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(終)「私も、とても嬉しいです」
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「護衛の数を減らしてはならぬと言っただろう……!」
王は怒り、玉座から立ち上がって叫んだ。
かつてない剣幕に王太子は驚き、戸惑った。
「し、しかし、どうやら、聖女が自分から姿を消したようで、またどこぞで怠けているのではないかと……」
「馬鹿者! 聖女が逃げ出したのはわかっている!」
「は……?」
「当たり前だろう! あのような不自由な暮らしを、誰が望んでするものか!」
「ふ、不自由、な……?」
「ただ一日の休みもなく民を癒しているのだぞ。朝夕の祈りもある」
「祈りの時間は眠っていると……」
「どれだけの民が見ていると思っているのだ。そのようなこと、許されるはずがあるまい」
「……」
王太子は口を閉じた。
祈りの広間の光景を思い出したのだ。朝の仕事の前の民が、仕事の後の民が、聖女の祈る姿をいくつもの目で見ている。
「ナターシャは民の理想の聖女であるようにと育てられたのだ。おまえとて幼い頃に言ったではないか。『聖女様はずっと頑張っていて可哀想だ』と……!」
「…………あっ」
王太子は思い出した。
そうだ、年の近い聖女のことを王太子は気にしていた。だからこそ皆、聖女の話をしてくれるようになったのだ。
比較され続けることでへそを曲げ、そんな始まりをすっかり忘れてしまっていた。
「だからこそおまえに、聖女の待遇を任せたというのに……」
王太子はよろめき、呆然と呟いた。
「それを……直接、言っていただければ……」
「わかっていると思ったのだ! わしとて口になど出したくない。我が国が、崇めるべき聖女を酷使しているなどと!」
「……っ!」
「聖女が多くいるうちはよかったのだ。だが一人であっても、民は治療を、目に見える奇跡を望む。……幼い頃には、数人治療しては気を失っていたというのに」
「そんな……」
いつも青白い、陰気な顔を思い出した。
「たとえ何があろうと聖女が助けてくれる。それが我が国の力であり、求心力であったが……なるべくしてなったと言うべきなのだろう。信仰は薄れ、形ばかりが残った」
「しかし……っ、聖女を充分に、持ち上げてやっていたではないですか!」
「……」
王は小さく溜息をつき、王太子を悲しげに見た。
「その言葉がすべてだ。おまえの臣下は、おまえを持ち上げてやっているのか? おまえはそれを喜んでいるのか?」
愕然と王太子は王を見返す。
「民も同じだ。朝夕の祈りの広場で、聖女らしい聖女だと認めてやり、治療してもらえば感謝してやっていた」
「……」
「心から聖女を敬愛していた者など、もはや……」
「で、ですが! 他国から、別の聖女を呼べば……」
王は静かに首を振った。
「無理だ。専属で休みもなく治療させ続けるなど、国庫を傾けるほどの金がいるだろう」
「ありがとうございました!」
目の前で夫婦が涙を流しながら頭を下げた。
寝台で眠る子供の容態は安定し、安らかな寝息を立てている。
「治療が遅れていれば、どうなっていたか……」
「い、いえ、そんな、大したことではないですよ」
ナターシャは落ち着かない。
どんな治療をしても、ここまで感謝されることはなかった。
大怪我をした貴族であっても、順番を早くするため世話係に高価な貢物をするだけで、聖女の礼には慣習通り、くずの野菜でもおさめて義務を果たした顔をする。
山となった野菜や穀物は感謝を示しているように見えるが、とうてい食べられないものや、いっそ小石を詰めて底上げしていることも珍しくない。
貧しい人に施すというよりは、どうにもしようがないから、それでも構わないと引き取ってくれる場所に送るしかなかった。
もっとひどいのが子供だ。
子供であれば、礼はそのあたりで摘んだ花の一輪でいい。
そんな慣習に従って、親は子に礼を言わせるし、子がいないのなら近所の子どもを借りてくる。
聖女は治療をするのが当たり前で、感謝は形だけあればいいと、多くの者がそう思っているようだった。
そしてあまりにも気軽に治療の列に並ぶ。放っておけば治るようなちょっとした切り傷、二日酔い、筋肉痛、そんなものばかりに聖女の力は使われていた。
「治療費は必ずお支払いします。収穫期のあとになりますが……」
「あの、それは構わないので、この村にどこか泊まれる場所はないでしょうか? 隣町までの馬車が、今日はもう出ないようなので」
田舎の家族が危篤なのだと嘘をつき、早馬に乗せてもらって王都を離れた。
女の身で昼も夜もしがみつき続け、馬主にはずいぶん親が心配なのだろうと同情されたが何のことはない、自分の疲労を回復し続けただけだ。
(なんて贅沢)
今まで、ナターシャの力は他人を助けるためのもので、自分に使ったことなどなかった。そんな余裕もなかった。
それだけのことをしてさえ体が軽い。
