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第四章 宇宙のゆりかご
12 遺言
しおりを挟むなにも考えられなかった。
なぜなら瑠璃は、まだ信じているからだ。我が兄が、大好きなあの兄が、まだ生きていてくれるものだと。
画像の兄の声は続いている。
《もしもユーリが無事であるなら、どうか後々の面倒を見てやってくれ。故国に戻りたいと申すならばそのように。俺の菩提を守りたいと申すなら、そのように。……新たな伴侶を望むのであれば、相手がどこのだれであろうと自由に。できればどうか、優しくしてやってくれると嬉しい。俺を亡くして、さぞや力落としをしていようからな》
「兄上っ……」
両手で顔を覆う。低い嗚咽が漏れ出てしまうことを、どうしても我慢できなかった。
ロマンはうつむいたまま沈痛な面持ちでいる。黒鳶も血の気の引いた顔で、床の一点を見つめているばかりだ。
《これまで、そなたもさぞやつらい思いをしてきたことであろう。心ない連中というのは、どこにでもいる。なんでもかんでも俺と比べられて、さぞや苦しく情けない思いをしてきたであろう。そうと察してはいながらも、俺も大したことはしてやれなかった。むしろ俺が下手に口を出せば、かえってそなたへの風当たりがきつくなると考えたからだったのだが。……不甲斐ない兄を許せよ》
「兄上……」
そんな、とんでもない。
兄はいつだって優しかった。父だって、自分にはちょっと甘すぎるぐらいに愛してくださり、優しくしてくださっていた。
自分がこんな風に拗ねていじけてしまったのは、別にこの兄のせいではないのだ。
《だが、これからは違う。気持ちも新たに、違う道を歩めると思うのだ。父君はもちろんであるが、左大臣派の面々には、仁徳に優れた御仁がいくたりもいる。存分に彼らを頼れ。……考え違いをする御仁も多いことだが、そなた自身が素晴らしい才を持つか否かということはこの場合、さして重要なことではないのだ》
「え……?」
意外な言葉がきて、瑠璃は思わず目を上げた。
《ひとの上に立つ者は、まずは人を慈しみ、信ずる心がなくてはならぬ。人を労り、尊ぶ心がなくてはならぬ。そして最も大切なのは》
そこでふと、玻璃は言葉を止めてこちらをじっと見た。
まるで、愛しい弟が本当にそこにいるかのように。
優しい優しい、兄の目だった。
《なによりも、謙譲の心。つまりへりくだる心だ。目下の者らの能力を信じ、頼り、高く評価し、心から任せる度量だと俺は思う。……それがまことの、人の上に立つ者の英明の道でもあろうとな》
(兄上……!)
大好きな玻璃兄。
そうだ。これは間違いなく兄本人の映像だ。
兄でなくして、どうしてこんな言葉で語れよう。
《賢く、美しき海皇となれ。……瑠璃。どうか、俺の後をよろしく頼むぞ》
最後にゆったりと優しく微笑んだかと思うと、映像はぷつりと途絶えた。
しばらくは、部屋の中のだれもこそりとも動かなかった。画面のあった場所を呆然と見上げながら、まだだくだくと涙を零している瑠璃の喉が、ひくひくいう音がするばかりだ。
やがて黒鳶が、頭を垂れて静かに言った。
「こちらは、あの謎の宇宙船の存在が確認されたほんの少し後に皇太子殿下がご記録なさり、自分にお託しになったものです。ご自身に万が一のことがあった時、必ず瑠璃殿下にお見せするようにと。ただし、『ここぞ』という機会を待てと。そのようにご命令を承っておりました」
(つまり……左大臣派と協力せよと?)
要するにそういうことなのだろう。
自分を「これ幸いに」と担ぎ上げようとする右大臣派の面々に利用されるぐらいなら、たとえ心の中で侮り見られていようとも、ぐっと堪えて左大臣派に与せよと。邪魔な矜持や無駄な拘泥を忘れ、己を無にして彼らに学べと。
兄は、そうおっしゃっているのだ。
考えてみれば当然の話だった。
右大臣派の者らだとて、別に瑠璃の才能を買って「われらの頭目に」などと言っているわけではない。「愚かな皇子」を適当に手なずけ、甘い汁を吸わせて満足させる。あとはただただ、自分たちの派閥の都合のいいように政を動かしたい。目的はそれだけのことである。
貴族とはいいながらも質実剛健の風の強い左大臣派とは対照的に、右大臣派は享楽的・利己的で柔弱な者らが多い。自分の一門さえ豊かになれば他はどうでもいいという、ごく狭隘で近視眼的な考え方だ。「同じ穴の狢」とはこのことである。
彼らが喉から手が出るほど欲しがっているのはともかく利権。金、土地、資源、地位、そして人脈等々の、己と己の一門のための利権だけだ。それはかつて、瑠璃も兄から直接聞いたことがある。
ましてこのところ、新しく帝国アルネリオとの国交が開かれたことで、かの土地や民らが滄海へ様々な富を運んでくれる道も開けかかっている。誰かに食い散らかされてしまう前に、いちはやく自分の取り分を確保しなければ、利益などほとんど見込めない。右大臣派の連中が考えているのは、要はそういったごくごく目先のことばかりなのだ。
もちろん、左大臣派とて一枚岩ではない。ないが、藍鼠と青鈍が玻璃とともにうまく皆を統率し、説諭によって教育してきたお陰で、そこまで愚かな者は多くない。
瑠璃はそこで、やっと袖で涙をぬぐうと、藍鉄の手を拒んで立ち上がった。
藍鉄が低く問う。
「殿下。どちらへ」
「知れたこと」
瑠璃は軽く微笑んだ。
「兄上のご命令だ。……宮へ戻って、己の為すべきことを為す」
藍鉄が、鋭い目をわずかに瞠った。
「兄上のおっしゃる通りだ。私はまだまだ、ほんのヒヨッ子だ。己のことのみに終始して、このような事態にあってすら大局を見ることも叶わず……まこと、まことに情けなし」
唇を噛み、長い袖の下で拳を握る。
「殿下──」
「そなたらにもまた、様々に迷惑を掛けることにもなろう。しかし」
言って瑠璃は、ふっと微笑んで藍鉄と、少し離れた場所にいるロマンと黒鳶の二人を見下ろした。
「このような私だが……。そなたら、知恵と手を貸してくれような? ……いや、そうではない」
瑠璃はすっと居住まいを正すと、立ったままの姿勢ながら三人に向かって頭を下げた。
「どうか、頼む。この通りだ。惰弱で愚かな私の足りぬところを補ってくれ。そしてどうか、手助けとなってくれ」
「ははッ!」
藍鉄が、即座に片膝をついて頭を垂れる。
ロマンと黒鳶も、黙して同様に頭を下げた。
どこか遠くの空のむこうで、鳶がぴよろろ、と高く鳴く声がした。
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