弾けないピアニストの俺が天使の羽根を奪うまで

ひぽたま

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3・人嫌い

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「ありがとう、おばちゃん!」
 ……中学生がいるのか?
 午後一時の学生食堂。いつもと同じ窓際の席で、いつもと同じAランチを半分ほど食べ終えたところだった。
 学生用の食堂とはいえ、大学だ。落ちついたざわめきのなかに、突如として響いた威勢のいい声。
 うっかり目線をあげると、Tシャツ姿の小柄な男子学生が丼と味噌汁椀の載ったトレイを手に、きょろきょろと食堂内を見まわしていた。
 あれは……昨日の子供だ。葉山に呼びとめられて、会った。名前は確か……。
 思いだしているあいだに目が合いそうになり、慌てて顔を伏せる。騒がしいのは苦手だし、できるだけ人と関わりあいにもなりたくない。
 チキンソテーを箸でつまみ、口に運んだとき、同じテーブルの端に気配を感じた。
 かちゃ、とトレイを置く音。
「よっ、ここいい?」
「……」
 仕方なく横を向く。相変わらずキラキラした目の子供が、昨日ほど屈託なくはなく、やや緊張気味の笑顔で俺を覗きこんでいた。
 いったいなんの用だ?
「……ほかの席も空いているだろう」
「えー、だって、ここがいいんだもん。っていうかオレ、一回ちゃんと矢奈と話してみたくってさ。オレの名前、覚えてる?」
「……森脇」
 ごまかせばよかったのに、ぺらぺら喋る勢いに引きずられて、ついまともに口を利いてしまう。
「座るのは勝手にすればいいが、あまり構わないでほしい」
「名前、覚えててくれたんだ……」
 勝手に感動しているようだが、おまえが特別だからじゃない。
 幼い頃から母に社交の場に引きずり出されるたび、初対面であろうと相手の顔と名前を必ず一致させるように躾けられてきたからだ。
 チキンソテーの味もわからなくなりそうな嫌な記憶を蘇らせておいて、森脇は「いっただっきまーす!」と丼に手を合わせるなり、わき目もふらずに食べだした。
「うっわー、うま! なにこのトンカツ、揚げたてっ?」
 がっつくな、と注意したくなるほどの勢いだ。
 頬を紅潮させて目を輝かせ、実に幸せそうにカツ丼を頬張る姿は……中学生か?
 というか、犬か?
 カツ丼を味わいたいだけなら、なぜわざわざ俺の近くに席をとる必要がある?
 意味がわからないままチキンソテーを食べ終わり、付け合わせのトマトを口に入れようとしたとき、森脇がふいに顔をあげて、思いだしたように俺を見た。
「矢奈、いつもAランチじゃなくて、たまにはこのカツ丼食べたほうがいいって、絶対!」
「……なぜ俺がいつもAランチを頼むことを知っているんだ?」
「あれ? あ、えっと、それは……」
 とたんに挙動不審になり、目を泳がせている。後ろ暗いところがあるらしい……なるほど。
 おおかた情報源はあの鈴木というやつだろう。俺がいつもこの時間に食堂にいるのは、秘密でもなんでもないが、この時間に森脇を食堂で見かけたことは一度もない。
 昨日、蛇体の本を渡された恨みも忘れてはいない。
 いったい本当はなんの目的なんだ?
 きつい言葉で問い詰めようか、それとも冷ややかに突き放してやろうか。
 笑ってごまかそうとする態度も気に入らない。俺はトマトを飲みこむ。
「お――……」
 口を開きかけたとき、視界に見慣れた腕が割り込んだ。そろそろ涼しくなってきたのにノースリーブの、剥き出しの痩せた腕。葉山だ。
 とっくに蕎麦を食べ終わって出ていったはずだったのに、戻ってきたのか?
 わざわざ、水のコップ一つを持って。
「よっ、矢奈。調子はどう?」
「……普通だ」
 葉山が目配せしてくる。やはりこいつは、俺が森脇とやりあうのを心配して戻ってきたらしい。
 俺は喉まで出かけた悪口雑言を呑みこみ、去年、葉山に言われたことを思いだした。
 ――『矢奈くん、ほんとは性格悪いってほどでもないのに口下手だから、損してるんじゃない? 雑魚くらいはあたしが追い払ってあげるから、黙っときなって。今のままじゃそのうち誰かに刺されちゃうよ』
 縁起でもないことを言わないでほしいが、葉山が俺の数十倍弁が立つのは確かで、この一年ばかりだいぶ助けられている。
「それできみは森脇くん、だっけ? 席はあちこち空いてるのに、なんで矢奈に絡んでんの?」
「なんでって、その……友達になりたかったから、ですけど」
「友達候補に矢奈はおすすめしないなー。不愛想だし無口なやつだし、シャイなの。きみみたいな元気な子に急に話しかけられたら、動揺しちゃう」
 葉山の口調は軽いが、目つきは獲物を捕らえるハンターばりに鋭い。
 森脇という子供も問い詰められるうちに観念したらしく、しゅんとしながら箸を置いた。
「すみません、オレ、嘘つきました」
 やはりか。で、目的は? 
