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小さな恋のものがたり
22 月の庭
しおりを挟む約束どおり、黒鳶はさほどの時間もかけずに風呂からあがってきた。
ロマンは脱衣所の外に出て、入浴道具を手に持ったまま、忍びこんでくる夜風に少し当たりながら待っていた。御所では一般的な、袷の着物一枚の姿だ。こちらの言葉では「浴衣」というのだそうである。
色んなデザインがあるようだけれど、ロマンのものには白地に藍色のトンボがすいすいと飛んでいるような模様が入っている。
「お待たせいたしました」
現れた黒鳶は、やっぱり浴衣姿だった。彼のものは紺の無地だ。やっぱり顔は隠していない。そういう姿を見るのは初めてだったけれど、いつもの通り精悍できりりとした佇まいだ。それが、今のロマンの目には非常に毒に思えた。
相変わらずとくとくとやかましい自分の心音をなんとか無視しながら、ロマンはおずおずと黒鳶に近づいた。
「少し、外へ出ませんか。まだ風はそんなに冷たくないと思いますし」
「……わかりました」
黒鳶は素直に応じてくれた。
使用人たちの起居する棟は、東宮御所のごく隅のほうにある。曲水の美しい広いお庭には面しておらず、ごく小さな庭だった。四角い空間に砂利が敷かれ、枝ぶりも見事な松の木が植わっている。あちこちに大小の岩が置かれて、常に手入れがなされ、清潔感にあふれていた。
松が森の木々に、岩が島に。そして、砂利が海になぞらえられているらしい。ここにこのまま、海辺の風景が再現されているのだそうだ。
自分たちの履物──こちらでは「下駄」と呼称する──を取ってくると、ロマンはその庭の隅にある木製の長椅子のほうへと黒鳶をうながした。
ふたりで並んで座っても、しばらく言葉は出なかった。
人口のものだとはとても思えないような、美しい月が上がっている。ほんのすこし欠けはじめた満月の、黄味をおびた白っぽい姿の向こうに、大きな白いお腹を見せてゆらゆらと眠っているらしい鯨が見えた。
なんだか夢のようだ。
ここにこうして、この人といる自分も夢のようだ。
「……すき、なんです」
ぽつりと口からこぼれ出たそれは、本当に「こぼれ出た」という感じだった。
隣の黒鳶の気が、きゅっと緊張したのが肌でわかった。
「もちろん、僕はこちらの国では未成年です。こちらの法律も知っています。だから……黒鳶どのにどうしてほしいとか、そういうことを望んでいるのではないのですけど」
「…………」
「でも……言っちゃった。我慢できませんでした。ごめんなさい」
ロマンはこてんと首を折って頭を下げた。
やっぱり、少しの沈黙があった。
やがてその耳に、黒鳶の低い声が届いた。
「なぜ、謝られるのですか」
「なぜって……その。お仕事がやりにくくなられるでしょう。こんな、小姓ふぜいが余計なことを──」
「余計なこととは思いませぬが」
あっさりと言いきられて顔を上げる。
黒鳶は、いつもの真摯でまっすぐな瞳をして、いまはロマンを見つめていた。
その拳は彼の膝の上でかたく握りしめられている。
「ロマン殿がここまで来るのに、随分迷われたことは想像に難くありません。いい加減なお気持ちでないことも、重々承知しているつもりです」
ロマンはひゅっと息を吸い込んだ。
「……も、もちろんです」
「ですが」
「いっ、いいのです!」
ロマンはぱっと立ち上がった。後の言葉を聞く勇気なんて到底なかった。
「いいのです。本当に。ごめんなさい。……どうか、お気になさらないでください」
「ロマン殿──」
言いかける黒鳶から、ぱっと飛び退って距離を取る。そうしてぶんぶんと頭を振った。
「お伝えしたかっただけなんです。お心を惑わすつもりはありませんでした。……勝手なことを言って、本当に申し訳ありませんっ……!」
「しかし」
「あのっ! 本当に本当に勝手なことなんですけど……どうか、配置換えなど申し出たりはなさらないでください。玻璃殿下にも、ユーリ殿下にも、あなたはどうしても必要です。あなたの警護が必要です。も、もしも僕が目障りだったら……僕のほうが、配置換えを願い出ますから」
「ロマン殿!」
黒鳶がするっと立ち上がったかと思ったら、もうロマンの目の前にいた。下駄を履いているとは思えない。砂利の音すらさせなかった。本当に、いったいどういう体捌きなのだろう。
黒鳶がロマンの手首をぐっと掴み、顔を寄せてくる。
「そのようなことは、どうか平に。どうかおっしゃらないで下さい。あなたこそ、ユーリ殿下にとって非常に大切な側近ではありませぬか」
「……でも」
ロマンの声はどうしても震えてしまう。
「あなた様を失ったら、配殿下がどんなに意気消沈なさることか。あなたがどれほど殿下の心の支えになっているか、ご存知ないわけではありますまい。ほんの短い付き合いにすぎぬこの黒鳶にも、そのぐらいのことはわかりますぞ」
「でもっ……!」
「どうか、何卒」
ロマンの腕を握った手に力を籠めると、今度は黒鳶が深々と頭を下げた。
「どうか、この黒鳶の顔に免じて。配殿下のお傍を離れることなど、決して申し出たりはなさらないでいただきたい。どうか、それだけはお約束を」
「うう……」
「それと」
黒鳶はそう言うと、少し頭を上げてロマンを見た。
真摯な黒い瞳の中に、自分の顔が映り込んでいるのが小さく見えた。
「返事を……お聞きにならなくてもよいのですか」
「え……。で、ですから」
自分の顔がくしゃっと歪んだのが分かった。
断りの言葉をいまここで聞く勇気なんてない。言ってしまっておきながら、勝手なことは百も承知だけれど。
(……だけど)
彼から直接断られて、寝込みもせずに明日から普通の顔をして殿下のお傍で、この男と働くなんて。きっと無理だ。そんなの無理だ。
だから、逃げようとしたというのに。
だが、男は静かに言葉を継いだ。
「……お聞き、くださいますか」
ロマンはこくりと喉を鳴らして、続いた沈黙にじいっと耐えた。
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