60 / 104
第九章 南龍のドライゼ
佐伯城下の警察官
しおりを挟む
「ひでぇ……」
眼前に広がる政府軍負傷者の惨状に、草介は思わず呻いた。
銃弾、砲弾、刀槍などの兵器・武器による傷ばかりではなく、感染症や暑熱などありとあらゆる傷病に苦しむ兵で溢れ返っている。
ここは海に面した豊後大分の佐伯城下。
明治10(1877)年8月15日、明光丸でここに入港した隼人と草介は激戦の傷跡をこうして目の当たりにすることとなった。
宮崎に押し出される形となった薩軍本隊は地形に沿って徐々に北上することを余儀なくされたが、政府軍は続々とこれを包囲。もはや西郷らは袋の鼠といっていい状態にまで追い詰められていた。
これ以外にも薩軍本隊から分かれて作戦行動に就いていた部隊が各地で政府軍と交戦しており、そのおびただしい負傷兵らがこうして参集しているのだ。
政府軍は各地の寺院などを野戦病院である「大繃帯所」に定め、佐伯では城下の大日寺がその任を担っていた。
比較的軽傷の者は互いにかばい合いながら自力で手当てを受けに来るが、戸板や筵に乗せられているのはそうでない者たち。
もっとも手当といっても弾の摘出や止血・縫合程度が精一杯で、もう二度と動かなくなった者は両手両足を青竹に括りつけられていずこかへ運ばれてゆく。
佐伯の地に降り立った直後に目にした地獄絵図に、さしもの草介も言葉を失ってしまったのだ。
と、足を引き摺りながら一人で城下を目指す兵を見かけた。
「気を確かに。それがしの肩に」
隼人が駆け寄り、草介も共に彼に肩を貸して野戦病院の大日寺へと向かう。
寺の様子は、さらに酸鼻を極めていた。
本堂や庫裏はおろか、境内から山門の外にまでびっしりと傷病兵が横たわり、屋外では天幕がかろうじて日差しを遮っているだけだ。
傷と手当ての痛みでそこかしこから呻き声や叫び声が上がり続け、血膿のすえた臭いが充満している。
隼人と草介が負傷兵を抱えて大日寺に近付くと、幾人かの兵が駆け寄ってきて後を引き受けた。
軍医や衛生兵ばかりではない。傷が癒えて動ける者は救護の助太刀をしているのだろう。
と、そのうちの一人が目深にかぶった帽子の下からまじまじと隼人を見つめた。
「もしや、片倉殿か……?」
こけた頬に鋭い眼光。それも単なる武辺の者という風情ではなく、草介の目にも本物の修羅場を潜ってきたことを思わせる凄みがあった。
男がまとうのは鎮台の軍服ではない。金線入りの制帽に濃紺の詰襟制服、腰には晒帯を締めている。
警視隊……警察官の参軍兵だ。
「こなたは……! 無事であられたか」
あまり驚いた表情を見せることのない隼人が瞠目し、次いで懐かしそうにその目を細めた。
「さい…いや、何とお呼びすべきか」
「痛み入ります。今は藤田、“藤田五郎”と名乗ってござる」
隼人に紹介された草介も頭を下げると、藤田は脱帽してそれに応えた。
あらわになった顔は二重まぶたですっきりと鼻筋の通った男前だが、抜身の刃を思わせる鋭い印象の人物だ。
「片倉殿がなぜここに、と伺ってよいものかな」
藤田の問い掛けに、隼人はかいつまんで事の次第を語って聞かせた。
無論秘密ではなく、もし有益な情報を提供してもらえるなら願ったりだ。
じっと耳を澄ませていた藤田はあらましを聞き終えると、懐から地図を取り出して隼人と草介の前に広げて見せる。
「簡易なものでござるが、これを御覧じよ。今いる佐伯がここ、これより南が日向の延岡でござる。薩軍本隊とは現状この辺りで戦っていると聞き申すが、政府軍による延岡占拠は間もなくでござろう。海上は海軍艦が封鎖しており、そもそも薩軍には一艦たりとも船はござらん。海へも出られぬ、進退窮まる、なればどうするか」
「討ち死に覚悟で全軍斬り込むと……?」
「いや、片倉殿。それがしはそうは思えませぬ。これ、ここをこう、こうして……」
藤田は地図上で延岡の少し北側、一点に指を突いてすうっと滑らせていき、鹿児島まで至る軌跡を描いた。
「もしそれがしがこの包囲を突破するなら、政府軍布陣の裏をかいてこの可愛岳を登り、山岳を縦走して鹿児島に戻りまする」
「なんと――」
「上層部に意見具申は致したが、一蹴され申した。あの峻嶮を武装した大軍が登れるわけがないと。だが片倉殿、よもやの機会が訪れるやも分かりませぬ。それがしは本日付で原隊復帰致すが、延岡に向かえばあるいは御留郵便の任に与するやも知れませぬな」
