弾けないピアニストの俺が天使の羽根を奪うまで

ひぽたま

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9・無垢

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 ジャズバーの片隅の席で、二人で向かい合っていろいろな話をした。
 森脇は確かに三下教授ともめていることは認めたが、それは俺が呼び出された一件とは無関係なのだと言い張る。ただ、口の利き方を間違えて機嫌を損ねてしまっただけで、しごかれていることも将来につながる勉強なので、無駄にはならないのだと。
 そして、余計な気をまわしてしまった俺に、
「心配してくれて、サンキュ」
 と、にこっと笑ってみせる。笑顔を眩しいと感じた。
 大学で、騒々しいなかで会うときよりも大人びた外見や、夜の世界に慣れた落ちついた振る舞いのおかげで、ここまで違う人間のように見えていた森脇が、ふいにいつもの表情を見せてくれた気がした。
 ほっとするのと同時に、俺は、もっとこの不思議な友人のことを知りたいと思った(友人などと、俺が言っていいものかどうかわからなかったが)。
 森脇は、いったいどんなふうにしていまの彼になったのだろう?
 試しに将来の夢などを訊くと、カツ丼や親子丼を語るとき以上の勢いで憧れの建築家や、ピラミッドの偉大さなどを語りだす。情報量の多さで把握しづらい部分があったものの、つまり、歴史に残るような偉大な建物をつくりたい、ということらしい。
 眩しいくらいの大きな夢で、実に彼らしかった。そう褒めると森脇は、
「矢奈のほうがよっぽどすげーじゃん。ピアノ弾けて、しかも子供の頃からコンクールとか優勝してるんだろ?」
 と言う。鈴木から聞いたそうだが……正直俺のコンクール入賞歴など中途半端すぎて、とても他人に誇れるようなものではない。優勝できた国際大会も中程度のレベルだったし、年齢を重ねるにつれて入賞すら難しくなっていた……あげく、母の望む都市部の芸大に入れなかったのだから、お粗末にもほどがあるというものだ。
 俺の微妙な反応に気づいて、森脇が眉を曇らせる。
「ごめん。こそこそ嗅ぎまわられたみたいで、気分悪いよね」
「いや。そういうわけでは……」
 きちんと説明しようにも、俺は彼のなかの誤解を解くのが怖かった。森脇はもしかしたら『特待生のピアニスト』という誤解のフィルターがあるからこそ俺の演奏を好きだと言ってくれるのかもしれない、という怖れがまだあったから。
 俺たちの気まずい空気を察したのか、マスターが飲み物をサービスしてくれた。バージン・ブリーズと、サンセット・ビーチという名のカクテルで、どちらもノンアルコールだという。
 自分がどれだけ汚れた人間か知っている俺は、Virgin (純潔)など選べなかった。くすんだオレンジ色のサンセットビーチを選ぶと、森脇は「そっちはネクターと烏龍茶のカクテルだよ。はじめに混ぜようって考えた人、すっげーよな」と解説してくれながら、彼自身はためらいもなくバージン・ブリーズの小さなグラスを手元に引き寄せて、「乾杯」と掲げる。
 愛らしいピンク色のカクテルは、彼によく似合っていたが……汚れた俺は思う。
 森脇は、これまでに(あるいは今も)愛した相手はいるのだろうか?
 店内に流れる曲の雰囲気が変わった。ジャズではなく……かといって、純粋なクラシックというわけでもない。エリック・サティは十九世紀のパリで、形式にとらわれない独自の音楽性を貫いた変わり者の作曲家だ。
 聴こえてきた曲は『ジムノペディ』第一番。あえて練習したことはないが、確か曲名は古代ギリシャの少年たちの裸体での踊りに由来するとか?
 世紀末のパリの、爛れた文化がよくわかる話だが、『近世音楽史』で爆睡していた森脇がこのような逸話を知るわけもなく、ただ、不安定な和音が醸しだす奇妙な響きを素直な感性で受け止めているらしい。
「なんだっけ、この曲。名前は知らないけど、いいよね」
 森脇がなにかを褒めるたび、俺の胸は少しだけ疼いた。彼が、いったいどのくらいの本気度で、俺のピアノを好きだと言ってくれるのかわからなくなって。
「矢奈はもしかして弾ける? さっすがー、今度聴きたい……あ、でもその前に、オレはあの曲も好きなんだった。ほら、いつもレッスン室で弾いているやつ」
「……ゴルドベルク変奏曲か?」
 すぐにわかったくせに、とぼけてみせる。森脇の気をもっと惹きつけておきたくて。
「曲名言われてもわかんないんだけど」
「こういう」
 ソソ、ラソラシ、ラソファミレ……絶対音感のせいで、自分の声域を超えたトーンで歌いだしてしまった。声が掠れたせいで聞き取りづらかったらしく、森脇は「もっかい聞かせて」と、身を乗りだす。
 無防備に向けられた耳が、海辺に打ち寄せられた貝殻のようだ。唇を近づけると、森脇の匂いがした。たぶん、どこかの会社の石鹸の匂い。
 ソソ、ラソラシ……。
「これでいいか?」
「うん。でも、もちょっと聴きたい。できれば、全部」
『ゴルドベルク変奏曲』は短いアリアと、その低音をもとに展開してく変奏から成り立っており、すべてを弾きとおせば一時間越えになる大作だ。もちろんアリアだけなら三十二小節程度の短いものなので、そこで切り上げればいいものを、俺は森脇から求めてきたというのを言い訳にして、ハミングを続ける。
 意図したわけではないが(それとも無意識に?)時おり、近づけすぎた唇が彼の耳朶を掠めてしまい、その冷たく、滑らかな感触に体の底が痺れる心地がした。
 サンセット・ビーチ……闇に呑まれる直前の、血の色をした夕焼けの浜に吹いた、一筋のバージン・ブリーズ(無垢なそよ風)。
 俺にとっての森脇は、そのようなものかもしれない。ハミングの合間になにか伝えたい衝動を堪えながら、俺はゴルドベルク変奏曲を口ずさみ続けた。
 退屈したか……あるいは疲れていたのかもしれない彼が、眠ってしまったと気づくまで。
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