「ほんとうは友達になりたいんじゃなくて――いや、なれるものならなりたいんだけど、ただ、矢奈のピアノを聞かせてほしかったんです。昨日、レッスン室から洩れていた音を聞いて、すっげー感動したから。だから矢奈の周りをウロチョロしていればまたピアノが聞けるんじゃないかって、下心がありました。すみません」
 ぺこりと頭を下げる、子供。
(なんだそれは)
 予想外過ぎる答えに、箸の行き場を見失い――落ちつくために味噌汁椀を手に取った。
 この子供……森脇の目的は、俺ではなくて、ピアノ? 
 俺のピアノの音を聞いて、感動したと言ったのか?
 まさかだろう。昨日も確かにレッスン室で弾いたが、ろくな演奏ではなかった。そもそも防音室なので、外まで音が洩れるはずもない。
 そういえば、一度だけ窓を開けたまま『ゴルドベルク変奏曲』を弾くには弾いたが……あれは気の抜けた、ただの演奏だ。
「なーんだ、ただのファンか。ですってよ、矢奈、どうする?」
「迷惑だ」
 俺は味噌汁をすすった。
 やや体の動きがぎこちなく、自分が緊張しているのがわかる。
「ピアノが聴きたければ、年度末の学内コンサートを待てばいい。そもそもレッスン室は防音だ。森脇が聞いたのは、別のやつのピアノの音じゃないのか」
「いや、確かに矢奈だって」
 森脇が反論しかけ、自信なさそうに口ごもった。
 ほら、やはり。俺であるはずがない。ほっとするのと同時に体の力が抜け、味噌汁椀を空にしてからトレイに戻した。ごちそうさま、と手を合わせる。
 森脇は叱られた仔犬のようにしょんぼりしているだけで、俺を追ってはこなかった。
 今度こそもう、関わってくることはないだろう。

 ……と、思ったのに。
 翌日、音楽科のホールで森脇を見かけた。存在を認識したせいか、このところやけに目につく気がする。
 女子学生数人に混ざって、楽しそうに談笑している姿。人好きのするタイプだから男女問わず友人も多いのだろう。
 というか、あいつも音楽科だったのか?
「あ、ほら、矢奈くんいたよ」
 と、女子の一人が俺を指さす。森脇がこちらを向きそうになったので、急いで目を逸らした。
 何度も言うが、俺は人と必要以上の関わりを持ちたくない。森脇のほうも、どこかでうっかり洩れ聴こえたピアノ演奏を気に入ったのだとしても、それが俺自身と絡みたがる理由にはならないはずだ。
 だから無視して立ち去ろうとしたのに、いきなり後ろから声をかけてきた。
「よっ、矢奈!」
「……」
 振り向かずにいると、森脇のほうからささっと前にまわってきて、俺に満面の――でも、いくらかは緊張の混ざった――笑顔を向けた。
「元気? これから授業?」
「……おまえはどうなんだ」
「え、オレっ? ……うわ、やっべ! もう行かなきゃ、じゃなー、また!」
 慌ててホールから飛びだしていく。外に出たということは、音楽科ではないのか。
 先ほどまでやつと談笑していた女子たちも、いなくなった森脇に特に関心を向けるでもなく、なにか話をしながら講堂のなかへ入っていった。
 あとに取り残された俺だけが、わけがわからず途方に暮れている。
(……また?)
 また現れるつもりなのだろうか、あいつは。
 いったいどこに、いつ? 
 おおかた昼に食堂で、また話しかけてくるつもりだろうと踏んだが、森脇の行動力(?)は俺の予想を上回っていた。
 二限。『近世音楽史』の授業を控えた講堂の、中段前列の席でレジュメを眺めていると、目の前の通路にいきなり現れたのだ。腕に荷物を抱えて、落ちつかさなそうにきょろきょろ誰かを探しているようだったが、俺を見つけるや否やぱっと表情を明るくして、階段を駆けあがってくる。
「よっ、矢奈。隣、座っていいよね?」
 だめだと言おうにも、ざっと見たところ他に空いている席がない。
 この講義は他科の学生も聴講できるし、単位が取りやすいので人気だからだが(ちなみに俺の隣が空くのは、ほかの連中に嫌厭されているからだが)。
「『近世音楽史』に興味があるのか?」
「あるある、すっげーある。もしわからないところあったら教えてくれる?」
 自分で調べろ、と言いたいところだったが、森脇がテーブルに広げた教科書のタイトルを見て、俺は口をつぐむ。
(『情報処理』、『構造力学』……『建築環境工学』。建築学科なのか?)
