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第八章 漂流
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そうだ。
あのベータのようになれればいいのだ。
柔らかくて壊れやすいこの自我を、理性を保とうとするこの精神を守ろうと思うなら、昔の彼のようにすればいい。
扉を閉ざすのだ。心の扉を。
これ以上弄ばれ、蹂躙されれば壊れてしまうかもしれない自分の理性を。
いや、もちろん自分にそんな<恩寵>があるなどという確信はなかった。幼少のころに現れた<隠遁>及び<感応>と、それ以降に現れたわずかな力である<念動>。それだけでも、ひとりの人間としては十分すぎるほどの恩寵だった。これ以上を望むのは、もはや強欲の域だろう。しかし。
(頼む。お願いだ。お願いだ……!)
スメラギには、八百万の神々をあがめる信仰が存在する。それは自然界の津々浦々にあるもの、山や海、川や森、草木に花に生き物たち、そういったもののそこここにそれぞれに神が宿るのだといった信仰だ。
とはいえスメラギの神事や季節の行事そのほかは今やすっかり形骸化したものであって、アルファ自身と同じように皆、これといったまことの信仰心があるというほどのことでもない。もっとも、田舎のほうの農村部に行くならば、昔ながらの篤い信仰心を持つ人々は存在するが。
ともかくも。だからアルファは、その時だれに祈ったというのでもなかった。しかし気持ちとしてはほとんどそれに近かった。
(どうか、どうか。ベータのような<恩寵>を──)
どうにかして、我が理性を守らせてほしい。今後あの蜥蜴の男にどのように心と体を蹂躙されようとも、いつか助かる日が来た時のため、自分の心を守らせたまえ。
あの力は、言わば心の在り方を自分の望みどおりに「変異」させることなのではないだろうか。<念動>が物理的にものを動かす力であるなら、あれは心のありようを動かそうとする力だろう。
(とはいえ……)
ただ、それにも問題はある。あの蜥蜴の男がそうした心底からの奴隷のようになってしまった後のアルファに飽きる可能性があることだ。あの男は玩具に飽きれば、あっさりそれを他へ売り渡そうとするだろう。
しかし、そこには希望もある。マサトビにはさすがに無理だろうが、裏社会のことに明るいあのベータであれば。彼ならそういうルートに乗せられてしまった自分を追うことが可能であるかもしれない。そうなれば、今の状態よりもはるかに発見される可能性は広がるかもしれないのだ。もっともそれは、自分がまだ生きていて、ただの「臓器」として売買されているのではない場合だけれども。
しかし、何もせずにただこのまま狂わされてしまうよりは。
一か八か、自分はそれに賭けるべきではないだろうか。
そして。
それから以降、アルファは自分の内側だけで、どうにかその<恩寵>を開花させられないかを模索しはじめた。
あのゴブサムに不審がられないようにするために、自分は次第に理性の壊れていく様を演出する必要もある。あの男に蹂躙され、怪しからぬ技のあれこれを教え込まれながら、次第しだいに心が壊れ、あの男の奴隷になり果ててゆく、その過程を見せる必要がある。
そのぎりぎりのどこかの時点で、なんとかその<恩寵>を使いたい。言うなれば心の<閉鎖>とでも呼ぶべきその<恩寵>を。
もはや神仏に祈る気持ちで、アルファは夜ごと蜥蜴の男に犯されながら必死にその道を模索し続けた。
正直なところを言えば、結果的にそんな「演技」は無用だった。演技などする必要もないほどに、アルファの精神はかの男の嗜虐にまみれた様々の手法によってこてんぱんに痛めつけられることになったからだ。
演技ではなく、アルファは泣いた。泣いて、「どうか許してくださいご主人様」と、男の足を舐め、性器を舐めて懇願せねばならないほどに。
その後、主人が面白がって自邸に集めた「同好の士」らにまでよってたかって犯されることにもなったのだったが、その時も同じだった。それを酒の肴にして楽しむ主人に向かって、アルファはただただ「もう許して」と泣き叫んだ。もちろんそれで許されたためしなどただの一度もなかったけれど。
(……だめだ。もう、だめだ──)
日一日と、限界は近づいていた。
(ベータ。……ベータ)
お願いだ。
どうか、助けて。
(教えてくれ。どうすればいい)
本当に、壊れてしまう。
このままでは自分は早晩、
二度と戻れない場所にまで追いやられてしまう──。
性的な虐待のみならず、さまざまな拷問具まで使用され破壊されつくした体を医療カプセルの中に投げ出して、アルファは時折りそこからのぞける夜空の星に祈り続けた。
蒼白い星。
彼の瞳のような、あの星に。
お願いだ。
お願いだ。
あの子らのため、死ぬことだけはできないんだ。
……お前のもとに、戻りたいんだ。
だから。
(一体どうすれば、お前の<恩寵>が使えるんだ……!)
……そうして。
蜥蜴の男に囚われてより、三か月後。
アルファの望みは、遂に叶ったのであった。
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