弾けないピアニストの俺が天使の羽根を奪うまで

ひぽたま

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24・本心

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 俺になにが言えただろう。森脇など知らない、建築科に知りあいなどいない、誰かと真剣交際しているつもりもない……。
 無理だった。俺は本質的に正直な人間、というわけではないが、どうでもいい相手になら適当に並べ立てられるごまかしの言葉も、こと森脇に関しては思いつかない。彼を関係ないとか知らないとか突っぱねるくらいなら、十字架にかけられたほうがましだ。
 とはいえ、もちろん真剣交際など認められるはずもなく(森脇にとっては言語道断の誤解だろうから)ようやくひねりだしたのは、なんともあいまいな言い訳だった。
「建築科の、森脇くんは……とてもいい、人物なので……友情以上の信頼を抱いています。俺のほうから、一方的に――……それだけです」
「それはいいね。違う学部の学生同士が交流を深めて、視野を広げていくことは我が大学の教育方針でもある」
 学長の回答はあっさりしていた。人の恥部をいじくりまわしておいて勝手なものだが、深堀されるよりはよほどいいか。内線で秘書を呼びだし、俺たちとの用は済んだと告げる。
「ともかく矢奈結加くんは今年度中に本来の分野でなんらかの成果を残して、我が校の特待生にふさわしい実力を証明しなさい。それがきみの汚名を濯ぐことにも、齋藤秋先生の名誉を守ることにもつながるのだからね。用件は以上だ、ご苦労様」
 俺と齋藤先生は呆れ顔で目配せしあったが、それぞれ口元に苦笑が紛れていたのは、ほっとしたせいもあっただろう。
 要するに学長は特待生でありながら大学になんの貢献もしていない俺に、はっぱをかけてくれたわけだ。変態とふざけている暇があるなら、コンクールで賞をとれ、と。
 決して好きなタイプの人種ではないが、目指すところがはっきりとしているのはありがたい。
「困りましたね」
 エレベーターを待つあいだ、齋藤先生が呟く。俺は勝手を言ったことを思いだし、身を屈めて謝罪した。
「申し訳ありません。先生に相談もなく、コンクールに出るなどと決めてしまって」
「言わせたのは学長なのですから、仕方がありませんよ。まったく狸というか狐というか、喰えない男だこと。決してわたくしが好ましいと感じる類の人間ではありませんが、いまの時代、あれくらいでなくては芸術分野の大学など経営していられないでしょうからね」
「まったく同じことを考えていました」
 チン、と音を立ててエレベーターの箱が開く。斎藤先生を先に通し、あとから入った俺が地上階のボタンを押した。すうっと重力がなくなる感覚を味わうあいだ、先生はなにか考えているらしかったが、
「……全国大会のエントリーはすでに終わってしまっています。来年、年明けのコンチェルトコンクールなら、来月学内選考を行う予定でおりました。矢奈くんは出たことがある大会でしたね?」
「コンチェルト……、ええ」
 国内に限らず世界中に星の数ほどあるピアノコンクールのなかでも、毎年、年明けに首都圏のホールで行われるコンチェルトコンクールは母がお気に入りだった。参加費は高く、賞金が多いわけではないが、プロのオーケストラの演奏をバックに協奏曲限定で審査が行われるという特殊な大会だ。
 俺は四度ほど出場した記憶があるが、最後に出たのは高校二年生のときで、観客賞の点数を含めた総合順位は三位だった。
 確か蛇体とつきあいはじめた頃で……やたらに俺を褒めたたえる奴の口車に乗せられて、思いきって弾いた記憶がある。ふっきれた気分での演奏が久しぶりの入賞につながったのだから、内心はしゃいでいたかもしれなかったが……審査員の講評で、師でもある老ピアニストが俺を評した言葉はクソミソもいいところだった。
 ――とても聴くに堪えない。作曲者の音楽性をまるで理解しようともしていない、派手なだけの演奏だった。いや、奏でてすらいない、ただの過剰演出。あのような冒涜を私はピアノと認めたくないが、審査規定で三位に入ったのだから、おめでとうと言うべきかね?
「……」
 あの場の客席には齋藤先生もいらして、同じ講評を聞いたはずだ。俺の表情でなにを思いだしているのか察したらしく、先生は眉をひそめる。
「いまでも審査員長を、矢奈くんの恩師の方が務めているはずよ。最近あの方とお会いする機会はありますか?」
「いいえ……それこそ、コンチェルトコンクールの審査発表の場でお会いしたのが最後です」
「あの方もねえ。日本のクラシック界の発展に貢献された功績は大いにありますが、わたくしとは意見が合わない部分が多いの。わたくしの門下に入った矢奈くんが満足いく出来で弾けたとしても、またひどい難癖をつけてくるかもしれませんが、それに耐えられますか?」
