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5.――“heartache” [2]
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一つ上の階へと階段を上っていく。一段一段、踏みしめるようにして。
重い両足が、まるで枷のように僕の気持ちに纏わり付く。
それでも僕は、前に進むしかなかった。――そうしなくちゃいけないのだ。
なぜなら、“無知”であるという“罪”を、僕は、犯してしまったのだから―――。
『サトシは小学生の時、交通事故で大事な妹を亡くしてんだってさ』
葉山が言った、その事実に。
即座にガツンと脳天を殴られたような…そんな衝撃を、僕は、覚えた。
あまりの衝撃に、吸い込んだ息がノドで詰まる。目を開けているのに何も見えなくなる。
それくらい……同時に、自分が如何に取り返しの付かないことを仕出かしてしまったのかを、理解した。
――親しい家族を亡くす、ということに対する悲しみを……幸いなことにまだ僕には、推し量るくらいしか、理解することは出来ないけれど。
それでも解る。
自分が言ってしまったことは、事故で亡くなったという彼の妹さんに対する…そして本意でない死を迎え受け入れた全ての死者に対する冒瀆だった。
生きてここに在る者の、それは驕りでしかなかった。
葉山に諭されて……ようやく今さらになって、そのことに気付くことが出来た。
『知らないことは罪にならない。けれど、知らないから何を言ってもいい、ってワケなんて、尚のこと絶対に、ある筈なんて無いんだ』
山崎くんの言う通りだ。――“知らない”と云うことは、たとえ罪にはならなくとも、確実に何かを傷付ける。
僕は何も知らなかった。
渡辺くんの事情だけじゃない、音楽についても、自分についても、“生きる”ということの何もかにもを。
知ろうともしてなかった。これまでずっと、知ることの全てを拒否してきた。
――それは“罪”だ。
だから渡辺くんを傷付けた。彼が秘めた心の奥深くに負った傷を抉り出してしまった。
居た堪れない。逃げ出したくなるくらいに。
彼に詫びたい。心の底から謝り倒したい。
――謝ったところで、僕の犯してしまった“罪”は、拭い去りようもない……それは重々、理解しているけれど。
皆が…葉山が、渡辺くんが、山崎くんが、僕の所為で傷付き心を痛めるのが、どうしても嫌だと思ったのだ。
僕の仕出かしたことをチャラにしてくれとは言わない。…そんなこと絶対に言えない。
でも皆には、普段通りの笑顔で居て欲しい。
そのためなら、僕は何だってする。何を失ったって構わない。――何だってしてあげたい。
それが“償い”となってくれるのならば。
『――僕は一体、どうすればいいの……?』
誰かに対してこんな風に思えることなんて、初めてで。
思わず、誰に問うでも無く呟きが洩れた。
苦しさと、痛みと、申し訳なさと、戸惑いと、居た堪れなさと……様々な想いが僕の身体中をグルグルと廻っては、気持ちばかり逸って落ち着かない。
何かしなくちゃいけないと思うあまりに、逆に何をしたらいいのかが思い浮かばない。
涙が出そうになる。――こんな何も出来ない、あまりにも卑小に過ぎる自分自身が悔しくて。
仕出かした事の大きさに挫けそうになる自分が、本当に情けなくて情けなくて……、
唇を噛み締めた。
そんな時、ふいに葉山が言ったのだ。
『今、アイツなら…サトシなら多分、あそこだと思うぜ?』
だから僕は今、階段を上っている。――渡辺くんのもとへ向かうために。
葉山に『来るか?』と問われ、即答で僕は頷いた。
そしてヤツの背中を追うようにして、今まで居た声楽室を出、長い廊下を歩き、階段を上がった。
俯きがちのまま、声楽室のあるフロアから一階分、階段を上がって。
やはり俯いた顔を上げられないままで、再び長い廊下を歩く。
すると……、
――廊下の先から“音楽”が聞こえた。
微かに響いてくる言葉。そしてメロディ。――歌声……?
