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1巻
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「そうね、愛衣は昔から坊ちゃんのことが大好きだもんね」
「え!?」
いきなりそんな核心をついてきますか!?
お母さんに雅貴さんへの気持ちを言ったことはなかったけど、娘の恋心なんてとっくにお見とおし、ってやつだろうか。
頬がぽわんと温かくなった気がする。照れているわたしを見てクスッと笑った母は、軽く頭をポンポンと撫でてからそばを離れた。
「坊ちゃんも長いこと待ったしね。今ごろ本人は大喜びだろうけど、愛衣も嬉しそうでよかった。でも……まさか本気だったとはね……」
そんなことを言いながら、母は洗面所を出ていく。
去り際の母の言葉に、なんとなく聞き覚えがあった。
そういえば雅貴さんも昨日、「長年待った」と言っていなかっただろうか? あのときは、それどころじゃなかったし、彼が大袈裟に言っているだけだろうと考えていたのだけど……
まさかとは思うけど、この結婚は生まれたときから決まっていたとか、そういうやつ?
そう思ったら、なんだかいろいろ気になってしまう。
この疑問は、誰に聞いたらわかるだろう。雅貴さん? いや、もしこの結婚が親同士の繋がりから始まっているのなら、父に聞くのがいいのかもしれない。
「雅貴さんのお父さんとも仲が良いし、お父さんなら事情を知ってるはずだよね」
ちょうど今日は家にいるはずだから、あとで聞いてみようかな。
毎年、十二月二十四日か二十五日のどちらか一日、家族でクリスマスとわたしの誕生日を兼ねたお祝いをしているのだ。
今年は二十四日に雅貴さんとの約束があったこともあり、家族でするお祝いは二十五日になった。
これまで父は、お祝いの日の夕食に間に合うよう早めに帰ってきてくれていたが、今年は記念すべき二十歳の誕生日。いつも忙しい父がしっかり休日の申請をして、休みを取ってくれたのである。
『本当にあなたは、愛衣に甘いんだから』
母が苦笑いしながら言う言葉は、我が家のお決まりのセリフと言ってもいい。
これは一人娘の特権とでも言うべきか。
でも、もう二十歳になったんだし、こういうのも卒業しなくちゃダメかな。
そんなことを考えながら、わたしは急いで顔を洗い身支度を整えた。ご飯を食べに行く前に、母から父のいる場所を聞き仏間へ向かう。
近くまで行くと、仏間の襖は開いていた。
「お父さーん」
ちょっとおどけて襖から室内を覗きこみ、わたしは息を呑んだ。
六畳ほどある仏間には、結納品と思しきものが所狭しと並べられている。
積み上がった反物に立派な桐箱、房の付いた紐でくくられた漆塗りの入れ物。そして豪華な水引のついた品物の数々。
でも、わたしが息を呑んだのは、予想を超える結納品にすくんでしまったからだけではない。
結納品の前で正座をする、父の寂しそうな背中を見てしまったからだ……
「愛衣?」
父が振り返る。わたしが来たからなのか、丸まっていた背筋がピンッと伸びた。
「お……お父さん……、あの……」
言葉に詰まる。どうしよう、父は普通にしているつもりなのかもしれないが、漂う雰囲気がしんみりしている。
「どうした? 結納品を見に来たんじゃないのか?」
「う、うん……すごいいっぱいだね……」
「そうだな……」
息と一緒に言葉を吐き、父は結納品へ視線を向ける。そのどこか寂しそうな横顔から、わたしは目をそらした。
とても話し続けられる雰囲気ではない。
わたしは、そっと、仏間の前から離れた。
――その後、事態は思った以上に急速に進んだ。
夢のようなプロポーズに浸ったり、この結婚の事情について父に確認する余裕はなかった。
あれよあれよと結納や食事会が執り行われ、気づけば結婚式の日取りまで決まってしまっていた。
なんと、プロポーズから一ヶ月半後のバレンタインデーである。心の準備をしている暇もない。
そもそも、たった一月半かそこらで、結婚式の準備なんてできるものなのだろうか。
だが……
『大丈夫。ウエディングサロンのスタッフが、すべて取り仕切ってくれる。ラリューガーデンズホテルが誇る精鋭スタッフだから問題ない。愛衣はなにも心配しなくていいんだよ』
と、雅貴さんはそれはそれは麗しい微笑みを浮かべて、わたしに言ったのだ。
けれど、結婚の準備が大変だってことは、ちょっと調べればわかる。
きっと大学のテスト勉強も手につかないくらい忙しくなるに違いない。そう覚悟していたわたしに課せられた〝準備〟は、ウエディングドレスのデザインをリクエストすることと、披露宴に呼びたい相手を選ぶことだけだった。
それ以外の準備は、雅貴さんの手配してくれたサロンスタッフが全部やってくれるというのだ。
そんなこんなで、なんだかよくわからないまま、誕生日から大晦日までの一週間は、まるで一年を早送りしたかと思うくらい目まぐるしく過ぎていったのである。
そして、結婚式の前には、年明け一番の大きな行事になるはずだった成人式も待っている。大学の友だちはもちろんだが、進学などでバラバラになっていた高校の同級生にも会える機会とあって、ちょっと楽しみにしていた。
友人たちには、そのときに結婚について伝えたほうがいいだろうか。いや、成人式は出席するみんなのお祝いの場なのだから、そんな日に伝えて変に気を遣わせることになったら申し訳ない。
だったら、結婚式を挙げたあと、改めて葉書を出したらいいのだろうか。
ハッキリいってわたしは、まだまだこういう世間の常識のようなものに疎い。
