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11・誘惑
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おぞましすぎて一読しただけだが、内容は一人のうらぶれた中年作家がピアニストを目指す大学生と出会い、頑なな若者の心(と肉体)を解きほぐしていくことで本人も新たな創造に目覚めていく、というもの。
そのなかで蛇体は俺がピロートークで語った学内での出来事や、構内や周辺の様子をそのまま作品に流用していた。
しかも作中で中年男と愛を交わす『彼』というのが――男にしては長めの黒髪で、二重だが切れ長の黒い目、背が高くて肌は抜けるように白いが、首の後ろの黒子がうんたらと――怖気だつほどに『俺』そのものだ。
少しでもこの大学や、ピアノ科について知るものがいたらすぐにモデルが誰か気づき、細部の詳しさから、内容のすべてが真実だと思わされるだろう(実際は、蛇体にとって都合の悪い部分は巧妙にごまかして書かれているため、真実などではあり得ないのだが)。
三下は大学関係者としてこの本の存在を知り、俺がモデルかどうかの確認を取りたかったのか。
知るか、と机を蹴って立ち去りたいのが本音だった。だが、ここで俺まで三下を怒らせたら、森脇が浮かばれない。煮えくり返る腸を呼吸を整えて抑えこみ、
「ええ」
と、頷く。
三下の頬が紅潮した。目が輝き、身を乗りだすようにして、さらに問いを重ねてくる。
「ほんとうかね? それはその……一読者としてか、それとも、それ以上、ということだろうか。というのもだね、この本には……矢奈、結加くん。きみだとしか思えないような若者が出てきてね。経歴や見た目だけではなく、去年の学内コンサートの雰囲気なども、そのままなのだが」
俺は溜息を堪える。あの糞作家は、自分で話をこしらえるということをしないのか。
それはともかく、三下の態度が少々意外だった。もしかしたらこの教授自身が蛇体英傑の熱心な読者であり、だから俺に個人的な関心を抱いたのかもしれない。
あのゲイポルノ作家を好むということは……つまり、三下教授もゲイか、少なくともそちらの世界に興味があるのは間違いなさそうだ。
だったら、機嫌を取るのは、より容易い……だろうか?
「教授にはお見通しでしたか」
試しに俺は蛇体といるときの自分を思いだし、声に微かな甘えを混ぜてみた。
すると三下の頬があからさまに赤く染まり、生唾を呑んだのがわかる。ビンゴか。
だったら……と、俺は冷たい床に膝をついて、三下と目線を合わせた。
「そうです。構内の様子や、コンサートの雰囲気なども、僕が彼に話しました……ベッドの上で。お知りになりたいことは、それだけでしょうか?」
たぶん奴の新作にはこのような場面が出てきただろう――主人公がホテルのラウンジで、ピアノを弾いたあとの『彼』の前にひざまずき、愛を乞うシーン。
現実にひざまずかれたのは俺のほうで、ひざまずいたのは蛇体だったが、わざわざ経費をかけて演出した場面を、あの横着作家が作品に流用しないはずがない。
「三下教授」
俺の肌は色素が薄いと、蛇体が言った。顔だちは人形のようで現実味がなく、人は俺を見ると女性なのか男性なのか混乱し、脱がせて正体を探りたくなるのだとか。
そんな変態の意見などどうでもよかったが、三下の関心を俺に向けさせるために必要なら、利用させてもらう。そうすれば、森脇の件についてこの教授をコントロールしやすくなるから。
俺は自分が愛を乞うもののように三下を見つめ、首を傾げた。
「ご慧眼に恐れ入ります。それで教授は僕を、お叱りになるのでしょうか」
「し……叱るだと? なぜそう思うのだい」
「蛇体の新作を読まれたのなら、僕がどういう人間なのかおわかりのはずだからです。僕のような汚れた人間は、この大学にも、ピアノという楽器にも相応しくなく、ましてや三下教授に声をかけていただく資格もありません。……森脇くんは『そんなことはない、教授はすべてを受け入れてくださる、すばらしい方だから』と励ましてくれましたが」
「も、森脇くんか? そういえばそろそろ、彼が来……いやいや、そのようなことよりも、立ちたまえ。矢奈くん、こんな冷たい場所で膝をついていては、きみが風邪をひいてしまう」
三下が――はじめは他意がなかったのかもしれないが――俺の手をとった。
