ、本当に何の肉?」



 かすれた声で私が尋ねると、ニールが一瞬だけ目を伏せた。だが、すぐに淡々とした声で言った。



 「弟だよ。……俺の、血のつながった弟」



 私は手を止めた。けれど、ニールは逆に小さく笑った。



 「大丈夫。あいつはもうとっくに死んでた。ただ……ご主人様が“回収”した。魔女は、命の残滓を逃さない」



 ヴァルセリアは何も言わなかった。ただ、闇の中で静かに見下ろしていた。



 私は震える指で肉を裂いた。一片を口に入れると、焼け焦げた皮膚と鉄のような血の味が広がった。吐き気が込み上げる。



 「食べろ。共に喰らうことで、俺たちは繋がる」



 ニールもまた、一片を口に入れた。



 その瞬間、視界が歪んだ。



 ──燃える家屋。泣き叫ぶ子供。泥にまみれた兵士の影。焼け爛れた母の腕を掴んで泣き叫ぶ、幼い少年──



 それは、ニールの記憶だった。



 私は両手で頭を抱えた。焼けるような痛みと共に、怒り、恐怖、絶望……彼の心が、私の中に流れ込んでくる。



 「やっと、見たな」



 ニールは低く言った。



 「俺が、どんな地獄からここに来たか。俺はもう、人間じゃない。でも、あの時の“弟”だけは……あいつだけは人間のままだった」



 私は言葉を返せなかった。ただ、咀嚼するたびに脳が軋む。



 ──血肉の共鳴。



 それは儀式というにはあまりに残酷で、哀しい鎖だった。



 「……ようこそ。これであなたも、彼の過去と呪いの一部を背負ったのよ」



 ヴァルセリアの囁きは、まるで祝福のように耳元で響いた。



 そして私は、もう一口を飲み下した。







 ノクトホロウの森の、もっとも地の底に近い場所。そこには光が差さず、風も通わず、ただ時間だけが腐り落ちていくような異空間が広がっていた。苔むした階段を延々と降りた先、湿気で肺が痛むほどの地下室の奥に、それは鎮座していた。



 “絶叫の反響壺”。



 禍々しい存在感を放つそれは、人の頭ほどの大きさの壺だった。全体を覆うのは、割れ目のように口を開けた無数の穴──いや、それはまるで生き物の口腔だった。歯列のような縁、蠢くようなひび割れ。

 誰かの魂が吸い込まれていくような、そんな不気味な気配を纏っていた。



 「ほら、行くわよ」



 私はヴァルセリアに髪を掴まれ、引きずられるようにして壺の前まで連れてこられた。足はまだ完全に癒えておらず、腐敗の痕は骨にまで残っている。立っているのがやっとだった。