悩んだあげく母に相談してみたところ、結婚式のことなら雅貴さんと二人で決めたほうがよいとのことだった。
そこでわたしは、成人式を三日後に控えた夜、仕事帰りに家に寄ってくれた雅貴さんに思い切って相談してみたのである。
「成人式で結婚報告? 友だちに?」
そう問い返しながら、雅貴さんは手土産に持ってきてくれたケーキの箱をわたしの部屋の机の上に置く。家庭教師をしてくれていたときみたいに、机の横に彼用の椅子を引き寄せて座り、ケーキの箱を開け始めた。
「いいんじゃないか? 人数の関係で、式に呼べない友だちもいるだろうし」
「んー、そうなんですよね……あ、他にも報告したい人がいる場合は、葉書とかを出せばいいですか?」
「結婚報告の葉書は大量に用意するし、送りたい相手を教えてもらえれば、すべてこちらで手配するから」
「そう……ですか?」
わざわざ書き出さなくても、名簿などで該当者に丸を付けて出してくれればいいと言われる。ずいぶんと楽なんだな……。けど、本来は自分でする作業なんだよね。
「ほら、今日のケーキは力作だぞ。新年の和ケーキを愛衣がすごく褒めていたと言ったら、うちの若いパティシエが泣くほど喜んで、張り切って会社まで届けてくれたんだ」
そう言って、目の前に出された色とりどりのかわいいプチフール。
宝石みたいに鮮やかなケーキが、仕切りの付いたケースにひとつひとつ並べられている。
しかもこのケースがプラスチックなどではなく、大理石ふうの模様を入れた乳白色のセラミックだったりするから、高級感が半端ない。
見た目だけで心躍らずにはいられないはずなのに、考え事をしていたせいで反応が遅れてしまった。
すると、それをおかしく思ったのか、雅貴さんに顔を覗きこまれる。
「どうした? 愛衣がケーキを見て笑わないなんて、どこか具合でも悪いのか?」
お菓子で釣られる子どもですか、わたしは。
「いえ、なんだか、申し訳ないような気がして」
「申し訳ない? なにがだ?」
「だって、そういう葉書を出したりするのも、本来なら自分でやることでしょう? それなのに、全部お任せしちゃって……」
雅貴さんは、プチフールのケースを机に置き、両手でわたしの頭をゆっくりと撫でる。
なんだか頭部全体を触られているようでおかしな気分。ほわっと、頬が温かくなる。
「愛衣は、遠慮深いな。そんなことは気にしなくていいんだよ。俺たちに代わって準備をしてくれるのが、サロンスタッフの仕事なんだ。彼らは報酬と引き換えに仕事を行っている。もし愛衣が、『申し訳ないから自分でやる』なんて言ったら、そのぶん彼らの報酬が減ってしまうだろう?」
どうだ? と、優しく諭すみたいな雅貴さんの言葉。
「……減るのは……、嬉しくないですよね」
「そうだな。だから、黙って彼らに任せておこう。愛衣は当日の衣装合わせや大学の後期試験の準備で忙しいだろう」
「はい……」
なんとなく言いくるめられてしまった感はあるものの、雅貴さんの言うことにもうなずける。
それに、こうしていろいろ手配してくれているのは、雅貴さんの優しさだと思うから。
わたしは気持ちを切り替えて、綺麗に並んだプチフールの中からリンゴのタルトをつまみ上げ、雅貴さんに笑いかけた。
「ありがとうございます。なんだか自分の結婚式なのに、今も全然実感が湧いてこなくて……親しい友だちで結婚した人なんかまだいないし」
ぱくりとひと口かじると、雅貴さんの手が再びわたしの頭を撫でる。
「出席してくれた友だちが、愛衣を見てすごく綺麗でよかった、自分もこんな結婚式がしたい、そう言ってくれる式にできたらいいな」
「はい。ちょっと照れちゃいますけどね」
照れ笑いを浮かべながら、わたしは美味しいプチフールをパクパクと食べ進める。
「そういえば、披露宴に呼ぶ人は決まったのか?」
「あー、それが大学のゼミでお世話になっている先生や仲良くしている人も多いから、男女ちょうどよく呼ぼうと思うと、それだけで友人席がいっぱいになりそうで……。ずっと悩んでたけど、高校の友だちは諦めようと思って」
プチフールに心を奪われつつ口にすると、頭を撫でる雅貴さんの手がピタッと止まった。
「……式に呼ぶのは、女の子の友だちだけにしてほしい」
「え?」
意外なことを言われてキョトンとするわたしに、雅貴さんは話を続ける。
「お世話になっている先生や男の友人には、後日挨拶の葉書を出せばいい。式に呼ばなくても失礼になるなんてことはないから、心配しなくて大丈夫だよ」
「あの……でも」
「それなら高校のときの、親しかった女の子たちを呼べるだろう?」
「どうして……式に招待するのは女の子だけなんですか?」
「ああ、実はこちらの招待客が、会社や取引関係の人間が多くて地味なんだよ。愛衣の友人席に若い女の子がいっぱいいたほうが、会場が華やかで明るい雰囲気になっていいんじゃないかと思ったんだ」
理由を知って、ぷっと噴き出してしまった。確かに、会社関係の人が多ければ堅苦しい雰囲気になるだろう。
「それに……」
明るい口調がしっとりとしたものに変わる。雅貴さんの指先がわたしの頬を撫で、色っぽい眼差しが目の前に近づいた。
「男なんか招待して、花嫁を奪われたら大変だろう?」
チュッと、彼の唇がおでこに触れる。唇が離れた瞬間、ボッと顔が熱くなった。
「な?」
なんの確認? なんの確認ですかっ!? 顔どころか耳まで熱くて、顔なんかきっと真っ赤だけど下を向くことも目をそらすこともできない。
指先が頬に触れているから、ではなく、雅貴さんの視線が脅迫的なほど熱っぽくて、そらしちゃいけないっていう気にさせられる。
恥ずかしいからそらしたい……でも、この雅貴さんを見ないのはもったいなさすぎる!!
