弾けないピアニストの俺が天使の羽根を奪うまで

ひぽたま

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10・決意

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 かくん、と頭が傾く。
「……森脇?」
 声をかけると反応したそうな素振りを見せたものの、肘枕がずるずると崩れて、テーブルに突っ伏してしまった。一瞬焦り、口元に手をかざしてみると、温かな息が触れる。背中が規則的に上下していた。どうやら眠ってしまったらしい。
(……疲れているんだろうな)
 森脇の寝顔を見るのは二度目だが、ジャズバーの照明のせいを差し引いても、前のときより明らかにやつれており、目の下にクマができているのがわかる。
 三下教授のしごきがこたえているせいだろう。本人が納得ずくだとしても、なんとかしてやりたい思いにかられる。
 友人として……俺にできることはないのだろうか? 
 近くのテーブルを片付けにきたマスターが、俺たちの様子を見て微笑んだ。
「あらあ、進ちゃんったら。せっかくお友達が来てくれたのに眠っちゃったのね。起こしましょうか?」
「寝かせておいてあげてください……お店にご迷惑でなければ。この頃、森脇は担当の教授に厳しくされていて、ろくに食事をとる余裕もないと聞いているので」
 マスターは愛嬌があり、話しやすいタイプだった。森脇と話すときよりも緊張せずに言うと、すぐに俺の頼みを理解して、頷いてくれる。 
「そうだったの。疲れていそうなのはわかっていたんだけど、この子ったら愚痴っぽいことはなんにも言わないから、ちっとも知らなかったわ。教えてくれてありがとう、矢奈くん……だったわよね。もしかしたら、進ちゃんを心配したから様子を見に来てくれたのかしら?」
「いいえ」
 そうだと胸を張れたらよかったのだが、違う。俺は森脇の心配をしてここに来たのではなく、森脇が、俺に興味を失ったのではないかという不安からいてもたってもいられず、会いにきたのだ。
 優しさではなく、自己満足のために。
 それでも……いま少しのあいだだけでも眠らせてやれたら、少しは友人の役に立てたといえないだろうか?
「進ちゃんのグラス、下げたほうがいいかしら」
「いえ、俺が飲みます」
 森脇はバージン・ブリーズに乾杯で口をつけただけだった。
 肘にぶつかりそうな、危うい位置にあったグラスを引き寄せる。
 大事なものを取られまいとする子供のような俺の態度から、なにか察するものがあったらしく、マスターはふふっと意味深に笑う。
「矢奈くん、進ちゃんをとっても大事にしてくれているのね。嬉しいわあ、この子、これまでお友達を店に連れてきてくれたことってなかったから」
 それは意外だった。鈴木も言っていたが、森脇は学部にも特に親しい友人がおらず、サークルにも所属していないとか。
 いつも明るく、人好きもするし、社交的なようなのに……なにか理由があるのだろうか。
 このマスターは、森脇のことをどこまで知っているのだろう。
「それにしても、安心しきって眠っちゃって。さっきからの内緒話に、いったいどんな呪文を囁いてあげたのかしら?」
「『ゴルドベルク変奏曲』です。バッハの……どんな曲か知りたいというからハミングしていたのが、子守歌になってしまったようで。単調な旋律だから仕方ありません」
「あらそうなの。あの曲、アタシも好きよ。矢奈くんは音楽が好きなのかしら」
 ストレートな問いが新鮮で、かえって驚いた。
 俺が音楽が好きかどうか? 考えてみたこともなく、すぐに答えも思いつかない。
 ピアノは、幼い頃に才能があると言われて練習を強いられてきたものなので、好き嫌いの介在する余地がなかった。やめるという選択肢すらなかっただけだ。
 では嫌いなのかと問われれば、これもよくわからない。なにしろこれまでの人生、目覚めている時間のほとんどをピアノと向かい合って過ごしてきたのだから。あの白と黒の鍵盤はおのれの一部のようなものであり、それを好きか嫌いかと言えば……。
(好きなわけが……)
 自分自身を否定しそうになったとき、森脇の声が脳裏を過ぎる。
 ――『やっぱりこのあいだオレが感動したの、おまえの演奏に間違いなかった!』
 練習室の窓の下で、手をぶんぶん振りながら言ってくれた言葉。
 俺が俺自身を、ピアノを否定したら、あの森脇の言葉をさえ否定してしまうのではないか。
「ごゆっくりね」
 マスターは俺を追いつめず、カウンターに戻っていった。俺は森脇の飲み残したバージン・ブリーズに口をつけてみて、見た目に反したさっぱりした酸味と、ほろ苦さに驚く。
 まるで森脇の味だ……と、思ったとたん、自分はなにを考えているのかと慌て、頭のなかで打ち消した。
 俺は森脇の味など知りえない。永遠に。だって森脇は健康的で、ノーマルで……良き友人なのだから。
 バージン・ブリーズのピンク色に隠れた、グレープフルーツのほろ苦さが心に痛かった。サンセット・ビーチのほうがよほど後を引く甘さだった。諦めの悪い俺のように。

 バージン・ブリーズを飲み干したあと、俺は森脇に声をかけないまま家に帰った。
 疲れている森脇にできるだけ眠っていてほしかったし、目覚めたあとまで俺がいたら気を遣わせてしまうだろう。
 それに……下手に話をしたら、決心が揺らいでしまうかもしれなかったので。
 なんの決心かと言えば、『友人として』森脇を助けられたら、ということだった。
 森脇は三下教授の心証を悪くしたためにしごかれているそうなので、だったら俺が三下に取り入って森脇の印象を良くしてやれば、しごきは止むのではないだろうか、と。
 あの教授は俺に話があると言ったのだから。俺のほうから訪ねる理由はある。それに幼い頃から年配の大人と接する機会のほうが多かったので、中年の機嫌を取るのは得意なほうだと自負していた。
 最善を期すために前夜から建築学部の位置を調べ、三下教授の顔と経歴を覚えておき、朝一番でつかまえられるように開門と同時にエントランスへ向かって待ち伏せしたのだった。
 はじめて入る建築学部の建物内は、音楽科よりも硬質というか、よそよそしい感じがした。門外漢の俺には、壁の掲示一つとっても意味がわからないものばかりだ。
『環境デザイン研究室』は朝の光がぼんやりと届く灰色の部屋で、そこそこ広かった。
 いくつも並んだ机のいちばん奥が教授のものらしく、俺を立たせたまま椅子につくとき、三下がまたちらりと時計を見た。
 あまり長話をしている余裕はなさそうだ。俺はできるだけ純朴そうな笑顔をつくり、さっさと口火を切った。
「お忙しいところ、お時間をとっていただき申し訳ありません」
「いや、七時半にはレポートを提出に来る学生がいるものでね、それまでに話を済ませよう。つまるところだね……きみは、なぜ私がきみを呼びだしたのか予想がついているかね?」
「いいえ、……申し訳ありません」
 回りくどさに呆れつつ謝ってみせると、三下はまんざらでもなさそうに頷いた。
「うむ、そうかね。なるほど、つまり、なのだが……きみは、この本を見たことがあるかね?」
 机の引き出しを開け、ちらりと見せられた表紙を目にしたとたん、全身の血が凍った。
 そのおどろおどろしい色合いも、線で描かれた青年の裸像も、一度見たら忘れようがない――ゲイポルノ作家、蛇体英傑が、俺をモデルにして書いた本だ。
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