上 下
176 / 195
第五章 駆け引き

8 多数決

しおりを挟む

「いやだよ! そんなの、イヤに決まってるでしょ」

 途端、止まっていたフランの涙がまたどっと溢れだした。

「ユーリパパと会えなくなるなんてイヤだ。いやだっ! いやだけど……しょうがない、でしょ……」

 言葉の最後はもう、嗚咽にまぎれて聞こえなくなる。
 ユーリは力いっぱい少年の体を抱きしめた。ユーリの目からも涙が溢れた。
 少年は泣きながら言い募った。

「でも……ユーリパパが悲しい顔をしているのは、もっと、もっといやなんだ。パパたちには幸せに笑っていて欲しい。どっちのパパにも」
 呆然と突っ立っていた男があちらでわずかにぴくりと動いた。はっきりと目の端に入ったが、ユーリは敢えて気づかないふりをした。
「ユーリパパが幸せじゃないなんていやだ。それはきっと、玻璃どのと一緒でないとダメなんだ。……そうでしょう?」
「フラン……」

(でも、僕だって)

 僕だって、君が寂しがったり悲しんだりしながら生きているのは嫌なんだ。
 だとしたら、どうすればいい?
 どうすれば君とアジュールと、自分と玻璃殿がうまく折り合いをつけることができるのか。
 と、玻璃の思念の声が部屋に響いた。

《そこで、アジュール殿。ものは相談なのだが》
「む」

 アジュールが暗くなった瞳を上げる。男はすっかり覇気を無くして、うらぶれた雰囲気を放散している。なんだかそこいらの野良犬のようだ。

《フランは図らずも我が配偶者、ユーリの血を受け継いだ。彼も大切なユーリの子である。ほかの者が親子のえにしを勝手に断ち切ることほど罪深い話はない》
 アジュールは無言で《水槽》の中を睨みつけている。
《で、いかがだろうか。そちらには、こちらの技術を上回るステルス機能があるのだろう? それなら、時々フランだけでもこちらに顔を見せに来るというのは》
「え、ええっ?」
 これにはユーリも仰天した。
 腕の中にいるフランも、目をぱちくりさせて玻璃を見上げている。
「そ、そんなことが許されるの? だって玻璃どの……」

 言いかけたら、玻璃が目だけで優しくユーリを制した。相変わらず泰然とした巨躯を緑の液体に沈めて、堂々たる威厳を失わないのはさすがなものだ。

《もちろん、『お忍びで』ということにはなろうし、地球の王族や皇族としての身分もやれぬだろうが。フランがアジュールの子だなどと知れた日には、彼が手に掛けた者らの遺族が黙ってはおるまいし》
「そ、それはそうだね」
《それゆえ、事前に是非とも連絡だけはしてほしい。ユーリの腕輪を《サム》に解析させるとよかろう。事前にそこに連絡をくれれば、だれにも邪魔されぬ相応しい場所を、責任をもって用意させよう。そこで二人がいつでも会えるようにする。もちろん、すべて内密にな。……これはそういう提案だ》

 話を聞いているうちに、次第に男の顔に苦々しいものが甦ってくるのが分かった。皮肉げな微笑を口の端にのぼせ、にやりと玻璃を見返っている。

「貴様。その筒のなかでずっと、そんなことを画策していたわけか」
《画策するというほどのことはなし。二人の幸せと行く末を思えばこそだ》
 玻璃は少し目を細め、しれっと答えた。
《無論、我らが約束をたがえたその暁には、その時こそそちらの好きにしてくれてよい。俺の首ごときでいいならば、いつでもそちらに差し上げるゆえ》
「えっ。いや、玻璃殿……!」
「ふん、片腹痛い」
 慌てるユーリを後目しりめに、男は面倒臭そうに首の後ろを掻いた。
「そんなちょっとばかりの、何ほどの役に立つというんだ」
「で、でも! もしもそれで、ユーリパパに会えるんだったら嬉しいよ、僕!」

 少年が明るい瞳を取り戻して叫んだ。涙にぬれた頬はそのままに、微かに見えはじめた光明を感じ取って、少年は明らかに本来の生命力を取り戻したように見えた。

「それにそれに! ユーリパパと玻璃どのの間にできた子供たちは、僕の妹か弟になるんだよね? そしたら、その子たちにも会えるんだもんねっ!」
「え、ええ……?」
「腕輪で連絡すればいいんだよね? うわあ、楽しみだなあ。嬉しいなあ! ね、そうしようよ、ユーリパパ!」
「や、あの……」

 自分をおいてきぼりにして、話がどんどん進んでいく。ユーリは目を白黒させた。
 子供? この子はいま、ユーリと玻璃の子供がどうとか言ったのか?
 身内がかあっと熱くなったのを覚えたが、ユーリはそれを悟られぬよう必死に誤魔化そうとしたが、顔がひくひくとひきつるのはどうしようもなかった。

「で、でも。本当にそれ、アジュールは許してくれるの?」

 皆の視線が、また一人の男に集まった。
 当の男はやや不貞腐れたような顔で口をひん曲げ、今度は思わせぶりに腕組みなどしている。

「貴様ら。みんなして同じ目をするな、気色の悪い」
「ね、いいでしょ? アジュールパパ、お願いだよ。それなら僕、寂しくない。毎日ユーリパパに会えなくなっても我慢する。アジュールパパがいてくれるなら大丈夫だし。僕はアジュールパパのそばにいたいんだもん」
「む……」
 アジュールが珍しく言葉に詰まった。
「そうだね。アジュールと何か喧嘩なんかしても、こっちに戻ってこられるならフランだって安心だろうし、助かるよね」
《そうだな。『夫婦喧嘩をして実家に帰る』というのは、定番中の定番でもあることだし》
 玻璃は暢気のんきにぽりぽりと顎など掻いている。
「おいこら、貴様ら。なにを勝手に──」
「け、ケンカって……? いや僕、パパとケンカなんて」
 が、 ユーリはきっぱりと首を横に振った。
「いや、するする。そのうち絶対に大げんかするんだから、君たちは」

 そうだ。近いうち、その日は必ず来るだろう。ユーリにはそういう予感があった。
 もしもフランが自分が単なる「フラン」ではなく、自分の前にいた存在に気付いた日には。その時、必ずひと悶着起こるはずだからだ。

《ともかく。いずれにしろ、そういう『保険』はつけておいた方がよかろう。宇宙空間に二人きりというのは、いかに仲が良くともかなりのリスクを伴うものだからな》
「僕もそう思うよ。フラン」
「玻璃どの……。ユーリパパ」

 二人の顔を代わる代わる見て、少年は顔をごしごし擦った。その後はもう、くっきりとした可愛らしい笑顔を見せた。玻璃とユーリも同じ表情で彼を見返した。
 だがここにたった一人、不満げに歯をむき出している男がいる。

「だから。俺を差し置いて、勝手に話を進めるなというのに!」
「でも。じゃあ他にどうするのがいいと思うの? アジュールは」

 ユーリが静かに問い返すと、男はまたむっつりと口を閉ざした。

「ね? 決まり。三対一だ。これが『民主的な多数決』ってやつだよ、フラン」
「わーい!」

 ユーリがにっこり笑いかけたのと、フランが飛び上がったのは同時だった。

しおりを挟む

処理中です...