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第四章 皇帝と魔塔
5 深淵の怪
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体じゅうがガクガク震えている。
しっぽはもちろんのこと、体じゅうのありとあらゆる細かい毛まで全部逆立っている感覚がした。
怖くて怖くてたまらず、物陰のさらに奥の、荷物が積んであるところのすみっこに尻を突っこむようにしてもぐりこんだ。しっぽで体をなるべく隠し、蓋をするみたいにして小さくなる。
(消えろ、消えろ、消えろ……!)
しかしシディの望みは虚しかった。
頭の中に響く声は、さっきよりもどんどん明瞭になっている。
《クロイコ……ドウシタノ》
《オカエリ、ゲンキ……ナイノ?》
《オイデヨ、オイデヨ……》
(うわああああっ!)
もう、怖いなんてもんじゃない。どうしたらいいのか分からない。恐怖のあまりに勝手に涙が出てきて、しゃくりあげそうになるのを必死に堪える。
ここにいるのもきっと危ない。やっぱり戻ろう。同じ隠れるにしても、せめて船室の奥に逃げたほうがいいだろう。
それに。
(インテス様……!)
もしもこのまま大変なことになるとしても、最後はあの方のそばにいたい。
もうほとんどすすり泣くみたいなみっともない顔をして、シディはそろりそろりと隠れ場所から這いだした。周囲の船員たちはぐうすか寝こけたままだ。その表情はどこまでも平和そのもので、なんだか恨みがましい気持ちになった。
物陰から自分の体ひとつぶんほどやっと這い出したところで、またあの音。
ここお……ん
こお……ん──
(うううっ……!)
明らかに音は大きく、明瞭になっている。
無我夢中で耳を塞ぎ、目をつぶって船倉への入り口を目指す。
が、なにほども進めないうち、少年はそこで固まらざるを得なくなった。
「ひっ……?」
それが現れたのは、本当にだしぬけだった。
月のある晩だとはいえ、海上は暗い。なのに、船の周囲をふわふわと何やら光るものが取り巻いているのだ。薄い靄のようにも、絹を流したようにも見えるそれは、ゆらりゆらりと船のまわりで揺蕩っていた。
と見る間にも、光の帯が少しずつ集まって、甲板の上で一つの形を成そうとしているようだ。
(な……なな、なんだようっ……)
もう泣きそう、というよりもう完全にべそをかいて、少年は太い帆柱のひとつにしがみついた。奥歯がかちかち鳴っている。それでもまだどうにか粗相はしていないが、それだけでも褒めてほしいぐらいだった。
光はどんどん集まっていき、やがてぼんやりと光る人のような影を作りだした。
と、その時だった。
「シディ!」
聞きなれた声がしたのと同時に、船倉の入り口からぱっと飛び出して来た人が、シディめがけて駆け寄ってきた。
「イ、……イイイ」
インテス様、と言おうとする声が掠れて形にもなってくれない。喉がからからなのだ。インテス様は構わずしゃがみこみ、シディの体を抱きしめてくれた。
「よかった、目が覚めたらそなたがいないものだから。心配したぞ」
「う、うううっ……」
インテス様の腕も胸も、ひどく温かい。
きゅうにどっと安堵が押し寄せてきて、喉がつまった。
そうこうするうちにも、目の前の光の形はどんどんはっきりしたものに変貌していく。
《クロイ……コ》
《コワクナイ、ヨ》
「……え?」
声が「怖くない」と言ったように聞こえて、不思議な気分になる。
怖くて何も考えられなかったけれど、そういえばこの光たちからはあまり敵意を感じないことにやっと気づいた。
《ワスレチャッタノ……? クロイコ》
頭の中に響く声は、なんとなく寂しそうな雰囲気に聞こえる。
不思議な気がして、シディはそろそろと目を開けた。インテス様はとっくに目を見開いて、じっと相手を凝視している。片腕でシディの体を抱いたまま、持ってきた剣の鞘をはらって光に向けておられる。
光がゆらり、とかしいだ。
人ならちょうど、首をかしげたような感じで。
《ソチラハ……シロイ、コ?》
《デハ、アエタノ? クロイコ》
《ヨカッタネ》
《ヨカッタネ》
「ええっ……?」
「どういうことだ? シディ。どうやら先ほどからこの者たちは、そなたを親しく呼んでいるようだが」
「しっ、知りません。わかりませんっ……」
シディは必死で首をぶんぶん左右に振った。
なにも知らない。わからない。物心ついた時から、あの売春宿の親方の所にいた自分だ。それ以前のことは記憶にない。
光の影がまた、ゆらり、と揺れた。
(えっ……)
次の瞬間。
目の前にぶわっとまぶしい光の渦が出現した。
と思ったら、その中につぎつぎと不思議な映像が浮かび始めた。
しっぽはもちろんのこと、体じゅうのありとあらゆる細かい毛まで全部逆立っている感覚がした。
怖くて怖くてたまらず、物陰のさらに奥の、荷物が積んであるところのすみっこに尻を突っこむようにしてもぐりこんだ。しっぽで体をなるべく隠し、蓋をするみたいにして小さくなる。
(消えろ、消えろ、消えろ……!)