 コンクールの結果は審査員長の一存ではなく、ほかの審査員、観客、オーケストラ団員からの評価を総合して決められる。だから老ピアニストがいかに俺が気に食わなかったとしても、低評価を覆すほどのいい演奏をしてみせればいいだけだ。
 ――と、わかっている。理屈では。
「一人の、しかも、昔の指導者の言葉を気にして潰れてしまうようなら、そもそも俺はピアノを弾くべきではなかったということです。プロのピアニストになれば世界中の聴衆の評価に耐えなければならないのですから」
「あなたがピアノを弾くべきかどうか決めるのは、あなた自身の心ですよ。どんな心無い言葉にも揺るがずピアノを愛し続けられるかどうか、それだけです」
 齋藤先生は諭すように言ってくださったが、階数表示を見あげる目は不安げだ。当然だろう、俺の心の弱さを誰よりもご存じなのは、先生なのだから。
 地上階に着き、エレベーターが開く。エントランスで別れる前に、俺は改めて先生に謝った。
「ご迷惑をかけて申し訳ありません」
「あなたが気にすることじゃありませんよ。ひどい噂なんてどこにでもありふれているものだし、下品な話題をする人はその話題と同レベルということですからね。まあ、悪い大人には気をつけるようになさい。それにしても……特待生を外されると支障があるのでしょう?」
「ええ、まあ」
 まあ、どころではなく、私大なので正規の授業料は相当な金額だ。マンション代や生活費だけなら、昔稼いだ賞金や、人前で演奏する需要があったときの報酬の貯金でまかなえる算段だったが、特待生でなくなれば齋藤先生の個人レッスンに対する報酬も自腹になってしまうわけなので、さすがに心許ない。
(アルバイトを探すか……ピアノの教えの? 自分がロクに弾けもしないのに、どうやって)
 ホテルのラウンジなどで弾く仕事も、同様の理由で無理だ。まともに曲を弾きとおせるかどうかのレベルにいるのに、報酬など受け取れるはずもない。
「それならば仕方がないわ。とりあえず学内選考のための練習をはじめましょうか。時間がないので曲はこちらで選んでおきますから、矢奈くんはいつも通り、気軽にね」
「……はい。ありがとうございます」
 救いようもなく無能な弟子を、齋藤先生はずっと見捨てずにいてくださる。
 時々、なぜこうも長い目で見てくださるのかと疑問を抱くことはあったが、老ピアニストの俺への扱いに同情してのことだろうと一応は自分のなかで納得し、あえて理由を訊ねたりはしていなかった。
 ほんとうのところ、ただ一人信頼している方の本心を知るのが怖かっただけかもしれない。
 齋藤先生の後ろ姿に向けて、深々と頭を下げる。足音が遠ざかったので顔を上げ、緊張を解くために溜息を洩らしたとき、エントランスの傘立てあたりから視線を感じたので、何気なくそちらを向いた。
 心臓が止まりそうになった。
(森脇)
 いつも通りのラフなシャツに、寝ぐせのついた髪。俺を見て笑ったようだったのに、なぜかすぐにがっかりしたように口を尖らせる。どうしたのだろうか?
 傘立てをひょいと避けて、こちらに来ようとしたのがわかったので、俺も急いで歩を踏みだした。
 二人のあいだで、ガラスの扉が開く。森脇の第一声はいつも通り、
「よっ、矢奈」
 だった。薄い唇がいつも通りの弧を描いたとたん、昨夜そこに触れた感覚が蘇り、同時に一晩じゅう弾き続けたジムノペディの響きを思いだして肌が痺れかけたが――そんな反芻をしている場合ではない。
 どうして森脇が事務局棟にいるのか。まさか、
「森脇も、学長に呼び出されたのか?」
「へっ? いや、違う違う。鈴木が、矢奈が学長に呼びだされたらしいって教えてくれたからさ……ほら、掲示板とかで噂になってるじゃん」
 語尾が彼らしくもなく消え入りそうだ。俺はとりあえずほっとする。
「蛇体の本のことか? あんなものは知らないで通せば済む。確かに取材は受けたが、内容はフィクションなのだからどうにでも書けると」
「矢奈が学長に言ったの?」
「齋藤先生がそう言って庇ってくださった。そもそも俺が書いた本でもないのだから、罰しようがないだろう。今後はメディアの取材に気をつけるようにという注意だけで済んだ……蛇体の件に関しては」
「ほかの件もあるのかよ」
「……」
 なくはない。というか、ある。特待生の義務だのコンクールだのに関しては教えたところで仕方がないが、学長がさらりと流したあるデマについては、巻き込んでしまった謝罪も込みで森脇に伝えないわけにはいかない。
 考えながら速足になる俺に、森脇がちょこまかとついてくる。どう伝えるのがいちばんショックが少なくて済むだろうかと考えてみても、学長に伝えられたそのままが最もシンプルでわかりやすかったと認めざるを得ない。
 秋晴れのキャンバス。いつも通り過ぎるベンチのそばで立ち止まり、俺は森脇を振り返った。
「建築科の、男子学生との交際の噂はほんとうかと訊かれたんだが」
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