聖女には拳がある

七辻ゆゆ

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聖女には拳がある

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 ああ、殴りたい。

「ちゃんと確認を怠らなければ気づいたはずだよ。難しいことじゃないんだから。君はこういう些細な間違いをいつもするよね。そのたび皆が迷惑してるのをわかってるかな?」

 目の前上司を殴ってやりたい。
 確かに私はミスをした。それについては部署の全員に侘びて回ってもいい。でも仕事をしていない上司には言われたくないものだ。
『確認は僕がするから』
 と、出来上がったばかりの、見直しもしていないデータを持っていったのはこの上司である。そしてそれをすっかり忘れている。
 いつものことだ。

「まあ、起こっちゃったことはしょうがないね。じゃあみんな、がんばって取り戻そう! ほら、君もだらだらしてないで」
 おまえがぐだぐだ言わなきゃさっさと取り掛かっとったわ。

 などとは言えないので、私は仕事に戻った。
 上司は生き生きしている。部下を叱るのと残業するのが三度の飯より好きなのだ。時々「君、まだ結婚とかしないの?」などとアウトなことを聞いてくるが、当人の家庭が上手く行っているようには思えない。

「でもちょっと、次の昇給の話はなしかなあ? まあでも、上には上手いこと言っとくからさ!」
 殴ってやりたい。
 上には正直に言えよ、それがおまえ以外のみんなのためだ。
 ああ、ボコボコにしたい。人を殴ったことなどないけれど、今ならできる気がする。

(落ち着こう、ここは法治国家)

 暴力はいけない。物事の解決には話し合い、話し合い、とにかく話し合い、あと根回し。
 誰もが暴力を振るうようになったら、困るのは力のない一般女性、つまりは私だ。自分の首を絞めるな。がんばれ。生きよう。
(それにしても殴ってやりたい)

 そんな、誰でもたまには思うような願望(たぶんそう。そうに違いない)を胸に、私は仕事に戻ろうとした。残念だけど今日の観劇はキャンセルだ。口惜しい。私が見られないことは悲しいが百歩譲って許そう。しかし相澤くんの出る舞台で空席をつくるなんて、
(やっぱり殴りたい)

 我慢だ、我慢。
 心の中で殴るだけにしよう。ああくそ、良席だったのだ。三年に一度お目にかかるかという良席。許すまじ、呪。
「あっ、そうだ、今度の有給も出てね。取ったことにしておけば問題ないから」
 問題ありありじゃい。
 やっぱり殴ろう。
 心を無にして振り返った時だった。

「え……?」

 世界が白くなって消えた。
 なにこれ。

 なに、核兵器でも撃たれたの? 世界の終わり? まさか。ちょっと眩しいだけ、という時間じゃない。なに。

『その願い、聞き届けよう』
「は?」

 幻聴まで聞こえた。





 そして私の前にはきらきらしい王子がいた。

(あれ? なんだっけこれ、今日の演目は)
 私は毎回必ず買うパンフレットを見ようとしたが、なぜか立っていたし、客席がなかった。周囲に誰もいない。でも、目の前の舞台にはイケメン俳優が揃っている。

 床に魔法陣らしきものが描かれ、石壁はとてもリアリティがある。あの扉だって、開ければきちんと次の部屋がありそうだ。
 でも魔法陣って。
 演目は何だろう。チケを取っておいて忘れるはずがないんだけど。

「うーん?」
 おかしいな。あれか、夢か。あまりに相澤くんを見たかった気持ちが見せた夢か。だったら相澤くんがよかったなあ。

「せ、聖女さま」
 黒服の、いかにも魔術師ですという男の人が平伏した。
 おお。イケメンという感じではないけど、いい演技してる。なんかこう、真に迫っている。震え方とか。
「聖女さま!」
 どうやら黒服の魔術師の部下らしい、黒い布をかぶっただけのような集団が同時に頭を下げた。揃ってないところがリアルだ。

 しかし聖女さまねえ。
 そういう舞台を見た覚えも、見たいと思った覚えもない。相澤くん、ちょい役でもいいから出てたりしないかな。無理か。売れっ子になってきたのはとても良いことだけど、そこそこ大きなタイトルにしかでなくなってしまった。
 いやでも夢なんだからさ。
 でも似合わないだろうなあ。相澤くん、存在感がありすぎるから端役でも主役になっちゃうとこがある。