常に鉛のようだった手足に重みを感じない。肩には羽が生えたよう。ぐちゃぐちゃの詰まったような頭はすっきりして、絶望的に空虚だった身のうちに、あふれる力を感じるのだ。
もう死んでも戻りたくなかった。
『聖女なんて気楽なものよ』
警護を減らすため、逃げる隙をつくるための、浅い考えの思いつきだった。
しかしそう言いまわるだけで皆は、本当にそれを信じた。
治療した民でさえ、聖女様が羨ましいと、こちらは毎日苦労しているのだと愚痴をこぼす始末だ。
ナターシャの今までの献身など、たったそれだけのものだったのだ。
ならば自分たちでどうにかすればいい。
聖女の、治療の力を持つものは他国にいくらでもいる。治療が遅いと文句を言いながらナターシャに聖女をさせる理由は、タダで使えるというただ一点のみだ。
「それならどうぞ、我が家にお泊りください。大したもてなしはできませんが、うちの牧場で取れたチーズやバターは絶品ですよ」
夫婦は心から感謝してナターシャをもてなしてくれた。
質素な暮らしをしているのだろう、それでも言葉の通り、できるだけのことをしてくれているのがわかった。
ナターシャはうっかりと、少し涙を見せてしまった。
「すみません。大丈夫……大丈夫です! 本当に! ただ、その……ずっと一人で旅をしていたので。ええ、この国の王都なら、回復士は食べるに困らないと聞いて」
かつて、ナターシャの鬱々とした暮らしに希望を持たせてくれたのは、他国から来たひとりの男の話だった。
彼はずいぶん驚いていた。回復士がタダで回復してくれるなど、考えられないと感謝してくれた。
その彼の国に今、いるのだ。
この国には回復士が多く、彼らが集って協会をつくり、治療費を安定させているのだという。回復士が酷使も搾取もされず、かといって貧しいものが治療を諦めることもない値段に。理想郷の話だった。
「まあ、そうなの。あなたのように優しい回復士が増えれば、助かる方が大勢いるでしょうね」
「そうだったらいいのですけれど」
実感がひしひしと湧いて、ナターシャの胸は踊る。
必死で逃げてきたけれど、本当にたどり着けるかは半々だと思っていた。衣服を売り払った程度の金しかなく、旅路の厳しさなどナターシャは知らないのだから。
怪しげな男達に追いかけられた時には、全身を活性化させて逃げた。逆に触れた相手から力を奪うこともできる。
存外、この力が活用できるものだと知った。
「そうに違いないですよ。実際にうちの子はこうして助けていただけたんですから!」
「ありがとうございます。その……喜んでくださると、私も、とても嬉しいです」
かつて忘れていた喜び。明日を考えることが楽しい。
こうしてナターシャは、人生を新しく始めたのだった。
王は怒り、玉座から立ち上がって叫んだ。
かつてない剣幕に王太子は驚き、戸惑った。
「し、しかし、どうやら、聖女が自分から姿を消したようで、またどこぞで怠けているのではないかと……」
「馬鹿者! 聖女が逃げ出したのはわかっている!」
「は……?」
「当たり前だろう! あのような不自由な暮らしを、誰が望んでするものか!」
「ふ、不自由、な……?」
「ただ一日の休みもなく民を癒しているのだぞ。朝夕の祈りもある」
「祈りの時間は眠っていると……」
「どれだけの民が見ていると思っているのだ。そのようなこと、許されるはずがあるまい」
「……」
王太子は口を閉じた。
祈りの広間の光景を思い出したのだ。朝の仕事の前の民が、仕事の後の民が、聖女の祈る姿をいくつもの目で見ている。
「ナターシャは民の理想の聖女であるようにと育てられたのだ。おまえとて幼い頃に言ったではないか。『聖女様はずっと頑張っていて可哀想だ』と……!」
「…………あっ」
王太子は思い出した。
そうだ、年の近い聖女のことを王太子は気にしていた。だからこそ皆、聖女の話をしてくれるようになったのだ。
比較され続けることでへそを曲げ、そんな始まりをすっかり忘れてしまっていた。
「だからこそおまえに、聖女の待遇を任せたというのに……」
王太子はよろめき、呆然と呟いた。
「それを……直接、言っていただければ……」
「わかっていると思ったのだ! わしとて口になど出したくない。我が国が、崇めるべき聖女を酷使しているなどと!」
「……っ!」
「聖女が多くいるうちはよかったのだ。だが一人であっても、民は治療を、目に見える奇跡を望む。……幼い頃には、数人治療しては気を失っていたというのに」
「そんな……」
いつも青白い、陰気な顔を思い出した。
「たとえ何があろうと聖女が助けてくれる。それが我が国の力であり、求心力であったが……なるべくしてなったと言うべきなのだろう。信仰は薄れ、形ばかりが残った」
「しかし……っ、聖女を充分に、持ち上げてやっていたではないですか!」
「……」
王は小さく溜息をつき、王太子を悲しげに見た。
「その言葉がすべてだ。おまえの臣下は、おまえを持ち上げてやっているのか? おまえはそれを喜んでいるのか?」
愕然と王太子は王を見返す。
「民も同じだ。朝夕の祈りの広場で、聖女らしい聖女だと認めてやり、治療してもらえば感謝してやっていた」
「……」
