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第五章 駆け引き

12 約束

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 男は大きく目をみはって、穴が開くほどユーリの顔を見つめた。
 ユーリは確かに見てとった。その目の奥に、なにかにすがるような、またなにかをこいねがうようなせつない光が揺蕩たゆたうのを。
 ユーリは今や、男のすぐそばに迫っている。実は後になって気づいたのだが、自分でもそんな大胆なことをしている意識はなかった。
 男の胸元にかじりつき、必死にその目を見つめて言い募る。

「だから、だからさ! きちんとここで、僕に約束してほしいんだ! あの子を決して傷つけないって。あの子が万が一、君を自分の伴侶として選ばなかったとしても、決して絶望してあの子を傷めつけたり……まして、命を奪ったりしないって!」

 男は目を見開いたまま、ひたすらに沈黙している。だがその瞳には、今までのような余裕綽々しゃくしゃくの冷笑も、侮蔑もなかった。むしろ真摯な眼差しで、じっとユーリを見返し続けている。

「そんなことになるぐらいなら、あの子は僕が引き取るから。そうなる前に、必ず僕に連絡して。たとえ王族や皇族として迎えることができなくても、あの子は僕の子でもあるんだ。必ず必ず、地球で僕が守って見せる。必ず幸せを見つけてもらう。……だって僕も、僕だってあの子の親なんだから!」

 言うだけ言いきってしまったら、もう息があがっていた。
 ユーリは肩で息をしながら、それでもアジュールの胸倉をつかんだままでいた。

「……そういうもんなのか?」
「え?」
「『親』の愛……とは。今のお前の……そういうものなのか」

 見上げたら、今まで見たこともないような深い色の瞳で、アジュールがこちらを見下ろしていた。

「俺たちには、親がない。造ったのはお前ら人間どもだがな。……もし、もしも、俺たちに──」

 言いかけて、男はふっと口をつぐんだ。軽く頭を横に振る。それ以上、何を言うのも虚しいと言わんばかりだった。

「とにかく、分かった。どういう結果になるにしろ、あの子の気持ちと選択を優先させる。その先は、お前の望む通りにしよう」
「ほんとっ……!?」
「ああ。どうせなら今ここで、証人も作っておこう」
「えっ?」
「おい、《サム》」

 男が顔を上げて呼ばわると、合成音が静かに答えた。

《お呼びでしょうか、マスター》
「俺がフランを手に掛けそうになったなら、今の顛末を俺たちの前で再生しろ。俺はこいつとの約定を果たす。約束をたがえそうになったときには、速やかに俺を止めろ。俺があの子を、なにがしかの形で傷つける前に。──必ずだ」
《承知いたしました》

 決意のこもったアジュールの声とは対照的に、《サム》の声はどこまでも平板で機械的に聞こえた。

《ただいまの音声と映像を保存します。いつでも再生可能です》
「もうひとつ。俺とあの子の関係が破滅的な状態になった場合、すぐにこいつと連絡を取り、あの子を速やかに地球に送れ。最優先すべきはあの子の命だ。忘れるな」
《了解しました、マスター》

(やった……!)

 ユーリはもう、小躍りしそうになるのを必死にこらえた。そうして、《水槽》の玻璃と見つめ合った。玻璃は満足げな顔でゆったりと微笑み、こちらに頷き返してくれた。
 アジュールはすぐにもとの皮肉げな顔に戻ると、そんな二人を嘲笑うように言った。

「で? もうひとつの話というのは」
「あ。そうだったね」
 ユーリはこほんとひとつ咳ばらいをすると、もう一度姿勢を正した。
「その……。玻璃どののことなんだ」
 男はちらりと《水槽》側に視線を投げた。
「ふん。長髪ゴリラがどうかしたのか」
「フランも心配していたんだけどね。『こんなに長い間、普通の人間が《水槽》のなかに入っていて大丈夫なのかな』って。どうやって玻璃殿を外にお出しするのかなって。僕もそれを聞いて、急に不安になっちゃって」
「……なるほどな」

 男が目をすうっと細めた。

「さすがフランだ。あの幼さにも関わらず、いいところに目をつけている」
「えっ……?」

 ユーリはぎょっとなって凍り付いた。
 まさか。
 まさか玻璃の体に、ひどい不具合が起こるなんてことが……?

「結論から言えば、五分五分というところだろうな。この《羊水》に、生身の人間がここまで長く入ることはもともと想定されていない。そういう設計をされていないからな」
「って、どういうことなの……!?」
「お前らだってそうだろう? 地球上と異なる重力下にいれば、人体にはどうしても負の影響が出る。無重力下では人間の筋力は恐るべき早さで落ちていく。内臓にも負荷がかかる」
 ユーリの胃のあたりに、ごろごろと石ころが詰め込まれるような感覚が積みかさなっていく。
「だから、ちっとも不思議じゃないさ。食事から排泄まで、なにもかもその《水槽》に世話されてきたその男が、人間としての機能の大部分を失っていたとしてもな」
「そっ、そんな……! でも、それじゃ──」

 それでは、約束が違うではないか。
 滄海だって、それでは「無事に」玻璃を返したとは思うまい。下手をすれば彼らに攻撃を仕掛けてくる可能性だって否定できないではないか!
 だがアジュールはどこまでもしれっとした顔だった。

「最初はどうせ、そのゴリラを生かしておくつもりもなかったんだ。それがどういうわけかこんなことになっただけでな。想定外すぎたのさ」
「でも……!」
「別に、故意に殺したわけじゃない。そいつの体力と体質次第だと言っているだけだ。とりあえず、地球に着くまでは別の容器を使ってその《羊水》の中に入れておくんだな。地球のやつらに無事な顔を見せるまでは、一応を保っておく必要があるだろう? 出た瞬間、そいつの体がクズ肉みたいなものになったとしても不思議じゃないしな」
「ア、アジュール……!」
《よせ! ユーリ》

 ユーリが思わず男に殴り掛かりそうになったのと、頭の中で玻璃の声がしたのは同時だった。その時にはもう、瞬時に鋭い刃に変形したアジュールの腕が、ぴたりとユーリの喉もとに当てられていた。
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