「この……これが、聖女……?」
 王子役の子が呟いた。
 いや、わかんないけど。いかにも王子っていう、金髪碧眼、着ているものは現代感覚からすると縫製されてない布だけど、周りと比べると質がいい感じがした。白地の衣装に品のいい赤のマント。
 騎士とかだったら腰に剣があるだろう。だから王子。たぶん王子。

「聖女さまにございます! こ、これ……こちらの方が! 聖女さまです! 女神に願い、それが受け入れられたので、間違いなく聖女さまなのです!」
 平伏した魔術師は必死に言い募っているが、なんだかとても言い訳くさい。真実味を出すには言葉を減らした方がいいだろう。そういう演出だとしたら、その聖女というのがよっぽどアレだという暗示かな。

 ちら、と魔術師は客席、つまり私の方を見た。
 席、ないけど。

「……とにかく聖女さまです!」
 そして必死にまた言った。なにがなんでも聖女です。間違いないです。言えば言うほど嘘くさくなり、王子の眉がうろんに寄せられた。
「失敗したのならそう言え。偽りは許さん」
「違います! 聖女さまなんです……!」
 魔術師はもう涙声で叫ぶように言った。しかし王子は疑わしげな表情を変えず、魔術師は頭を抱えるようにうずくまってしまった。かわいそう。

 信じたれや。
 もう聖女でええやんか。

 たぶん魔術師だって嘘を言っているつもりはないのだ。演出的にはそういう流れだろう。もし嘘だったら、ここまで本気の必死を見せたりはしない。それとも観客を騙しちゃう系かな。
 なにしろこの人達の関係性を知らないので、そういう方向から考えるしかない。

「マルチー殿下、どうかお許しを。聖女さまなのです……」
 えっ。

 私は王子を見た。マルチー殿下、と呼ばれて、別に怒っていない。当たり前の顔をしている。これはつまりマルチー殿下だ。
(マルチー……)
 このキラキライケメンにアホほどかわいい名前をつけたものだ。変な名前をつける癖のある作家さんが書いてるんだろうか。

 夢に原作もなにもないけど。
 ということは私が考えているわけで、己のネーミングセンスを疑った。マルチー殿下。
 マルチー……。
 まあ。
 かわいいかな。

「……もうよい。試してみればよいことだ」
 マルチー殿下はあからさまに嫌味なため息をつき、ギュッと靴を鳴らして近づいてきた。足の裏まで革の靴なのか。
 よく見ると丁寧な作りだ。なんかすごい。それっぽい紋章が貼り付けでなくきちんと刺繍されている。
 足を踏み出すたび、風がおこってマントが揺れる。見事な演出だ。キラキライケメン好きなら卒倒すること間違いない。近づく。降り? 客席降り?
 いや客席はない。

 つまりは近づくごとにイケメンだった。整っていないところがない。あえて言うなら鼻が高すぎて、いかにも高慢という印象になっている。
 近づく。
 近づく。
「うわ」
 私は思わず声をあげた。

 マルチー殿下が、私の目の前で止まる。
「近い!」
 近すぎる。
 マルチー殿下は顔をしかめた。しかめた顔もイケメンだが、とにかく近い、近すぎる。イケメンを見る正しい距離ではない。何を見ればいい。鼻の穴か?
 ちゃんとイケメンにも鼻の穴がある。
 呼吸をしているのだ。

(すごい)

 私はもっと優しい顔が好きなんだけど、それはそれとしてイケメンだ。単純に殺傷力が高いので近づいてはいけな、
「女、頭が高い」
「いっ……?」
 一瞬、何が起こったのかわからなかった。

 私は強引に腕を引かれ、床に転んでいた。石畳に肩をぶつけて鈍い痛みになる。
「なにす……」
 マルチー殿下は一瞬だけ驚いた顔をすると、私の服に手をかけた。
「は?」
 なにこれ。

 夢じゃない。人がそばにいるという感覚が、温度が、肩の痛みが、どうしようもなくリアルだった。マルチー殿下の腕は私の服、仕事用のスーツを破ろうとしたようだが、むっと動きを止めた。
 それはそうだろう。
 Tシャツじゃないのだ。そうそう破れない。
 破れないが、破れたらどうする。