藤田の言葉に直感するところのあった隼人と草介は、その足で延岡を目指した。
「はーさん。藤田ってお巡りさん、おっかねえ人だったなあ。紀伊の知り合いなのかい」
「いいや。あの人の前の名は“斎藤一”という。新撰組で三番隊組長を務めておられた」
「新撰組……!? なんつうこってぇ……!」
だが隼人と草介がまさに延岡に向かっている翌8月16日、西郷隆盛から薩摩全軍に解散命令が出された。
これをもって将兵の進退自由を宣したものであるが、不屈の薩摩隼人らは西郷と生死を共にすべく蠢くのだった。
眼前に広がる政府軍負傷者の惨状に、草介は思わず呻いた。
銃弾、砲弾、刀槍などの兵器・武器による傷ばかりではなく、感染症や暑熱などありとあらゆる傷病に苦しむ兵で溢れ返っている。
ここは海に面した豊後大分の佐伯城下。
明治10(1877)年8月15日、明光丸でここに入港した隼人と草介は激戦の傷跡をこうして目の当たりにすることとなった。
宮崎に押し出される形となった薩軍本隊は地形に沿って徐々に北上することを余儀なくされたが、政府軍は続々とこれを包囲。もはや西郷らは袋の鼠といっていい状態にまで追い詰められていた。
これ以外にも薩軍本隊から分かれて作戦行動に就いていた部隊が各地で政府軍と交戦しており、そのおびただしい負傷兵らがこうして参集しているのだ。
政府軍は各地の寺院などを野戦病院である「大繃帯所」に定め、佐伯では城下の大日寺がその任を担っていた。
比較的軽傷の者は互いにかばい合いながら自力で手当てを受けに来るが、戸板や筵に乗せられているのはそうでない者たち。
もっとも手当といっても弾の摘出や止血・縫合程度が精一杯で、もう二度と動かなくなった者は両手両足を青竹に括りつけられていずこかへ運ばれてゆく。
佐伯の地に降り立った直後に目にした地獄絵図に、さしもの草介も言葉を失ってしまったのだ。
と、足を引き摺りながら一人で城下を目指す兵を見かけた。
「気を確かに。それがしの肩に」
隼人が駆け寄り、草介も共に彼に肩を貸して野戦病院の大日寺へと向かう。
寺の様子は、さらに酸鼻を極めていた。
本堂や庫裏はおろか、境内から山門の外にまでびっしりと傷病兵が横たわり、屋外では天幕がかろうじて日差しを遮っているだけだ。
傷と手当ての痛みでそこかしこから呻き声や叫び声が上がり続け、血膿のすえた臭いが充満している。
隼人と草介が負傷兵を抱えて大日寺に近付くと、幾人かの兵が駆け寄ってきて後を引き受けた。
軍医や衛生兵ばかりではない。傷が癒えて動ける者は救護の助太刀をしているのだろう。
と、そのうちの一人が目深にかぶった帽子の下からまじまじと隼人を見つめた。
「もしや、片倉殿か……?」
こけた頬に鋭い眼光。それも単なる武辺の者という風情ではなく、草介の目にも本物の修羅場を潜ってきたことを思わせる凄みがあった。
男がまとうのは鎮台の軍服ではない。金線入りの制帽に濃紺の詰襟制服、腰には晒帯を締めている。
警視隊……警察官の参軍兵だ。
「こなたは……! 無事であられたか」
あまり驚いた表情を見せることのない隼人が瞠目し、次いで懐かしそうにその目を細めた。
「さい…いや、何とお呼びすべきか」
「痛み入ります。今は藤田、“藤田五郎”と名乗ってござる」
隼人に紹介された草介も頭を下げると、藤田は脱帽してそれに応えた。
あらわになった顔は二重まぶたですっきりと鼻筋の通った男前だが、抜身の刃を思わせる鋭い印象の人物だ。
「片倉殿がなぜここに、と伺ってよいものかな」
藤田の問い掛けに、隼人はかいつまんで事の次第を語って聞かせた。
無論秘密ではなく、もし有益な情報を提供してもらえるなら願ったりだ。
じっと耳を澄ませていた藤田はあらましを聞き終えると、懐から地図を取り出して隼人と草介の前に広げて見せる。
「簡易なものでござるが、これを御覧じよ。今いる佐伯がここ、これより南が日向の延岡でござる。薩軍本隊とは現状この辺りで戦っていると聞き申すが、政府軍による延岡占拠は間もなくでござろう。海上は海軍艦が封鎖しており、そもそも薩軍には一艦たりとも船はござらん。海へも出られぬ、進退窮まる、なればどうするか」