「心から聖女を敬愛していた者など、もはや……」
「で、ですが! 他国から、別の聖女を呼べば……」
王は静かに首を振った。
「無理だ。専属で休みもなく治療させ続けるなど、国庫を傾けるほどの金がいるだろう」
「ありがとうございました!」
目の前で夫婦が涙を流しながら頭を下げた。
寝台で眠る子供の容態は安定し、安らかな寝息を立てている。
「治療が遅れていれば、どうなっていたか……」
「い、いえ、そんな、大したことではないですよ」
ナターシャは落ち着かない。
どんな治療をしても、ここまで感謝されることはなかった。
大怪我をした貴族であっても、順番を早くするため世話係に高価な貢物をするだけで、聖女の礼には慣習通り、くずの野菜でもおさめて義務を果たした顔をする。
山となった野菜や穀物は感謝を示しているように見えるが、とうてい食べられないものや、いっそ小石を詰めて底上げしていることも珍しくない。
貧しい人に施すというよりは、どうにもしようがないから、それでも構わないと引き取ってくれる場所に送るしかなかった。
もっとひどいのが子供だ。
子供であれば、礼はそのあたりで摘んだ花の一輪でいい。
そんな慣習に従って、親は子に礼を言わせるし、子がいないのなら近所の子どもを借りてくる。
聖女は治療をするのが当たり前で、感謝は形だけあればいいと、多くの者がそう思っているようだった。
そしてあまりにも気軽に治療の列に並ぶ。放っておけば治るようなちょっとした切り傷、二日酔い、筋肉痛、そんなものばかりに聖女の力は使われていた。
「治療費は必ずお支払いします。収穫期のあとになりますが……」
「あの、それは構わないので、この村にどこか泊まれる場所はないでしょうか? 隣町までの馬車が、今日はもう出ないようなので」
田舎の家族が危篤なのだと嘘をつき、早馬に乗せてもらって王都を離れた。
女の身で昼も夜もしがみつき続け、馬主にはずいぶん親が心配なのだろうと同情されたが何のことはない、自分の疲労を回復し続けただけだ。
(なんて贅沢)
今まで、ナターシャの力は他人を助けるためのもので、自分に使ったことなどなかった。そんな余裕もなかった。
それだけのことをしてさえ体が軽い。
常に鉛のようだった手足に重みを感じない。肩には羽が生えたよう。ぐちゃぐちゃの詰まったような頭はすっきりして、絶望的に空虚だった身のうちに、あふれる力を感じるのだ。
もう死んでも戻りたくなかった。
『聖女なんて気楽なものよ』
警護を減らすため、逃げる隙をつくるための、浅い考えの思いつきだった。
しかしそう言いまわるだけで皆は、本当にそれを信じた。
治療した民でさえ、聖女様が羨ましいと、こちらは毎日苦労しているのだと愚痴をこぼす始末だ。
ナターシャの今までの献身など、たったそれだけのものだったのだ。
ならば自分たちでどうにかすればいい。
聖女の、治療の力を持つものは他国にいくらでもいる。治療が遅いと文句を言いながらナターシャに聖女をさせる理由は、タダで使えるというただ一点のみだ。
「それならどうぞ、我が家にお泊りください。大したもてなしはできませんが、うちの牧場で取れたチーズやバターは絶品ですよ」
夫婦は心から感謝してナターシャをもてなしてくれた。
質素な暮らしをしているのだろう、それでも言葉の通り、できるだけのことをしてくれているのがわかった。
ナターシャはうっかりと、少し涙を見せてしまった。
「すみません。大丈夫……大丈夫です! 本当に! ただ、その……ずっと一人で旅をしていたので。ええ、この国の王都なら、回復士は食べるに困らないと聞いて」
かつて、ナターシャの鬱々とした暮らしに希望を持たせてくれたのは、他国から来たひとりの男の話だった。
彼はずいぶん驚いていた。回復士がタダで回復してくれるなど、考えられないと感謝してくれた。
その彼の国に今、いるのだ。
この国には回復士が多く、彼らが集って協会をつくり、治療費を安定させているのだという。回復士が酷使も搾取もされず、かといって貧しいものが治療を諦めることもない値段に。理想郷の話だった。
「まあ、そうなの。あなたのように優しい回復士が増えれば、助かる方が大勢いるでしょうね」
「そうだったらいいのですけれど」
実感がひしひしと湧いて、ナターシャの胸は踊る。
必死で逃げてきたけれど、本当にたどり着けるかは半々だと思っていた。衣服を売り払った程度の金しかなく、旅路の厳しさなどナターシャは知らないのだから。
怪しげな男達に追いかけられた時には、全身を活性化させて逃げた。逆に触れた相手から力を奪うこともできる。
存外、この力が活用できるものだと知った。
「そうに違いないですよ。実際にうちの子はこうして助けていただけたんですから!」
「ありがとうございます。その……喜んでくださると、私も、とても嬉しいです」
かつて忘れていた喜び。明日を考えることが楽しい。
こうしてナターシャは、人生を新しく始めたのだった。
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