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5.――“heartache” [1]
しおりを挟む5.――“heartache”
「――もうそのくらいにしておけ、サトシ」
そんな声が聞こえたと同時……渡辺くんがハッと我に返ったのが、僕を締め上げている両手から伝わってきた。
フと、その力が緩んで。思わず咳き込みそうになるくらい大量の空気が気管を通り抜けていくのが分かって。
咄嗟に安堵の息を吐いた僕は、そこでようやく、すぐ目の前へと視線を移した。
僕の襟首を掴んでいる彼の両手の上に、別の大きな片手が載せられている。
――それは葉山だった。
「これ以上続けたら……コイツ死ぬぜ?」
言いながら葉山の手が、僕の襟首を掴んだまま硬直したように動かない渡辺くんの両手を、ソッと…でも半分無理矢理のように、外した。
外されたその両手を、渡辺くんは呆然としたように見下ろして。
おもむろに僕の方へと、ゆっくり首を廻らせる。――まるで軋む音が聞こえてきそうなくらい、緩慢な動きで。
見下ろした彼の視線と見上げた僕の視線とが、そのままごく自然の成り行きで、ぶつかり合った。
その途端、彼は今にも泣き出しそうな表情を浮かべたのだ。
――その表情は正に、本当に傷付いた時に人間が見せる表情である、と……何故かそれを、アタマの向こう側でハッキリと、僕は、感じた。
でも、それも一瞬のこと。
次の瞬間には、もう彼は、まるで表情を隠すように顔を伏せて俯いていて。
「ごめん……」
聞き取れるギリギリの小さな声で、それを呟くように告げるなり。
やおら彼は、その場から踵を返した。
踵を返したそのまま、駆け出して声楽室から飛び出してゆく。
その彼の背中を見送っていても、なお……まだ半分、何が起こったのかが分からなくて、自分がどうしたらいいのかが分からなくて……僕はピクリとも動けず、ただただ目を瞠って呆然とその場に座り続けていることしか、出来ずにいた。
「――今のは君の失言だよ、竹内くん」
ふいに僕の意識を現実に引き戻したのは……そんな山崎くんのセリフ、だった。
彼がまだこの場に残っていたことが、少し意外だった。
山崎くんこそ、真っ先に渡辺くんを追いかけていきそうだと思ったのに。――それをアタマのスミで、ボンヤリと思う。
彼は告げた。そんな呆然としたままの僕に向かって。
「知らないことは罪にならない。けれど、知らないから何を言ってもいい、ってワケなんて、尚のこと絶対に、ある筈なんて無いんだ」
その言葉は……普段の山崎くんらしくなく、ものすごく淡々と紡ぎ出された。
――だからこそ彼が、その言葉の裏に抑えきれない“本心”をありありと覗かせていることが、解った。
「殴られた頬より殴った手の方が痛い、ってことも、あるんだよ世の中には」
言葉でもって、明らかに僕を糾弾していた。――なぜ渡辺くんをあんなにも傷つけたのか、と……。
「聡が言ったことの意味、よーく考えてみるんだな」
吐き捨てるように言って、そこで彼も踵を返す。
ようやく彼も、渡辺くんの後を追うようにして開きっぱなしになっていた扉から身を翻すようにして出ていった。
『“生きる”ってことの意味の何を、君は知ってるっていうんだよ……!!』
『生きたくとも生きられなかった人間の気持ちを……!! そんな人間が必死で生きていた意味を……!! その全てを、君は知っているとでも言うのかよ……!!?』
まだ耳から離れない。――頭の中にこだまする、悲痛な声。
『よーく考えてみるんだな』と言った山崎くんの声も、ぐるぐると耳の奥で回り続ける。
僕は、何を考えなくてはいけないのだろう。
僕の何が、彼を傷つけてしまったと云うのだろう。
「――知りたいか……?」
まるで堂々巡りにしかならない僕の思考を読んだかのように、その場に一人だけ残っていた葉山が、ふいに言った。まるで呟くような声で。
つっ…と僕は振り返り、傍らに立つ葉山の顔を見上げる。
葉山は、僕を見下ろしていた。
「知りたいなら教えてやるよ」
見下ろした……そこには、今まで見たことのない、形容しがたい表情が在った。
葉山の言葉に返事を返すのも忘れるくらい、僕の視線はその表情に引き寄せられた。
これは何だろう? 僕に哀れみを向けているのでも無く、蔑んでいるのとも違う……でも、悲しんでいるというワケでも無くて。
――ああ、きっと痛いんだ。痛みを堪えているカオなんだ。
それにやっと思い当たったと同時。
葉山が口を開く。
「おまえは“機械”なんかじゃねえ。…おまえは真っ当な“人間”なんだ、トシヒコ」
