弾けないピアニストの俺が天使の羽根を奪うまで

ひぽたま

文字の大きさ
21 / 26

番外編・才能と努力

しおりを挟む
 知り合ったばかりの森脇進に、
「おまえは、ピアノに興味があるのか?」
 と訊ねたのがいけなかったらしい。
 矢奈としてはただ、建築科の学生である森脇がやけに音楽科のレッスン室の周辺に出没することが不思議で、理由を訊いたつもりだったのだが、その場で顔を赤くして口ごもってしまった森脇にとっては、いわれなき侮蔑の意味のこもった質問に感じたのだそうだ。
 森脇が彼のバイト先、ジャズバー『カノン』に矢奈を招待したのは、二日後のことだった。

 ごく単純な照明しかなく、一人のマスターと二人のバーテンダーが目を配るのに丁度よい広さの店内では、人の品そのものが浮き彫りになるようだった。誘いに応じたものの、さほど森脇の存在を真剣に受け止めていなかった矢奈はレッスン帰りの白いシャツとジーンズのままの軽装で、大人びた店の雰囲気のなかでは、自身を迷い込んだ子供のように感じていた……のは、当人だけの戸惑いである。
 こちらは手馴れたバーテンダーである森脇の目には、淡々とショットグラスの中身を干していく矢奈の姿が、こういう場に慣れきった大人のように映っており、ほどよく酔ったら長居せずに帰ってしまうような気がして不安だった。
 見せたいものが始まるまでは居てほしいものの、細かい話をしたりおねだりができるほど、まだお互いに親しくはない。
 店にはピアノがあった。ドラムセットと空の椅子、譜面台が二台。時間が近づくと店内が混雑し始め、矢奈のいるカウンター席からは、ピアノの蓋しか見えなくなる。
「進ちゃん」
 と、マスターが森脇を呼んだ。中年の、人好きのする細面の男性だが、女のような言葉遣いが気にかかる。
「お友達に聴かせたいんでしょう? 席を移してさしあげたら?」
「矢奈……」
「ここでいい」
 そう言って矢奈はまた、ショットグラスの中身を空けた。潮の匂いがするシングルモルトだった。
 楽譜を手にした男と、ドラム、アコースティック・ベースのバンドが客席と同じ高さのステージに立つ。ピアノの椅子に奏者が座ったとき、森脇は矢奈の表情をうかがった。曲目はスタンダードな、ワシントン・ヤングの「マイ・フーリッシュ・ハート」から始まる。
 矢奈の目が、ほんのかすかに見開かれた。濡れたショットグラスの表面を滑り下りた指がカウンターの天板に触れ、リズムをとるでもなく木目を愛撫する。
「どう?」
 森脇は訊ねた。
「ああ……」
 矢奈は答えたが、森脇を見ていなかった。彼の視線はジャズバンドに釘づけになっていた。まるで珍しい宝物を見つけた子供のような眼差しだ。
 厳格な枠付けや決まりのない、感情をじかに揺さぶろうとする音楽がクラシックを専門とする矢奈の心に新鮮に響いたのだろうか。
 しかし、三曲目の出だしでドラムスが急いだ。
 ベースがリズムを戻そうと引っぱり、あいだに挟まれたピアノが無理に強い音を出す。そこからは、メチャクチャだった。森脇は手で顔を覆う。
「ひどいな」
 矢奈が正直に呟いた。そこから立て直せないままバンドは演奏を止めてしまい、客席からはまばらな拍手が起こる。さっさと席を立ったピアニストがカウンターに近づき、矢奈の隣に腰を下ろした。そうして森脇にバーボンを注文しながら、新顔の客である矢奈に向かってドラムスとベースの悪口を吐き出す。
「あいつらがオレの足を引っ張ったんだ。そうだろ? 兄さん」
 同意を求められた矢奈は、少し考えてから、
「いまの場合なら、ベースに合わせたほうが取り戻しやすかったと思う。数小節後にあなたのソロがあるならなおさら、無理に足並みをそろえないほうが聴きばえもしたのじゃないか?」
「偉そうな口を利くな、兄さん」
 ピアニストは一気にバーボンを飲み干し、手の甲で唇を拭った。
「だけどな、バンド演奏ってのは、そんなに単純なものじゃないんだぜ。兄さん、まだ若いんだろ。ジャズなんてキース・ジャレットあたりが本物だと信じこんでるクチじゃないのかい?」
「申し訳ないが、ジャズは聴いたことがなかった」
「なんだって?」
「いまはじめて聴いたんだ。面白いものだと思った」
 男はぽかん、と口をあけていたが、やがて大きな声で笑い出した。つられて微笑んだ矢奈の足元にあったトートバッグから、音大の印が押された楽譜がはみ出しているのを見つけ、それじゃあこいつを弾けるのか? と訊ねる。
「あまり上手ではない」
