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15・遭遇
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煮えたぎる腸の内をさらにかき回されたおかげで、心が決まった。
間違いなくこいつを地獄に落としてやる。
「彼はただの友人です」
俺がきっぱり言っても、三下は納得しかねるところがあるらしい。
「そうだろうかね。しかしながら森脇くんは、レッスン棟からきみのピアノが流れ聞こえてくると、まるで魔法にかかったように動かなくなるんだ。窓を見上げて、ただピアノの音色が好きというわけでもない、憧れのような顔をしてね。あの態度のなかに特別な感情がないとは……」
三下が息を呑んだ。俺がふいに腰を浮かせて、やつのそばに席を移ったからだ。注文はすべて揃っているから、女将が襖を開ける心配もない。左右の小部屋から聞こえる、酔客の会話がちょうどいい雑音だった。
三下の口からもう、森脇を語る言葉を聞きたくない。
鎖骨のあたりに視線を感じるので、わざと胸元のボタンを一つ、二つ外してやる。
「妬けますね。三下教授は、僕といても森脇くんのことばかりお話になる」
「そ、そうかね。彼は私の学生だし、印象的な子だからね。だいいち矢奈くんは、私のように風采の上がらない中年には興味がないだろう」
「俺は、どうやらファーザー・コンプレックスのようで」
嘘に真実を混ぜ込むのは、人を騙すときのコツだとか。
「貿易商を営んでいる俺の父はめったに家に帰ってこない人でしたが、たまに現れるときはとても優しくしてくれました。母が厳しいぶん、余計に、俺にとって年上の男性は、心を委ねて安らげる相手です。たとえば、教授のような」
俺の容姿は、母よりは父親似だ。数か国に愛人をつくっておきながら、恬として恥じない伊達男。母がなんとしてでも息子を一流のピアニストに育てあげて、父を見返してやりたかった気持ちもわからないではないが、俺は、鍛えようとして叩く手よりも、優しく撫でてくれる手のほうを切実に欲していた。子供の頃だけではなく、いまも。
意識せずに吐息を洩らした様子が、あからさまな誘惑よりも効いたらしい。
三下が真っ赤になった顔を、俺に向ける。
「や、矢奈くん。私はね」
見えない部分で大胆になったくせに、声は控えめだ。
「蛇体英傑の、大ファンで……二十年も前、学生時代に読んでからあの世界観にずっと憧れていた……しかし、実際に、そちらの世界に足を踏み入れたことは一度もない。だから、酔いを言い訳にして思いきって訊いてしまうが――蛇体英傑との行為は実際、どのようなものなのだい? 作品にはきみの、肌や、その……反応などが事細かに書いてあるのだが、私には想像することしかできないものでね。実に、もどかしい」
「確かめてごらんになればいい」
「馬鹿なことを言うものではないよ。教授が学生を……しかも男同士で、そんなことがあってはならない。私は大人で、教授なのだから。良識を持たなくては」
「それはそうですね。もちろん、教授のおっしゃる通りです」
素っ気なく言い捨てると、三下は「あ」と、あからさまに残念そうな顔をした。
もどかしいのはこちらだ。やりたいことははっきりしているくせに、もたもたぐずぐずと。
そうして溜めこんだストレスを、弱い立場の学生で(つまり森脇で)発散していれば世話はない。
一瞬だけ退いてみせてから、俺はほぼ空になっているビール瓶を持ちあげ、三下に勧めた。
「どうぞ」
「う……ああ、ありがとう」
三下がコップをつかみ、掲げた。傾けた瓶から垂れた雫が、泡の消えた黄色い水面に落ちていく。俺はくすっと笑い、三下に顔を向けた。
二の腕が擦れあい、衣擦れの音がはっきり響く。目と目が、合った。
捕らえた、と確信した直後、
「や、矢奈くん……っ」