「討ち死に覚悟で全軍斬り込むと……?」
「いや、片倉殿。それがしはそうは思えませぬ。これ、ここをこう、こうして……」
藤田は地図上で延岡の少し北側、一点に指を突いてすうっと滑らせていき、鹿児島まで至る軌跡を描いた。
「もしそれがしがこの包囲を突破するなら、政府軍布陣の裏をかいてこの可愛岳を登り、山岳を縦走して鹿児島に戻りまする」
「なんと――」
「上層部に意見具申は致したが、一蹴され申した。あの峻嶮を武装した大軍が登れるわけがないと。だが片倉殿、よもやの機会が訪れるやも分かりませぬ。それがしは本日付で原隊復帰致すが、延岡に向かえばあるいは御留郵便の任に与するやも知れませぬな」
藤田の言葉に直感するところのあった隼人と草介は、その足で延岡を目指した。
「はーさん。藤田ってお巡りさん、おっかねえ人だったなあ。紀伊の知り合いなのかい」
「いいや。あの人の前の名は“斎藤一”という。新撰組で三番隊組長を務めておられた」
「新撰組……!? なんつうこってぇ……!」
だが隼人と草介がまさに延岡に向かっている翌8月16日、西郷隆盛から薩摩全軍に解散命令が出された。
これをもって将兵の進退自由を宣したものであるが、不屈の薩摩隼人らは西郷と生死を共にすべく蠢くのだった。
2
あなたにおすすめの小説
別れし夫婦の御定書(おさだめがき)
佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。
離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。
月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。
おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。
されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて——
※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
改造空母機動艦隊
蒼 飛雲
歴史・時代
兵棋演習の結果、洋上航空戦における空母の大量損耗は避け得ないと悟った帝国海軍は高価な正規空母の新造をあきらめ、旧式戦艦や特務艦を改造することで数を揃える方向に舵を切る。
そして、昭和一六年一二月。
日本の前途に暗雲が立ち込める中、祖国防衛のために改造空母艦隊は出撃する。
「瑞鳳」「祥鳳」「龍鳳」が、さらに「千歳」「千代田」「瑞穂」がその数を頼みに太平洋艦隊を迎え撃つ。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
幻の十一代将軍・徳川家基、死せず。長谷川平蔵、田沼意知、蝦夷へ往く。
克全
歴史・時代
西欧列強に不平等条約を強要され、内乱を誘発させられ、多くの富を収奪されたのが悔しい。
幕末の仮想戦記も考えましたが、徳川家基が健在で、田沼親子が権力を維持していれば、もっと余裕を持って、開国準備ができたと思う。
北海道・樺太・千島も日本の領地のままだっただろうし、多くの金銀が国外に流出することもなかったと思う。
清国と手を組むことも出来たかもしれないし、清国がロシアに強奪された、シベリアと沿海州を日本が手に入れる事が出来たかもしれない。
色々真剣に検討して、仮想の日本史を書いてみたい。
一橋治済の陰謀で毒を盛られた徳川家基であったが、奇跡的に一命をとりとめた。だが家基も父親の十代将軍:徳川家治も誰が毒を盛ったのかは分からなかった。家基は田沼意次を疑い、家治は疑心暗鬼に陥り田沼意次以外の家臣が信じられなくなった。そして歴史は大きく動くことになる。
印旛沼開拓は成功するのか?
蝦夷開拓は成功するのか?
オロシャとは戦争になるのか?
蝦夷・千島・樺太の領有は徳川家になるのか?
それともオロシャになるのか?
西洋帆船は導入されるのか?
幕府は開国に踏み切れるのか?
アイヌとの関係はどうなるのか?
幕府を裏切り異国と手を結ぶ藩は現れるのか?
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる