弾けないピアニストの俺が天使の羽根を奪うまで

ひぽたま

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22・革命

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 俺が当時借りていたのは、大学近くのマンションだった。音楽科の生徒専用につくられたものらしく、壁も床も防音で、部屋によっては楽器付き。俺の部屋も国産のグランドピアノが備えつけられており、二十四時間いつでも弾いていいことにはなっていた――一応。
 一応というのは入居の注意事項に『夜間の練習は音を控えめに』という項目があるからだ。
 森脇のアパートを出て、自分の家まで徒歩四十分程度の道すがら、頭のなかでずっと鳴り響いていたのはショパンのエチュード『革命』だった。はじめて自分から心惹かれた相手と、夢に描いていたようなキスをして……もっと甘やかな曲を弾きたくなってもいいはずなのに、それくらい、俺にとっては革命的な出来事だったというわけか。
 ポケットのなかでもずっと指を動かしながらエア『革命』を弾き続けたおかげで、マンションに着いたころにはだいぶ衝動が収まっていた。部屋の明かりをつけ、まっすぐにピアノに向かう前に手と顔を洗う。練習前の習慣なのだが、洗面台に映る自分の顔を見たとたん「これは誰だ?」と目を瞠った。
 俺は大学での自分の綽名が『氷の王子』とかいうことを知っている。近寄ってくる相手全てに愛想を振ってもいいことがないと学んできたからだが、その綽名を知ってからは都合がいいと、無意識に『氷』らしく振舞おうとしてきたのかもしれない。
 その、氷が融けかかっていた。
 つまりおのれを守るために身につけてきたポーカーフェイスが緩み、内側の、素の自分が見え隠れしている。お菓子をもらう順番を待つ子供のような、無防備で、期待と希望に膨らむあどけない表情だ。
(……さすがに、これは恥ずかしいだろう)
 氷、鎧、ポーカーフェイス、と自分に言い聞かせ、なんとかいつもらしい無表情を取り繕った。
 ほんとうのところ、多感な少年期に老ピアニストの教えを受けなければ――もっと言うなら母が息子にピアノの素質があるなどと勘違いしなければ――素の俺は、いったいどんな人間だったのだろう。
 もっと明るく(あるいは素直な)清潔感のある若者に育ち、森脇ともまっすぐな友情を結べたのだろうか。
(いまさら。過去は変えられないものだし、そもそもピアノがなければ森脇のような奴が俺に構うことなんてあり得ない)
 森脇は努力家で、誠実で、明るくて、見目もいい。男女問わずいくらでも(あいつはノーマルだろうが)相手を選べる彼が、俺に目を留めてくれたのは結局……ピアノがあるから、でしかない。
(つまるところ森脇も……これまで俺のピアノを利用しようとしてきた連中と変わらないのではないか?)
 ただ、森脇は彼自身が大きな夢を抱いており、俺と方向性が違うからほかの人間とは違うように感じるだけで――……。
 少し心が醒めた。浮かれていた心が落ちついたというか、冷静になれたといってもいい。
 ただ、もとに戻った自分のポーカーフェイスに、森脇から借りたTシャツが似合わなさすぎて面白かったが。
 借りた服から着替え、やっとグランドピアノに向かったときは頭のなかの『革命』はすっかり静まっていた(そもそも真夜中過ぎに『革命』を弾きだしたら、さすがに周囲から苦情がくるだろう)。
 なにか静かな曲を弾きたい気分だ。ゴルドベルクにしようか? それともシューマン?
 タン、ターン……タン、ターン……。
 頭のなかで鳴り響く音があり、すぐに曲名を思いだせなかったため、鍵盤に指を置いて再現してみる。シンプルだが複雑な音階。一度聴いたことがあればたいていの曲は(音だけなら)ミスなく弾けるものなのに、この音楽はコード進行になじみがなさ過ぎて、弾いたあとも正解かどうか不安が残った。
 エリック・サティ作曲の『ジムノペディ第一番』だ。森脇がジャズバーで『弾ける?』と聴いてきた曲。
 もちろん弾ける。そもそも俺は、技術だけなら小学生の時点でどんな高難度の曲もこなせたのだから。
(こなすだけで、その先の音楽性の部分でつまづいてしまったわけだが)
 しかしこのサティの曲は……奇妙だった。ゴルドベルク変奏曲の冒頭と同じくらいに静かな曲調で、間違いなく美しくはあるのに、不穏というか。完璧に美しい和音を生み出そうとすればできるものを、あえて半音ずらして不安を煽っているような。
 俺はサティについて教科書に載っていた程度のことしか知らないが、正規の音楽教育に馴染めず、ドロップアウトした異端児だったような?
(そんな人間が、こんなにも不安で美しい曲を作れるのなら、正しい音楽教育とはいったいなんなのだろう)
 わからなかったが、わからないことこそが答えのようにも感じられ、穏やかでない気持ちにジムノペディがしっくり馴染んだ。森脇のこと、大学のこと、齋藤先生の教えのこと、母のこと、老ピアニストや蛇体のこと……とりとめなく浮かんでくる考えに心を任せながら俺は手探りでサティの曲を弾き続け、気づいたときには、窓の外が明るくなっていた。

 気持ち的にはかなり落ちついたが肉体的には疲れていたわけなので(詳しい理由を思いだすつもりはない)、ベッドに潜りこんでから泥のように眠った。齋藤先生の講義がはじまる時間までは寝ているつもりだったが、枕元でスマホの通知音が数回くり返して鳴ったため、仕方なく目を開ける。まだ九時だ。葉山からのメッセージ。
『おはよん。ご機嫌いかが?』
『あたし今日から南米。アトランタ経由でボゴタに向かうよん。しばらく会えないけど元気でね』
『森脇くんと仲良くおやりよ。じゃ』
(なんなんだ、あいつは)
 くだらない報告をいちいち……いや、あいつの場合は向かう場所の危険度が高いから、万一のときのために行き先を知らせてきているのか。そこはいいのだが、『森脇と仲良く』とはどういう意味だろう。葉山は俺と森脇のあいだに昨夜あったことを知らないはずなのに。
(教えるつもりもないが……そもそも、森脇にとっても消したい過去になっている可能性があるしな)
 ゲイでもないやつが男とキスなんて……三下に関しての義憤や、俺の過去話への同情でもなければありえない出来事だったろう。
(昨夜は森脇も動揺していたから、あんな真似をしただけだ。そもそもキスをしたのは俺のほうからだったのだから、あいつは何も悪くない)
 それでも俺は……森脇と完全に切れることはしたくない、と思ってしまっていた。
 大学で偶然会ったら、まずは何気ないふうに振舞おう。そうしたらあいつも安心できるだろうから、そこからはいつも通りに……。
 ベッドに仰向けになって、眠りかけながら今日の計画を練っているところに、まだスマホが鳴った。葉山からだろうか? 放り投げて寝てしまおうかと考えたが、音はなかなか鳴りやまず、考えてみたらメッセージの通知音ではなくて電話の音だ。
 表示を見ると、大学事務局から。
(いったいなんだ?)
 考える間もなく、通話をタップする。
「はい……矢奈です」
 用件を聞いて、一気に目が覚めた。
 学長からの呼びだしだった。
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