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第十章 予兆
8 鰓手術
しおりを挟む「あのね、あのね、おーじたま。アーニャね、『ひかり』がわかったの。それから、『みえる』がわかったの」
ユーリたちはいま、廊下から少し移動して、窓際のソファのある場所にいる。
「まえはね、ひかりが『あったかい』のと、おひさまの『におい』だけはわかったの。でもね、いまはあたまのまわりがね、いっぱいいっぱい白くて、あったかくて光ってるの。『あかるい』ってこと、まえはわからなかったけど、いまはわかるの……」
アーニャはさっきから拙い言葉を必死に駆使して、目が見えるようになったことの喜びを全身でユーリに伝えようと頑張っていた。手を振り回し、ぴょんぴょん跳びはねて笑い転げる。
彼女の隣でその兄である少年がすっかり涙ぐんで、ユーリの袖に取りすがっていた。彼は名をマルクという。最初こそロマンが慌てて「不敬だぞっ」と止めに入ったのだが、ユーリが「かまわない、そのままで」と押しとどめたのだ。
「あ、ありがと……ございました」
マルクは少ししゃくりあげていた。
「王子さま、ほんとうに、ほんとうにオレ……」
ユーリは嬉しくてたまらず、二人の肩を抱きよせてその頭を優しく撫でた。
「いいんだよ。本当に良かった。それよりマルク、私との約束はどうなった? 勉強はどうだろう。文字を覚えるのは進んでいる? 何か困っていることはないかな?」
「あっ、はい!」
途端、マルクの顔が輝いた。
「最初はむずかしいかなって思ったんですけど。でも、字が読めたり書けたりできるの、とっても楽しい。春に一回家にもどったとき、オレ、地主からもらった証文をちょっと読めたんです。それで父さんと母さんがびっくりして」
「そうなんだ。それってやっぱり《スピード・ラーニング》を使ってるの?」
「はい、そうだと思います。証文の文は、まだ言葉とかむずかしいのが多くて、全部はよめないんだけど……。そのうち、ちゃんと読めるようになります。ぜったい」
「うん。がんばって」
「えっと……。それで父さんと母さんが、兄ちゃんたちにも勉強させてやりたいって言いだして。家やほかの農家の手伝いがないときに、オレが教えてあげることになったんです」
「そうなの? それは良かった!」
と、反対側のユーリの袖を、今度はアーニャがきつんと引っ張った。
「おーじたま、おーじたま! アーニャもだよ。アーニャもおべんきょ、してるよう! ほら、『A』、『Б』、『B』……」
言いながら、小さな指がくるくると空中に文字を書く。
ユーリは声をたてて笑った。
「すごいね! アーニャちゃんは本当にえらいなあ。賢いのはお兄さんゆずりだね。どうかそのまま頑張って、賢くて素敵な大人の女性になってね」
「うん!」
「ふふ。えらいえらい」
さらに頭をなでてやったら、アーニャは子どもらしく曇りのない笑みをいっぱいにして、はちきれそうな薔薇色の頬をゆるませた。
◆
名残惜しそうにする二人と別れ、ユーリはようやく別室に移り、医務官らから鰓手術の説明を受けた。
簡単に言うと、ユーリたち自身への体の負担はほとんどない。鰓手術には専用の医療カプセルを使うが、そこに三日間入るだけで完了だそうだ。施術の間は完全に眠らされているので、時間の経過はほとんど感じないという。
それよりは、事前の検査や問診のほうがはるかに重要らしい。人によってどういう薬に耐性があるかないか、アレルギーや副反応が起こりやすいかそうでないかなどはまことに千差万別だからである。
また、鰓そのものの形状も、体格や体質にあわせて細かくバリエーションが分かれるのだそうだ。だから当然、ユーリとロマンの鰓は違うものになる。
「経過は我らが常に交代で監視し、適宜皇太子殿下へも報告を上げることになっております。ロマン様も同様です」
「何か少しでも問題があれば、皇太子殿下とご相談のうえ、施術を中止する場合もあります」
「ですが、これまでほぼ九十九パーセントの確率で成功してきておりますので。ほぼご心配は無用かと」
「わかりました。皆さんにお任せします。どうぞよろしくお願いします」
説明の最後にそう言って頭をさげたら、医務官たちはびっくりして必死に固辞した。まさか他国の王子でいまや皇太子の配殿下ともあろう人が、ここまで腰が低いとは思いもよらなかったのかも知れない。
「それでは、殿下。ロマン様。事前の検査を始めますので、どうぞこちらへ」
促されて検査室へ向かうユーリとロマンを、背後で黒鳶がひっそりと気配を殺して見送っていた。
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