弾けないピアニストの俺が天使の羽根を奪うまで

ひぽたま

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17・友人

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 三下の後ろ姿が路地に消えたのを見届けてから、ロビーを出た。
 ポケットからスマホを出し、中身を確認する。ボイスレコーダーの音声、写真のデータ、どちらも間違いなく保存されており、俺がここに来た目的を果たせたことは間違いなかった。
 外に出ると、生臭い夜風が顔に吹きつける。
 はやく帰って、シャワーを浴びたかった。自分のなかから、しでかしたことの痕跡を消したい。好きでもない相手と寝るのが久々だったせいもあるだろうが、快楽のあとの虚しさをいっそう強く感じた。
(この体では……飲みにも行けないな)
 三番町のジャズバー。森脇は無事にバイト先についただろうか。今日は昼もちゃんと食べられただろうから、元気に働いているといい。そしてまた明日、……。
 明日、どんな顔をして俺は森脇に会うつもりだろうか。
 やつの指導教授の醜聞を事務局に訴えたあとで? 三下にレイプされたと森脇に言うのか? 森脇は俺がゲイだと……知らないのに。
 口のなかが生臭かった。三下の味だ。唾を飲んだら吐きそうだったので、植え込みに向かって吐き捨てる。行儀が悪いとわかっていても、何度も。
(はやく帰ろう)
 自分でも整理できない感情をピアノにぶつけて、紛らわせたかった。三下の金を使うつもりはないが、タクシーに乗ってしまおうか。怠い体を引きずり、路地に出て、表通りはどちらだったかと見回したとき――俺をじっと見ている誰かと目が合ったのだった。
 ウェイターの制服を着た、きれいな若者。
 森脇だった。