三下がコップを煽り、膨らませた口を俺に近づけてきた。このパターンか。俺は顔を傾け、三下の唇を受け止める。重なりあった口の隙間に流し込まれる、温いビール。うまいはずもなかったが、黙って飲み下すと、三下は勢いづいて舌を捻じ込ませてきた。
慣れていないのが丸わかりの、素人らしいキスだ。最初は体の力を抜いて三下のしたいように任せたが、焦る手がズボンの上から腿を撫ではじめると、さすがに性急さに呆れた。
いくらなんでもここで全てを済ませるのは落ちつかない。
俺がやつの胸元を撫であげ、唇を押さえてみせると、三下は息を切らしながら顔を離した。
「す、すまない、つい。こんなことをするつもりでは……んっ」
言い訳がましい口に指を突っ込んで、舐めさせてやりながら、俺は三下の耳元に囁いた。
「『愛は溜息の煙でできている』ようですね、教授」
「シェイクスピアか。ロミオの言葉だね――『浄化されれば恋人の目に輝く炎となり、悩まされれば涙で育まれる海となる』……矢奈くん、きみは私にとってのジュリエット……『真の美』だ」
「場所を変えましょうか? 教授、続きを、どこかで」
三下の目に情欲の火が宿る。慌ただしく会計札をつかみ、立ち上がって、言った。
「行こう」
異存はない。思い知らせてやる。
俺は地元の人間ではないが、二番町のラブホテル通りの存在は知っていた。理由は単純で、蛇体と利用したことがあるからだ。
三番町の歓楽街から飲み屋の並ぶ通りを抜けて、細道に足を踏み入れると、街灯代わりに色鮮やかなホテルの看板が煌々と光っている。
三下は、通りに立ってから無口になっていた。緊張というより、どのホテルを選べばいいのかわからず、迷っているだけかもしれない。俺は自分からは特に助言するつもりもなく、三下の意向に任せるつもりだったが……狭い通りの向こうから、足早に、こちらに向かってくる人影を見つけたとき、鼓動が跳ねた。
野球帽を目深に被って、俯き加減でいるので顔は見えない。背はそれほど高くなく、華奢だから子供のようにも見えるが、足取りは堂々としていた。
(こっちを向くな。目を上げないでくれ、頼むから)
心のなかで祈る俺と、俺にしなだれかかる三下に目もくれず、野球帽の子供は急ぎ足でそばを通り過ぎていった。すれ違いざま、懐かしい香りが鼻腔をくすぐる。
(森脇)
振りむいて、呼び止めたい衝動にかられた。少しでいいから顔を見たいし、言葉を交わしたい。
だが、ここで気勢をくじかれたら三下の憤りがまた森脇に向かってしまう。
俺は三下の腕をつかみ、引いた。
「待って、矢奈くん」
掠れ声の訴えを無視して、いちばん近い看板からラブホテルの小道に入る。
どこを選ぼうがすることは同じだ。ロビー正面の、電気の点ったパネルから適当なもののボタンを押して、鍵を受け取り、部屋へ。
一階だったので、エレベーターを待つ必要もなく扉に駆け込む。
「いったいどうしたのだね……?」
三下は不満げだった。ロマンチックな中年男だから、はじめての舞台ももっと慎重に選びたかったのに違いない。
俺のほうが、森脇に見とがめられるのが怖くて逃げただけだ。
後ろめたさをごまかすように、身を屈めて、俺のほうから三下に口づける。ビールと酒と醤油の匂いが混ざりあった味にも慣れてきた。
「申し訳ありません――蛇体以外の男性とこのようなことに及ぶのは久しぶりなせいか、浮足立ってしまって」
「ああ、それならば、私もだ……矢奈、くん。まさか、憧れの蛇体の本に描かれたきみと、こんな機会に恵まれるとは……夢のようだよ。無論、一夜限りの儚い夢に過ぎないのだろうが」
「『もしお気に召さずば、ただ夢を見たと思ってお許しを』」
「今度は『真夏の夜の夢』かね。しかしこの夢が……すばらしくならないはずがないだろう」
喋りながら三下は俺の服のボタンを一つずつ外していき、シャツから覗く鎖骨に吸いついてきた。痛みを感じるほどの強さだったが、唇を離したところに跡がついているのをじっと見て確かめてから、なだめるように舌を這わせてくる。