 「ヴァルセリア様……ここは……?」



 私の問いに、彼女は静かに笑った。まるで甘い毒を含ませたような声音で言う。



 「己の過去を、喉が潰れるまで叫びなさい。壺が満たされるまで、終わらないわ」



 そう言って、私の口元を壺の縁に押し付けた。その瞬間、壺から滲み出るように呻き声が這い出し、耳の奥に直接語りかけてくるような錯覚に襲われた。



 ──逃げられない。



 壺の縁は私の顔を離そうとしない。鉄の枷よりも強い、異様な吸着力があった。



 「さあ、始めなさい」



 ヴァルセリアの言葉を合図に、私は壺に向かって口を開いた。



 最初の言葉は、声にならなかった。喉が凍りついたようで、空気すら震えなかった。



 だけど次第に、胸の奥から何かが這い上がってきた。



 「……わたしは……っ、愛されたかった……だけなのに……っ」



 王子の姿が浮かんだ。お忍びで見せた笑顔。私の頭を撫でた手。けれど、最後に向けられたのは軽蔑の吐息。



 『やっぱり、下賤な女だったな』



 「うう……っ、あの時、全部信じたのに……」



 涙と涎が混じる。壺の中に吸い込まれる音が聞こえる。



 「イザベラ……マリーベル……シャルロッテ……! あんたたち、わたしをブタ呼ばわりして……何が楽しかったのよ……!!」



 呪詛が混じった絶叫。喉が焼けるように痛むのに、止まらない。



 「水牢……足が……腐って……蛆を食べて、生き延びた……それでも……それでも、誰も……!!」



 声は狂気に染まり、私は自分の声すらわからなくなっていった。



 どれほど叫び続けただろうか。時間の感覚などとうに失われていた。



 ──そして、壺が震えた。



 私の口から、黒い霧がじわじわと漏れ出した。まるで肺の中にこびりついた悪意が、物質として溢れてきたかのようだった。



 霧は生きているように漂い、壺の中へと吸い込まれていく。



 「それでいいのよ。痛みと怒りを呪詛に変え、魔術の器としてお前に刻みなさい」



 ヴァルセリアが背後から囁いた。まるで祝福のように、それは恐ろしい温もりを帯びていた。



 私は、ただ、笑った。

 喉が裂け、血が滲む感触を覚えながらも、口元が自然に吊り上がった。



 これでいい。

 この声が力となるなら──

 私の地獄も、すべて呪いに変えて、焼き尽くす糧にできるのだから。







 ノクトホロウの森の夜は、漆黒の静寂に支配されていた。星はこの地を忌み嫌い、月さえも姿を見せぬ闇。枝の先は白く乾いた骨が編まれたかのように不気味に軋み、地を這う風は死者の呻き声のように響いていた。



 私は、ヴァルセリアの黒き庵の奥深くにある、石造りの生贄の祭壇にうつ伏せにされていた。背には何の布もまとわず、裸の肌が冷えた石と呪いの空気に晒されていた。

 両腕は鉄輪で引き伸ばされ、足首は分厚い鎖により床に打ち据えられている。逃げるすべもなく、抵抗する気力も尽きた身体。もう寒さも感じなかった。



「これが最後の修行よ。お前の魂に刻む、復讐の式符……“カルマの魔紋”」



 ヴァルセリアの声は、凍てつく湖面のように冷たく、しかし狂気の温度を孕んでいた。彼女の手には、真紅の魔炎に焼かれた銀の呪刻棒が握られていた。

 その先端には、ねじれ歪んだ線が複雑に絡み合い、三姉妹――イザベラ、マリーベル、シャルロッテの名を象徴するような呪式図が浮かび上がっていた。



「……どこに……それを……」



 口を開きかけた私に返答はなかった。

 次の瞬間、灼熱の呪刻棒が私の背に──肩甲骨の中心へと突き立てられた。



「ぎゃああああああああああッ!!」



 骨が震える。

 皮膚が焼け、脂が弾け、肉が裂ける音が耳元で爆ぜる。

 灼かれているのは、ただの肉体ではなかった。あの屋敷で辱められた記憶、罵倒された言葉、引き裂かれた尊厳。それらがすべて焼き印に込められ、私の存在に食い込んでいく。



「まだよ。これしきで終わるわけがないじゃない」



 ヴァルセリアが陶酔した声音で囁いた。呪刻棒を引き抜くと、今度はさらに深く、脊髄に迫る位置へ押し込まれた。



「ア、あ……うああああああああああああッ!!」



 私は絶叫した。

 喉が裂けるほど、声帯が千切れんばかりに。

 頭の中に、裏切りの王子──レオンハルトの顔が浮かんだ。

 かつて「君のような女が、僕に触れること自体が汚らわしい」と嘲笑った、あの蒼い瞳。



「レオンハルト……イザベラ……マリーベル……シャルロッテ……お前たち……ッ!!」



 熱が脊椎を這い、骨の奥を炙る。

 それでも私は叫び続けた。怒りが、焼け爛れた肉の中で生き続けていた。



 その瞬間、意識の最奥で何かが軋んだ。



 ──カチリ。



 音がした。私の中で、長らく閉ざされていた扉が開かれるような音。

 そして左目の眼窩から、黒煙のような霧が溢れ出した。



 ヴァルセリアが狂喜に満ちた声をあげた。



「開いたわね……《死者を喚ぶ魔眼ネクロサイト》が」



 私の視界は暗転し、次いで死者の影が立ち現れた。

 水牢で朽ち果てた女たち、屍肉をむさぼる亡霊たち、その一つひとつが私に囁く。



「復讐を……」「業を果たせ……」「我らの痛みを連ねよ……」



 私はその言葉に、はじめて安堵に似た感情を覚えた。

 焼き焦がされた背に、禍々しい紋様が浮かび上がる。

 それは三姉妹を葬り去る呪術式。

 レオンハルトの血筋を絶やすための、業火の紋章。



 そして私は、笑った。

 焼け爛れた皮膚の上、血が滴る中で、復讐という生への執念を胸に秘めながら──



「私は……生きてる……」



 呪いとして。

 怨嗟として。

 私という地獄は、いま確かにこの背に刻まれた。

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