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第二十五話『婚礼準備』
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城門が霧の向こうから姿を現したとき、私は馬車の窓越しに深く息を吸った。ノクトホロウの湿った森の匂いが、まだ衣に染みついている。背後にはヴァルセリアの言葉が、冷たい針のように胸の奥に残っていた。
――血は力を与える。でも、それを飲み続ける者の心は……。
その続きを、私はあえて思い出さないようにした。
城門前には、新任筆頭女官マグダレーナが立っていた。黒髪をきっちりと結い、氷のような灰色の瞳が遠目にも冷ややかに光っている。前任の女官長が突如として自死した後、その座に就いた女だ。城内では「気高く、揺るがぬ者」と評されているが、私にとってはそれ以上の意味を持つ存在だった。彼女は私の《ネクロサイト》に絡め取られた数少ない人間であり、森への外出も彼女の協力があってこそ叶う。そして城の中で、私が森へ行っていたことを知るのは、彼女とゴリアテだけだ。
マグダレーナを使ったのは、たいていの王女に関する情報は女官から広まるからだ。女官さえ押さえておけば、ある程度は無茶ができる。話のつじつまも、マグダレーナの持って生まれた機転があれば何とかなる。そう確信していた。
彼女は深く一礼し、礼儀正しく言葉を投げかけてきた。
「お帰りなさいませ、王女殿下」
私は微笑を浮かべた。形だけのそれを。
「ご苦労さま、マグダレーナ。長旅だったわ」
「お体にお変わりはございませんか?」
声は柔らかいが、その眼差しは探るようだ。私は左眼で彼女を軽く覗き込み、忠誠心と好奇心、そしてわずかな猜疑が混ざる心の表層をなぞる。その芯には、術に操られる者特有の静かな従順さが脈打っていた。
「操っておいて正解でしたね」
耳元で、ニールがくすくすと笑いを含んだ声を漏らす。
「森に行ってたこと、バレてないみたいですし」
「ええ。だからこそ、彼女は外せないわ」
私は小さく返し、視線をマグダレーナから外した。城門をくぐると、冷たい石畳の感触が靴底を通じて伝わり、城の空気が肺に入り込んだ瞬間、心の奥で何かが静かに軋んだ。
部屋の前に立たせておいたゴリアテに、私はまず声をかけた。
「何か変わったことはなかった?」
ゴリアテは腕を組み、面倒くさそうに眉をひそめて答える。
「侍従長が何回か来た。忙しいから帰れって言っといた」
そのぶっきらぼうな言葉に、私は胸の奥で小さく笑みを漏らす。森に行っていたことは、やはり外に漏れていないようだ。
「助かったわ。あなたがいてくれると本当に楽ね」
「……別に」
ゴリアテはそっけなく視線を逸らすが、その巨躯は変わらず私の前に立ちはだかっていた。
部屋の中では、婚礼準備のための品々が次々と運び込まれていた。宝飾品の箱や絹のドレスが床を覆い、艶やかな赤、深い紺、純白の衣装が次々と積み重なる。甘い香りが空気を満たし、その華やかさの裏に、足首を絡め取る見えない鎖のような息苦しさが潜んでいる。
「失礼いたします、殿下」
扉が静かに開き、侍従長が入ってきた。背筋をぴんと伸ばし、手には分厚い革張りのスケジュール帳を抱えている。その灰色の瞳は礼儀正しくも鋭く、こちらを値踏みするようだった。
「こちらが、今後のご予定でございます」
恭しく差し出された紙束には、婚礼までの行事と儀礼が細かく記されていた。衣装の試着、晩餐会、祝宴、面会——その合間に休息の時間はほとんどない。
「随分と……忙しい日々になりそうね」
私が軽く口角を上げると、侍従長は表情を崩さぬまま答えた。
「すべては殿下の晴れの日のためでございます」
その声には忠誠心とともに、どこか計算めいた響きがあった。彼が本当に仕えているのは私か、それともこの城か——それを見極めるのは、まだ先のことだろう。
女官長マグダレーナが部屋を訪れ、恭しく頭を下げた後、背筋を糸のように真っ直ぐに保ったまま進み出た。灰色の瞳は一片の揺らぎもなく、顔には影一つ差さない。その口から発せられる声は、まるで精密に組み上げられた機械のように硬質で、感情の欠片もなかった。