 と矢奈は答えた。グラスを磨きながら森脇は、冗談じゃない、と呟く。
 首を竦めたピアニストはすでに帰り支度をはじめていたバンドの仲間を呼び止めた。
「おい、これから音大の学生さんが、おまえらに正統派の音楽ってもんを教えてくれるってよ」
 大声で言ったため、店中の客がカウンターに注目する。男が同じ言葉を繰り返すと、中途半端に終わったバンド演奏に欲求不満を募らせていた客たちのあいだから、拍手が湧き起こった。
 矢奈は心底戸惑った様子で、自分はまだほんとうに学生に過ぎない、と言った。
「だから、学生さんだって説明しただろ。偉そうに薀蓄たれてくださるよか、聴かせてもらったほうが早いわな。まあ、上手なんて期待しちゃいないからさ、発表会用の曲でも一つや二つ、弾いてくださりゃお客だって満足もするさ」
「中城さん、やめてください」
 森脇が厳しい口調で、ピアニストを制した。しかし、店の客達は期待の視線を矢奈に注いでいる。マスターが森脇の肩を叩いて宥め、矢奈に向かって身を乗りだした。
「無理を言うつもりはないのよ。けれど、お願いできるかしら、お客さん」
 矢奈は迷ったように、爪を噛んだ。しかしピアニストの男が景気づけにバーボンを注ごうとすると、断り、立ち上がる。差し出されたレッスン用の楽譜もカウンターに残していった。
「矢奈」
 森脇が呼び止める。
「……ごめん」
 矢奈が笑ったように見えたのは、気のせいか。ピアノの上にはジャズピアニストの楽譜が置き去りにされていた。譜面といっても、旋律のほかにコード表しか載っていない、メモに近いものである。
 矢奈がピアノの椅子に座ると、改めて拍手が起こった。それが静かになるのを待つあいだに、譜面にざっと目を通す。ピアニストの男が、カウンターでひとつ大きなしゃっくりをした。
「中城さん」
「悪い悪い、進ちゃん。しかしあんたの友だちは負けず嫌いみたいだな。なにもムリしてオレの楽譜なんて弾くこと……」
 ひっく。そして、ピアニストの息が詰まった。矢奈ははじめ、右手だけで静かに旋律を辿った。ときおり和音を交えるほかは、地味な演奏に聴こえた。ただ、同じピアノを使っているというのに音の深みだけは、先ほどのバンド演奏など比較にならない。相当に強い腕の持ち主のようだ。ピアニストの中城はまだ余裕を見せようとして、震える手でタバコをくわえ、
「は、まあ学生さんらしいわな。おとなしい弾き方で」
 森脇の口元が弛んだ。どこが? と視線で問う。
 主旋律に和音を加え、弾き終えたところで曲調をつかんだのだろう。矢奈は突然左手を持ち上げ、低音のトリルをはじめた。
 右手があくまでゆっくりと甘い旋律を奏でるあいだ、ごく低い音から最高音まで、流れるように小刻みな音を往復させる。息も吐かせぬほどの速さだった。
 自然に交差される腕の動きは淀みなく、音に合わせて長めの黒髪が揺れるのを、マスターは「セクシーねえ……」とため息まじりに賛嘆した。
 矢奈が調子にのってきたのがわかった。演奏に没頭してしまうといつも、たとえ傍に森脇がいようといまいと関係ないように、ただ見えない音の世界だけに心を浸していく。もともと与えられたテーマからの即興演奏は音楽科の授業では必須のもので、ただ、矢奈はさきほど聴いたばかりのジャズの奏法を聴き真似で取り入れようとしているのが、いつもの弾き方と違う理由らしい。
 クラシックの均質性を引きずったタッチは曲調に比してまだ重く、手探りで展開される演奏は純粋なジャズとは違うものかもしれなかったが、酒場の雰囲気を打ち壊しにするような、押しつけがましさは微塵もなかった。矢奈は決して、壇上から見下ろす音楽を客に「弾いてやっている」のではない。音で人を楽しませようとしていた。
 その思いは客たちにも伝わるのか、みなグラスを傾ける手をとめ、徐々に店全体を震わせるほど響きわたるようになった矢奈のピアノの音に、心と体を委ね、痺れさせていた。
 五分ほどの幻の時間。演奏を終え、うるさいほどの拍手のなかカウンターに戻ってきた矢奈に、中城は言った。
「兄さん、上手じゃないか。だがあれはジャズじゃねえよ」
 負け惜しみに過ぎなかった。森脇がグラスを磨く手に力がこもり、みしりと音を立てる。思わずなにか言いだしそうになるのを「進ちゃん」と、マスターが落ちついた声音で制した。
 矢奈はピアニストの言葉に眉をあげたが、しかしすぐに首を傾げると、
「……そうかもしれない」
 と呟いた。それは真剣な顔つきで、ずっと年上の中城のほうがたじろぐほどに。

