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第七章 変わりゆく帝国
7 黒の軍団
しおりを挟む「どういうおつもりですか、トリフォノフ伯」
ユーリの声は静かだった。
ロマンは彼を守るように、さっとその前に立って両手を広げた。黒鳶も二人を護るようにして彼らに背を向け、背後に向かって鋭い眼光を飛ばしている。彼の得物である短めの刀を抜き放ち、油断なく身構えていた。
ぶひゃひゃひゃ、と醜い豚のような声が室内に溢れかえった。
「ざまはありませぬな、王子殿下。あなた様は、この場でこの世におさらばして頂きましょう」
「……私を殺すということですか」
ユーリの声は、やっぱり普段通りだった。
「このようなことをして、ただで済むとお思いですか」
「思いませぬな。もしも、お父上に知れればのことですが。しかし、これは我らも『預かり知らぬこと』に過ぎませぬ」
「…………」
沈黙で応えたユーリを、トリフォノフは哀れな獲物を見るような目で眺めてにたにた笑った。
「おっしゃる通り、このところこの地には、食い詰めた野盗どもも増えておりますものでな。王子殿下はご不幸にも、それらの者に襲われておしまいになられたのです。こちらの邸にお着きになる前にな」
「……そういうことですか」
やや肩を落としてユーリが言った。
「まさか伯爵ともあろうお方が、こんな突拍子もないことをなさるとは思いませんでした」
その目は哀しみに沈んでいる。
「父からの書状はご覧になったのでしょう? これまでの事実を認めてくださり、民らから不当に搾り取ったものを返却し、心からの謝罪と、今後の改善を約束してくださるのなら、父上もあなたのお立場についてはご一考くださる。そのように書いてあったと思うのですが」
「左様なこと! さすがは大阿呆の第三王子殿下であることよ!」
トリフォノフは痰でも吐き出すようにして叫んだ。
「お頭の中が、まるきり砂糖菓子でいらっしゃる。農奴など、『生かさず殺さず』が領地運営の基本ではござらぬか。口ではなんやかやと建て前を申しても、ほかの貴族どもも同様にござりましょう」
ユーリは思わず口を開きかけたが、トリフォノフはそれを許さず畳みかけた。
「第一、それが大貴族たる我らに許された特権ではありませぬか。皇帝陛下には、毎年十分な献上の品を差し上げているはず。我らが自分の領地でどのように民らを遇しようが、そちらになんの問題がありましょうや!」
ユーリの目の色がさらに暗くなった。
「……そのためなら、民らをどんなに不当に苦しめても構わぬとおっしゃるのですか。親が幼い子を泣く泣く殺し、老いた親を山奥に捨てに行っても構わぬと? 大事な娘を、不届きな仕事をさせるために少ない金で叩き売るようなことをしても構わぬと? ……あなたにも、子供があるのでしょうに」
「だまらっしゃい!」
トリフォノフが極めつけに醜い顔で怒号を上げた。
「甘えたぼんくら王子の言葉など耳に入れるもおぞましいわ。そら、貴様ら! 何をぐずぐずしておるのだ。そこな甘ったれ王子をさっさと射殺せ! 仕損じるでないぞッ!」
周囲の兵らがキッと弓弦を引きしぼる。彼らの表情はさまざまだった。完全に無表情の者もいれば、まだ若くて戸惑いの色を浮かべている兵もいる。腕が震えて、狙いの定まらない者もいるようだった。
と、次の瞬間だった。
「うおっ!」
「ぐはっ!」
くぐもった悲鳴を上げて、兵らがばたばたとその場に倒れ込んだ。
「な……なにっ!?」
トリフォノフが目を剥く。
空気の中から十名ばかりの黒い影がいきなり現れ、兵士らの体に突きを食らわせ、次々に昏倒させたのだ。すでに泡を吹いている者もいる。
「ひ……ひいいっ!?」
トリフォノフの背後にいた臣下たちが悲鳴をあげた。
黒い影はみな、真ん中にいる黒鳶とほぼ同じ姿をしていた。
と、数名の兵士が倒れ込みながらも、ぱっと数本の矢を放った。
「殿下っ!」
ロマンが叫んだ。
矢がまっすぐにユーリを目指す。ユーリは思わず、ロマンの体を守るようにして素早く抱きしめた。矢には背を向け、ロマンの頭を抱き込んで体を丸くする。
と、突然その前に黒い疾風が立ちはだかった。
黒鳶が刀を一閃させ、あっというまに矢をすべて叩き落したのだ。刀はもとより体捌きすら、目にも留まらぬ速さだった。男はそれでも、息のひとつも乱していない。
矢を放った兵たちも、他の黒装束の者たちにすぐに昏倒させられた。
「……あ、ありがとう。黒鳶どの……」
「これが務めにございますゆえ」
ユーリの震える声には端的に答えたのみで、黒鳶はぴたりと刀を構え、もとの姿勢に戻った。
その時にはもう周囲の兵らは、みな床に倒されていた。殺されている者は誰もいない。ユーリのたっての希望で、玻璃から「決して殺すな」という厳命がおりていたからである。
「ぬ……ぬぬうっ!」
起こったことがまだ理解できないらしく、トリフォノフはどろんとした目をぎょろつかせ、口をぱくぱくさせたまま黒鳶の配下の者らに抱えられて引きずられていった。臣下数名も同様である。彼らはこのまましばらく、帝国の官吏が到着するまで、この屋敷の牢に身柄を拘束することになるはずだった。
「はあ……」
そこでようやく、ユーリは大きく息を吐きだした。
そして突然、なんだか体中に震えがきてどうしようもなくなった。足もとからがくがく震え、膝が笑ってどうにもならない。
「わ、うわ……」
「殿下……!」
ロマンがぎゅうっと抱きついてきた。いつもは気丈な少年が、今は真っ青な顔をして、唇をぶるぶるふるわせている。この少年もユーリと同じく、さぞや恐ろしかったのだろう。
「ありがとうございます。ありがとうございます。私のような者をお守りくださって! すみません……私が殿下をお守りしなくちゃいけないのに……!」
「なに言ってるんだよ、ロマン」
笑って言ったつもりだったが、声はみっともなくひび割れた。
「はは。今ごろ、こんなに震えてきちゃって……情けないな」
ユーリがへろへろしながら笑うと、ロマンはくしゃりと泣きそうな顔になった。
「本当ですよ。あんまり、危ないことをなさらないでくださいませ。まだ胸がどきどき言ってます。じゅ、寿命が縮みました。十年ぐらいは縮みましたあ……!」
珍しく気弱なことを訴える少年の背を、黒鳶が黙って片手で宥めるようにさすっている。ひどく優しい手つきだった。
「クロトビ殿も、ありがとう……」
震える声で言う少年に、男は黙ってうなずいてやっている。
と、突然、手首のほうから声がした。
《見事だったな。ユーリ殿》
「は、玻璃どのっ……!」
通信用の腕輪で、玻璃が連絡してきたのだ。
ユーリはぱっと腕輪に耳をくっつけた。
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