「午前十時、衣装の最終確認。その後、宮廷画家による肖像画の下絵。午後からは来賓との顔合わせ、晩餐会の予行演習——」
抑揚のない、単語ごとに切り分けられた冷ややかな響きが空気をすべり落ちていく。そこには温度も匂いもなく、ただ予定を伝えるためだけの音があった。
私は恭しく差し出された紙束を受け取りながら、その無表情を観察する。滑らかな紙の感触が指先に冷えを伝え、わずかに皮膚が粟立つ。背後からゴリアテのぶっきらぼうな声が低く響いた。
「こいつ、喋ってんのに全然生きてる気がしねぇな」
お前に言われたらおしまいよ……ゴリアテの方が人間味がない……いや、どっちもどっちか。私は小さく笑みを漏らし、内心で思う。——今やゴリアテは、ニールの右腕としても使える貴重な存在だ。
紙束を軽く指で弾きながら、心の奥底でひそやかに計画を練る。……マグダレーナも隣国に連れて行こう。女官長という立場は情報の要ではなく、私の手で隣国で役立つ駒に仕立て上げる。左眼との相性も良い。操れる者が増えれば、外でも中でも、私の手はさらに遠くまで伸びる。
——この無表情、幻惑で崩すのが楽しみだわ。唇の端に浮かぶ笑みは、獲物を見据える狩人のそれだった。
柔らかな朝の光がレースのカーテンを透かし、床に淡い模様を描いている。その中央には白銀の刺繍を纏った婚礼衣装が置かれ、絹の生地が水面のように光を揺らしていた。金糸が複雑に絡み合い、花々や蔦の模様が浮かび上がる。隣の机には宝飾箱が開かれ、紅玉や翡翠、真珠が光を弾き、壁や天井に淡い虹を散らしていた。
「お手を失礼いたします」
マグダレーナが感情の起伏を欠いた声で告げ、私の袖口を持ち上げた。その指先は寸分の狂いもなく、まるで精密な装置の一部のように動く。
侍女たちは互いに小さく目配せしながら、裾を丁寧に広げ、腰紐を結び、肩の皺を整えていった。布の擦れる音と、金具の微かな触れ合いだけが室内に響く。
「もう少し締めますね」
背後から侍女の声がして、コルセットの紐が引き絞られた。胸が押し返されるたび、私は浅く呼吸し、冷たい絹の感触が肌を撫でる。その度に自分の身体が“私”から遠のき、奥底で熱く脈打つ復讐の鼓動だけが現実となった。
「……よくお似合いです、王女殿下」
マグダレーナの言葉は褒め言葉というより事務的な報告だ。しかし、灰色の瞳がわずかに揺れ、私を映す光が変わったのを左眼は見逃さない。
「宝飾を」
侍女の一人が翡翠の首飾りを差し出す。冷たさが鎖骨に触れた瞬間、心の奥に氷の欠片を置かれたような感覚が走った。
「……重いわね」
私が小さく呟くと、マグダレーナが淡々と答える。
「それだけ価値があるということです」
私は翡翠を指先でなぞり、ゆるく微笑を浮かべる。この衣装も宝飾も、私を飾る鎖であり、相手を絡め取る罠にもなる。
鏡越しに見えるマグダレーナの背筋は糸のように真っ直ぐで、侍女たちは静かな舞台装置のように動かない。
私はゆっくりと唇の端を上げた。
絹の裾を整える侍女たちの動きが、私の左眼ネクロサイトに映る。淡い光が瞳に揺らめき、さざ波のように意識へと広がっていく。微かな吐息とともに、私は彼女たちの心の奥へ、静かで甘やかな囁きをそっと流し込んだ——「王女は幸福そうだ」と。
頬にわずかな紅が差し、指先の動きが柔らかく変わる。その瞳に映る私は、安らぎと幸福を纏った花嫁だった。
「……殿下、隣国では婚礼に三日三晩の祝宴があるそうですよ」
針仕事を止めぬまま、ひとりの侍女が小さく口を開く。
「そう。あなたは行ったことが?」
「いいえ。ただ、以前仕えていた方から……。第一王子様はとても冷静なお方だとか」
別の侍女が視線を合わせず、袖口を整えながら続ける。
私は微笑みを崩さぬまま、心のさざ波をさらに広げる。「もっと話して」と声なき声を注ぎ込むと、彼女たちはほどけた糸のように噂を紡ぎ始めた。
「王子の妹君、ルイーゼ様は人当たりが良いけれど……近衛のカスパール様は、かなり気難しい方だそうです」
「ふぅん……気難しい男、嫌いじゃないわ」
部屋の片隅で、ニールが背もたれに肘をかけ、飄々とした声を投げる。
「へぇ~、殿下の趣味って意外っすね。でも今の話、ちゃんとメモっときますよ。情報は新鮮なうちに仕込まないと」
鏡越しに彼の笑みを盗み見る。軽口の下に隠れた鋭さは、短剣の切っ先のようだ。
「……仕込みは任せるわ。ただし、味は私好みにして」
「了解。甘口? それとも毒入り?」
唇の端をゆるく上げ、答えは濁す。裾を整える侍女たちの手は、今や完全に私の舞台の演者となっていた。
――血は力を与える。でも、それを飲み続ける者の心は……。
その続きを、私はあえて思い出さないようにした。
城門前には、新任筆頭女官マグダレーナが立っていた。黒髪をきっちりと結い、氷のような灰色の瞳が遠目にも冷ややかに光っている。前任の女官長が突如として自死した後、その座に就いた女だ。城内では「気高く、揺るがぬ者」と評されているが、私にとってはそれ以上の意味を持つ存在だった。彼女は私の《ネクロサイト》に絡め取られた数少ない人間であり、森への外出も彼女の協力があってこそ叶う。そして城の中で、私が森へ行っていたことを知るのは、彼女とゴリアテだけだ。
マグダレーナを使ったのは、たいていの王女に関する情報は女官から広まるからだ。女官さえ押さえておけば、ある程度は無茶ができる。話のつじつまも、マグダレーナの持って生まれた機転があれば何とかなる。そう確信していた。
彼女は深く一礼し、礼儀正しく言葉を投げかけてきた。
「お帰りなさいませ、王女殿下」
私は微笑を浮かべた。形だけのそれを。
「ご苦労さま、マグダレーナ。長旅だったわ」
「お体にお変わりはございませんか?」
声は柔らかいが、その眼差しは探るようだ。私は左眼で彼女を軽く覗き込み、忠誠心と好奇心、そしてわずかな猜疑が混ざる心の表層をなぞる。その芯には、術に操られる者特有の静かな従順さが脈打っていた。
「操っておいて正解でしたね」
耳元で、ニールがくすくすと笑いを含んだ声を漏らす。
「森に行ってたこと、バレてないみたいですし」
「ええ。だからこそ、彼女は外せないわ」
私は小さく返し、視線をマグダレーナから外した。城門をくぐると、冷たい石畳の感触が靴底を通じて伝わり、城の空気が肺に入り込んだ瞬間、心の奥で何かが静かに軋んだ。
部屋の前に立たせておいたゴリアテに、私はまず声をかけた。
「何か変わったことはなかった?」
ゴリアテは腕を組み、面倒くさそうに眉をひそめて答える。
「侍従長が何回か来た。忙しいから帰れって言っといた」
そのぶっきらぼうな言葉に、私は胸の奥で小さく笑みを漏らす。森に行っていたことは、やはり外に漏れていないようだ。
「助かったわ。あなたがいてくれると本当に楽ね」
「……別に」
ゴリアテはそっけなく視線を逸らすが、その巨躯は変わらず私の前に立ちはだかっていた。
部屋の中では、婚礼準備のための品々が次々と運び込まれていた。宝飾品の箱や絹のドレスが床を覆い、艶やかな赤、深い紺、純白の衣装が次々と積み重なる。甘い香りが空気を満たし、その華やかさの裏に、足首を絡め取る見えない鎖のような息苦しさが潜んでいる。
「失礼いたします、殿下」
扉が静かに開き、侍従長が入ってきた。背筋をぴんと伸ばし、手には分厚い革張りのスケジュール帳を抱えている。その灰色の瞳は礼儀正しくも鋭く、こちらを値踏みするようだった。
「こちらが、今後のご予定でございます」
恭しく差し出された紙束には、婚礼までの行事と儀礼が細かく記されていた。衣装の試着、晩餐会、祝宴、面会——その合間に休息の時間はほとんどない。
「随分と……忙しい日々になりそうね」
私が軽く口角を上げると、侍従長は表情を崩さぬまま答えた。
「すべては殿下の晴れの日のためでございます」
その声には忠誠心とともに、どこか計算めいた響きがあった。彼が本当に仕えているのは私か、それともこの城か——それを見極めるのは、まだ先のことだろう。
女官長マグダレーナが部屋を訪れ、恭しく頭を下げた後、背筋を糸のように真っ直ぐに保ったまま進み出た。灰色の瞳は一片の揺らぎもなく、顔には影一つ差さない。その口から発せられる声は、まるで精密に組み上げられた機械のように硬質で、感情の欠片もなかった。
「午前十時、衣装の最終確認。その後、宮廷画家による肖像画の下絵。午後からは来賓との顔合わせ、晩餐会の予行演習——」
抑揚のない、単語ごとに切り分けられた冷ややかな響きが空気をすべり落ちていく。そこには温度も匂いもなく、ただ予定を伝えるためだけの音があった。