一体、どこから聞こえてくるんだろう。
フと顔を上げると、目の前には葉山の背中。
その背中越しに見えた真っ直ぐに伸びる長い廊下の行く先に、誰かの姿が、視界に映えた。
「――山崎くん……」
彼は、ある教室のドアの前で立ち尽くすようにして、そこに居た。
僕の前を歩く葉山は、何も言わず黙々と、そんな彼のもとへと歩み寄っていく。真っ直ぐに。まるで目的地は彼だとでも言わんばかりに迷い無く。
山崎くんのもとに近付いていくにつれ……廊下に響く“音楽”は、より大きくなって、僕の耳を打ち、そして響いた。
(ああ、これは……)
歩いているうちに理解する。――これは彼の声だ。
僕も聴いたことのある曲。借りたCDの中に入っていた曲。
『僕が僕であるために』。
つい今さっき聴いたばかりの……渡辺くんの“唄”が、聴こえる―――。
いつの間にか僕らは、立ち尽くす山崎くんの目の前に居た。
彼の目の前には、隙間の開いた扉。――そこは器楽準備室だった。
近付いてきた僕をニコリともせずにチラッと見やっただけで山崎くんは、そのままフイと顔を背けた。
そして指だけで合図する。“こっちへ来い”って言うみたいに。
傍らに居る葉山に肩を押され、おずおずと僕が彼の指に招かれた方に近寄っていくと……その指は、扉の向こうを指し示した。
声楽室と同じくらい立て付けの悪そうな扉の隙間から、中を覗くと。
楽器がゴチャッと置かれているだけの誰も居ない部屋の中に、――ただ一人。
部屋の一番スミで、窓に向かって立つ渡辺くんの背中が見えた。
まるで窓の向こうの空に向かって叫んでいるかのように……彼は唄っていた。たった一人で。
歌い続けていた。何度も何度も同じフレーズを繰り返しては。まるでエンドレスで流れ続ける壊れたレコードのように。
唄いながら立つ彼の、両肩が揺れている。
そこで改めて、僕は気付いた。
――そう、唄と共に聴こえてくるメロディ。まるで電子ピアノのような音。
窓際に置かれた何かの前に立ち、彼は唄っている。機械的なピアノの音を奏でながら。
彼の唄に合わせて奏でられていたメロディは、彼自身が唄いながら奏でていたものだったのだ、と……そのことに、遅まきながら正に今、僕は気付いたのだ。
そうやって彼の指から紡がれた“音”を耳にして……次第に僕の目が瞠られていく。
それまで彼の声ばかりに気を取られていたから、その後ろの音になど気にも留めておらず、だから分からなかったけど。
彼の指が奏でる音に気付いて、その音色に耳を止め、聴き入って……それで改めて驚いたのだ。
渡辺くんもピアノを弾ける人だったんだ、という驚きもモチロンあったが。――これは、そんなもんじゃない。そうじゃなくて……!
「――どうだよ、サトシのピアノの腕前は?」
ふいに耳元に囁かれた声に、ビクッとして振り返る。
言ったのは葉山だった。思いのほか近くから僕を覗き込むようにして、真剣な目で、こちらを見つめていた。
「アイツも、長いピアノ歴は伊達じゃねえからな。そこらへんの有象無象とは比べ物になんねえだろ」
――その通りだった。
籠もったような電気的な音では、ピアノのテクニックの機微を披露するには不充分だろうハズなのに。
それでも…この曲を“弾き慣れている”ということもあるのだろうが、彼のピアノは充分に素晴らしかった。それが充分に理解できた。
本当に上手だ。
ピアノを弾ける、というだけの人間ならゴロゴロそこらへんに転がっているだろうけど、このくらいのレベルになると、きっと探すのも難しいに違いない。
彼は間違いなく、“ピアノを弾く”というための熟達したスキルを有している人間だった。
こんな電子ピアノじゃなくて普通のピアノを弾かせてみれば、彼の技術の高さが良く解るハズだ。
「本当は…そもそもサトシが居れば、ウチのバンドにキーボード要員なんて必要ねーんだよ」
そうだろうね。彼の腕前なら尤もだ。――そう頷き返しつつ、葉山の言葉に小さく胸に痛みを覚えた。
ならば、彼らの中に僕が居る必要は無くなる。そもそも、最初からそんな必要など無かったのだ。
そのことが何故か胸に痛みを与えた。とてもとても微かだけど…でも大きく強く。
「けど、な……サトシの武器は、あくまでも唄だ。ピアノじゃない」
しかしヤツは更に続ける。僕を真剣に見つめたまま。
「そりゃーサトシのピアノだって否定はしねえよ。このまま続けてりゃー、ある程度の高みにまで上り詰めることだって出来るだろうさ。――でも、ヤツの唄には、それ以上の素質があるんだよ。人間には“分”ってモンが在る。ヤツは、ピアノじゃない、唄うことでトップにまで伸し上がるよう、そう生まれついた人間なんだ」
そして耳元で力強く、それを、囁く。