 後日談。図書館から出てきた矢奈が、齋藤名誉教授と鉢合わせた。
「まあ、矢奈くん。ずいぶんたくさんの借りだしだこと……ジャズのCDのようですね?」
「はい……」
「そう。様々なジャンルに興味を持つのはよいことですが――まあ、本まで!」
 著名なクラシックピアニストである齋藤教授が、呆れた声をあげた。矢奈が気まずそうに抱えこんでいる本のタイトルは『ジャズの基本奏法』。クラシック一筋だったはずの生真面目な学生がなぜ新たな音楽ジャンルに目覚めたのか――もちろん、教授は理由を知らなかった。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

何故よりにもよって恋愛ゲームの親友ルートに突入するのか

BL
平凡な学生だったはずの俺が転生したのは、恋愛ゲーム世界の“王子”という役割。 ……けれど、攻略対象の女の子たちは次々に幸せを見つけて旅立ち、 気づけば残されたのは――幼馴染みであり、忠誠を誓った騎士アレスだけだった。 「僕は、あなたを守ると決めたのです」 いつも優しく、忠実で、完璧すぎるその親友。 けれど次第に、その視線が“友人”のそれではないことに気づき始め――? 身分差? 常識? そんなものは、もうどうでもいい。 “王子”である俺は、彼に恋をした。 だからこそ、全部受け止める。たとえ、世界がどう言おうとも。 これは転生者としての使命を終え、“ただの一人の少年”として生きると決めた王子と、 彼だけを見つめ続けた騎士の、 世界でいちばん優しくて、少しだけ不器用な、じれじれ純愛ファンタジー。

血のつながらない弟に誘惑されてしまいました。【完結】

まつも☆きらら
BL
突然できたかわいい弟。素直でおとなしくてすぐに仲良くなったけれど、むじゃきなその弟には実は人には言えない秘密があった。ある夜、俺のベッドに潜り込んできた弟は信じられない告白をする。

陰キャ系腐男子はキラキラ王子様とイケメン幼馴染に溺愛されています!

はやしかわともえ
BL
閲覧ありがとうございます。 まったり書いていきます。 2024.05.14 閲覧ありがとうございます。 午後4時に更新します。 よろしくお願いします。 栞、お気に入り嬉しいです。 いつもありがとうございます。 2024.05.29 閲覧ありがとうございます。 m(_ _)m 明日のおまけで完結します。 反応ありがとうございます。 とても嬉しいです。 明後日より新作が始まります。 良かったら覗いてみてください。 (^O^)

側妻になった男の僕。

selen
BL
国王と平民による禁断の主従らぶ。。を書くつもりです(⌒▽⌒)よかったらみてね☆☆

【完結】ルガルの星―冷徹な社長は、僕の運命を知っていた―

綾波絢斗
BL
この世界には、二つの特別な称号を持つ者たちが存在する。 一つは、絶対的な権力を持つ王の称号――ルガル(lugal)。 もう一つは、ルガルと対をなし、その力を補う「番」――ムル(mul)。 ルガルは生まれながらに選ばれし存在。 国家からエリート教育と地位を与えられ、能力に応じて厳格なランク分けが行われる。 最上位のルガルは、政治さえも動かす絶対者だ。 一方で、ムルは生まれた瞬間にはその正体がわからない。 遺伝子検査や学力テストを経て候補が絞られるが、 最終的に「真のムル」かどうかを見極められるのは――ルガルだけ。 ムルが覚醒したとき、同じ場所に「紋章」が現れ、その瞬間から、ルガルとムルの力は共鳴し始める。 ムルの能力はルガルの力を最大限に引き出す。 ゆえにルガルたちは、自らのムルを求め、時には他人のムル候補を奪い合う。 そして、すべての出生データと遺伝情報を管理するのは、 巨大企業イルジオン――国家をも超える存在。 その頂点に立つ社長、一条レイ。 冷徹なルガルの頂点に君臨する彼が「自分のムル」と出会った。

病弱の花

雨水林檎
BL
痩せた身体の病弱な青年遠野空音は資産家の男、藤篠清月に望まれて単身東京に向かうことになる。清月は彼をぜひ跡継ぎにしたいのだと言う。明らかに怪しい話に乗ったのは空音が引き取られた遠縁の家に住んでいたからだった。できそこないとも言えるほど、寝込んでばかりいる空音を彼らは厄介払いしたのだ。そして空音は清月の家で同居生活を始めることになる。そんな空音の願いは一つ、誰よりも痩せていることだった。誰もが眉をひそめるようなそんな願いを、清月は何故か肯定する……。

同居人の距離感がなんかおかしい

さくら優
BL
ひょんなことから会社の同期の家に居候することになった昂輝。でも待って!こいつなんか、距離感がおかしい!

イケメンに惚れられた俺の話

モブです(病み期)
BL
歌うことが好きな俺三嶋裕人(みしまゆうと)は、匿名動画投稿サイトでユートとして活躍していた。 こんな俺を芸能事務所のお偉いさんがみつけてくれて俺はさらに活動の幅がひろがった。 そんなある日、最近人気の歌い手である大斗(だいと)とユニットを組んでみないかと社長に言われる。 どんなやつかと思い、会ってみると……

処理中です...