暴力です! これは色気の暴力ですよ!!
「わ……ゎっ、わかりましたぁっ。じゃあ、出席してくれる友だちには、成人式並みに着飾ってきてくれってお願いしておきますっ!」
ドキドキしすぎて心臓が口から飛び出しそうだ。そのせいか少々つっかえつつ、わたしはなんとか言葉を返す。大人の色気というものに白旗状態のわたしを知ってか知らずか、雅貴さんはにっこりと微笑んだ。
「それは華やかでいいな。悪い大人が近寄っていかないよう、監視役を立てておかなくてはならないかもしれない」
それは助かるかも。女友だちのことを考えれば嬉しい配慮だと思う。
雅貴さんの提案に、わたしは笑顔でうなずいた。友だちのためにも、こういうところはしっかり頼んでおかなくちゃ!
そうしてわたしは、再びプチフールのケースに手を伸ばす。
「あっ、レアチーズが二種類ありますよ。雅貴さん好きでしょ? どっちにします?」
顔を向けると、雅貴さんがなにかを考えこむみたいに眉を寄せている。
……どっちにしようか悩んでいるのかな。雅貴さん、レアチーズケーキ好きだもんね。
両方雅貴さんが食べてもいいのに。
やがて、彼はわたしを見てにこりと微笑んだ。
「成人式の日、式典が終わったら二人きりでお祝いをしないか。せっかくの晴れの日だし、その日は俺にエスコートさせてくれ」
二人きりでお祝いという言葉にときめいたわたしは、二つ返事で了承し、レアチーズケーキを二つとも雅貴さんに渡したのだった。
成人式当日。
わたしは母の行きつけの美容室に、着付けと一緒にメイクとヘアセットの予約を入れていた。
しかし雅貴さんの勧めもあり、それらを西園寺家でしてもらうことになった。
わざわざ自宅まで迎えに来てくれた雅貴さんに連れられ、わたしは久しぶりに西園寺家を訪れる。
「いらっしゃーい、愛衣ちゃんっ。もぉー、相変わらずかわいいわねぇ~」
何度来ても恐縮してしまうくらい立派な西園寺家の玄関でわたしを迎えてくれたのは、雅貴さんのお母さんだった。
今までは「貴和子さん」と呼んでいたのだけど、これからは「お義母さん」と呼んだほうがいいのかな。
「こ、こんにちは、貴和子さ……ぁ、お、お義母さん。あの、今日はお世話になります」
少々照れ臭く感じつつ頭を下げると、いきなり貴和子さんにぎゅむっと抱きしめられた。
「かわいいわぁ~。でも、なんだか硬いわねぇ。呼びづらかったら今までどおりでいいのよ? 愛衣ちゃんに緊張されると私も寂しいわ」
「はっ、はい、すみませ……」
二十歳で雅貴さんを産んだ貴和子さんは、すごく綺麗な人だ。アラフィフとは思えないほどスタイルがよく、白くて張りのあるお肌をしていらっしゃる。
……ちょっと、羨ましいくらいだ。きっと、こういう人のことを世間では、美魔女というに違いない。
抱きしめられたまま、ボリュームのある胸の谷間に顔を押しつけられていたわたしは、溜息とともにそこから引き剥がされた。
「お母さん、駄目ですよ。愛衣は俺のです」
すぐ後ろにいた雅貴さんに肩を抱き寄せられる。貴和子さんの前でくっついていることにも照れるが、彼のセリフにも照れてしまった。
「いいじゃない。私の娘よ?」
「俺の、妻です。愛衣はお母さんのオモチャじゃないんですからね」
「もー、ケチねぇ」
「いまだかつて、従業員にだってケチと言われた覚えはありませんよ」
二人のやり取りに、笑いたいのをグッとこらえる。だって、雅貴さんがすっごく真面目な顔で言い返しているのがおかしいんだもん。
「式典は午後一時半からなので、軽く昼食をとってから始めましょう。お母さん、お願いしていた件は?」
「大丈夫よ。みんなばっちり待機しているわ」
「わかりました」
二人でなにかを打ち合わせ、雅貴さんはわたしの肩をポンッと軽く叩いた。
「行こう。少し早いが、まずは昼食だ」
「あ、はい。……でも、あまり食欲がないんですが」
「緊張しているのかな。そんなに長い式典ではないが、食事はしておいたほうがいい。食べられるだけでいいから」
「はい、そうします」
わたしが素直に返事をして笑いかけると、雅貴さんも満足げに微笑み返してくれる。それが嬉しいというか、照れるというか、くすぐったい。
「じゃあ、あとでね、愛衣ちゃん。楽しみだわぁ、みんなに張り切ってもらわなくちゃっ」
意気揚々と広いエントランスホールを歩いていく貴和子さんを見送ってから、雅貴さんに目を向けた。
「あの、雅貴さん? 張り切ってもらうみんな、って……」
「愛衣の準備係だ。母さんお薦めのメイクアップアーティストやヘアデザイナー、スタイリスト、もろもろを揃えてもらった」
ええっ、なんですかそれ。
いつもお洒落な貴和子さんお薦めなんて、すごい人たちなんじゃないですか!?