三下の手は中年らしく皮膚の張りが失われつつあって、柔らかく、冷たい。俺の手と手のひらを重ねたとたん、熱さに驚いたように震えたのがわかった。
蛇体の作品の描写でも思いだしたのだろうか、生唾を呑む。
「矢奈……くん」
三下の指先が、俺の指の横腹をくすぐる。まるで愛撫のはじまりのように。
俺は耐えて、無表情を保った。
「私は、きみを叱りはしないが……無論、叱ったりなぞするものかね……ただ、きみのピアノは以前から素晴らしいと思っていて、応援していたのだよ。蛇体先生の新作にも演奏シーンが出てきて、あれは印象的だった。なんだったね? ショパンの」
蛇体の好きな曲。ショパンが死後も公表はしないでくれと遺言していたのに、友人が裏切って世に出してしまったといういわくつきの、
「……『幻想即興曲』」
「そう、それだ。あの曲は、いいね。私も大好きなんだ」
「お聴きになりたいですか」
「弾いてくれるのかねっ?」
三下が俺の手を握りしめる。森脇は軽く押しただけで、ピアノを弾く大事な手なのに、と謝ってくれたのに。
「もちろん。蛇体とは別れましたが、三下教授のためになら」
「蛇体英傑と別れたのかね。それはつまり、それ以前は……いや、その話はあとでしよう。しかしきみのピアノを聴かせてもらおうにも、私には場所がない。小説のようなラウンジなどを借りるわけにもいかないし、どうしたものだろうか」
「レッスン室にいらっしゃいますか?}
「それはまずい、斎藤先生に知られたら学長にもばれてしまう。そうだ……練習棟の外に、時おりきみのピアノが洩れ聴こえてくるのだよ。あれでいこう。窓を開けて、ロミオとジュリエットが語り合うように演奏を聴かせてほしいものだ」
ショパンにシェイクスピアに、お次はなんだ? 三下のロマンチシズムにいささか呆れつつ、俺は頷いた。
「わかりました。いつ?」
「三時にしよう。そのとき、窓の外で待っているから。それから今日の予定がすべて済んだあと、またこの研究室へ来なさい。六時になればほとんど人は帰ってしまっているから、ゆっくりと話を聞いてあげられる。いいかね、矢奈くん。私が思うに、きみはとても……美しい」
俺は指をくすぐり続ける三下の手を見つめながら、この熱を拒まなかった場合の行きつくところを考えた。
俺をゲイの道に導いた老人にはとうに見放されていたし、蛇体と別れたばかりで、特定の恋人もいない。
だったら森脇のために、この中年教授と寝てやるくらいは構わないかもしれないと……対して抵抗もなく考えたのだ、このときは。
だって、はじめての相手からその日に至るまで俺は、自分から求めた相手と寝たことなど、一度もなかったのだから。
そのなかで蛇体は俺がピロートークで語った学内での出来事や、構内や周辺の様子をそのまま作品に流用していた。
しかも作中で中年男と愛を交わす『彼』というのが――男にしては長めの黒髪で、二重だが切れ長の黒い目、背が高くて肌は抜けるように白いが、首の後ろの黒子がうんたらと――怖気だつほどに『俺』そのものだ。
少しでもこの大学や、ピアノ科について知るものがいたらすぐにモデルが誰か気づき、細部の詳しさから、内容のすべてが真実だと思わされるだろう(実際は、蛇体にとって都合の悪い部分は巧妙にごまかして書かれているため、真実などではあり得ないのだが)。
三下は大学関係者としてこの本の存在を知り、俺がモデルかどうかの確認を取りたかったのか。
知るか、と机を蹴って立ち去りたいのが本音だった。だが、ここで俺まで三下を怒らせたら、森脇が浮かばれない。煮えくり返る腸を呼吸を整えて抑えこみ、
「ええ」
と、頷く。
三下の頬が紅潮した。目が輝き、身を乗りだすようにして、さらに問いを重ねてくる。
「ほんとうかね? それはその……一読者としてか、それとも、それ以上、ということだろうか。というのもだね、この本には……矢奈、結加くん。きみだとしか思えないような若者が出てきてね。経歴や見た目だけではなく、去年の学内コンサートの雰囲気なども、そのままなのだが」
俺は溜息を堪える。あの糞作家は、自分で話をこしらえるということをしないのか。
それはともかく、三下の態度が少々意外だった。もしかしたらこの教授自身が蛇体英傑の熱心な読者であり、だから俺に個人的な関心を抱いたのかもしれない。
あのゲイポルノ作家を好むということは……つまり、三下教授もゲイか、少なくともそちらの世界に興味があるのは間違いなさそうだ。
だったら、機嫌を取るのは、より容易い……だろうか?