私は恭しく差し出された紙束を受け取りながら、その無表情を観察する。滑らかな紙の感触が指先に冷えを伝え、わずかに皮膚が粟立つ。背後からゴリアテのぶっきらぼうな声が低く響いた。
「こいつ、喋ってんのに全然生きてる気がしねぇな」
お前に言われたらおしまいよ……ゴリアテの方が人間味がない……いや、どっちもどっちか。私は小さく笑みを漏らし、内心で思う。——今やゴリアテは、ニールの右腕としても使える貴重な存在だ。
紙束を軽く指で弾きながら、心の奥底でひそやかに計画を練る。……マグダレーナも隣国に連れて行こう。女官長という立場は情報の要ではなく、私の手で隣国で役立つ駒に仕立て上げる。左眼との相性も良い。操れる者が増えれば、外でも中でも、私の手はさらに遠くまで伸びる。
——この無表情、幻惑で崩すのが楽しみだわ。唇の端に浮かぶ笑みは、獲物を見据える狩人のそれだった。
柔らかな朝の光がレースのカーテンを透かし、床に淡い模様を描いている。その中央には白銀の刺繍を纏った婚礼衣装が置かれ、絹の生地が水面のように光を揺らしていた。金糸が複雑に絡み合い、花々や蔦の模様が浮かび上がる。隣の机には宝飾箱が開かれ、紅玉や翡翠、真珠が光を弾き、壁や天井に淡い虹を散らしていた。
「お手を失礼いたします」
マグダレーナが感情の起伏を欠いた声で告げ、私の袖口を持ち上げた。その指先は寸分の狂いもなく、まるで精密な装置の一部のように動く。
侍女たちは互いに小さく目配せしながら、裾を丁寧に広げ、腰紐を結び、肩の皺を整えていった。布の擦れる音と、金具の微かな触れ合いだけが室内に響く。
「もう少し締めますね」
背後から侍女の声がして、コルセットの紐が引き絞られた。胸が押し返されるたび、私は浅く呼吸し、冷たい絹の感触が肌を撫でる。その度に自分の身体が“私”から遠のき、奥底で熱く脈打つ復讐の鼓動だけが現実となった。
「……よくお似合いです、王女殿下」
マグダレーナの言葉は褒め言葉というより事務的な報告だ。しかし、灰色の瞳がわずかに揺れ、私を映す光が変わったのを左眼は見逃さない。
「宝飾を」
侍女の一人が翡翠の首飾りを差し出す。冷たさが鎖骨に触れた瞬間、心の奥に氷の欠片を置かれたような感覚が走った。
「……重いわね」
私が小さく呟くと、マグダレーナが淡々と答える。
「それだけ価値があるということです」
私は翡翠を指先でなぞり、ゆるく微笑を浮かべる。この衣装も宝飾も、私を飾る鎖であり、相手を絡め取る罠にもなる。
鏡越しに見えるマグダレーナの背筋は糸のように真っ直ぐで、侍女たちは静かな舞台装置のように動かない。
私はゆっくりと唇の端を上げた。
絹の裾を整える侍女たちの動きが、私の左眼ネクロサイトに映る。淡い光が瞳に揺らめき、さざ波のように意識へと広がっていく。微かな吐息とともに、私は彼女たちの心の奥へ、静かで甘やかな囁きをそっと流し込んだ——「王女は幸福そうだ」と。
頬にわずかな紅が差し、指先の動きが柔らかく変わる。その瞳に映る私は、安らぎと幸福を纏った花嫁だった。
「……殿下、隣国では婚礼に三日三晩の祝宴があるそうですよ」
針仕事を止めぬまま、ひとりの侍女が小さく口を開く。
「そう。あなたは行ったことが?」
「いいえ。ただ、以前仕えていた方から……。第一王子様はとても冷静なお方だとか」
別の侍女が視線を合わせず、袖口を整えながら続ける。
私は微笑みを崩さぬまま、心のさざ波をさらに広げる。「もっと話して」と声なき声を注ぎ込むと、彼女たちはほどけた糸のように噂を紡ぎ始めた。
「王子の妹君、ルイーゼ様は人当たりが良いけれど……近衛のカスパール様は、かなり気難しい方だそうです」
「ふぅん……気難しい男、嫌いじゃないわ」
部屋の片隅で、ニールが背もたれに肘をかけ、飄々とした声を投げる。
「へぇ~、殿下の趣味って意外っすね。でも今の話、ちゃんとメモっときますよ。情報は新鮮なうちに仕込まないと」
鏡越しに彼の笑みを盗み見る。軽口の下に隠れた鋭さは、短剣の切っ先のようだ。
「……仕込みは任せるわ。ただし、味は私好みにして」
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