「カメラマンも待機させている。今日のためにイタリアから呼び寄せた、新進気鋭のカメラマンらしい。この仕事が上手くいけば結婚式のときも契約することになっているから、張り切って仕事をしてくれるだろう」
イタリアって……さらに、すごいんですけど……
雅貴さん、というか西園寺家の人たちが、そういうすごいことを平気でできる人たちなんだって、わかっているようでわかっていなかったのかもしれない。
これから起こるらしい未知の体験を思い、わたしの緊張はいやでも高まってくる。
西院寺家のシェフ特製ランチは、半分も喉を通らなかった。
今日は朝から雲ひとつない晴天だ。
きっと新成人の晴れ男と晴れ女が、タッグを組んで頑張ったに違いない。
成人式の式典が行われる建物の前庭や駐車場には、新成人たちがたむろしてにぎわっていた。
そんな中、いきなり超高級リムジンが登場したものだから、周囲は一瞬にして静まり返った……ようだった。
なぜハッキリわからないかといえば、その車内に乗っていたのが雅貴さんとわたしだったからだ。
着物やスーツに身を包んだ新成人、その親兄弟らしき人たちが、目を丸くしてわたしたちの乗る車を目で追ってくる。駐車場内なので速度もゆっくりのため、なんだか見世物になった気がして恥ずかしい。
そうだよね。こんなところに、いきなりVIPが乗るような高級外車が現れたら、そりゃあ誰だって見るよね。
わたしは窓から目をそらし、チラリと隣に座る雅貴さんを見る。すぐに目が合ってにこりと微笑まれ、そのカッコよさに思わずドキリとして下を向いてしまった。
すると、膝に置いていた手を横からキュッと握られて、またもやドキッとする。
「どうした? 緊張しているのか?」
「緊張……もしますけど……。なんか、すごく注目を浴びているみたいで……」
「ああ、珍しいことじゃない。気にしなくてもいい」
しますよっ!
そりゃあ、雅貴さんは注目を浴びることなんて慣れているんでしょうけど。
わたしは、ごくごく平凡な女子大生なんです!
そうこうしているうちに、車は会場の入り口に近い通路に停まる。エンジンが止まると同時に、運転手さんとボディガードの男性が先に降り、運転手さんが恭しく後部座席のドアを開けてくれた。
まずは雅貴さんが降りる。着物の裾を気にしつつわたしがお尻をずらして降りる準備をしていると、スーツ姿の男性二人が会館のほうから小走りでやってくるのが見えた。
「西園寺社長、お待ちしておりました」
男性二人のうち、三つ揃えのスーツを着た初老の男性がにこやかに声をかける。わたしに手を差し出そうとしていた雅貴さんの視線が、そちらに向いた。
「おや、お待たせしてしまいましたか? まだ約束の時間まで一分ありますよ」
すっごい笑顔だけど、それは意地悪ではないんですか? 雅貴さん。
焦って相手の男性に目を向ける。男性は取り繕うようにネクタイをグッと締め直し、喉を鳴らした。
「こ、これは失礼しました。いつ社長がいらっしゃるかと楽しみにしておりましたもので。新年会以来ですね」
「ええ。その節は最後までおつきあいできず失礼いたしました」
「とんでもありません。西園寺社長にご出席いただけただけで光栄でしたよ」
年齢だけを考えるなら、二人は親子ほど差があるんじゃないだろうか。なのに、初老の男性のほうが終始低姿勢だ。
……なんだろう、この人どこかで見たことがあるような気がするんだけど。
車から出られずにいるわたしの前に、雅貴さんの手が差し出される。ありがたく彼の手に掴まり車を降りると、どこかから「あっ、愛衣!?」と、素っ頓狂な声が聞こえた。
咄嗟に声のしたほうへ目を向けると、同じ大学の友だち数人が驚いた顔でこっちを指さしている。
そりゃあ、わたしがこんなすごい車から出てきたら驚くよね……。わたしは苦笑いしかできないまま目をそらす。
「こちらが、社長が言っていらした方ですね」
男性がわたしに笑いかけ、確認するように雅貴さんを見る。雅貴さんはゆっくりとうなずいて、わたしの背に手を添えた。
「席のほうは?」
「はい、ホールのボックス席をご用意しております。専用の入り口からお入りください」
「ありがとうございます。市長」
危うく変な声が出そうになった……。なんとか声はこらえたものの、目が真ん丸になってしまう。
どっかで見たことがあるはずだよ!
この男の人、市長だ!!
こんな大層なお出迎えもそうだけど、席ってなに!? ホールのボックス席って!? わたし、普通の座席で式典に参加するんじゃないの? 聞いてないんですけど!
驚きのあまり立ち止まってしまいそうなわたしの背を押し、雅貴さんは会場の中へ足を進める。ボディガードさんが後ろからついてくるんだけど、進行方向にはたくさんの警備員さんが立っていて、誰一人としてわたしたちに近寄ってこられない状態になっていた。
す……すごい……
なんだか重要人物になった気分というか、どっかの国のお姫様みたいな扱いじゃないですか。
……そうとでも思わなきゃ、頭が混乱しておかしくなってしまいそうだ。こんな普通ではない扱いを受けて、緊張しないわけがないじゃない……
ただでさえ着物で歩きづらいのに、なんだか足が震えてきた。雅貴さんが手を添えてくれていなきゃ、きっと転んでしまっている。
ま、まさかこんなことになるなんて……。わたしの感覚では想像もつかなかった世界だ……
中へ入るとロビーも新成人で溢れ返っていた。けれど、わたしたちの前には警備員さんたちがずらっと壁になって立ってくれていて、専用通路のように移動がスムーズだ。
式典の行われるホールは一階だけど、なぜかわたしたちは二階へ案内される。雅貴さんに促されるまま、ふかふかと踏み心地のいい絨毯を踏みしめ階段を上がり始めると、小さく名前を呼ばれた。
見ると〝気づいて!〟とばかりに手を振る大学の友だちの姿が目に入る。
思わず足を止めると、それに気づいた雅貴さんも足を止めた。
「友だちかい?」
「はい、大学の……。あの、ちょっとだけ話をしてきてもいいですか?」
「え!?」
いきなりそんな核心をついてきますか!?
