ルサルカ・プリンツ 外伝《小さな恋のものがたり》

るなかふぇ

文字の大きさ
22 / 52
小さな恋のものがたり

22 月の庭

しおりを挟む

 約束どおり、黒鳶はさほどの時間もかけずに風呂からあがってきた。
 ロマンは脱衣所の外に出て、入浴道具を手に持ったまま、忍びこんでくる夜風に少し当たりながら待っていた。御所では一般的な、あわせの着物一枚の姿だ。こちらの言葉では「浴衣ユカタ」というのだそうである。
 色んなデザインがあるようだけれど、ロマンのものには白地に藍色のトンボがすいすいと飛んでいるような模様が入っている。

「お待たせいたしました」

 現れた黒鳶は、やっぱり浴衣姿だった。彼のものは紺の無地だ。やっぱり顔は隠していない。そういう姿を見るのは初めてだったけれど、いつもの通り精悍できりりとした佇まいだ。それが、今のロマンの目には非常に毒に思えた。
 相変わらずとくとくとやかましい自分の心音をなんとか無視しながら、ロマンはおずおずと黒鳶に近づいた。

「少し、外へ出ませんか。まだ風はそんなに冷たくないと思いますし」
「……わかりました」

 黒鳶は素直に応じてくれた。
 使用人たちの起居する棟は、東宮御所のごく隅のほうにある。曲水の美しい広いお庭には面しておらず、ごく小さな庭だった。四角い空間に砂利が敷かれ、枝ぶりも見事な松の木が植わっている。あちこちに大小の岩が置かれて、常に手入れがなされ、清潔感にあふれていた。
 松が森の木々に、岩が島に。そして、砂利が海になぞらえられているらしい。ここにこのまま、海辺の風景が再現されているのだそうだ。
 自分たちの履物──こちらでは「下駄」と呼称する──を取ってくると、ロマンはその庭の隅にある木製の長椅子のほうへと黒鳶をうながした。

 ふたりで並んで座っても、しばらく言葉は出なかった。
 人口のものだとはとても思えないような、美しい月が上がっている。ほんのすこし欠けはじめた満月の、黄味をおびた白っぽい姿の向こうに、大きな白いお腹を見せてゆらゆらと眠っているらしい鯨が見えた。
 なんだか夢のようだ。
 ここにこうして、この人といる自分も夢のようだ。

「……すき、なんです」

 ぽつりと口からこぼれ出たそれは、本当に「こぼれ出た」という感じだった。
 隣の黒鳶のが、きゅっと緊張したのが肌でわかった。

「もちろん、僕はこちらの国では未成年です。こちらの法律も知っています。だから……黒鳶どのにどうしてほしいとか、そういうことを望んでいるのではないのですけど」
「…………」
「でも……言っちゃった。我慢できませんでした。ごめんなさい」

 ロマンはこてんと首を折って頭を下げた。
 やっぱり、少しの沈黙があった。
 やがてその耳に、黒鳶の低い声が届いた。

「なぜ、謝られるのですか」
「なぜって……その。お仕事がやりにくくなられるでしょう。こんな、小姓ふぜいが余計なことを──」
「余計なこととは思いませぬが」

 あっさりと言いきられて顔を上げる。
 黒鳶は、いつもの真摯でまっすぐな瞳をして、いまはロマンを見つめていた。
 その拳は彼の膝の上でかたく握りしめられている。

「ロマン殿がここまで来るのに、随分迷われたことは想像にかたくありません。いい加減なお気持ちでないことも、重々承知しているつもりです」
 ロマンはひゅっと息を吸い込んだ。
「……も、もちろんです」
「ですが」
「いっ、いいのです!」
 ロマンはぱっと立ち上がった。後の言葉を聞く勇気なんて到底なかった。
「いいのです。本当に。ごめんなさい。……どうか、お気になさらないでください」
「ロマン殿──」

 言いかける黒鳶から、ぱっと飛び退って距離を取る。そうしてぶんぶんとかぶりを振った。

「お伝えしたかっただけなんです。お心を惑わすつもりはありませんでした。……勝手なことを言って、本当に申し訳ありませんっ……!」
「しかし」
「あのっ! 本当に本当に勝手なことなんですけど……どうか、配置換えなど申し出たりはなさらないでください。玻璃殿下にも、ユーリ殿下にも、あなたはどうしても必要です。あなたの警護が必要です。も、もしも僕が目障りだったら……僕のほうが、配置換えを願い出ますから」
「ロマン殿!」