しかしシディの望みは虚しかった。
頭の中に響く声は、さっきよりもどんどん明瞭になっている。
《クロイコ……ドウシタノ》
《オカエリ、ゲンキ……ナイノ?》
《オイデヨ、オイデヨ……》
(うわああああっ!)
もう、怖いなんてもんじゃない。どうしたらいいのか分からない。恐怖のあまりに勝手に涙が出てきて、しゃくりあげそうになるのを必死に堪える。
ここにいるのもきっと危ない。やっぱり戻ろう。同じ隠れるにしても、せめて船室の奥に逃げたほうがいいだろう。
それに。
(インテス様……!)
もしもこのまま大変なことになるとしても、最後はあの方のそばにいたい。
もうほとんどすすり泣くみたいなみっともない顔をして、シディはそろりそろりと隠れ場所から這いだした。周囲の船員たちはぐうすか寝こけたままだ。その表情はどこまでも平和そのもので、なんだか恨みがましい気持ちになった。
物陰から自分の体ひとつぶんほどやっと這い出したところで、またあの音。
ここお……ん
こお……ん──
(うううっ……!)
明らかに音は大きく、明瞭になっている。
無我夢中で耳を塞ぎ、目をつぶって船倉への入り口を目指す。
が、なにほども進めないうち、少年はそこで固まらざるを得なくなった。
「ひっ……?」
それが現れたのは、本当にだしぬけだった。
月のある晩だとはいえ、海上は暗い。なのに、船の周囲をふわふわと何やら光るものが取り巻いているのだ。薄い靄のようにも、絹を流したようにも見えるそれは、ゆらりゆらりと船のまわりで揺蕩っていた。
と見る間にも、光の帯が少しずつ集まって、甲板の上で一つの形を成そうとしているようだ。
(な……なな、なんだようっ……)
もう泣きそう、というよりもう完全にべそをかいて、少年は太い帆柱のひとつにしがみついた。奥歯がかちかち鳴っている。それでもまだどうにか粗相はしていないが、それだけでも褒めてほしいぐらいだった。
光はどんどん集まっていき、やがてぼんやりと光る人のような影を作りだした。
と、その時だった。
「シディ!」
聞きなれた声がしたのと同時に、船倉の入り口からぱっと飛び出して来た人が、シディめがけて駆け寄ってきた。
「イ、……イイイ」
インテス様、と言おうとする声が掠れて形にもなってくれない。喉がからからなのだ。インテス様は構わずしゃがみこみ、シディの体を抱きしめてくれた。
「よかった、目が覚めたらそなたがいないものだから。心配したぞ」
「う、うううっ……」
インテス様の腕も胸も、ひどく温かい。
きゅうにどっと安堵が押し寄せてきて、喉がつまった。
そうこうするうちにも、目の前の光の形はどんどんはっきりしたものに変貌していく。
《クロイ……コ》
《コワクナイ、ヨ》
「……え?」
声が「怖くない」と言ったように聞こえて、不思議な気分になる。
怖くて何も考えられなかったけれど、そういえばこの光たちからはあまり敵意を感じないことにやっと気づいた。
《ワスレチャッタノ……? クロイコ》
頭の中に響く声は、なんとなく寂しそうな雰囲気に聞こえる。
不思議な気がして、シディはそろそろと目を開けた。インテス様はとっくに目を見開いて、じっと相手を凝視している。片腕でシディの体を抱いたまま、持ってきた剣の鞘をはらって光に向けておられる。
光がゆらり、とかしいだ。
人ならちょうど、首をかしげたような感じで。
《ソチラハ……シロイ、コ?》
《デハ、アエタノ? クロイコ》
《ヨカッタネ》
《ヨカッタネ》
「ええっ……?」
「どういうことだ? シディ。どうやら先ほどからこの者たちは、そなたを親しく呼んでいるようだが」
「しっ、知りません。わかりませんっ……」
シディは必死で首をぶんぶん左右に振った。
なにも知らない。わからない。物心ついた時から、あの売春宿の親方の所にいた自分だ。それ以前のことは記憶にない。
光の影がまた、ゆらり、と揺れた。
(えっ……)
次の瞬間。
目の前にぶわっとまぶしい光の渦が出現した。
と思ったら、その中につぎつぎと不思議な映像が浮かび始めた。
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