お母さんに雅貴さんへの気持ちを言ったことはなかったけど、娘の恋心なんてとっくにお見とおし、ってやつだろうか。
頬がぽわんと温かくなった気がする。照れているわたしを見てクスッと笑った母は、軽く頭をポンポンと撫でてからそばを離れた。
「坊ちゃんも長いこと待ったしね。今ごろ本人は大喜びだろうけど、愛衣も嬉しそうでよかった。でも……まさか本気だったとはね……」
そんなことを言いながら、母は洗面所を出ていく。
去り際の母の言葉に、なんとなく聞き覚えがあった。
そういえば雅貴さんも昨日、「長年待った」と言っていなかっただろうか? あのときは、それどころじゃなかったし、彼が大袈裟に言っているだけだろうと考えていたのだけど……
まさかとは思うけど、この結婚は生まれたときから決まっていたとか、そういうやつ?
そう思ったら、なんだかいろいろ気になってしまう。
この疑問は、誰に聞いたらわかるだろう。雅貴さん? いや、もしこの結婚が親同士の繋がりから始まっているのなら、父に聞くのがいいのかもしれない。
「雅貴さんのお父さんとも仲が良いし、お父さんなら事情を知ってるはずだよね」
ちょうど今日は家にいるはずだから、あとで聞いてみようかな。
毎年、十二月二十四日か二十五日のどちらか一日、家族でクリスマスとわたしの誕生日を兼ねたお祝いをしているのだ。
今年は二十四日に雅貴さんとの約束があったこともあり、家族でするお祝いは二十五日になった。
これまで父は、お祝いの日の夕食に間に合うよう早めに帰ってきてくれていたが、今年は記念すべき二十歳の誕生日。いつも忙しい父がしっかり休日の申請をして、休みを取ってくれたのである。
『本当にあなたは、愛衣に甘いんだから』
母が苦笑いしながら言う言葉は、我が家のお決まりのセリフと言ってもいい。
これは一人娘の特権とでも言うべきか。
でも、もう二十歳になったんだし、こういうのも卒業しなくちゃダメかな。
そんなことを考えながら、わたしは急いで顔を洗い身支度を整えた。ご飯を食べに行く前に、母から父のいる場所を聞き仏間へ向かう。
近くまで行くと、仏間の襖は開いていた。
「お父さーん」
ちょっとおどけて襖から室内を覗きこみ、わたしは息を呑んだ。
六畳ほどある仏間には、結納品と思しきものが所狭しと並べられている。
積み上がった反物に立派な桐箱、房の付いた紐でくくられた漆塗りの入れ物。そして豪華な水引のついた品物の数々。
でも、わたしが息を呑んだのは、予想を超える結納品にすくんでしまったからだけではない。
結納品の前で正座をする、父の寂しそうな背中を見てしまったからだ……
「愛衣?」
父が振り返る。わたしが来たからなのか、丸まっていた背筋がピンッと伸びた。
「お……お父さん……、あの……」
言葉に詰まる。どうしよう、父は普通にしているつもりなのかもしれないが、漂う雰囲気がしんみりしている。
「どうした? 結納品を見に来たんじゃないのか?」
「う、うん……すごいいっぱいだね……」
「そうだな……」
息と一緒に言葉を吐き、父は結納品へ視線を向ける。そのどこか寂しそうな横顔から、わたしは目をそらした。
とても話し続けられる雰囲気ではない。
わたしは、そっと、仏間の前から離れた。
――その後、事態は思った以上に急速に進んだ。
夢のようなプロポーズに浸ったり、この結婚の事情について父に確認する余裕はなかった。
あれよあれよと結納や食事会が執り行われ、気づけば結婚式の日取りまで決まってしまっていた。
なんと、プロポーズから一ヶ月半後のバレンタインデーである。心の準備をしている暇もない。
そもそも、たった一月半かそこらで、結婚式の準備なんてできるものなのだろうか。
だが……
『大丈夫。ウエディングサロンのスタッフが、すべて取り仕切ってくれる。ラリューガーデンズホテルが誇る精鋭スタッフだから問題ない。愛衣はなにも心配しなくていいんだよ』
と、雅貴さんはそれはそれは麗しい微笑みを浮かべて、わたしに言ったのだ。
けれど、結婚の準備が大変だってことは、ちょっと調べればわかる。
きっと大学のテスト勉強も手につかないくらい忙しくなるに違いない。そう覚悟していたわたしに課せられた〝準備〟は、ウエディングドレスのデザインをリクエストすることと、披露宴に呼びたい相手を選ぶことだけだった。
それ以外の準備は、雅貴さんの手配してくれたサロンスタッフが全部やってくれるというのだ。
そんなこんなで、なんだかよくわからないまま、誕生日から大晦日までの一週間は、まるで一年を早送りしたかと思うくらい目まぐるしく過ぎていったのである。
そして、結婚式の前には、年明け一番の大きな行事になるはずだった成人式も待っている。大学の友だちはもちろんだが、進学などでバラバラになっていた高校の同級生にも会える機会とあって、ちょっと楽しみにしていた。
友人たちには、そのときに結婚について伝えたほうがいいだろうか。いや、成人式は出席するみんなのお祝いの場なのだから、そんな日に伝えて変に気を遣わせることになったら申し訳ない。
だったら、結婚式を挙げたあと、改めて葉書を出したらいいのだろうか。
ハッキリいってわたしは、まだまだこういう世間の常識のようなものに疎い。
悩んだあげく母に相談してみたところ、結婚式のことなら雅貴さんと二人で決めたほうがよいとのことだった。
そこでわたしは、成人式を三日後に控えた夜、仕事帰りに家に寄ってくれた雅貴さんに思い切って相談してみたのである。