 黒鳶がするっと立ち上がったかと思ったら、もうロマンの目の前にいた。下駄を履いているとは思えない。砂利の音すらさせなかった。本当に、いったいどういう体捌たいさばきなのだろう。
 黒鳶がロマンの手首をぐっと掴み、顔を寄せてくる。

「そのようなことは、どうか平に。どうかおっしゃらないで下さい。あなたこそ、ユーリ殿下にとって非常に大切な側近ではありませぬか」
「……でも」
 ロマンの声はどうしても震えてしまう。
「あなた様を失ったら、配殿下がどんなに意気消沈なさることか。あなたがどれほど殿下の心の支えになっているか、ご存知ないわけではありますまい。ほんの短い付き合いにすぎぬこの黒鳶にも、そのぐらいのことはわかりますぞ」
「でもっ……!」
「どうか、何卒」

 ロマンの腕を握った手に力を籠めると、今度は黒鳶が深々と頭を下げた。

「どうか、この黒鳶の顔に免じて。配殿下のお傍を離れることなど、決して申し出たりはなさらないでいただきたい。どうか、それだけはお約束を」
「うう……」
「それと」

 黒鳶はそう言うと、少し頭を上げてロマンを見た。
 真摯な黒い瞳の中に、自分の顔が映り込んでいるのが小さく見えた。

「返事を……お聞きにならなくてもよいのですか」
「え……。で、ですから」

 自分の顔がくしゃっと歪んだのが分かった。
 断りの言葉をいまここで聞く勇気なんてない。言ってしまっておきながら、勝手なことは百も承知だけれど。

(……だけど)

 彼から直接断られて、寝込みもせずに明日から普通の顔をして殿下のお傍で、この男と働くなんて。きっと無理だ。そんなの無理だ。
 だから、逃げようとしたというのに。
 だが、男は静かに言葉を継いだ。

「……お聞き、くださいますか」

 ロマンはこくりと喉を鳴らして、続いた沈黙にじいっと耐えた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)

MisakiNonagase
恋愛
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。

キサラギムツキ
BL
長い間アプローチし続け恋人同士になれたのはよかったが…………… 攻め視点から最後受け視点。 残酷な描写があります。気になる方はお気をつけください。

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

後宮の男妃

紅林
BL
碧凌帝国には年老いた名君がいた。 もう間もなくその命尽きると噂される宮殿で皇帝の寵愛を一身に受けていると噂される男妃のお話。

はじまりの朝

さくら乃
BL
子どもの頃は仲が良かった幼なじみ。 ある出来事をきっかけに離れてしまう。 中学は別の学校へ、そして、高校で再会するが、あの頃の彼とはいろいろ違いすぎて……。 これから始まる恋物語の、それは、“はじまりの朝”。 ✳『番外編〜はじまりの裏側で』  『はじまりの朝』はナナ目線。しかし、その裏側では他キャラもいろいろ思っているはず。そんな彼ら目線のエピソード。

【完結】取り柄は顔が良い事だけです

pino
BL
昔から顔だけは良い夏川伊吹は、高級デートクラブでバイトをするフリーター。25歳で美しい顔だけを頼りに様々な女性と仕事でデートを繰り返して何とか生計を立てている伊吹はたまに同性からもデートを申し込まれていた。お小遣い欲しさにいつも年上だけを相手にしていたけど、たまには若い子と触れ合って、ターゲット層を広げようと20歳の大学生とデートをする事に。 そこで出会った男に気に入られ、高額なプレゼントをされていい気になる伊吹だったが、相手は年下だしまだ学生だしと罪悪感を抱く。 そんな中もう一人の20歳の大学生の男からもデートを申し込まれ、更に同業でただの同僚だと思っていた23歳の男からも言い寄られて? ノンケの伊吹と伊吹を落とそうと奮闘する三人の若者が巻き起こすラブコメディ! BLです。 性的表現有り。 伊吹視点のお話になります。 題名に※が付いてるお話は他の登場人物の視点になります。 表紙は伊吹です。

処理中です...