「――アイツは、唄で天下を取る人間なんだ」
そのキッパリとした真っ直ぐな言葉に、僕は思わず絶句し、面食らったように葉山の顔を見つめ返した。
二の句が継げなかった。
ただただ、こちらを見つめる真剣な眼差しを見返すことしか、出来ずにいた。
あまりにも壮大な未来を見据えて語る、その葉山の眼差しには……なのに一片の曇りも濁りも無く、ただひたすらに透明で真っ直ぐで。
それが、光を湛えて僕の瞳を射る。
その光に射抜かれて。――スンナリ納得してしまう僕が居る。
彼の唄を実際に耳にしたからこそ素直に納得してしまえる、それは“事実”だと、僕には思えたのだ。
彼…渡辺くんならば、近い将来いつの日か必ず、その“唄”で天下を取る。――“№1”になれる、必ず。
日本中が…いや世界中にまで、彼の声は広く遍く響き渡る。
信じられる。――そう、確信めいた予感。
「そして、ピアノでそれが出来るのは……、――オマエだ、トシヒコ」
「――――!!」
それは、まるで不意打ちだった。
渡辺くんを中心に思い描いていた“未来予想図”の中に突然、全く想像もつかないような“異物”を差し挟まれて。
自分が今なにを言われたのかが咄嗟に理解できず、面食らったままキョトンと、それを言った葉山の顔を改めて見上げてしまった。
そんな僕を、やっぱり相変わらずの真剣な瞳で真っ直ぐに見つめ返しながら。
葉山は、続ける。
「だからオマエが必要なんだ、トシヒコ」
「え……?」
――今、『必要』と言った……? 僕を、葉山は『必要』としてくれるって……?
渡辺くんが居れば僕は『必要ない』と、その口で今しがた言ったばかりなのに。
一体、何故……?
「“上”に行くためには、多かれ少なかれ、“才能”ってモンも必要になってくるんだよ。それこそ、天下を取れるくらいの“分”を持ってるヤツが。それでこそ俺たちは、“無敵”にもなれる」
見上げる視線に疑問符を浮かべるだけの僕を、至近距離から見つめてそれを言う葉山の横から。
ふいにヤツを遮るように差し挟まれる、――その、言葉……。
「――あとは君が決めることだ」
「え……?」
振り返ると、やはりニコリともしない表情のままで、先刻から変わらぬ姿勢で立ち尽くしていたのだろう山崎くんが、そこに、居た。
そこに居て今は、コチラを向き、僕を真っ直ぐに見つめていた。
真剣な瞳。――相変わらず僕を探る…というよりは試し値踏みしているかのような、視線。
「元を質せば、そもそも俺たちは聡の唄に惚れ込んでるんだ。そのために、だから俺たちはバンドだって作った。俺もケンも目的は同じなんだよ。聡を、全ての人々から愛される歌い手にすること。聡には気持ちよく、そして思う存分、心ゆくまで、唄って欲しい。それでアイツが伸びてゆけるなら。そのためには何だってしてやりたいと思ってる心から。ヤツの唄をメジャーにしたい。世に知らしめてやりたい。それを願ってる。それも全て、アイツが俺たちに“夢”を見せてくれるからだ。そう出来る才能を、アイツが持っているということだからだ」
声の抑揚も無く、表情も変えず、それを淡々と山崎くんは語る。
「つまり、それが“才能”というモノを持つ人間の…“天才”であるがゆえの“義務”なんだよ。他人から掛けられる勝手な“夢”やら“期待”やらの“枷”を背負って、でも決して押し潰されず、その重圧に耐えながら常に前へ向かって進んでゆけること。――それが“分”ってヤツなんだ。その“分”をわきまえて前に進もうと足掻ける人間にこそ、そういうヤツになら……! 俺たち凡人も、安心して“夢”を預けられる。同じ場所から一緒に未来を見つめていける」
「…………」
「竹内くん、君は……確かにケンの言う通り、素晴らしい“才能”ってヤツを持っている“天才”だと、俺も思うよ。でも、かの発明王エジソンも言ってる通り、『99%の努力』ってヤツが伴ってなけりゃ、生来どんなに優れた能力を持っていたところで、それは所詮、“天才”とは呼べないんだよ」
彼は淡々と、でも淀みなく流れるように言うと、そこで一旦、言葉を切った。
そして、ふいにツッと半歩前に踏み出したかと思うと、僕の肩を、とてもじゃないけど“軽く”とは呼べないほどの力を込めて、掴む。
咄嗟に彼の手から逃れようという気持ちが働いたか半身で仰け反った僕を、逃すものかとばかりに、更に力を込めて引き寄せ。
至近距離から囁いた。
とてもとても低い声で。睨むような視線で。
「最初から、生きていく中で、その『99%の努力』を…“枷”を背負うことすらも放棄してる君には。――到底、“夢”を預けるに値しないね」
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