 表紙を見ただけで俺には理解不能だとわかるぶ厚い教科書は付箋だらけだし、表紙が手垢で汚れていた。数冊あるノートも書きこみのせいか厚みが増しており、森脇がこれらを飾りで持ち歩いているのではないことは確かだ。
(だったら『近世音楽史』に興味があるのというのもほんとうなのか? なにか建築に役立つ知識を得ようとしているとか)
 荷物のなかから一冊のノートを選んで広げ、大きな目を演台に向けた様子に、俺は森脇の下心を疑ったことを恥じかけた……が。
 すー。
(……)
 すー、すー。
(……寝息?)
 無視してやり過ごしたかったが、周囲の幾人かが気づいて、くすくす笑っている。口うるさい助教が壁際からこちらを睨んでいるのがわかり、俺はついに耐えきれなくなった。
「おい、森脇っ……」
 起きろ。耳元で囁くが、まるで反応はない。仕方なく、肩に手を置いて揺さぶると、突っ伏して寝息をたてていた森脇の顔が傾ぎ、こちらを向いて寝始めた。
「むにゃ……うーん、カツど……」
(馬鹿!)
 寝言が大きい。これ以上周囲の視線を集めたくなかった俺は、とっさに森脇の口を手で塞いだ。もが、と抵抗するような気配はあったものの、まもなく再び、落ちついた寝息をたてはじめる。
(まったく……)
 とりあえず『近世音楽史』に興味があるというのは嘘だろう。間違いなく。
 では何に興味があって、ここに現れたのか、ということだが……。
 俺に?
 ……バカバカしい。もし仮にそうだとしても、こいつが気にかけているのは俺の『ピアノ』であって、俺自身ではない。
 いったいどういう理由でそんなにピアノが気になるのか知らないが、この先まだつきまとうつもりなら、一度くらい弾いて聞かせてやればおとなしくなるのだろうか。
 いや、でも、と、また思う。
 こいつが気に入ったという音は、ほんとうに俺のものだろうか、と。
 もし違ったらどうする? 残念そうな笑顔で、『いやあ勘違いだったわ』と笑って去っていくだけだ。
 それならそれで構わないが……、
「……むぐ」
 いっこうに目を覚まさないまま、森脇が苦しそうにうめく。
 口を押さえる手を少しずらすと、またすやすやと寝始めた。まったくよく眠る……子供だ。
 かすかな寝息が指をくすぐる。時おり、むにゃ、と口を動かすたびに、森脇の唇が俺の指の内側を掠めた。すべすべした、柔らかな感触。
 俺は悪戯心を起こした。薬指で唇の隙間をうかがうと、寝息の合間に指先がするりと内側に吸いこまれ、森脇の歯に触れた。
 人の歯に、意識して触れるのははじめてかもしれない。
 小さくて硬い、おもちゃのような歯列。
 唇のほんのり湿った内側が、俺の肌に吸いつく。
(無防備だな、こいつは。俺のことなど何も知らないからだろうが)
 情報屋の鈴木も知るはずのない、俺の秘密。つまりアブノーマルな、ゲイだということを。
 ゲイだからアブノーマルなのではない。俺の場合、男も女も自分から求めたことはなく、いつも向こうからやって来て、求められるものに応じてきただけだ。そしてほぼ全員が俺がこなせるプレイの範囲に驚き、満足したあとなんらかなの支援を約束して去っていくのだが……その過程で、俺は女よりは男のほうが、自分にとってまだましだということに気づいていた。
 母に厳しく躾けられて育った俺にとって、女性の柔らかさは内側の残酷さをごまかす皮でしかなく、恐怖の対象ですらあった。
 男のほうがまだ、触れる部分も、提供する行為も単調なもので済むのでましだし……年かさの男に甘い言葉を囁かれるとき、自分がいちばん興奮することもわかっている。
 そういうところがアブノーマルなのだ。つまりマザーコンプレックスであり、ファザーコンプレックス。
「……」
 森脇の口をふさぐ手が、急に薄汚いものに見えてくる。無断で触れているのが申し訳なくなり、そっと外そうとした指先が湿り気で糸を引いた。
 森脇の顎を伝う、濡れたもの。これは……。
(よだれ?)
 間違いなく。呑気なお子様は俺の指を食みながら、幸せそうによだれを垂らして寝ていた。
 俺はもちろん顔をしかめたが、同時に緩む口元を自覚する。
(まったく……変なやつだ)
 ティッシュで手を拭いたあとも、起こしてやる気になれなかった。
 俺自身が講義に集中するのも諦め、頬杖をついて隣の寝顔を観察する。
 猫っ毛というのだろうか。森脇の細くて柔らかい髪は、指先で梳くと微かに冷たくて気持ちがよかった。
 今まで寝たどんな男や女の髪も、こんなふうに触れたりしたことはなく、不思議な気持ちになる。
 長い睫毛。濃くてまっすぐな眉と、笑顔の似合う痩せた頬。
 瞼を開けたとき、てらいなく俺を映すキラキラした目。
 もしかしたら森脇が、俺自身に興味を抱いてくれたらいいのに――と、このときに、少しだけ願ったのかもしれない。
 儚い願いだと、わかっていたのだけれど。
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