「成人式で結婚報告? 友だちに?」
そう問い返しながら、雅貴さんは手土産に持ってきてくれたケーキの箱をわたしの部屋の机の上に置く。家庭教師をしてくれていたときみたいに、机の横に彼用の椅子を引き寄せて座り、ケーキの箱を開け始めた。
「いいんじゃないか? 人数の関係で、式に呼べない友だちもいるだろうし」
「んー、そうなんですよね……あ、他にも報告したい人がいる場合は、葉書とかを出せばいいですか?」
「結婚報告の葉書は大量に用意するし、送りたい相手を教えてもらえれば、すべてこちらで手配するから」
「そう……ですか?」
わざわざ書き出さなくても、名簿などで該当者に丸を付けて出してくれればいいと言われる。ずいぶんと楽なんだな……。けど、本来は自分でする作業なんだよね。
「ほら、今日のケーキは力作だぞ。新年の和ケーキを愛衣がすごく褒めていたと言ったら、うちの若いパティシエが泣くほど喜んで、張り切って会社まで届けてくれたんだ」
そう言って、目の前に出された色とりどりのかわいいプチフール。
宝石みたいに鮮やかなケーキが、仕切りの付いたケースにひとつひとつ並べられている。
しかもこのケースがプラスチックなどではなく、大理石ふうの模様を入れた乳白色のセラミックだったりするから、高級感が半端ない。
見た目だけで心躍らずにはいられないはずなのに、考え事をしていたせいで反応が遅れてしまった。
すると、それをおかしく思ったのか、雅貴さんに顔を覗きこまれる。
「どうした? 愛衣がケーキを見て笑わないなんて、どこか具合でも悪いのか?」
お菓子で釣られる子どもですか、わたしは。
「いえ、なんだか、申し訳ないような気がして」
「申し訳ない? なにがだ?」
「だって、そういう葉書を出したりするのも、本来なら自分でやることでしょう? それなのに、全部お任せしちゃって……」
雅貴さんは、プチフールのケースを机に置き、両手でわたしの頭をゆっくりと撫でる。
なんだか頭部全体を触られているようでおかしな気分。ほわっと、頬が温かくなる。
「愛衣は、遠慮深いな。そんなことは気にしなくていいんだよ。俺たちに代わって準備をしてくれるのが、サロンスタッフの仕事なんだ。彼らは報酬と引き換えに仕事を行っている。もし愛衣が、『申し訳ないから自分でやる』なんて言ったら、そのぶん彼らの報酬が減ってしまうだろう?」
どうだ? と、優しく諭すみたいな雅貴さんの言葉。
「……減るのは……、嬉しくないですよね」
「そうだな。だから、黙って彼らに任せておこう。愛衣は当日の衣装合わせや大学の後期試験の準備で忙しいだろう」
「はい……」
なんとなく言いくるめられてしまった感はあるものの、雅貴さんの言うことにもうなずける。
それに、こうしていろいろ手配してくれているのは、雅貴さんの優しさだと思うから。
わたしは気持ちを切り替えて、綺麗に並んだプチフールの中からリンゴのタルトをつまみ上げ、雅貴さんに笑いかけた。
「ありがとうございます。なんだか自分の結婚式なのに、今も全然実感が湧いてこなくて……親しい友だちで結婚した人なんかまだいないし」
ぱくりとひと口かじると、雅貴さんの手が再びわたしの頭を撫でる。
「出席してくれた友だちが、愛衣を見てすごく綺麗でよかった、自分もこんな結婚式がしたい、そう言ってくれる式にできたらいいな」
「はい。ちょっと照れちゃいますけどね」
照れ笑いを浮かべながら、わたしは美味しいプチフールをパクパクと食べ進める。
「そういえば、披露宴に呼ぶ人は決まったのか?」
「あー、それが大学のゼミでお世話になっている先生や仲良くしている人も多いから、男女ちょうどよく呼ぼうと思うと、それだけで友人席がいっぱいになりそうで……。ずっと悩んでたけど、高校の友だちは諦めようと思って」
プチフールに心を奪われつつ口にすると、頭を撫でる雅貴さんの手がピタッと止まった。
「……式に呼ぶのは、女の子の友だちだけにしてほしい」
「え?」
意外なことを言われてキョトンとするわたしに、雅貴さんは話を続ける。
「お世話になっている先生や男の友人には、後日挨拶の葉書を出せばいい。式に呼ばなくても失礼になるなんてことはないから、心配しなくて大丈夫だよ」
「あの……でも」
「それなら高校のときの、親しかった女の子たちを呼べるだろう?」
「どうして……式に招待するのは女の子だけなんですか?」
「ああ、実はこちらの招待客が、会社や取引関係の人間が多くて地味なんだよ。愛衣の友人席に若い女の子がいっぱいいたほうが、会場が華やかで明るい雰囲気になっていいんじゃないかと思ったんだ」
理由を知って、ぷっと噴き出してしまった。確かに、会社関係の人が多ければ堅苦しい雰囲気になるだろう。
「それに……」
明るい口調がしっとりとしたものに変わる。雅貴さんの指先がわたしの頬を撫で、色っぽい眼差しが目の前に近づいた。
「男なんか招待して、花嫁を奪われたら大変だろう?」
チュッと、彼の唇がおでこに触れる。唇が離れた瞬間、ボッと顔が熱くなった。
「な?」
なんの確認? なんの確認ですかっ!? 顔どころか耳まで熱くて、顔なんかきっと真っ赤だけど下を向くことも目をそらすこともできない。
指先が頬に触れているから、ではなく、雅貴さんの視線が脅迫的なほど熱っぽくて、そらしちゃいけないっていう気にさせられる。
恥ずかしいからそらしたい……でも、この雅貴さんを見ないのはもったいなさすぎる!!
