白と黒のメフィスト

るなかふぇ

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第六章 

4 背中

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「あの、殿下。オレっ、お背中ながしますっ」
「え? そんなことはしなくていいんだぞ」
「いいえ! オ、オレがやりたいから……。させてくださいっ」

 いつもの湯殿。
 湯舟から出、入浴用の海綿を手にして主張するシディを見て、湯に浸かった殿下はちょっと笑った。もちろん二人とも生まれたままの姿である。

「そうか? それなら有難く。だが、あとで私にもさせてくれなければダメだぞ」
「ええっ。そんな──」
 畏れ多いと言おうとした口を、ぴたっと人差し指で塞がれる。
「だから。『そういうのはナシだ』と散々言っているだろうに。……そなたと私は対等。そなたが一方的に私に仕えるような関係は許容できない。それなら背中を流してもらう必要もない」
「……ううう」

 そんなことを言われても。
 隠れもなき皇子さまとこんな自分とで、対等にふるまえと言われても急に対応なんてできない。そもそも出会う人みんなから見下され、最底辺と見られていた経験なら豊富でも、こんな風に対等な関係でいろと言われたことなんて一度もないのだから。
 と、インテス様の眉間にわずかに皺が刻まれた。

「シディ。そなた忘れていないか?」
「え?」
「そなたの本当の出自をだ。……そなた、誰の息子だった?」
「え……ええと」

──黒狼王ニグレオス・ウォルフ・レックス

 すぐに脳裏に閃いた言葉。父の名前。
 だがあの時精霊に見せられた記憶はいまだに、ふわふわしていて掴みどころがない。なんだか夢の中の出来事だったかのように。ちっとも実感が湧かないのだ。

「そなたはあの高貴なる黒狼王の末裔ではないか。人間の王ごときの息子など、この世に掃いて捨てるほどいる。そもそも尊さと稀少さで言えば、そなたは私の比ではないのだぞ。むしろ私がそなたに仕えねばならぬほどだ」
「そ、そんな……まさか」

 そんなとんでもないこと、考えてみたこともない。
 必死で首を横に振るシディを、殿下は少し寂しそうな目で見つめてきた。そのまま浴槽の縁にゆっくり背をあずけ、深く息を吐き出し、天井を仰ぎ見るようになさる。

「人の価値など、そのようなものさ。どこの誰のもとに生まれるかなど、誰にも決められるものではない。それだけでその者が素晴らしい人物になるわけでもな。この血筋や見てくれなどを理由に私を持ち上げようとする人々は多いが、結局のところ、それだけをよすがに生きていくわけにはいかぬものだ」

 その目が天井を通り抜けて、どこか遠くを見ているものになっている。
 シディは不思議に思った。
 この方はその目の奥で何を考えておられるのだろう……?

「自分にどういう価値があるかは結局、自分で示していくほかはない。自ら学び、努めて手に入れたもののほか、自分の価値を示せるものなどないのさ、本来はな」

 きょとんとしているシディの視線に気付いたのか、殿下は目を戻し、軽く苦笑した。

「すまない。がっかりさせてしまったかな」
「そ、そんな!」
「身分や容姿のことを度外視すれば、私などこんなものなのさ。……ただシディを愛している一人の、普通の……つまらぬ男にすぎないんだ」
「そんなこと──」

 この人が「つまらぬ男」だったら、ほかの男たちはいったい何だと言うのだろう。それはこれまで、あれほど下衆な男たちに弄ばれてきたシディだからこそわかることだ。
 ふつふつとお腹の底から湧きあがるものが、遂にシディの口からほとばしった。

「そんなことないっ! 殿下は……インテス様はっ、とてもとても……すごくて、ステキでっ」
 殿下がふ、と笑う。
「ありがとう」
 細められた目は、まさに愛しいものを見つめるそれだ。
 この目で見つめられるだけで、こんなにもこの胸は高鳴るというのに。

「そなたにそう思ってもらえるなら、それだけで十分だ」

 ついと手を取られ、またその甲に口づけられる。

「私は幸せ者だよ」
「インテス様……」

 きゅうっと胸が絞られるように痛んだ。この痛みはなんなのだろう。
 シディは強く唇を噛むと、口づけられていた手をのばしてそのままインテス様の手首をつかみ、湯舟から引きあげた。

「さあ、後ろを向いてください。流すのでっ」
「……ふふ」

 敵わないな、なんて言いながら殿下が湯舟の縁に座ってくださる。シディはその広い背中を、石鹸をこすりつけた海綿でゆっくりと流した。
 きれいでなめらかな肌。決してひ弱なものではなく、日焼けしていて背中の筋肉が盛り上がっている。これもまた、ずっと武術で鍛えてこられた賜物たまものだろう。
 この方はずっと努力されてきたのだ。きっとシディも知らないようなつらい目にも遭いながら、努力することを怠らず、ずっとシディのことを探し続けてきてくださった──。

「どこか、痒いところはないですか?」
「ああ、ないよ。……いい気持ちだ。シディはこんなことも上手なんだな」
「……もうっ」

 褒めたってなんにも出ないぞ。
 思いながら、ちょっと腕に力をこめる。

「つぎはインテス様の番ですからねっ」
「ああ。十分にお仕えさせていただく」

 くすくす笑うのと一緒に肩も小刻みに震えている。

(……ああ。好きだな)

 唐突に、そう思った。なんの脈絡もなく。
 でも、どうしてだろう。そしてなんなのだろう。こうして沸々とお腹の底から溢れてくる温かな気持ちは。

(インテス様……)

 ぽろりと床に海綿を落としていたが、それには気づいていなかった。
 シディは彼の背後から、裸のままの姿でぎゅうっとしがみついていた。

「シディ?」

 怪訝な顔で振り向いた顔のほうへ、ぐいと身体をのばす。
 そのままほんの一瞬、一瞬だけ、殿下の唇に自分のそれをくっつけた。
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