 ラブホテル通りのある二番町から徒歩で五分ほど。
 街灯の少ない住宅街の、奥まったところにあるアパートまで、森脇に引きずられていく。
 俺は、疲れはともかく気持ちの悪さはほぼ抜けていたが、申し訳なさでまともに顔を上げられなかった。森脇のウェイターの制服は、暗くてよく見えないものの何色かわからない俺の吐しゃ物にまみれてしまっており、臭いもひどい。
(どうして避けてくれなかったんだ)
 もう帰ると言っているのに襟首をつかんで揺さぶられた結果なので、俺だけが一方的に悪いわけではないはずだが、それくらい森脇も憤っていたのだろうから、やはり申し訳ない。
 森脇は俺が三下とラブホテルに出入りするところを目撃しており、理由を問いただすために外で待ち構えていたのだ。
 らしくもなくしつこく怒っている理由の半分以上は、やはり建築科という彼の大事な領域を俺が土足で踏みにじったからだろう。
 やはり、三下を排除して森脇の助けになれば、などという目論見など余計なお世話だったのに違いない。
「森脇、すまなかった。俺は一人で帰……」
「やべ。荷物全部ジャズバーに置いてきたんだった」
 森脇は俺の話を聞いていなかった。一階の角部屋のドアの前。ポケットを探ってもなにも出てこないとわかると、郵便受けに手を突っ込んで奥を探る。なかから鍵が出てきたので、俺は眉をひそめた(不用心にもほどがある)。森脇はさっさとドアを開け、
「ただいまーっ。ほら、矢奈も入って」
 逃げ腰の俺の袖を引いて、玄関に足を踏み入れるまで離さなかった。
 入り口から奥までの左右が冷蔵庫や食器やストック棚などで塞がれているからか、ミニチュアの城に迷いこんだような錯覚を覚える。
 さっさと靴を脱いだ森脇は、湯沸かし機のスイッチを押して、右手側の半透明の戸を開けた。
「矢奈、先にシャワー使って。床濡れてるけど、さっきオレが使ったせいだから気にしなくていいから。脱いだシャツこっちに寄こして!」
 せっかちに言って、立っているその場で服を脱ぎだす。もちろん、俺のせいで汚れたウェイターの制服をはやく脱ぎたいだろうし、洗いたいのはわかるが、ゲイとわかっている男の前で裸になるのはさすがに警戒心がなさすぎるのではないだろうか。
(俺のことは心底、ただの友人だとしか思っていないからだろうな)
 溜息を堪えて、どうしようか考え――……ふと、視界に入った森脇の腕の細さに驚いた。
 痩せているのは知っている。いつもTシャツか、綿シャツのときの袖をまくり上げているから、ほっそりした手が彼の言動に合わせて忙しなく動くのを見るのが好きだった。
 ただ、その細さは二の腕から肩までつながっていて……病的とまではいかなくとも、健康的な彼には不釣り合いな痩せ方に感じられた。
(ちゃんと食べているのか?)
「なに?」
 森脇がベルトを緩めながら俺を見る。
「いや……痩せすぎていないか?」
「オレのスレンダーボディーに文句言う? いーんだよ、これで健康なんだから」
 本人が言うのだからそうなのだろう、と思った。思ってしまった。ここで押さえつけてどうこう説教する知識など、俺にはなかったから。
 湯沸かし機の電子音が鳴る。森脇の性格として、ここで俺が出ていったところで下着姿で外まで追いかけてきそうだ。それをさえ振りきってしまえば、おそらく絶交になるだろうが、それは結局のところ、嫌だった。
 なんだかんだで俺は、どんな状況であろうと森脇といられることを喜んでいたのだ。
「はやく服寄こせっての。あと鍵、閉めてくれる?」
 下着姿で制服を洗いはじめながら、森脇が言う。痩せすぎは気になるものの、まっすぐな足で仁王立ちになって堂々としている様子は彼らしかった。俺は言われたとおり、ドアの小さな鍵を閉めてから、もたもたと自分のシャツのボタンを外す。
「森脇。洗濯は俺がするから、おまえは着替えを……」
「余計な気まわさなくていーから。おまえがシャワー浴びたいっつったのに引き留めたのはオレなんだから、いーから早く入ってこいっての。下の服は無事?」
「ああ」
 会話を交わすほどに、彼には勝てないのがわかってしまう。自分の意志などロクなものではないと知っている俺は、もうすべて森脇の言うとおりにしようと思った。抵抗するには疲れすぎていたせいもある。
 シャツだけ渡して、脱衣所に入ると、そこは半分の空間を洗濯機と洗面台が占めていた。コップに刺さった歯ブラシはピンクと水色の二本だけで、あとは整髪料や化粧品の類がずらりと並んでいる。森脇の母君のものだろうか。二人暮らしなのか?
(前に脈絡堂の最中を、両親のぶんも貰ったとか言っていた気がするが)
 あまり詮索するのも申し訳ないので、服を脱ぐしかない。狭い空間で手間取りながら、ランニングシャツを脱ぎ、ズボンも下ろし、脱いだものを畳んでいるときにいきなり戸を全開にされた。
 森脇だとわかっているので俺は驚きもしなかったが、タオル類を抱えた彼のほうが、裸の俺を見て一瞬固まる。シャワーを浴びろと言ったのはそちらだろうに。肌をなぞる視線を感じたものの、すぐに目を逸らした森脇はタオルを洗濯機の上に置いた。
「これ使って。じゃ、ごゆっくりー」
 明るい声がそらぞらしい。いったいどうしたのだろう。訝しみながら、畳んだものを置き、浴室へ足を踏み入れたところで、鏡に映る自分の体を見つけて、理由に気づいた。
 肌が痣だらけだ。
(三下のキスマークか)
 舌打ちしたくなる。強弱をつけて吸われたあとと、歯型も少々。たとえラブホテルがなにをする場所か知っていたとしても、ノーマルな森脇にとって俺のこの状態はさすがに理解の範疇を越えていたのかもしれない。
(軽蔑されただろうか……それも仕方ないが。森脇があの通りで俺を見放さず、ここまで連れてきてくれたことが奇蹟のようなものなんだ)
 あの通りで――悪目立ちするラブホテル街から大通りの歩道に出たところで、森脇は俺を問い詰めた。おまえは三下が好きなのか、と。だからホテルに誘ったのかと。
 違う、としか俺は答えられなかった。三下に取り入って、森脇への嫌がらせを止めるため、などというごまかしの理由も、自分のなかでは認められなかった。森脇に罪悪感を抱かせるような嘘はつきたくない。俺はただ――……。
 シャワーカーテンに守られた空間で、温い湯が肌を滑る。ボディソープを手のひらに出すと、森脇の匂いがした。借りたタオルで泡立て、肌を拭えば、森脇が俺を清めてくれているような錯覚さえ抱いた。
(だからそういう妄想はやめろというのに)
 いくら表面を洗ったところで、俺は師の唾液を飲んだ人間だ。汚れは体の奥まで沁みとおっていて、どんなに掻き落としたくとも消えない。俺は森脇とは違う。一生、光の当たらない場所でもがきながら、ピアノにすがって生きていくしかない。
 あの教授に触れられた部分を(ほぼ全身だが)手早くだが丹念に擦り、臭いを落とした。すくった湯で口を漱ぐ。頭から湯を浴びて、記憶さえ薄れるように願いながら、大通りで森脇に向かって叫んだことをくり返した。
「俺が三下を、好きなわけないだろう……反吐が出る」
 俺が誰を好きなのか。ほんとうは誰に抱いてほしくて、三下を誘惑したのか。答えは自明だが、森脇には教えられない。それだけは決して。あいつを困らせたくない。
(理性のある友人として振舞うんだ。それくらいできるだろう)
 心を決めて、シャワーの湯を止めた。
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