なるほど、サディストぶりたいタイプか。
間違いなくこいつを地獄に落としてやる。
「彼はただの友人です」
俺がきっぱり言っても、三下は納得しかねるところがあるらしい。
「そうだろうかね。しかしながら森脇くんは、レッスン棟からきみのピアノが流れ聞こえてくると、まるで魔法にかかったように動かなくなるんだ。窓を見上げて、ただピアノの音色が好きというわけでもない、憧れのような顔をしてね。あの態度のなかに特別な感情がないとは……」
三下が息を呑んだ。俺がふいに腰を浮かせて、やつのそばに席を移ったからだ。注文はすべて揃っているから、女将が襖を開ける心配もない。左右の小部屋から聞こえる、酔客の会話がちょうどいい雑音だった。
三下の口からもう、森脇を語る言葉を聞きたくない。
鎖骨のあたりに視線を感じるので、わざと胸元のボタンを一つ、二つ外してやる。
「妬けますね。三下教授は、僕といても森脇くんのことばかりお話になる」
「そ、そうかね。彼は私の学生だし、印象的な子だからね。だいいち矢奈くんは、私のように風采の上がらない中年には興味がないだろう」
「俺は、どうやらファーザー・コンプレックスのようで」
嘘に真実を混ぜ込むのは、人を騙すときのコツだとか。
「貿易商を営んでいる俺の父はめったに家に帰ってこない人でしたが、たまに現れるときはとても優しくしてくれました。母が厳しいぶん、余計に、俺にとって年上の男性は、心を委ねて安らげる相手です。たとえば、教授のような」
俺の容姿は、母よりは父親似だ。数か国に愛人をつくっておきながら、恬として恥じない伊達男。母がなんとしてでも息子を一流のピアニストに育てあげて、父を見返してやりたかった気持ちもわからないではないが、俺は、鍛えようとして叩く手よりも、優しく撫でてくれる手のほうを切実に欲していた。子供の頃だけではなく、いまも。
意識せずに吐息を洩らした様子が、あからさまな誘惑よりも効いたらしい。
三下が真っ赤になった顔を、俺に向ける。
「や、矢奈くん。私はね」
見えない部分で大胆になったくせに、声は控えめだ。
「蛇体英傑の、大ファンで……二十年も前、学生時代に読んでからあの世界観にずっと憧れていた……しかし、実際に、そちらの世界に足を踏み入れたことは一度もない。だから、酔いを言い訳にして思いきって訊いてしまうが――蛇体英傑との行為は実際、どのようなものなのだい? 作品にはきみの、肌や、その……反応などが事細かに書いてあるのだが、私には想像することしかできないものでね。実に、もどかしい」
「確かめてごらんになればいい」
「馬鹿なことを言うものではないよ。教授が学生を……しかも男同士で、そんなことがあってはならない。私は大人で、教授なのだから。良識を持たなくては」
「それはそうですね。もちろん、教授のおっしゃる通りです」
素っ気なく言い捨てると、三下は「あ」と、あからさまに残念そうな顔をした。
もどかしいのはこちらだ。やりたいことははっきりしているくせに、もたもたぐずぐずと。
そうして溜めこんだストレスを、弱い立場の学生で(つまり森脇で)発散していれば世話はない。
一瞬だけ退いてみせてから、俺はほぼ空になっているビール瓶を持ちあげ、三下に勧めた。
「どうぞ」
「う……ああ、ありがとう」
三下がコップをつかみ、掲げた。傾けた瓶から垂れた雫が、泡の消えた黄色い水面に落ちていく。俺はくすっと笑い、三下に顔を向けた。
二の腕が擦れあい、衣擦れの音がはっきり響く。目と目が、合った。
捕らえた、と確信した直後、
「や、矢奈くん……っ」
三下がコップを煽り、膨らませた口を俺に近づけてきた。このパターンか。俺は顔を傾け、三下の唇を受け止める。重なりあった口の隙間に流し込まれる、温いビール。うまいはずもなかったが、黙って飲み下すと、三下は勢いづいて舌を捻じ込ませてきた。
