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19・安心
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だから俺は話した。コンクールの審査員として出会った老ピアニストのこと。母に、俺の指導を申し出てくれた老人が、ピアノ以外のどんなレッスンを施したのか。
森脇はひたすら真剣に聞いてくれて、そして問う。
「お母さんには相談しなかったの?」
「言うには、言った。すべてではないが、多少オブラートに包んで。変なことをされるから、もう先生のところへは行きたくないと」
「お母さんは、なんて?」
俺は一瞬、目を閉じる。あの日、俺を見た母の奇妙に強張った笑顔が忘れられなかった。
「『嘘をついちゃだめよ。偉い先生がそんなことをなさるはずないでしょう。練習を休みたいからって言い訳を考えたりして、悪い子ね』……」
言い終えたとき、森脇が両手で顔を覆った。泣いているわけではないにしても、やはりショックを受けたのだろうか。まっすぐに育った彼にとっては、名誉欲のために子供を生贄に捧げられる親が存在するということ自体が、信じられないのかもしれない。
「嫌な話だろう? これ以上俺の口から聞きたくなければ、蛇体英傑の本を読めば全部書いてあるぞ」
「おまっ……作家の先生にもそんなこと話したのっ!」
「話したというか、聞きだされた。ベッドで俺があまりにも慣れているので、感心した振りをして。ただ、蛇体は俺をネタに使いたかっただけであって、俺のために真実を告発してくれる気は毛頭なかったらしいが。なにしろ俺自身よりも、俺を弄んだ老ピアニストが誰かわからないように気を遣って記述していたからな」
そもそも蛇体を俺に紹介したのが老ピアニストなのだから、さもありなん、というところだ。同好の士のあいだで、飽きたおもちゃを譲りあう約束が取り交わされているのだろう……俺がその、もはや誰も欲しがらない古い玩具だった。
一つ一つ深く傷ついた出来事のはずなのに、不思議といま、冷静に語っていた。森脇が俺以上に傷ついた顔をして、痛みを受けとめながら聞いてくれているからだろうか。俺は特に、森脇に重荷を分かち合ってほしいなどとは望んでいなかったのだが……それでも不思議と、彼にわかってもらえていると感じるだけで、心が和らいでいった。
すべて聞き終えた森脇が、大きく息を吸い、静かに吐きだす。
「……よかったよ」
「なにが?」
「矢奈がうちの大学に来て。ピアニストのジジイとも、お母さんとも離れられて。もう自由に弾けるってことだろ? だから、いまのおまえのピアノはあんなに夢みたいにきれいなんだね」
森脇に褒められると、俺も俺自身のピアノがすばらしかったような気がしてくるが、無論そんなわけはない。俺はそもそも未熟だし、トラウマのせいで一人では弾けないピアニストだ。それでも――弾いた音を、誰かに認めてもらえるのは、嬉しかった。
「『ゴルドベルク変奏曲』は齋藤先生の勧めで一年次に練習した曲だ。音楽性も技巧もすべて詰まっているが、それでいてこう弾かなければならないという型はないと。俺は……あの曲を弾くときだけは、自分の素を出せているような気がする。だから、森脇が俺の『ゴルドベルク』を好きだと言ってくれたとき、気恥ずかしかったが、悪い気はしなかった」
「……あったかくて優しい、雨粒みたいな音だって感じたんだよ」
森脇が言う。キラキラした目を伏せて、絞りだすように。
「一粒一粒がオレの心に沁みてきてさ、はじめて聴いたとき、弾き手が矢奈だってわからなくても、もっとこのピアニストの音を聴いてみたいって思ったよ。それくらい感動したのに……ごめん、矢奈」
「どうしたんだ?」
「三下がおまえに目をつけたの、オレのせいだったんだ。オレが蛇体の本をブックバンドなんかに挟んで持ち歩いていたから、新刊のことを知らなかった三下が気づいて、それで読んで、モデルがおまえだって気づいて……ほんっとに、ごめん!」
いきなり土下座されてもわけがわからなかったが、森脇は畳に額を擦り付けたまま器用に箪笥を開け、いちばん下の段の下着の奥からハードカバーの単行本を引っぱりだした。表紙の禍々しい色だけでタイトルを見ずともわかる、蛇体が俺をモデルに書いた本だ。
「読んでいないというのは嘘だったのか?」
「それは本当。マジで、一ページも読んでいないから。これはおまえがゴミ箱に叩き込んだやつを拾ったんだ……あんとき、せっかく届けてやったのに、なんでおまえで自分の名前も書いてある本をゴミ箱に捨てちゃうのか理解できなくてさ。そんで拾って、でも話題の本だからって読んだマスターから内容を聞いて、矢奈にとってよくないことが書いてあるらしいってわかったら、無理やりおまえに返せなくなったし、余計に捨てられなくなった。ほんっとーに、ごめん。殴ってもいいよ、絶交されても仕方ないし」
もちろん怒る気になどなれなかったが、呆れはした。あのときはお互いほぼ初対面だったはずなのに、なかに名前が書いてある程度のことを気にして回収してしまうあたり、森脇らしいまっすぐさだ。
そしてもちろん森脇は、蛇体がハードゲイポルノ作家だと知らないから、人に表紙を見られるような持ち歩き方をできたのだろう。
(まったく、無防備すぎて危なっかしい)
三下ではなくとも、ほかの同好の士が気づいたら、誘いとも受け取りかねない行為だ。
俺は溜息をついて、森脇に現実というものを教えてやることにした。
「……三下は、おまえが蛇体の本を持ち歩いたりするから、ゲイに興味があるのだろうと勘違いしていたぞ」
森脇が目線だけ上げて、俺に問う。
「なに、それ」
「健全な若者が興味を抱く作風ではないからな。俺は最初ただ、三下がなぜおまえをいじめているのか理由を探るつもりだったんだが、あいつは森脇が言うことをきくのは自分を慕っているからだと思っていて、しごかれた森脇が反省して泣きついてくれば許してやらないでもないし、むしろ可愛がってやるつもりだと言っていた」
「いや、それ、ないし。オレが三下を手伝ったりしていたのは教授だからであって、それ以上の他意なんてなかったからねっ?」
森脇が顔を真っ赤にして言うので、俺は安心した。
(そうなのか)
そうだろうとは思っていたが、本人の口から聞くとほっとする。
森脇はひたすら真剣に聞いてくれて、そして問う。
「お母さんには相談しなかったの?」
「言うには、言った。すべてではないが、多少オブラートに包んで。変なことをされるから、もう先生のところへは行きたくないと」
「お母さんは、なんて?」
俺は一瞬、目を閉じる。あの日、俺を見た母の奇妙に強張った笑顔が忘れられなかった。
「『嘘をついちゃだめよ。偉い先生がそんなことをなさるはずないでしょう。練習を休みたいからって言い訳を考えたりして、悪い子ね』……」
言い終えたとき、森脇が両手で顔を覆った。泣いているわけではないにしても、やはりショックを受けたのだろうか。まっすぐに育った彼にとっては、名誉欲のために子供を生贄に捧げられる親が存在するということ自体が、信じられないのかもしれない。
「嫌な話だろう? これ以上俺の口から聞きたくなければ、蛇体英傑の本を読めば全部書いてあるぞ」
「おまっ……作家の先生にもそんなこと話したのっ!」
「話したというか、聞きだされた。ベッドで俺があまりにも慣れているので、感心した振りをして。ただ、蛇体は俺をネタに使いたかっただけであって、俺のために真実を告発してくれる気は毛頭なかったらしいが。なにしろ俺自身よりも、俺を弄んだ老ピアニストが誰かわからないように気を遣って記述していたからな」
そもそも蛇体を俺に紹介したのが老ピアニストなのだから、さもありなん、というところだ。同好の士のあいだで、飽きたおもちゃを譲りあう約束が取り交わされているのだろう……俺がその、もはや誰も欲しがらない古い玩具だった。
一つ一つ深く傷ついた出来事のはずなのに、不思議といま、冷静に語っていた。森脇が俺以上に傷ついた顔をして、痛みを受けとめながら聞いてくれているからだろうか。俺は特に、森脇に重荷を分かち合ってほしいなどとは望んでいなかったのだが……それでも不思議と、彼にわかってもらえていると感じるだけで、心が和らいでいった。
