弾けないピアニストの俺が天使の羽根を奪うまで

ひぽたま

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4・素直

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 シューベルトの即興曲、Op90‐4の最後の一音を弾き終え、不思議な気持ちで指をあげた。
(……失敗しなかった?)
 息も詰まらず、過去にも追われず、淡々と最後まで行きついたのが信じられない。
 しかも、一人で。
 いつもの練習棟の三階、レッスン室だ。齋藤先生の個人レッスン前の、自主練。
 そしていつものシューベルト『即興曲』Op.90。部分的には弾けたとしても、全体を通そうとすれば必ずどこかで息が詰まり、やり直しになっていたのに――。
 いま、俺はなにを考えながら弾いていたのだろうか?
 天井を見あげて、息をつく。今日の吸音パネルは人の目のように見えなかった。
 代わりに、水のなかから水面を見あげたような光の模様が描かれているのに気づく。
 外からの反射光なのか。いつもあんな模様があったのかどうか、記憶にない。
「……少し暑いな」
 パニックは起こさなかったが、空気がこもっているのを感じた。古い建物なので空調の効きが悪いらしい。斎藤先生が来る前に換気しておこうと、立っていって窓を開け、青い空に目を向けたとき――さっき自分が弾きながらなにを思いめぐらせていたのか、かすかに思いだした。
 森脇の寝息だ。
 左手に触れた息が、くすぐったかったこと。
 薬指で辿った歯の硬さ。長い睫毛や、きれいな唇と――よだれ。
「……っ」
 思わず笑いがこぼれる。
 あのあと森脇とは学生食堂でも会い、あいつは『近世音楽史』で爆睡したことを謝っていたものの、親子丼を食べ始めたとたんに「この鶏肉、ジューシーすぎねっ?」と感動していた。
 そして俺にもAランチより親子丼をと勧めてきたが……俺は一年次に学食のメニューはすべて網羅しているため、いまさらあれこれ試すつもりはない。
 というよりも、森脇が言うほどカツ丼も親子丼も、うまかったという記憶がなかった。
(単にあいつは食いしん坊だから、なんでもうまいと感じるんじゃないのか?)
 気がつくと森脇のことばかり考えている自分がいて、呆れてしまう。
 俺は空に向かって深呼吸してから、窓を開けたままピアノの前に戻った。
 もう少し換気をしたかったのと、もう少しだけ……森脇を思い出させる空を、感じていたかったのと。
 ただ、期待するな、と、自分に言い聞かせる。
 森脇はただ、あいつが気に入ったというピアノの音を出していたのが俺だと思いこんで、近づいてきているだけだ。
 俺自身に興味があるわけじゃないし、ピアノの弾き手だって別人かもしれない。
 俺のピアノの音など……誰かが興味を示すほどの価値もないものなのだから。
(それでも……もしかしたら)
 指を鍵盤に置くと、自然と慣れた音を辿りはじめる。
 ソソ、ラソラシ、ラソファミレ……バッハが生みだした、完璧な旋律だ。
 甘すぎず苦すぎず、長い夜の無聊を無聊を慰めるための主題。
 俺は――いつもなら、貴族の稚児を思い描きながら弾くのに、今日ばかりは誰かになりきろうとしても自分自身を消せなかった。
 この学び舎のどこかにいる森脇を思い浮かべながら、『ゴルドベルク変奏曲』を弾いている。
 あいつが――もしかしたら……どこかで耳を澄ませていて、俺の音を喜んでくれると、期待しているのか?
 望んでいるのか? 褒めてほしいと。
 おまえの音は最高だ、美しい、素晴らしいと……褒め称えられて、いい気になって、それからどうなりたいというのだろう。 
 一時の称賛など、口のなかで溶けて消える砂糖菓子のようなものだと知っているくせに。
 いくら誰かに気に入られたとしたって、それは一粒の菓子でしかない。
 吞みこんだあとは、また新しい称賛という砂糖菓子が欲しくなってさ迷いだすだけだ。
 もっと、もっと、と終わらない要求――そんなものを求めて……俺は、森脇をうんざりさせたいのだろうか。
 誰かに気に入られたいがために紡ぎだす音楽が、果たして本物と呼べるのか?
「……馬鹿馬鹿しいな」
 途中で我に返り、音を切る。息苦しさを感じたわけではなかったが、胸が痛い。
(防音のレッスン室に閉じこもりながら、窓を開けてわざとらしく弾くなんて、どれだけ自己顕示欲が強いのやら)
 自分自身に呆れながらピアノから離れ、外も見ずに窓を閉めようとしたとき――この頃よく聞く声が、耳にくっきりと届いた。
「矢奈! おーい!」
 ……幻聴か?
 信じられないながらも、期待は消せず――そっと窓を開き直して、声のもとを探す。
 空ではなくて、真下だった。裏庭に設置された、銀色の小屋のようなもののそばに、両手を広げて、森脇がいる。
 その手を羽ばたくように振りながら俺を見あげて、キラキラした嬉しそうな笑顔で。
「いまピアノ弾いてたの矢奈だろ? やっぱりこのあいだオレが感動したの、おまえの演奏に間違いなかった!」
 てらいのない感想だった。
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