「お、おやめください! その方は聖女さまなのです!」
「それを確かめてやろうというのだ。真に女神の遣わした聖女であれば、辱めを受けることなどないだろう。……もっとも、世界の穢をこれほどまで放置した女神だ。この女ひとり見捨てても不思議はないがな」
「そんな……!」

 魔術師と殿下が言い争っているが、その間にも私のスーツは強引に破られようとしている。
「……っ、……!」

 もがいても逃げられない。
 男の力で押さえつけられて逃げられるような力は持っていない。
「さあ、どうだ」
 乱暴に握られ、引っ張られた生地から糸のちぎれる音がした。頑丈な布地だから、破れるなら縫われたところからだ。それが広がって、伸びた糸が見えた。
「離して……!」
「ではその力を見せてみよ!」
 なにその馬鹿みたいな台詞。ここは夢じゃないのだ。現実だ。がたがたと揺らされて、そのたび石の床にあちこちをぶつけた。きっと後々まで痛む。泣きそうになった。

 何、これ?

「どうした聖女。それとも貴様はただの無能か? まあ、女であれば、男を喜ばせる能はあるだろうがな」
「……!」
 そこまでのことを言われた覚えはなかった。
 いくら男尊女卑の国といっても令和だ。先進国だ。そうまで下卑たことを言って、自分の品性を貶めるような馬鹿はそうそういない。いなかったのだ。

 あまりのことに驚いて、私はイケメンを見上げた。
(イケメンのくせに……!)
 中身はゴミだ!
 もがいても腕は外れない。男の力に抵抗できないことなどわかっている。私は鍛えてさえいない一般女子だ。悔しい。せめて一発、殴ってやりたい。

(殴ってやりたい!)

 その時だ。握った拳に熱が宿った。
「えっ?」
 あまりに強く握りすぎて血が出たのかと思った。
 違う。拳に痛みはない。ただ暖かく、見れば光り輝いていた。

「こ、これは……」
 魔術師が呟いた。

「や、やだっ!」
 変な感じになった自分の手が恐ろしく、私は手を振った。
「なに、なにこれ! なに!?」

 説明してほしい。わかっていそうな魔術師に目を向けたが、目を見開いて私の拳を見ているだけだった。役に立ちそうにない。
「このっ……」
 私は更に手を振った。

「お、おい」
 慌てたような声をあげたのはパクチー殿下だ。ちがう、マルチー殿下だ。どっちでもいい!
「退いて!」
 逃げたい。
 自分の手から逃げられるはずもないが、私は本能的に起き上がろうとした。しかし邪魔だ。パクチー殿下が邪魔だ。

「退け!」
 拳を握った。
 すると熱があがった。私はそれにいっそう危機感を覚え、手をぶん回す。
「退け! どっかいけ!」
「ぐふっ……」
 パクチー殿下がふっとんだ。

「え?」
 きれいに飛んだ。私が手をぶち当てた顔をそむけて、空を舞ってどしゃりと石の床に落ちた。

「え……え?」

 私はそれを二度見し、それから自分の拳を見た。
「熱くない……」

「聖女さま!」
「聖女さま!」
「は?」
「おお女神よ、感謝します」
「女神が御使いをお降ろしになった!」
 その場の黒いの達が口々に言って平伏した。石の床に頭をこすりつけている。痛くないの?
 いやいや。

「そんな」
 私は自分の拳を見た。
 パクチー殿下がうめき、まだ立ち上がらない。なんだったんだろう。まるで私が殴ったみたいな。
(殴ったんだ)
 私はぶるぶると震えた。
「なんて……」
 気持ちがいいんだろう。

 クソイケメンを私は殴りたかったのだ。殴ったらぶっ飛んでいった。最高か?
(じゃなくて)
 私は首を振り、ここに至るまでのことを思い返した。そう、私は上司を殴りたかったのだ。殴りたいと強く願った。そして。
『その願い、聞き届けよう』
 確かにそう聞こえた。凛とした女性の声だった。女性……女神……。
「いや待って」
 まさか。

 まさかね。




 数年後、女神の遣わした聖女はその拳ひとつで世界を救った。
 すべてを殴りぶっとばし蹴散らす拳は女神の加護により、一度も傷つくことはなかったという。
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