暴力です! これは色気の暴力ですよ!!
「わ……ゎっ、わかりましたぁっ。じゃあ、出席してくれる友だちには、成人式並みに着飾ってきてくれってお願いしておきますっ!」
ドキドキしすぎて心臓が口から飛び出しそうだ。そのせいか少々つっかえつつ、わたしはなんとか言葉を返す。大人の色気というものに白旗状態のわたしを知ってか知らずか、雅貴さんはにっこりと微笑んだ。
「それは華やかでいいな。悪い大人が近寄っていかないよう、監視役を立てておかなくてはならないかもしれない」
それは助かるかも。女友だちのことを考えれば嬉しい配慮だと思う。
雅貴さんの提案に、わたしは笑顔でうなずいた。友だちのためにも、こういうところはしっかり頼んでおかなくちゃ!
そうしてわたしは、再びプチフールのケースに手を伸ばす。
「あっ、レアチーズが二種類ありますよ。雅貴さん好きでしょ? どっちにします?」
顔を向けると、雅貴さんがなにかを考えこむみたいに眉を寄せている。
……どっちにしようか悩んでいるのかな。雅貴さん、レアチーズケーキ好きだもんね。
両方雅貴さんが食べてもいいのに。
やがて、彼はわたしを見てにこりと微笑んだ。
「成人式の日、式典が終わったら二人きりでお祝いをしないか。せっかくの晴れの日だし、その日は俺にエスコートさせてくれ」
二人きりでお祝いという言葉にときめいたわたしは、二つ返事で了承し、レアチーズケーキを二つとも雅貴さんに渡したのだった。
成人式当日。
わたしは母の行きつけの美容室に、着付けと一緒にメイクとヘアセットの予約を入れていた。
しかし雅貴さんの勧めもあり、それらを西園寺家でしてもらうことになった。
わざわざ自宅まで迎えに来てくれた雅貴さんに連れられ、わたしは久しぶりに西園寺家を訪れる。
「いらっしゃーい、愛衣ちゃんっ。もぉー、相変わらずかわいいわねぇ~」
何度来ても恐縮してしまうくらい立派な西園寺家の玄関でわたしを迎えてくれたのは、雅貴さんのお母さんだった。
今までは「貴和子さん」と呼んでいたのだけど、これからは「お義母さん」と呼んだほうがいいのかな。
「こ、こんにちは、貴和子さ……ぁ、お、お義母さん。あの、今日はお世話になります」
少々照れ臭く感じつつ頭を下げると、いきなり貴和子さんにぎゅむっと抱きしめられた。
「かわいいわぁ~。でも、なんだか硬いわねぇ。呼びづらかったら今までどおりでいいのよ? 愛衣ちゃんに緊張されると私も寂しいわ」
「はっ、はい、すみませ……」
二十歳で雅貴さんを産んだ貴和子さんは、すごく綺麗な人だ。アラフィフとは思えないほどスタイルがよく、白くて張りのあるお肌をしていらっしゃる。
……ちょっと、羨ましいくらいだ。きっと、こういう人のことを世間では、美魔女というに違いない。
抱きしめられたまま、ボリュームのある胸の谷間に顔を押しつけられていたわたしは、溜息とともにそこから引き剥がされた。
「お母さん、駄目ですよ。愛衣は俺のです」
すぐ後ろにいた雅貴さんに肩を抱き寄せられる。貴和子さんの前でくっついていることにも照れるが、彼のセリフにも照れてしまった。
「いいじゃない。私の娘よ?」
「俺の、妻です。愛衣はお母さんのオモチャじゃないんですからね」
「もー、ケチねぇ」
「いまだかつて、従業員にだってケチと言われた覚えはありませんよ」
二人のやり取りに、笑いたいのをグッとこらえる。だって、雅貴さんがすっごく真面目な顔で言い返しているのがおかしいんだもん。
「式典は午後一時半からなので、軽く昼食をとってから始めましょう。お母さん、お願いしていた件は?」
「大丈夫よ。みんなばっちり待機しているわ」
「わかりました」
二人でなにかを打ち合わせ、雅貴さんはわたしの肩をポンッと軽く叩いた。
「行こう。少し早いが、まずは昼食だ」
「あ、はい。……でも、あまり食欲がないんですが」
「緊張しているのかな。そんなに長い式典ではないが、食事はしておいたほうがいい。食べられるだけでいいから」
「はい、そうします」
わたしが素直に返事をして笑いかけると、雅貴さんも満足げに微笑み返してくれる。それが嬉しいというか、照れるというか、くすぐったい。
「じゃあ、あとでね、愛衣ちゃん。楽しみだわぁ、みんなに張り切ってもらわなくちゃっ」
意気揚々と広いエントランスホールを歩いていく貴和子さんを見送ってから、雅貴さんに目を向けた。
「あの、雅貴さん? 張り切ってもらうみんな、って……」
「愛衣の準備係だ。母さんお薦めのメイクアップアーティストやヘアデザイナー、スタイリスト、もろもろを揃えてもらった」
ええっ、なんですかそれ。
いつもお洒落な貴和子さんお薦めなんて、すごい人たちなんじゃないですか!?