「え……?」
思いもかけぬ言葉と…そして不意打ちのように呼ばれた自分の名前にビックリして、そのひとことしか返せずに僕は固まった。
それに、家族以外の誰かから名前を呼ばれることなど初めてのことだったから。こういう時は、どういう反応を返したらいいのかが分からなくて。
「人間である以上、人間として生きてる以上、感情があって何が悪いんだよ? 感情を出しちゃならねえなんて、誰が決めた?」
そうやって僕が硬直してる隙に、たたみかけるように葉山は続ける。淡々と。そして静かに。――まるで普段の葉山らしくなく。
でも何故か、とてもとても……ストレートにストンと胸の中に落ちて響く言葉。――まるで渡辺くんの唄う歌のように。
「好きなように、泣いて、笑って、怒って、そうして生きてりゃいいじゃねーかよ。何をガマンしてんだテメエは」
「でも…だって僕には、ピアノしか無くて……」
「『ピアノしか無い』だと? …いいじゃねえか、それのドコが悪いんだよ? “それしか無い”、なんて言えるモンがあるってことは、生きてく上で幸せなことじゃねえのかよ?」
「――『幸せなこと』……?」
「ああ、そうだよ。“それしか無い”って言い切っちまえるくらいに打ち込めるモンがある人間なんて、すげえ幸せじゃねーか。その“それしか無い”っていう“たった一つ”を見つけることさえ出来ないまま生きてる人間が、この世の中にどんだけいると思ってんだよ」
「『どんだけ』も何も、そんなの……」
「結局のとこ、どう捉えるかはテメエ次第なんだ、ってことだよ言ってんのは。――“幸福”と取るか、“不幸”と取るか、“束縛”と取るか……そんなん、人によって違ってるに決まってるんだ。だからこそ、その違いが“人間”にしか持ち得ない“個性”ってゆーモンなんだよ」
「『個性』……『“人間”にしか持ち得ない』もの……?」
「だから、おまえは確実に“人間”なんだよ、トシヒコ。自分に『ピアノしか無い』ってことを嘆いてるのだって、それはそれで、立派にオマエの“個性”ってヤツなんだ」
「…………」
丸く瞠った目で葉山を見上げたまま硬直し、もはや僕は、何の言葉の一つも発せられなくなっていた。
出そうとしかけた言葉のことごとくを、全て淡々と遮られてしまったから。
――そして、その言の反論に値する言葉の何一つさえも、僕は全く持ち合わせていなかったから。
「ホント馬鹿だよな、オマエは……」
葉山が続ける。
それを痛そうに苦しそうに…でも、どことなく温かくも感じさせる笑みを浮かべて。
「所詮、“人間”が“機械”なんかになれるハズ、ねーじゃねーかよ……!」
その言葉は、ストレートにストンと僕の胸の中に落ちてきて……どうしてか抗えない響きに満ち満ちていて―――。
いつの間にか、告げるべき言葉のみならず声すらも、失っていた。
目は葉山を見つめるだけの機能しか持たず、口はただ呼吸するためだけの道具になった。
「せっかく“人間”として、こうやって生きてんのに……『人間になれない』なんて救いようのねーこと、言ってんじゃねえよ馬鹿野郎……!」
胸に…殴られたような重い衝撃と痛みを感じた。
一瞬だけ、呼吸まで止まった。
見上げた葉山の顔が、何故だかすごく泣きそうな表情に見えた。
――その表情は……先刻の渡辺くんが一瞬だけ見せた表情に、とてもよく似ていると思った。
ああ、これだったんだ、と……ふいに解った。
理解したと同時、ものすごく申し訳ない気持ちで一杯になった。
何故だか分からないけど。――葉山に…そして渡辺くんに、僕の所為でこんな表情をさせるのは嫌だと、ふいに思えた。
僕の方が痛くなる。胸が苦しくなる。泣きたくなる。
いつだって普段通りの笑顔で居て欲しい。
…願う。それをとても。心の底から。
――ねえ、そうしたら僕は、一体どうすればいいの……?
「アイツは…サトシは、な。生きてる人間に“生きる”ってことを否定されんのが何よりも嫌いなんだよ。――『死ぬべきじゃない人間が死ななくちゃいけない時もあるのに、まだ生きてられる人間が自分から死ぬなんて、そんなのは傲慢だ』って。…だから腹が立ったんだろ、オマエにも。オマエが何を思ってようが、ハタから見たら立派に“人間”として“生きて”いるクセして。なのに『生きてたって何の意味も無い』まで、言われちゃーな」
おもむろに葉山が告げた言葉。
それは僕に、少なからずの衝撃を与える言葉だった。
「知ってたか…? ――サトシは小学生の時、交通事故で大事な妹を亡くしてんだってさ」
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