「教授にはお見通しでしたか」
試しに俺は蛇体といるときの自分を思いだし、声に微かな甘えを混ぜてみた。
すると三下の頬があからさまに赤く染まり、生唾を呑んだのがわかる。ビンゴか。
だったら……と、俺は冷たい床に膝をついて、三下と目線を合わせた。
「そうです。構内の様子や、コンサートの雰囲気なども、僕が彼に話しました……ベッドの上で。お知りになりたいことは、それだけでしょうか?」
たぶん奴の新作にはこのような場面が出てきただろう――主人公がホテルのラウンジで、ピアノを弾いたあとの『彼』の前にひざまずき、愛を乞うシーン。
現実にひざまずかれたのは俺のほうで、ひざまずいたのは蛇体だったが、わざわざ経費をかけて演出した場面を、あの横着作家が作品に流用しないはずがない。
「三下教授」
俺の肌は色素が薄いと、蛇体が言った。顔だちは人形のようで現実味がなく、人は俺を見ると女性なのか男性なのか混乱し、脱がせて正体を探りたくなるのだとか。
そんな変態の意見などどうでもよかったが、三下の関心を俺に向けさせるために必要なら、利用させてもらう。そうすれば、森脇の件についてこの教授をコントロールしやすくなるから。
俺は自分が愛を乞うもののように三下を見つめ、首を傾げた。
「ご慧眼に恐れ入ります。それで教授は僕を、お叱りになるのでしょうか」
「し……叱るだと? なぜそう思うのだい」
「蛇体の新作を読まれたのなら、僕がどういう人間なのかおわかりのはずだからです。僕のような汚れた人間は、この大学にも、ピアノという楽器にも相応しくなく、ましてや三下教授に声をかけていただく資格もありません。……森脇くんは『そんなことはない、教授はすべてを受け入れてくださる、すばらしい方だから』と励ましてくれましたが」
「も、森脇くんか? そういえばそろそろ、彼が来……いやいや、そのようなことよりも、立ちたまえ。矢奈くん、こんな冷たい場所で膝をついていては、きみが風邪をひいてしまう」
三下が――はじめは他意がなかったのかもしれないが――俺の手をとった。
三下の手は中年らしく皮膚の張りが失われつつあって、柔らかく、冷たい。俺の手と手のひらを重ねたとたん、熱さに驚いたように震えたのがわかった。
蛇体の作品の描写でも思いだしたのだろうか、生唾を呑む。
「矢奈……くん」
三下の指先が、俺の指の横腹をくすぐる。まるで愛撫のはじまりのように。
俺は耐えて、無表情を保った。
「私は、きみを叱りはしないが……無論、叱ったりなぞするものかね……ただ、きみのピアノは以前から素晴らしいと思っていて、応援していたのだよ。蛇体先生の新作にも演奏シーンが出てきて、あれは印象的だった。なんだったね? ショパンの」
蛇体の好きな曲。ショパンが死後も公表はしないでくれと遺言していたのに、友人が裏切って世に出してしまったといういわくつきの、
「……『幻想即興曲』」
「そう、それだ。あの曲は、いいね。私も大好きなんだ」
「お聴きになりたいですか」
「弾いてくれるのかねっ?」
三下が俺の手を握りしめる。森脇は軽く押しただけで、ピアノを弾く大事な手なのに、と謝ってくれたのに。
「もちろん。蛇体とは別れましたが、三下教授のためになら」
「蛇体英傑と別れたのかね。それはつまり、それ以前は……いや、その話はあとでしよう。しかしきみのピアノを聴かせてもらおうにも、私には場所がない。小説のようなラウンジなどを借りるわけにもいかないし、どうしたものだろうか」
「レッスン室にいらっしゃいますか?}
「それはまずい、斎藤先生に知られたら学長にもばれてしまう。そうだ……練習棟の外に、時おりきみのピアノが洩れ聴こえてくるのだよ。あれでいこう。窓を開けて、ロミオとジュリエットが語り合うように演奏を聴かせてほしいものだ」
ショパンにシェイクスピアに、お次はなんだ? 三下のロマンチシズムにいささか呆れつつ、俺は頷いた。
「わかりました。いつ?」
「三時にしよう。そのとき、窓の外で待っているから。それから今日の予定がすべて済んだあと、またこの研究室へ来なさい。六時になればほとんど人は帰ってしまっているから、ゆっくりと話を聞いてあげられる。いいかね、矢奈くん。私が思うに、きみはとても……美しい」
俺は指をくすぐり続ける三下の手を見つめながら、この熱を拒まなかった場合の行きつくところを考えた。
俺をゲイの道に導いた老人にはとうに見放されていたし、蛇体と別れたばかりで、特定の恋人もいない。
だったら森脇のために、この中年教授と寝てやるくらいは構わないかもしれないと……対して抵抗もなく考えたのだ、このときは。
だって、はじめての相手からその日に至るまで俺は、自分から求めた相手と寝たことなど、一度もなかったのだから。
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