慣れていないのが丸わかりの、素人らしいキスだ。最初は体の力を抜いて三下のしたいように任せたが、焦る手がズボンの上から腿を撫ではじめると、さすがに性急さに呆れた。
いくらなんでもここで全てを済ませるのは落ちつかない。
俺がやつの胸元を撫であげ、唇を押さえてみせると、三下は息を切らしながら顔を離した。
「す、すまない、つい。こんなことをするつもりでは……んっ」
言い訳がましい口に指を突っ込んで、舐めさせてやりながら、俺は三下の耳元に囁いた。
「『愛は溜息の煙でできている』ようですね、教授」
「シェイクスピアか。ロミオの言葉だね――『浄化されれば恋人の目に輝く炎となり、悩まされれば涙で育まれる海となる』……矢奈くん、きみは私にとってのジュリエット……『真の美』だ」
「場所を変えましょうか? 教授、続きを、どこかで」
三下の目に情欲の火が宿る。慌ただしく会計札をつかみ、立ち上がって、言った。
「行こう」
異存はない。思い知らせてやる。
俺は地元の人間ではないが、二番町のラブホテル通りの存在は知っていた。理由は単純で、蛇体と利用したことがあるからだ。
三番町の歓楽街から飲み屋の並ぶ通りを抜けて、細道に足を踏み入れると、街灯代わりに色鮮やかなホテルの看板が煌々と光っている。
三下は、通りに立ってから無口になっていた。緊張というより、どのホテルを選べばいいのかわからず、迷っているだけかもしれない。俺は自分からは特に助言するつもりもなく、三下の意向に任せるつもりだったが……狭い通りの向こうから、足早に、こちらに向かってくる人影を見つけたとき、鼓動が跳ねた。
野球帽を目深に被って、俯き加減でいるので顔は見えない。背はそれほど高くなく、華奢だから子供のようにも見えるが、足取りは堂々としていた。
(こっちを向くな。目を上げないでくれ、頼むから)
心のなかで祈る俺と、俺にしなだれかかる三下に目もくれず、野球帽の子供は急ぎ足でそばを通り過ぎていった。すれ違いざま、懐かしい香りが鼻腔をくすぐる。
(森脇)
振りむいて、呼び止めたい衝動にかられた。少しでいいから顔を見たいし、言葉を交わしたい。
だが、ここで気勢をくじかれたら三下の憤りがまた森脇に向かってしまう。
俺は三下の腕をつかみ、引いた。
「待って、矢奈くん」
掠れ声の訴えを無視して、いちばん近い看板からラブホテルの小道に入る。
どこを選ぼうがすることは同じだ。ロビー正面の、電気の点ったパネルから適当なもののボタンを押して、鍵を受け取り、部屋へ。
一階だったので、エレベーターを待つ必要もなく扉に駆け込む。
「いったいどうしたのだね……?」
三下は不満げだった。ロマンチックな中年男だから、はじめての舞台ももっと慎重に選びたかったのに違いない。
俺のほうが、森脇に見とがめられるのが怖くて逃げただけだ。
後ろめたさをごまかすように、身を屈めて、俺のほうから三下に口づける。ビールと酒と醤油の匂いが混ざりあった味にも慣れてきた。
「申し訳ありません――蛇体以外の男性とこのようなことに及ぶのは久しぶりなせいか、浮足立ってしまって」
「ああ、それならば、私もだ……矢奈、くん。まさか、憧れの蛇体の本に描かれたきみと、こんな機会に恵まれるとは……夢のようだよ。無論、一夜限りの儚い夢に過ぎないのだろうが」
「『もしお気に召さずば、ただ夢を見たと思ってお許しを』」
「今度は『真夏の夜の夢』かね。しかしこの夢が……すばらしくならないはずがないだろう」
喋りながら三下は俺の服のボタンを一つずつ外していき、シャツから覗く鎖骨に吸いついてきた。痛みを感じるほどの強さだったが、唇を離したところに跡がついているのをじっと見て確かめてから、なだめるように舌を這わせてくる。
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