すべて聞き終えた森脇が、大きく息を吸い、静かに吐きだす。
「……よかったよ」
「なにが?」
「矢奈がうちの大学に来て。ピアニストのジジイとも、お母さんとも離れられて。もう自由に弾けるってことだろ? だから、いまのおまえのピアノはあんなに夢みたいにきれいなんだね」
森脇に褒められると、俺も俺自身のピアノがすばらしかったような気がしてくるが、無論そんなわけはない。俺はそもそも未熟だし、トラウマのせいで一人では弾けないピアニストだ。それでも――弾いた音を、誰かに認めてもらえるのは、嬉しかった。
「『ゴルドベルク変奏曲』は齋藤先生の勧めで一年次に練習した曲だ。音楽性も技巧もすべて詰まっているが、それでいてこう弾かなければならないという型はないと。俺は……あの曲を弾くときだけは、自分の素を出せているような気がする。だから、森脇が俺の『ゴルドベルク』を好きだと言ってくれたとき、気恥ずかしかったが、悪い気はしなかった」
「……あったかくて優しい、雨粒みたいな音だって感じたんだよ」
森脇が言う。キラキラした目を伏せて、絞りだすように。
「一粒一粒がオレの心に沁みてきてさ、はじめて聴いたとき、弾き手が矢奈だってわからなくても、もっとこのピアニストの音を聴いてみたいって思ったよ。それくらい感動したのに……ごめん、矢奈」
「どうしたんだ?」
「三下がおまえに目をつけたの、オレのせいだったんだ。オレが蛇体の本をブックバンドなんかに挟んで持ち歩いていたから、新刊のことを知らなかった三下が気づいて、それで読んで、モデルがおまえだって気づいて……ほんっとに、ごめん!」
いきなり土下座されてもわけがわからなかったが、森脇は畳に額を擦り付けたまま器用に箪笥を開け、いちばん下の段の下着の奥からハードカバーの単行本を引っぱりだした。表紙の禍々しい色だけでタイトルを見ずともわかる、蛇体が俺をモデルに書いた本だ。
「読んでいないというのは嘘だったのか?」
「それは本当。マジで、一ページも読んでいないから。これはおまえがゴミ箱に叩き込んだやつを拾ったんだ……あんとき、せっかく届けてやったのに、なんでおまえで自分の名前も書いてある本をゴミ箱に捨てちゃうのか理解できなくてさ。そんで拾って、でも話題の本だからって読んだマスターから内容を聞いて、矢奈にとってよくないことが書いてあるらしいってわかったら、無理やりおまえに返せなくなったし、余計に捨てられなくなった。ほんっとーに、ごめん。殴ってもいいよ、絶交されても仕方ないし」
もちろん怒る気になどなれなかったが、呆れはした。あのときはお互いほぼ初対面だったはずなのに、なかに名前が書いてある程度のことを気にして回収してしまうあたり、森脇らしいまっすぐさだ。
そしてもちろん森脇は、蛇体がハードゲイポルノ作家だと知らないから、人に表紙を見られるような持ち歩き方をできたのだろう。
(まったく、無防備すぎて危なっかしい)
三下ではなくとも、ほかの同好の士が気づいたら、誘いとも受け取りかねない行為だ。
俺は溜息をついて、森脇に現実というものを教えてやることにした。
「……三下は、おまえが蛇体の本を持ち歩いたりするから、ゲイに興味があるのだろうと勘違いしていたぞ」
森脇が目線だけ上げて、俺に問う。
「なに、それ」
「健全な若者が興味を抱く作風ではないからな。俺は最初ただ、三下がなぜおまえをいじめているのか理由を探るつもりだったんだが、あいつは森脇が言うことをきくのは自分を慕っているからだと思っていて、しごかれた森脇が反省して泣きついてくれば許してやらないでもないし、むしろ可愛がってやるつもりだと言っていた」
「いや、それ、ないし。オレが三下を手伝ったりしていたのは教授だからであって、それ以上の他意なんてなかったからねっ?」
森脇が顔を真っ赤にして言うので、俺は安心した。
(そうなのか)
そうだろうとは思っていたが、本人の口から聞くとほっとする。
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