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第二章 囚われの王子
12 呼び名
しおりを挟む男は一度、床に寝そべったユーリの体をじろじろと眺めまわした。それから、ぐいと顔を近づけて来た。
「まずは、名で呼べ」
「え……」
唾など一滴もでてこないのに、ごくりと喉を鳴らす。
「そ、……蒼どの、と?」
「んんー。そうか。そうだな」
男はなぜか、ちょっと変な顔になった。片眉を少し跳ね上げ、顎に手を当ててなにかを思案するようだ。
「ものは試しだ。……『アジュール』、と呼んでみろよ」
「え?」
男は眉間に皺を立てると、わざとらしいほどゆっくりとその名前を発音し直してみせた。
「『ア、ジュー、ル』だ。何度も言わせるな」
「ア、ジュール……どの」
「『どの』は要らん」
「…………」
なんとなく奇妙な気分だった。もうずっと昔みたいに思えるが、こんな会話を背後の《水槽》にいる方ともしたことがあったような。もちろん、ユーリの気分には天と地ほども開きがあるけれど。
当の玻璃は《水槽》の中から怪訝な厳しい目で男を睨みつけている。その眼光とはなんの関係もないのだろうが、男はあっさりとユーリの体の上からどいて立ち上がった。ユーリは上半身を起こし、乱れていた裾を整えて、のそのそと座り込んだ。
「もう一度。呼んでみろ」
「えっと……。ア、アジュール」
「もう一度」
「……アジュール」
そこで気づいた。
いまや「蒼」から「アジュール」となった男は、またもやぴたりと目を閉じてユーリの声を聴いていた。何度か満足げに頷いている。
「あ……あの」
「うん。やっぱりな。腕輪の音声だけではよくわからなかったが、直に聴いてもなかなかいいぞ」
「は?」
「なんでもない」
なにがどう「いい」のか、さっぱりわからない。大体故国にいるときから、声を褒められたことなんて一度もないのだ。
「うん。今回はなかなかいい選択だったな」
声音も瞳も冷たかったが、男はなぜか嬉しそうだった。顎に手をあて、親指の腹で自分の唇を軽く撫でてにやにやしている。
いったい何だというのだろう。なにもかも謎だらけだ。頭の中に疑問符をいっぱいに躍らせながら、ユーリはおずおずと立ち上がった。はだけられていた袷を元通りに整え、裾をひっぱって皺をのばす。
男は少し距離をとっただけで、特に邪魔する様子はなかった。そしてだしぬけにユーリの鼻先に指を突きつけた。
「これからは『アジュール』と呼べ。それとその、鬱陶しい敬語をなんとかしろ」
「えええ?」
「いいな」
「ええええ?」
おどおどと目だけで《水槽》の中の玻璃に意見を求めたけれど、彼もわずかに肩を竦めて首を横に振るだけだった。要するに、お手上げだ。この人外の男の頭の中は、だれにもまったく理解できない。
と、きつんと首輪のワイヤーを引っ張られた。
「うわ!」
いつの間にか、男がワイヤーの端を壁面から取り外している。どうやら彼だけがそのロックを外せるらしい。ワイヤーの先には、三角形をしたハンドルのようなものが付いていた。
「ちょうどいい。『散歩』に連れて行ってやる」
「さ、散歩……?」
あんまり想像したくなかったが、この男、本当にユーリを犬かなにかのようにして飼うつもりらしい。
「さっさと歩け」
「ぐえ!」
ぐいと引っ張られて息がつまった。玻璃が《水槽》の壁面に張り付くようにして男を睨みつけている。全身から殺気を発しているのだが、当の男はどこ吹く風だ。
玻璃は男に無駄な殺気を放散することを諦めたらしい。すぐに肩から力を抜くと、今度は心配そうな目でこちらを見つめてきた。ユーリは必死に口角を上げて見せた。
《だ、大丈夫です、玻璃殿。ご心配なさらずに。すぐに戻りますので……》
《ユーリ……》
玻璃は全身で申し訳なさそうになっていた。筋肉の盛り上がった肩を下げ、《水槽》の底に両膝をついている。膝の上の拳は硬く握られていた。苦しげに唇を噛み、眉間に深い皺をたてている。
《すまぬ……。何度も言うが、決して無理はするなよ》
《はい。どうかご心配なく》
《ある程度の距離であれば、これで心の声は届く。何があったか、そのまま俺に教えてくれ》
玻璃は耳の後ろを掻くようなふりをして、ユーリだけにわかるように鰓のあたりを指さして見せた。大好きな紫水晶の瞳が、優しくも悲しい色を湛えている。
この方がユーリのことをどんなに心配してくださっているか、大切に想ってくださっているか。このことだけは、ユーリにも十分に理解できた。そしてこれだけは、ユーリが単身ここに来たことの救いだった。
《はい。お任せを──》
精一杯ほほえんで、思念だけで返事をする。
(救わねば)
この方だけは、お救いせねば。どんなことをしても故国へお返しせねば。それは滄海のためであると同時に、アルネリオの皆のためでもあるのだ。
たとえ自分が、この人外の男に何を差し出すことになろうとも。
正直なことを言えば、本当は恐ろしくて堪らない。今だって、うっかりすると下半身から力が抜けてへたへたとこの場に座り込んでしまいそうになる。必死で見せまいと頑張っているけれど、足なんてずっとがくがくだ。許されるものならば、身も世もなく「怖いよう」と大声で泣き叫びたい。
──でも。
自分には、目的がある。たとえそれがどうしても達成できなかったとしても、最後の最後には「救い」もある。
自分の鰓に潜ませている瑠璃からの贈り物には、実はそういう意味もあるから。
耳の奥に残っているあの美しい義弟の言葉を思い出しながら、ユーリは薄く微笑んだ。
(でも……できれば、お救いせねば)
いや。
必ずお救いするんだ。……玻璃どのを。
ユーリは一度目を閉じて、ぐっと丹田に力を込めた。
そうしてその思いを新たにしつつ目を開き、ワイヤーを引かれるままに、ずるずると部屋の外へ引きずり出されていった。
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