「カメラマンも待機させている。今日のためにイタリアから呼び寄せた、新進気鋭のカメラマンらしい。この仕事が上手くいけば結婚式のときも契約することになっているから、張り切って仕事をしてくれるだろう」
イタリアって……さらに、すごいんですけど……
雅貴さん、というか西園寺家の人たちが、そういうすごいことを平気でできる人たちなんだって、わかっているようでわかっていなかったのかもしれない。
これから起こるらしい未知の体験を思い、わたしの緊張はいやでも高まってくる。
西院寺家のシェフ特製ランチは、半分も喉を通らなかった。
今日は朝から雲ひとつない晴天だ。
きっと新成人の晴れ男と晴れ女が、タッグを組んで頑張ったに違いない。
成人式の式典が行われる建物の前庭や駐車場には、新成人たちがたむろしてにぎわっていた。
そんな中、いきなり超高級リムジンが登場したものだから、周囲は一瞬にして静まり返った……ようだった。
なぜハッキリわからないかといえば、その車内に乗っていたのが雅貴さんとわたしだったからだ。
着物やスーツに身を包んだ新成人、その親兄弟らしき人たちが、目を丸くしてわたしたちの乗る車を目で追ってくる。駐車場内なので速度もゆっくりのため、なんだか見世物になった気がして恥ずかしい。
そうだよね。こんなところに、いきなりVIPが乗るような高級外車が現れたら、そりゃあ誰だって見るよね。
わたしは窓から目をそらし、チラリと隣に座る雅貴さんを見る。すぐに目が合ってにこりと微笑まれ、そのカッコよさに思わずドキリとして下を向いてしまった。
すると、膝に置いていた手を横からキュッと握られて、またもやドキッとする。
「どうした? 緊張しているのか?」
「緊張……もしますけど……。なんか、すごく注目を浴びているみたいで……」
「ああ、珍しいことじゃない。気にしなくてもいい」
しますよっ!
そりゃあ、雅貴さんは注目を浴びることなんて慣れているんでしょうけど。
わたしは、ごくごく平凡な女子大生なんです!
そうこうしているうちに、車は会場の入り口に近い通路に停まる。エンジンが止まると同時に、運転手さんとボディガードの男性が先に降り、運転手さんが恭しく後部座席のドアを開けてくれた。
まずは雅貴さんが降りる。着物の裾を気にしつつわたしがお尻をずらして降りる準備をしていると、スーツ姿の男性二人が会館のほうから小走りでやってくるのが見えた。
「西園寺社長、お待ちしておりました」
男性二人のうち、三つ揃えのスーツを着た初老の男性がにこやかに声をかける。わたしに手を差し出そうとしていた雅貴さんの視線が、そちらに向いた。
「おや、お待たせしてしまいましたか? まだ約束の時間まで一分ありますよ」
すっごい笑顔だけど、それは意地悪ではないんですか? 雅貴さん。
焦って相手の男性に目を向ける。男性は取り繕うようにネクタイをグッと締め直し、喉を鳴らした。
「こ、これは失礼しました。いつ社長がいらっしゃるかと楽しみにしておりましたもので。新年会以来ですね」
「ええ。その節は最後までおつきあいできず失礼いたしました」
「とんでもありません。西園寺社長にご出席いただけただけで光栄でしたよ」
年齢だけを考えるなら、二人は親子ほど差があるんじゃないだろうか。なのに、初老の男性のほうが終始低姿勢だ。
……なんだろう、この人どこかで見たことがあるような気がするんだけど。
車から出られずにいるわたしの前に、雅貴さんの手が差し出される。ありがたく彼の手に掴まり車を降りると、どこかから「あっ、愛衣!?」と、素っ頓狂な声が聞こえた。
咄嗟に声のしたほうへ目を向けると、同じ大学の友だち数人が驚いた顔でこっちを指さしている。
そりゃあ、わたしがこんなすごい車から出てきたら驚くよね……。わたしは苦笑いしかできないまま目をそらす。
「こちらが、社長が言っていらした方ですね」
男性がわたしに笑いかけ、確認するように雅貴さんを見る。雅貴さんはゆっくりとうなずいて、わたしの背に手を添えた。
「席のほうは?」
「はい、ホールのボックス席をご用意しております。専用の入り口からお入りください」
「ありがとうございます。市長」
危うく変な声が出そうになった……。なんとか声はこらえたものの、目が真ん丸になってしまう。
どっかで見たことがあるはずだよ!
この男の人、市長だ!!
こんな大層なお出迎えもそうだけど、席ってなに!? ホールのボックス席って!? わたし、普通の座席で式典に参加するんじゃないの? 聞いてないんですけど!
驚きのあまり立ち止まってしまいそうなわたしの背を押し、雅貴さんは会場の中へ足を進める。ボディガードさんが後ろからついてくるんだけど、進行方向にはたくさんの警備員さんが立っていて、誰一人としてわたしたちに近寄ってこられない状態になっていた。
す……すごい……
なんだか重要人物になった気分というか、どっかの国のお姫様みたいな扱いじゃないですか。
……そうとでも思わなきゃ、頭が混乱しておかしくなってしまいそうだ。こんな普通ではない扱いを受けて、緊張しないわけがないじゃない……
ただでさえ着物で歩きづらいのに、なんだか足が震えてきた。雅貴さんが手を添えてくれていなきゃ、きっと転んでしまっている。
ま、まさかこんなことになるなんて……。わたしの感覚では想像もつかなかった世界だ……
中へ入るとロビーも新成人で溢れ返っていた。けれど、わたしたちの前には警備員さんたちがずらっと壁になって立ってくれていて、専用通路のように移動がスムーズだ。
式典の行われるホールは一階だけど、なぜかわたしたちは二階へ案内される。雅貴さんに促されるまま、ふかふかと踏み心地のいい絨毯を踏みしめ階段を上がり始めると、小さく名前を呼ばれた。
見ると〝気づいて!〟とばかりに手を振る大学の友だちの姿が目に入る。
思わず足を止めると、それに気づいた雅貴さんも足を止めた。
「友だちかい?」
「はい、大学の……。あの、ちょっとだけ話をしてきてもいいですか?」
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